教育再生・地方議員百人と市民の会
Top ごあいさつ 設立主旨、会則等 関西行事案内 動等の記録 参加者、リンク集 入会申し込み
教育NEWS
切り抜き
議会質問の
お手本
推薦図書 選   挙 一般リンク 問い合わせ
ご意見
動等の記録TOP 総 会 録 理 事 会 録 一般活動、集会録 会計報告
声明・請願・要請等 新聞・マスコミ報道 百人のニュース
百人の行事案内(記事)
仲間からの報告
My Home Page
仲間からの報告
-My Home Page-

三澤 廣氏の活動報告
(作家)

  退位の話(H29-5-10)

(1)
 去年以来、「生前退位」が問題になっています。
 天皇陛下が御自ら、「老齢に堪えられないから、退位をしたい」とおっしゃったのです。しかも、「摂政を立てるのでは中途半端になるから、はっきりと天皇をやめたい」という趣旨の御発言がありました。
 ちょっと驚くのは、「生前退位」という言葉の不条理なことです。生きている人について話すときに、「生前」という用語を使うのは、相手が誰であれ、ずいぶん失礼なことなのではないでしょうか。そもそも、「退位」というのは生前にしかできません。崩御なさったら、退位はできず、自動的に次の天皇が踐祚するのですから、「生前」という言葉自体、この文脈では全く無意味にものになります。
 ただ、マスコミが「生前」をつけたのは一理あることではあります。単に「陛下が退位をお望みだ」というと、今すぐに退位したいと言っていらっしゃるという誤解を生じます。「生前退位」といえば、いずれ遠からぬ将来にという意味が言外に察せられ、正確な意味に近くなるとは言えるでしょう。
 しかし、実は、「生前退位」にぴったりした伝統的な用語は存在しています。それは「譲位」です。マスコミは大時代的な用語を避けるつもりで「譲位」を使うのを拒否したのだと思われます。
 一方、「譲位の御希望」と言ってしまうと、これまたただの「退位」と同じで、今すぐに譲位したいという誤解を生じますから、この用語の使い方は極めて難しいものがあるでしょう。
 現在、天皇の周囲の人たち(侍従など)は「譲位」と言っているとのことです。どうも、マスコミが、それを知りながら、「生前退位」という言葉を捏造したようです。
(天皇陛下のご退位などに関する---------------)
 今上天皇まで歴代125代の天皇のうち、譲位をした天皇は60人(59人)です。全天皇のうち、半分近くが、終身天皇ではなく、途中で譲位しているのです。
 面白いのは、譲位した天皇の最初の4例が女帝であることです。古代の女帝は、次の天皇になるべき男子が幼かったりして、すぐには即位できない場合、臨時に代役を務めるために即位したのですから、その男子が即位適格を得ると、もはや女帝が皇位にいることは意味がなくなるので、譲位することになります。
(2)
 最初に譲位した天皇は35皇極天皇です。この人は、34舒明天皇の皇后であり、36孝徳天皇の姉であり、38天智天皇(中大兄皇子)と39天武天皇(大海人皇子)の母です。注意すべきことは、自らが30敏達天皇の男系の曽孫だということです。
 六四五年、中大兄皇子は、大極殿で蘇我入鹿を誅殺します。この事件を「大化の改新」というのだと誤解している人が多いのですが、「大化の改新」というのは、この暗殺事件をきっかけに始まった政治改革を指していうのであり、暗殺事件そのものは「乙巳(いっし)の変」と呼ばれます。
 この事件が起ったときの天皇が皇極天皇です。皇極は政争に勝った中大兄皇子の母ですから、事件のせいで政治的に失脚するということはなかったのですが、「人心を一新する」という名目で退位しました。つまり、弟の36孝徳天皇に譲位したのです。
 孝徳天皇は弱い天皇で、実質的な権力は皇太子だった甥の中大兄皇子が握りました。なぜ皇子が即位しなかったかと言えば、まだ二十歳だったからです。
 平安時代になると、幼い子供が天皇になる例が続出しますが、それは、藤原氏が政権を握ったために、自分の外孫を皇位につけて、その摂政となって、専横を極めるためでした。その場合、小さな子供の方が扱いやすかったので、十歳にもならない幼児を天皇にしたのです。その後、院政の時代になっても、上皇や法皇(治天の君)が権力を揮うために、天皇は小さな子供の方が都合がよく、ずっと天皇は幼児であることが多くなりました。
