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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

 三澤 廣氏の一覧


  キリスト教の堕落(H30-7-9)

 若い頃、カトリックに興味を持って、教会へ通ったことがあります。長続きしませんでした。私は何でも長続きする方なのですが。
 ミサの後、初心者(求道者)講座に出たら、若い気障な神父が、学生運動風の政府批判をするのです。当時の左翼の、「アメリカの核実験は戦争のためだから反対するが、ソ連や中国の核実験は平和のためだから支持する」という教条主義をこんな所で聞かされるとは思いませんでした。呆気に取られました。
 しかも、その神父は、若い女性のファンから、人気スターのようにチヤホヤされて、悦に入っているのが見て取れました。
 あの神父がいなかったら、今頃はカトリックになっていたかも知れないと思います。死んだ後、天国の門の所で、聖ペテロから、「おまえは信仰がないから、天国には入れない」と宣告されたら、「あの神父のおかげで信仰に入れなかったのだから、彼も同罪です。一緒に地獄に落としてもらえるのでなかったら、納得できません」と抗議するつもりです。もっとも、私が抗議しなくても、天国に行くことができるとは思えない人ではありましたが。
 ダンテが地獄へ行ってみたら、聖職者がたくさん来ていたそうです。日本の神父の方は、天国へ行けると思っていらっしゃるのでしょうか。いや、それ以前に、死後の命があるという話に、失笑した神父がいたということです。ある日本人神父は「イエズスは、ヨセフとマリアの間にふつうに生まれた子供だ」と言います。
 イエズスを神の子と認めないで、どうして神父をしていることができるのでしょう。もっとひどい神父は「イエズスの父親はローマ人兵士」だと言っているそうです。私の頭には「?????!!!!!」という記号しか浮かびませんでした。
 この人の独創ではなく、パンテラという名のローマ人兵士がイエズスの父親だという説は昔からあります。しかし、それを信じている人は、ふつうはカトリックの神父にはなりません。飯のタネとしてこの仕事を選んだのなら別でしょうが。
 数年前、今の住所に引っ越して来たら、近くにカトリック教会がありました。通おうとは思いませんでしたが、ちょっと門から入ってみました。
 ああ、やっぱり、と思うしかありませんでした。門の横の掲示板に、憲法第九条の全文が麗々しく墨で大書されていたのです。その横に貼った小さな紙では、集団的自衛権と機密保護法に反対しようと訴えていました。「反原発」にも力を入れているようでした。
 こんな、国論を二分する大問題について、教会が一方に加担する立場を明白にしていいものでしょうか。カトリックの聖職者には、そういう立場の人が多いとは聞いていますが、信者は逆に保守派が多いのです。この「ねじれ現象」のために、師弟(?)たるべき関係に亀裂が生じ、関西のある大きな教会では、聖堂の中で、大物神父と信者が口論をするという事件が起こったという話です。
 プロテスタントにもそのような偏向が顕著に見られます。横田めぐみさんの御両親はプロテスタントでいらっしゃいます。ある信者は、「教会が結束して、横田さんを支援してくれたのは奇蹟だった。横田さんによほど人望があったからだろう。ふつうの教会だったら、あの時期には、『北朝鮮がそんな悪いことをするはずがない』と取り合ってくれなかっただろう」と言います。
 カトリックもプロテスタントも信者が殖えなくて困っているという話です。韓国やフィリピンのような近隣諸国は、キリスト教国と化しているのに、どうして、日本はそうならないのでしょうか。私は、その第一の原因は、聖職者のイデオロギーが信者になるはずの人を遠ざけていることだろうと推理しています。
 「カトリック新聞」をときどき読む機会があります。また、インタネットを見ると、聖職者の個人的な意見が分かります。政治的な意見を述べたがる聖職者の大半は異様な思想に染まっています。「カトリック 反日」と打ち込むと、面白いほどに、そういう記事が満載されています。私は数人の反日神父の名前をおぼえてしまいました。日教組上がりの神父もいるそうです。暴力団員が国会議員の夫、いやもとへ、警察官になるのとちょっと似ています。
 「日本は戦前、朝鮮半島で悪逆の限りを尽くしたのだから、拉致くらいされても、文句を言える立場ではない」と公言するような人から信仰を説かれても、どうして神に近づくことができるものでしょうか。
 そういう文章を読んで感じるのは、「この文章を書いた人は相当に知性が低い」ということです。まずは、文章の読みにくさに驚きます。
 知人にはカトリックもいれば、プロテスタントもいますが、どちらの話を聞いても、聖職者の知的レベルが低いと嘆いています。カトリックの人は、「うちの司祭は、論理に則った話が通じない」と嘆いていました。
 神学部を出れば聖職者になれるという制度を改めて欲しいと思います。医学部を出たからと言って、そのまま医師になれるわけではありません。法科大学院などは、出ても法曹資格が取れなくて問題になっているのです。聖職者も形式的な審査はあるらしいのですが、極めて簡単だということです。
 聖職希望者には、少なくとも高校入試レベルの一般教養の試験、およびキリスト教の教義の試験を課して、基準点以下の人は排除するようにしてもらいたいのです。「人間を偏差値で差別してはいけない」というのが教条的平等主義のドグマですが、ナイーブなことを言ってはいけません。偏差値35の神学部って、神を侮辱しているのではありませんか。
 信仰は知識の問題ではないと開き直られそうですが、ものにはホドというものがあります。カトリックの神父になるには、ある程度はラテン語を知っていなければならないはずです。知人の話によると、ラテン語と言っても、単語の音読さえ怪しげだということです。ラテン語は発音だけは易しいというのに。
 英語でも、Ascension(キリストの昇天)とAssumption(聖母被昇天)の区別を知りません。いや、あっと驚くことには、日本語で「昇天」「被昇天」と言っても、その別を理解していない神父がいるというのです。この件はインタネットで見たのですが、どうも、「被」という漢字の意味が分なかったらしい、とのこと。(キリストは死後、自分の力で昇天したが、聖母は神によって天に引き上げられたという意味です)
 学生運動の過激派には、二流大学の学生が知的劣等感から抽象論に走って、人生を棒に振った者が多いと言われます。聖職者の場合、それが恐ろしいほどに当てはまっているのではないでしょうか。
 一方、信者には、知的な人が多いのです。信者が年を取ってから、聖職者になれる道を開いてやれないものでしょうか。社会でそれなりの仕事をこなして退職した人たちの中から選抜して、簡単な教育を施せば、現在よりは遙かに優秀な聖職者が育つに違いありません。老人でもいいではありませんか。むしろ、こういう仕事は、若い人向きではないと思います。
 カトリック教会がどうしても人事の改革が駄目だと言うのでしたら(駄目というのは、聖職者が既得権の侵害を怖れているからなのですが)、中国に愛国教会と地下教会があるように、日本でも、現在の媚中教会の外に、自由教会を作る必要があるのではないでしょうか。
 日本の神父が中国の地下教会に対して、冷たい発言をしているのを読んだこともあります。さもあろうと思われます。彼らは、日本の穏健な国家権力には反抗的ですが、中国のコワモテの国家権力には尻尾を振るのです。ですから、日本でも、自由教会を作ろうとしたら、分派活動と非難されるでしょう。
 そんな教会だからこそ、なんとかしなければいけないのです。
 どうか信者の方々に、立ち上がっていただきたいと思います。