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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

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異様なる讃美歌集  (H30-12-04)

  キリスト教の聖書は終戦直後に口語に書き替えられました。主の祈り(主?文/「天にまします我らの父よ」)も、カトリックだけで使う天使祝詞(聖母に捧げる祈り)も、みんな口語版ができました。
 「意味が分からなければ何にもならない」というのが改革の根拠でした。そうですか。戦前のクリスチャンは何にもならないことをしていたのですね。

 「天使祝詞」の文語版と、現在使われている口語版を並べてみましょう。口語版の方は、「天使祝詞」ではなく、「アヴェ・マリアの祈り」とタイトルまで変えられてしまいました。
 受胎告知の時に、天使ガブリエル、そしてその後、聖母の従姉であるエリザベツ(バプテスマのヨハネの母)が聖母を祝して歌った歌の文句を取ったのですから、「天使祝詞」という名に何の問題があるのかと思いますが、何はともあれ、「口語にしたんだから、タイトルも新しいのがいいだろう」という単純な理由だったのでしょう。

《天使祝詞》
めでたし、聖寵(せいちょう)充満てる(みちみてる)マリア、
主 御身(おんみ)と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子(おんこ)イエズスも祝せられ給ふ。
天主の御母(おんはは)聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終の時も祈り給へ。
アーメン

《アヴェ・マリアの祈り》
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

 イデオロギーに毒された人でなければ、一目見て、文語の格調高さに感銘を受けるはずです。口語の方は口にしているうちに、何やら気恥ずかしい気持ちになって来ます。
 祈祷文の類が、格調高い文になっているのは、日常語を避けるからです。神聖なる存在に訴えかけるのが目的ですから、日常語で唱えたら、敬意が感じられないと思う人も多いでしょう。中世ヨーロッパの教会では、ミサはラテン語で行うのがふつうでした。意味は分からなくても、その荘厳な響きが敬虔な気持を作り出してくれたのです。
 日本語の文語の聖書、文語の祈祷文は、ラテン語よりも更に長所があります。ラテン語よりは分かりやすいので、内容は人によっては多少、人によっては相当部分を、あるいは全部を理解することができます。それでも、日常語ではないので、俗な思いを振り払うことができるのです。
 口語の《アヴェ・マリアの祈り》を聞いていると、ヤンキーの女子高校生が、聖母像の肩に手を置いて、「ねえ、彼に私のこと、好きにならせてね」と言っているように、私には思えるのです。
 《天使祝詞》、毎日唱えているのですから、「意味が分からない」ということはないでしょうし、そもそも、分からなくたって、いいじゃありませんか。

 プロテスタントの教会で広く歌われる讃美歌ですが、通常の讃美歌集の外に、「讃美歌21」という書籍が、平成9年(1997)に出版されました。「21」とは「21世紀」のことらしい。今ではプロテスタントの多くの宗派で使われています。
 もともとの讃美歌集では、歌詞はみんな文語です。ところが、「讃美歌21」は、相当部分が口語に書き替えられています。
 有名な「いつくしみ深き」を、文語と口語で並べてみましょう。口語の方は、タイトルまで、「いつくしみ深い」となっています。「深き」を「深い」にすれば、民主的・庶民的になるとでも思ったのでしょうか。ショーロホフの「静かなるドン」という名作は、「静かなドン」と変えられてしまい、戦後のタイトルの変更としては、「世紀の愚訳」と嘲けられています。信仰の世界にまでそれを持ち込まないで下さい。
 悲しいことに、文語の方も、讃美歌集では「現代仮名遣」になっています。今、「歴史的仮名遣」に復元して御紹介しましょう。(文語と歴史的仮名遣が同義語だと思っていらっしゃる方が多いのですが、そういう方はインタネットで調べてみて下さい)

《文語》
いつくしみ深き 友なるイェスは
罪、咎、憂ひを 取り去りたまふ
心の嘆きを つつまず述べて
などかはおろさぬ 負へる重荷を

《口語》
いつくしみ深い 友なるイェスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる。
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ。