 ところが、奈良時代までは、天皇は自分で政治をしなければなりませんので、成人でなければいけません。実際、奈良時代(を含めて)以前は(平安になる以前は)、十五歳の天皇が一人(文武天皇)いただけで、他はことごとく二十四歳以上、ほとんどが三十歳以上です。古代には三十歳にならないと天皇になれないという不文律があったようです。
(3)
 大化の改新のときにも、実力者は中大兄皇子だったのですが、形式的に叔父の孝徳天皇が即位しました。しかし、この人は中大兄皇子にいじめ殺されました。難波宮(なにわのみや)に遷都したのですが、中大兄皇子が勝手に明日香にキを戻そうと言い出し、天皇が拒絶すると、百官を引き連れてキを移してしまったのです。なんと、間人(はしひと)皇后まで連れて行きました。
 その直後に孝徳天皇が崩御すると、今度は、もう二十九歳になっていた中大兄皇子かと思われました。しかし、皇子は即位しませんでした。間人(実は中大兄皇子の同母妹)との不倫問題があり、道徳的に天皇として不適格だと思われていたという説があります。
 即位したのは、中大兄皇子の母でした。前に35皇極天皇という名前で一旦即位してから退位していたのですが、今度は37斉明天皇という名で復位しました。天皇の復位のことを「重祚(ちょうそ)」と言います。
 退位したのは皇極が歴史上始めてですから、当然、重祚したのもこの方が最初の例です。六年後に崩御したので、やっと中大兄皇子が即位して、天智天皇になりました。間人が崩御していたので、不倫問題ももういいだろうということになりました。
(4)
 天智天皇が崩御した後、息子の大友皇子(39弘文天皇)と弟の大海人皇子(40天武天皇)が争い、大海人が大友を倒して即位しました。やっかいなことに、天智の娘ウノの皇女(ウノノサララ/大友の姉)が大海人の后になっていたので、大海人が天武天皇として即位すると、ウノが皇后に立てられました
 天武とウノ(●野/「●」は「爐のツクリの右に鳥。その後に「讃良」をつけて、ウノノサララのヒメミコ・●野讃良皇女・「サララ」でなく「ササラ」と読む説もある)の間には草壁皇子がいましたが、天武崩御の後まもなく薨去してしまいましたので、天武の次にはウノが即位して、41持統天皇となりました。
 持統が歴史上二番目の譲位した天皇です。持統は孫(草壁皇子の子・軽皇子)に位を譲るために、譲位したのです。六九七年のことでした。これが平安になる以前の唯一の未成年天皇42文武天皇(十五歳)でした。文武は十年後、二十五歳で崩御してしまいました(707)。
(5)
 文武の父は草壁(くさかべ)皇子。母は阿部(あべ)皇女(草壁妃)。草壁と阿部の間に生まれた子供が、日高(氷高)皇女と文武(軽皇子)(かるのみこ)。そして、文武の息子が首(おびと)皇子。首の母は藤原氏です。当然首が文武の後継者になるところですが、まだ七歳ですから、即位できません。そこで、文武の母・阿部皇女が即位しました。これが43元明天皇。七一五年まで八年間在位しましたが、政治に倦んでしまいました。孫の首皇子はまだ十五歳なので、即位できません。そこで、代理として天皇になったのが、元明天皇皇女・日高(氷高)皇女(首の叔母/文武の姉/このとき三十六歳)で、44元正天皇です。七二四年まで九年間在位すると、もう首が二十四歳という適格年齢になりましたので、これに位を譲りました。45聖武天皇です。聖武は男性天皇としては初めての譲位(749)をしました。その娘・阿倍内親王(同じアベ)が即位(749〜758)して、46孝謙天皇になりました。さらに48称徳天皇(765〜770)として重祚しましたが、古代の女帝はこれで終り(皇極の前に推古天皇がいた)。後は江戸時代に女帝が二人出ます。
 ところで、重祚した天皇は、歴史上、皇極(斉明)と孝謙(称徳)の二人だけ。男性で重祚した天皇はいないことに注意してください。これもまた、女帝の中継ぎの性格を反映しています。
