西日本新聞
広島、長崎に落とした原爆の投下訓練として、米軍の特別部隊が1945年7月下旬から8月に本州、四国の18都府県に計49発の「模擬原爆」を落下させた。死者は400人を超え、1200人以上が負傷。長崎に投下されたプルトニウム型とほぼ同じ形状の4・5トンの通常爆弾は、黄やオレンジに塗られた外見から「パンプキン(かぼちゃ)」と呼ばれた。「練習台にされたんや」。戦後75年が経過した今も、体験者は刻まれた記憶を語り継ぐ。
「バリバリバリバリ、そしてズドン。とてつもない音やったよ」。大阪市東住吉区に爆弾が落とされた7月26日、着弾した料亭のそばの寺で今年も追悼集会が営まれ、龍野繁子さん(95)が当時の様子を語った。
国民学校教諭だった龍野さんは、現場から150メートルほどの町工場に勤労動員の生徒20人を引率していた。戦況悪化で資材の入荷は滞り、作業はなし。午前9時26分。授業でもしようと別室に移った直後、料亭から吹き飛ばされた直径1メートルの岩が天井や床を突き破った。「最初の部屋にいたら命はなかった」
外に出ると、噴煙の奥の電線に真っ二つに折れた畳、人間の内臓がぶら下がっていた。姉の親友ら身近な7人が犠牲になった。
心の傷を消し去ろうと懸命に戦後を生きた。半世紀がたったころ、あの爆弾がパンプキンだったと知った。原爆投下後に自機に被害が及ばぬよう、急旋回の操縦技術を身に付ける練習だったということも。
「こんなばからしいことがあるか」。湧き上がる悔しさが、龍野さんを語り部活動に踏み切らせた。核なき世界に逆行するトランプ米大統領の言動に触れるたびに「原爆や戦争の恐ろしさを知ってもらえる望みが消えてしまわないか」と不安が増す。「人と人の争いでやってしまうのが戦争。止められるのも、人間なんです」
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パンプキンの存在や役割を突き止めたのは、市民団体「春日井の戦争を記録する会」(愛知県春日井市)。91年に国立国会図書館(東京)が所蔵する米軍資料から見つけた「特殊任務」の一覧表と地図に、45年7月20日から8月14日までに投下された2発の原爆、49発のパンプキンに関する情報が時系列で記されていた。
会は各地の市民団体などと連携して聞き取りを進め、米軍の部隊が原爆投下の練習として各地を爆撃した事実をつかんだ。8月9日の長崎への原爆投下後も、終戦前日に愛知で7発が落とされた。記録する会の金子力(つとむ)代表(69)は「原爆はもちろん、パンプキンの実態も広く知ってもらいたい」と話している。 (布谷真基)