 口語文法の敬語の助動詞「れる・られる」は詩にはそぐわない単語です。だから、「ぬぐい去られる」は非常に卑俗な響きがあります。戦後の風潮は「意味が分かればいい」というイデオロギーなのですが、意味が分かれば、信仰を強めるために役立たなくてもいいというわけでしょうか。
 「などかはおろさぬ」という反語表現は美しい日本語だと思いますが、これもそのまま口語にすれば、「なぜ降ろさない」ですから、とても詩や歌にはなりません。そこで、「重荷のすべてを み手にゆだねよ」という命令形にしたのです。自発的な心の衝動ではなくなってしまいました。
 そもそも、「よ」で終わる命令形は文語的なので、口語の歌詞の中で、ここだけバランスが崩れてしまっています。
 口語なら、「ゆだねろ」「ゆだねなさい」「ゆだねてください」とすべきですが、音韻数の問題を別としても、それでは口調が悪いと思ったのでしょう。やっぱり文語の方がいいと心の底では思っているのですね。まだ「ゆだねよう」ならよかったかも知れません。「よ」を伸ばして、そう歌ったら?
 この歌、実は明治四十三年に文部省唱歌として発表されました。「星の界」(ほしのよ)というタイトルでした。

月なきみ空に きらめく光
嗚呼その星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠(をち)に
いざその星影 きはめも行かん

 文明開化で天文学を知った日本人が、広大な宇宙に思いを馳せて歌詞を作ったのですから、キリストを讃えているのでなくても、十分に宗教的感動を伝えています。

 「いつくしみ深き」も「星の界(月なきみ空に)」も、言葉自体が美しい調べを持っています。「いつくしみ深い」の方にはそれがありません。ただ音楽に合わせて、一つの音符に一音節を当てはめているだけです。こんな無慙な改変(しかも不必要な改変)をした人やグループは、「躓きの石」と言われても仕方がないでしょう。

 この「讃美歌21」の中で、「これはひどい」と思った歌を一つ挙げましょう。文語の方は省略します。
主よ、献げます、私のいのち、
あなたのために 用いてください。
今この時も これからのちも
み名をたたえて 日々過ごします。

 「分かりやすくていいじゃないか」とおっしゃるでしょうか。そんな方に対しては、反論の言葉もありません。終戦直後には、保守の人でも、「もう天皇は神ではないのだから、特別な皇室用語は要らないだろう」と考えて、どんどん簡易な表現に変えてしまうということがありました。「御」を「ご」と平仮名書きにするようになったのは、平成の陛下の御成婚のあと、「皇太子ご夫妻」を常用するようになってからだと私は思っています。
 クリスチャンも、「神を人間の所まで引きずり降ろそう」と思っているのでしょうか。
 祭壇の前の花瓶に活ける鮮花を造花に変えるような所業です。言葉が死んでいるではありませんか。
 「分かりやすく、分かりやすく」と言っている人たちの主張を裏から見れば、「美しくなくてもいい」と言っているのです。はああ、そうですか。美しくないものを祭壇に捧げてもいいのですか。
 もう一つ。文語の讃美歌には句読点がついていません。口語版ではそれがついているのです。韻文を散文にしてしまえという卑俗主義が窺われて不愉快です。近松門左衛門は音楽的な文を書き、「散文を韻文にした」と讃えられますが、平成のキリスト教会は、「韻文を散文に変え」て、言語の美しさを没却させているのです。

 この「讃美歌21」は、「まえがき」で編集方針を述べています。
 こんな一節があります。
 「日本の諸教会が戦争責任を告白し、韓国をはじめとする隣国との関係について謝罪をし、国家と教会の関係について反省する時に、歌うべき適切な賛美歌がないということは深刻な問題でした」
 この「反省する時に、歌うべき適切な賛美歌」を集めたのが、「讃美歌21」だというのです。それにしては、文語を口語にしただけのものが多いのですが。
 私にも、また私と志を同じくして下さる方々にも、とうてい賛同できない言葉です。私は、謝罪も反省もする必要がないと思っています。逆に諸外国から謝罪してもらいたいのです。このような、国論を二分する問題について、教会が一方的な意見を述べているのには呆れますが、編集元が「日本基督教団讃美歌委員会」であれば、仕方のないことです。
 「カトリック教会」と「日本基督教団」が反日の巣窟になっていることは、皆さま、知っていらっしゃることでしょう。