(6)
 平安時代には摂関政治と院政のおかげで、天皇は子供のうちに踐祚(即位)して、若いうちに退位しましたから、終身天皇だった人の方が少ないくらいです。江戸時代に至るまで、天皇は途中で退位するのがふつうの現象になりました。
 さて、退位した天皇は、「上皇」と呼ばれました。「太上天皇」が正式な名前です。上皇が出家すると「法皇」(太上法皇)になります。
 院政時代以後、上皇・法皇(併せて「院」と呼ぶ)の中で、朝廷の実権を持っている人を「治天の君」と呼ぶようになりました。江戸時代まで「治天の君」はいたのですが、実質的な力を持っていた「院」は院政時代の人だけであり、「実力者としての治天の君」は、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽だけだったということができるでしょう。
 最初の上皇は、最初に譲位した皇極天皇のはずなのですが、この時代にはまだ上皇という言葉がなかったとのことで、最初の上皇は持統天皇と数えるのが伝統だそうです。さきほど退位した天皇の人数を60人(59人)と書いたのは、皇極天皇を入れるかどうかの違いです。
 上皇という名前自体は、古代の中国で退位した皇帝を「太上皇」と呼んだことから始まったと言われますが、中国では、皇帝は終身職が原則で、退位した皇帝というものがあまり存在しないので、まあ、日本独得の制度だと言っていいでしょう。西欧でも、従来は終身職だったのですが、最近の人間の長寿化によって、オランダなどで譲位が行われています。
(7)
 今上陛下が退位なさったら、当然「上皇」という名前を差し上げることになるはずですが、今、それが揉めています。別段、ものものしい名前を避けたいというわけではなく、「上皇」という名前があると、天皇とどちらが上になるかが問題となり、それでは、今上の身を引きたいという御希望を叶えることができないという理由で、「前天皇」「元天皇」などという名前になるのではないかと観測もあります。
 今回は、「上皇」が正式名称で、「太上天皇」は使わないとのこと。
 もう一つの問題点は、その場合、敬称が「陛下」になるのか、「殿下」になるのかということです。上皇なら「陛下」ですが、「前天皇」だとどうなるのでしょう。トップが二人いてはまずいという理由で「上皇」を避けるのなら、「陛下」もまずいのですが、天皇経験者を「殿下」と呼ぶのはずいぶん失礼であるような気もします。
(8)
 さて、天皇陛下が「退位したい」とおっしゃったのに対して、世のオピニオンリーダーたちはどう反応しているのでしょうか。
 意外なことに、保守派の人たちは、「陛下の御希望ではあっても、退位(譲位)はいけない。摂政を立てるべきだ」と言っていました。しかし、陛下がはっきり「摂政では十分でない」とおっしゃったので、流石にそれは言わなくなりました。
 それに対して、進歩派の人たちが、「御希望を叶えて差し上げろ」と言うのです。何か奇怪な「ねじれ」現象だと言ってもよいでしょう。なぜ、こんなことになるのでしょう。
 基本的に、保守派の人たちは皇室の伝統を大事にしようとします。譲位そのものは、伝統に反するわけではないのですが、明治以来、天皇は終身制度になり、「一世一元の制」まで整ったのに、退位を認めては皇位の安定性に疑義が生じるというわけです。
 進歩派の人たちは、皇室の伝統よりも、皇室を開かれた存在にする方が大事だということで、どんどん制度を変えて行けばいいというわけです。
(9)
 そして、陛下の退位の御希望が強いと分かり、摂政ではまずいということになってしまいました。ここで、退位を認めるとして、もう一つの問題点は、法整備をどうするかということです。
 憲法も、皇室典範も、退位(譲位)については触れていません。明治以来、天皇が終身職というのが常識になったので、退位は予想していないのです。
 じゃあ、退位できないじゃないか、と速断してはいけません。法律は改正すればよいのです。もっとも、憲法に「天皇は終身職である」という規定があったら、退位を認めるためには、憲法を改正しなければならないという厄介な問題が生じるのですが、幸いなことに、憲法は、退位を禁じているのではなく、何も触れていないというだけです。憲法は大雑把な所を定めればよいのですから、触れていないということは、退位を認めても、憲法違反にはならないということです。
 皇室典範も、退位の規定を欠いているのですが、憲法の場合と違って、皇室の細かい制度にまで触れるのが皇室典範です。憲法はともかく、皇室典範に退位の規定がなかったら、退位を認めるのはちょっと問題になります。
 そこで、皇室典範改正の問題が生じて来ました。
(10)
 ここでまた、保守派と進歩派の面白い対立が起りました。
 保守派は、「皇室典範を改正する必要はない。特別法を作って退位を認めればよい」という主張です。たとえば、「退位法」などという法律を作ります。それが、皇室典範の規定に欠けている所を補って、退位を認める根拠になるというわけです。
 進歩派は、「そういう曖昧な態度はいけない。皇室典範そのものを改正して、退位の規定を入れるべきだ」と言います。
 「退位を認めるべきかどうか」の段階では、保守派は「認めない」。進歩派は「認める」という意見でした。
 「皇室典範を改正すべきか。それとも特別法を作るべきか」となってからは、保守派は「特別立法」、進歩派は「皇室典範改正」を主張しています。
 どんな背景があるのかを探ってみるのが面白いでしょう。
 一つには、保守派は退位を常態にしてはいけないと思っているからです。今回だけ特別に退位を認めることにしたいので、臨時の特別法で済ませようということです。
 進歩派はどんどん変えてしまえと思っているので、皇室典範を変更したいのです。
(11)
 すでに述べたように、保守派は、「皇室の安定」を第一に考えます。皇室典範を軽々しく改正すると、今後どんな改正が加えられるか分からない。日本の伝統が破壊されるのではないかと恐れているのです。
 進歩派は「皇室の安定は重要でない。時代に即応した皇室にすべきだ」という考えです。そのような背景となる思想を頭に入れておけば、保守派、進歩派が、なぜこういう考えになるかという筋道を理解するのに役立ちます。
(12)
 そして、今、皇室典範改正の背景に隠された重要な問題を考えてみましょう。
 それは、「女系天皇」の問題です。
 その前提として、「女帝」と「女系天皇」を峻別しなければなりません。
 日本には、「女帝」は八人十代の歴史がありますが、「女系天皇」は一人もいません。
 「女系天皇」を認めるべきだという人の中には、「歴史上、女系天皇はいた」と主張する人がいます。女系天皇を認めるべきかどうかの問題はさておき、少なくとも、「過去に女系天皇がいた」というのははっきり間違っています。
 たとえば、前述の37斉明天皇(女帝35皇極重祚)は、息子の38天智天皇に譲位しました。母親から息子に伝わったので、これを以て、天皇が女系になった、という人がいます。しかし、天智天皇が天皇になれたのは、母親が天皇だったからではなく、父親が34舒明天皇だったからなのです。他の女帝もことごとくこのパターンで、女帝は間に挿入されているだけです。女帝を抜かして考えれば、全部男系でつながっているのです。
 天武天皇以来の天皇を男系でつなげれば、40天武⇒(草壁皇子)⇒42文武⇒45聖武とつながって行きます。そのパターンが今日まで続いているのですから、過去に女系天皇は一人もいなかったと断言することができます。
 因みに、46孝謙(48称徳)天皇の後、皇位は天武系から天智系に戻りますが、それも男系で辿ると、38天智⇒志貴皇子(しきのみこ)⇒49光仁⇒50桓武と男系でつながります。
(13)
 皇位継承に関して、「Y染色体」が問題になっています。
 男の体には、「Y染色体」というものが入っていて、これは、父親から息子へと伝わります。ということは、同じY染色体が、永遠に伝わり続けるので、今上陛下のお体には、神武天皇のY染色体が入っていることになります。神武天皇は神話上の存在ですからさておくとして、少なくとも26継体天皇のY染色体はずっと現在まで続いていることになります。
 保守派の人たちはこれを守れと言っているのです。