 もう一箇所、見過ごしにできない一節がありました。
 「讃美歌21」は、旧来の讃美歌の「国家神道的表現」を排除したと言っているのです。
 「国家神道的表現」とは、古代からの日本の信仰心を表す語彙や慣用句を言っているのでしょう。
 ここで思い出すのが、「海行かば」です。作曲は信時潔(のぶとききよし)。この人はクリスチャンであり、讃美歌の調べを生かしたということです。なるほど、「海行かば」は讃美歌の荘厳な韻律を持っています。私は、「海行かば」の曲に、讃美歌の歌詞を付けたらいいと思うのですが、教会関係者からは、聞く耳持たないと言われそうです。
 キリスト教であろうと、仏教であろうと、神道であろうと、宗教には共通の心映えがあるものです。「国家神道的表現」とは、神道に連なる儼(おごそ)かな物言いを誹謗して言っているのです。
 反日クリスチャンは、他の宗教に対しては寛大な態度を表明し、こんなところでも、「共生」という言葉を使うことがあります。しかし、不思議なことに、日本の神道と、ダライラマのチベット仏教と、ユダヤ教に対しては敵対的です。もちろん、政治的な背景があってのこと。
 一方で、反日クリスチャンは「和解」という用語を多用するようです。それなのに、皇室に関係があると看做される宗教、中国政府の気に入らない宗教、かつてソ連に逆らった宗教、また、中国北朝鮮の迫害されているクリスチャン(地下教会)には、決して手を差し伸べようとしません。
 イスラム教に対しては、「米国と戦うイスラム」は支持しますが、「中国と戦うイスラム」(新疆ウイグル自治区など)に対しては実に冷たい態度をとります。なんのことはない、反日クリスチャンは、かの捏造新聞の走狗なのです。

 万葉集で一番長い長歌は「高市皇子尊の城上の殯の宮の時柿本朝臣人麻呂の作れる歌」(たけちのみこのみことの、きのへのあらきのみやのとき、かきのもとのあそみひとまろのつくれるうた)ですが、故人となった貴人を悼む素晴らしい歌です。その宗教的な響きは、神・キリスト・聖母を讃えるキリスト教の精神にも相通ずるものがあります。
 この和歌の冒頭をご紹介しましょう。
  かけまくもゆゆしきかな、言はまくもあや畏(かしこ)き
  飛鳥の真神(まがみ)の原に 久方の天つ御門(みかど)を
  懼(かしこ)くも定め給ひて   神(かむ)さぶと岩隠(いはがくり)ます
  やすみしし我が大君の聞し召す  背面(そとも)の国の
  真木(まき)立つ不破山(ふはやま)越えて-------------------------------------
  
 素晴らしい先祖の遺産だと私は思うのですが、そう思わない方もいらっしゃるようです。

 「国家神道的表現」を避けるというのは、万葉的な歌は駄目ということです。

 話は違いますが、横田早紀江さんは、所属していた教会がめぐみさん拉致について一生懸命協力してくれたとおっしゃっています。へええ、キリスト教会が珍しい、と思ったら、日本基督教団の教会ではありませんでした。やっぱり。
 「讃美歌21」は、反日クリスチャンが反日的な態度をむき出しにした書物です。正体を現したのです。特に保守派のクリスチャンに、彼らの陰謀を許さぬように戦っていただきたいと思います。
 クリスチャンでもみんながみんな反日に捲き込まれているわけではありません。「靖国に参拝するカトリックの会」があると知ったときは、感動しました。そういう方々、頑張って下さい。