 Y染色体は男だけしか持っていないのですから、そんなものを持ち出すのは、女性差別になるとおっしゃる方もいますが、それはちょっと違うでしょう。
 というのは、人間の細胞には「ミトコンドリア」というものが入っていて、これは母親から娘に伝わります。男もこの物質を持っていますが、男性からは子孫に伝わりませんから、自分の代で行きどまりになってしまいます。
 そこで、まっすぐ女系の子孫だけに、ミトコンドリアが伝わって行きます。アフリカの何万年も昔のある女性が全人類の先祖だ、という話を聞いたことがあるかと思いますが、それはミトコンドリアの研究から解るのです。
 男はY染色体、女はミトコンドリア。これがまっすぐに血がつながっている男系女系の證(あかし)なのです。
 つまり、天皇は男系でないといけないという人たちも女性差別をしているのではなく、今までずっと男系で来た以上は今さら女系には代えられないと言っているに過ぎないのです。
(14)
 ところで、男と女の発生確率は平等です。実は、生物学的に女の方が強いので、男性の幼児死亡率の方がほんの少し高くなっています。(神が)それを補正するために、出生率も男性の方を若干高くしていますが、ほぼ平等に生まれて来ると言っていいでしょう。
 皇室だって、男女は平等に生まれて来ます。悠仁親王がお生まれになる前、愛子内親王まで九人も女性ばかりが続けて生れたということは不思議なことですが、これは全くの偶然の所産です。ふつうはこういうことはありえないのです。
 ところが、偶然でない不思議というのもあります。
 「男系」「女系」という言葉を聞くと、「男」と「女」に出生率の差はないのですから、「男系子孫」と「女系子孫」は同じ数だけ存在するように思えます。
 ところが、皇位継承の話を聞いていると、男系は滅多に存在しない希少価値を持っていて、女系はいくらでもいる、という感じがしてきます。
 これも悠仁親王までの女性ばかりが生まれたのと同じ偶然の所産なのでしょうか。
(15)
 ここにまた、大きな誤解があるのです。
 自分から見て、孫の代を分析すると、「息子の息子」は「男系男子」、「息子の娘」は「男系女子」、「娘の息子」は「女系男子」、「娘の娘」は「女系女子」です。
 ところが、曽孫(ひまご)の代になると問題が生じます。「息子の息子の娘」が「男系女子」であることは言うまでもありませんが、「息子の娘の息子」はどうでしょう。「息子の娘」は「男系女子」なのに、そのまた息子は「男系」ではないのでしょうか。
 「息子の息子の息子(娘)」や「娘の娘の娘(息子)」というように、まっすぐに男だけ、まっすぐに女だけで繋がっているのは、議論の余地がありません。(本人は男であっても女であっても構わない)これを「純粋男系」、「純粋女系」と呼ぶことにしましょう。
 すると、「息子の娘の息子」は、「純粋男系」でも「純粋女系」でもありません。いや、そもそも男系とも女系とも言えないのです。これを私は「混合系」とか「雑系」とか呼ぶべきだと思うのですが、皇位継承については、「男系以外」を「女系」と呼ぶ習慣ができてしまいました。つまり、「混合系」を「女系」に含めるようになってしまったので、「男系」は非常に数が少なく、女系はいくらでもいるように思われる事態が生じたのです。
(15)
 単純計算をして、常に一組の夫婦に男女二人の子供が生まれると仮定しますと、玄孫(曽孫の子)の時代には、32人の子孫が生まれます。そのうち、純粋男系2人(男子と女子)、純粋女系2人(男子と女子)。混合系が28人も存在することになります。ところが、最近の議論では、混合系を女系に含めてしまうので、男系が2人、女系が30人存在することになります。(純粋男系男子1人、純粋男系女子1人、混合系男子14人、混合系女子14人、純粋女系男子1人、純粋女系女子1人)このようにして、「広義の女系」は際限なく広がって行くので、希少価値がなくなるのです。
 純粋男系で皇室の血を引く人は、正確な計算はしようがないのですが、(ずっと昔に皇室から別れた人もいるので)、二万人くらいいるのではないかと計算している学者がいます。一億人の中の二万人なら多くはありません。
 一方、混合系で皇室の血を引く人は、これは想像でしか言えないのですが、日本人はみんな親類みたいなものですから、一千万人くらいいるのではないかという説もあります。つまり、女系天皇(混合系)を認めたら、十人に一人は天皇になる資格を持っていることになり、有難味がなくなってしまうということです。
(16)
 保守派の人たちの中にも、現在後継者が悠仁親王しかいらっしゃらないことから、皇位の安定的継承のためには、女系を認めるしかないのではないかという人もいます。
 しかし、大勢としては、悠仁親王が成人なさるまで待つのがいいのではないかという主張が一般的です。悠仁親王が三十歳におなりになって、男子出生のことがなかったならば、そのときに考えればよい。その前に、皇位継承者が絶えることを云々するのは、悠仁親王に対して失礼なのではないかという議論です。
 さらに、悠仁親王に男子出生のことがなくても、男系(純粋男系)でつなげる方法はあります。一番の候補として挙げられるのが、旧皇族(十一宮家)です。伏見宮家、東久邇宮家などがそれに当たりますが、そこの若様を皇室の養子にして、皇位を継承させるという案です。知らない人を持ってきても、国民が納得しないという反対意見もありますが、小さいときから養子にして、国民の目に触れるようにしておけば、馴染みもできるだろうというのです。
 さらに、愛子内親王、真子内親王、佳子内親王のいずれかが旧皇族に降嫁なされば、旧皇族の血のつながりが強化されます。前述の26継体天皇は、旧王朝の25武烈天皇の皇女を皇后にし、そこから生まれた皇子が欽明天皇となって、その子孫が現在の皇室につながります。この降嫁は、女系の正統性を担保するものではなく、男系の血が薄まったのを、女系で補強するに過ぎません。
(17)
 旧皇族の問題点は、室町時代に皇室から分かれているので、男系としてのつながりが途方もなく離れてしまっていることです。降嫁というのは、それを、「男系の血の薄さを女系で補強する」というわけです。
 そこで、三内親王の降嫁が実現しない場合は、別の案として、皇室のY染色体を持っていて、血統的にもっと皇室に近い人を探そうという案があります。たとえば、近衛文麿の異母弟・秀麿(故人)は有名なオーケストラ指揮者ですが、この人は(近衛家なのに江戸初期に皇室から養子に入った先祖がいる[近衛信尋が後水尾天皇の同母弟])皇室のY染色体を持っていました。「皇別摂家」と言います。
 文麿には嫡出の男子が二人います。通隆と文隆。文隆はシベリアの捕虜収容所で亡くなってしまいました。通隆は、なんと秀麿の養子になりました。さらに東大教授(歴史)になったのですが、実子を遺さないでなくなったようです。
 また、文麿には庶出の男子もいて、その男子(文麿の男系の孫)もいますので、こちらに皇位継承資格を持つ人がいます。
 一方、秀麿(もう亡くなっている)には、実子とその子孫がいて、こちらにも皇室のY染色体が伝っています。
(18)
 保守派が天皇の生前退位に関して、皇室典範の改正に反対するのは、皇室典範の改正が将来の女系天皇につながるのではないかと警戒しているからです。ついでに、保守派は女性宮家にも反対ですが、これも、いったん女性宮家を認めると、いずれ皇位継承権を認めるべきだという意見が出てくるに違いないというのが根拠です。
 安倍首相は、女系天皇に反対する立場をはっきり表明しています。そこで、生前退位に関しても、皇室典範の改正はしないで、特別立法で対処することになりました。
 自民党の中は割れています。小泉純一郎前首相は、女系天皇に賛成です。かつて、有識者会議で女系天皇を認めそうになり、ちょうどそのときに紀子妃殿下御懐妊の報が伝わって、お流れになったということがありました。
 民進党も党内に異論はありますが、蓮舫代表ははっきり女系天皇に賛成しているようです。民進党は「皇位検討委員会」を発足させましたが、女系天皇、女性宮家を念頭に置いていると表明しました。
 今後どうなるか予測を許しませんが、生前退位問題が、皇室の将来と密接な関係を持っていることを御理解いただけたでしょうか。
(19)
 さて、いずれにせよ、平成は三十年(二〇一八)までで、その翌年二〇一九年からは新たな元号が始まります。新しい元号はもちろんまだ分かっていないのですが、漢字二字のうち、上の方の字は、おそらく「ア行」または「カ行」で始まるものになるだろうと思われます。「昭和五十年」を「S50」と書くことがありますので、明治・大正・昭和・平成のM、T、S、Hは避けられることになりそうです。そして、NRYなどで始まる漢字は少ないので、必然的に、A、I、U、E、O、Kで始まる漢字が選ばれることになるでしょう。
 ところで、現在の皇太子殿下が即位なさると、次の皇太子を決める必要が生じて来ます。即位のときに皇太子を定めるというのは、どうしても必要というわけではありません。明治・大正・昭和のときは、皇太子が定められたのは、天皇即位よりもかなり後になってからのことでした。いずれも、天皇即位のときに、後継の皇子が生まれていなかったか、または幼かったからです。
 しかし、今回は、将来の混乱を避けるためにも、即位の時に皇太子を決めるのではないかという観測が頻りです。
 皇室典範が改正されないとなると、皇太子は秋篠宮文仁親王に決まります。
 しかし、即位のときに、女系天皇論が勝利を収めていたら、あるいは、民進党が政権を取っていたら、皇室典範が改正されて、愛子内親王が皇太子に定められることになりそうです。
 再来年の話だというのに、まだ決着がついていないのです。
(20)
 ところで、秋篠宮文仁親王が皇太子におなりになったら、それは「皇太子」ではなく「皇太弟」ではないかという議論が行われています。
 これは、重要な問題ではありません。歴史上、天皇の弟が後継者(「皇嗣」という言葉もあります)に定められた例は何度かありましたが、そのときの事情次第で、「皇太子」と呼んだり、「皇太弟」と呼んだりしました。
 実質上の差はほとんどないのですが、昔こういう例がありました。
 75崇徳天皇は、十歳のときに踐祚しましたが、父親の74鳥羽上皇に嫌われていて、二十九歳のときに、異母弟の76近衛天皇に譲位することを強制されました。ところが、鳥羽上皇は、すでに近衛の呼称を「皇太子」でなく「皇太弟」としていましたので、崇徳は「俺は、治天の君にはなれない。院政をして権力を持つことはできないのだ」と悟り、父親を怨むようになったと言われています。
 しかし、現代では、秋篠宮文仁親王が「皇太子」になるか「皇太弟」になるかはどうでもいいことです。ただ、皇室典範には「皇太子」だけしかなく、「皇太弟」という用語がありません。今回は、「皇嗣殿下」と呼ぶそうです。
(21)
 皇太子殿下(徳仁親王)が天皇になり、秋篠宮殿下(文仁親王)が皇太子になりますと、年齢が近いだけに、また譲位の問題が出て来るかも知れません。徳仁親王が終身天皇になると、文仁親王は非常な老齢になってから即位することになってしまいます。
 そこで、徳仁親王が早期に退位なさり、文仁親王に即位していただこうという議論があるのです。女系天皇論が強くならないうちに、文仁親王が即位なされば、悠仁親王がすんなりと皇太子におなりになり、現在の皇位継承の不安定要素が解消されます。
 ところが、文仁親王が即位なさったときに、女系天皇論が強くなっていると、またまた問題が生じます。
(22)
 文仁親王が即位なさったときに、女系天皇論が強くなっていると、次の皇太子を愛子内親王にするのか、悠仁親王にするのかという問題が蒸し返されることになります。
 皇室典範が男女平等を徹底させた場合には、すんなり文仁親王の後は愛子内親王かといえば、そうとは限りません。文仁親王が天皇になってしまえば、天皇に最近親の皇族が皇太子になるべきですから、姪である愛子内親王よりも悠仁親王が優先される可能性が出てきます。
 さらに、「最近親優遇かつ男女平等」となると、真子内親王殿下が皇太子になるのが理窟だということにもなりかねません。(最近親の皇族の中で一番年長なのですから) 意外や、愛子内親王、悠仁親王の外にも、皇太子候補者が出て来るということです。
 こんなふうに、事情の変更があると、数え切れないほどの付随的な問題が生じて来る可能性があるので、皇室の将来は何とも予測できないのです。