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三澤 廣氏の活動報告
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岩波ジュニアの憲法論  (H30-8-1)

  岩波ジュニアの憲法論   三澤廣

 岩波ジュニア新書の本ですが、作者も書名も分かりません。以前、図書館で見たのですが、この文を書こうと思って探しても、見つかりませんでした。ちょっと古い本だったようです。仕方がないので、記憶に頼って書きます。中学生向けの憲法解説の本です。この中で、日本国憲法と大日本帝国憲法とを比較し、帝国憲法がどんなに前近代的な、人権を無視した憲法だったかということをさんざんに喧伝しているのです。
 アッと驚いたのは、第五条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」の解説でした。なんと「帝国議会は天皇の協賛をするというだけの地位しか与えられていなかった。名目だけの存在だったのだ」というのです。戦前の日本がどんなに独裁的な国家だったかということを強調したのです。
 帝国憲法では、立法権も行政権も司法権も天皇に従属していました。立法権は天皇に「協賛」し、行政権は天皇を「輔弼」し、司法権は後述のように天皇の「名に於て」、その職責を全うしました。
 それでは民主的じゃないじゃないかと思う人のために説明しておきますが、三権が天皇に従属するというのは、形式的なことであり、実質的な民主主義を担保する規定として、第三条「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘラカス」があったのです。
 この第三条は、中学・高校の教科書では、帝国憲法の中でも一番民主主義に背馳する、天皇を神扱いする馬鹿馬鹿しい規定として、非難されています。しかし、世界の憲法の歴史の中で、この規定は絶対君主制を否定した、民主主義的規定だと評価されてきたのです。
 「君主無答責条項」と呼ばれます。君主制国家では、どの国もこの規定を入れています。「神聖」とは言わないまでも、「国王は政治的に責任を負わない」「国王の一身はこれを侵してはならない」と書かれています。君主は責任を負うことはない。なぜならば、君主は政治に関与することはできないからである。
 「神聖にして犯すべからず」はそういう意味なのです。本来、「天皇は政治に関与すべからず」と書くべき所なのですが、そう書くと、第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定と言語論理に於て矛盾を来たします。そこで、「第一条にはああ書いてあるが、あれは建前だけで、実際には天皇には権限を与えないんだよ」という説明的条項が「神聖にして犯すべからず」なのです。つまり、この第三条は大日本帝国憲法の民主主義宣言だったのです。
 第三条の宣言を基礎にして、第五条を解釈すれば、「帝国議会は天皇の名に於て立法権を行う」という意味なのです。そして、「天皇の名に於て」ということは、立法権は独立しているものであり、政府からの干渉を受けることはない、というこれまた民主的な原則を宣言したのです。どうして、帝国議会が「名目だけの存在」だったはずがありましょう。天皇の方が「名目だけの存在」だったのです。
 話は違いますが、米国は、サダム・フセインのイラクを制圧したとき、「イラクの民主化を進める。米国はすでに、日本を民主化したという実績がある」という宣言を発しました。このときの朝日新聞の社説が面白かった。「日本は大正デモクラシーという民主主義の経験を持っていたのだから、イラクとは違う」と書いたのです。目を疑いました。アメリカ憎しの気持から出ているとはいえ、大日本帝国憲法下の日本に民主主義が存在していたと朝日新聞が宣言したのです。
 さて、今述べた「天皇の名に於て」ですが、現実にその文言が出て来るのは、司法関係です。第五十七条に「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とあります。
 明治二十四年、大津事件の際に、大審院長・児島惟謙が司法の独立を守ったと言われるのは、この規定に依るものでした。大津事件は明治二十四年、琵琶湖観光に向かうロシア皇太子ニコライが、大津市内で警護の警察官に襲撃されて負傷した事件です。このとき政府はロシアの怒りを恐れて、犯人を死刑にするように裁判所に圧力をかけました。児島はこの圧力を跳ね返すべく大審院の判事たちに訓示を与えて、無期懲役の判決を出させたのです。
 司法組織のトップに天皇がいる。政府も天皇には逆らえない。ところがその天皇は名目だけの存在なので、結局は裁判所は独立している、というわけです。朝日が褒めたたえる大日本帝国憲法下のデモクラシーは、「天皇は神聖にして犯すべからず」から出てきていたのです。
 第一条と第三条はウラから見れば、「三権分立」の規定です。そして、第五条は「帝国議会(国会)が国権の最高機関である」ことを宣言し、第五十七条が「司法権の独立」を謳っていると言っても大過ありません。日本国憲法と同じことを言っているのです。終戦後、憲法改正のための枢密院会議の席上で、美濃部達吉博士が大日本帝国憲法を擁護し、日本国憲法の制定に反対したのも宜(うべ)なるかなとうなづかれます。日本国憲法の枢密院での採決は、起立によって賛否を問いましたが、議事録には「美濃部顧問官顔面蒼白,唇をふるはしつつ遂に立たず。曰く、大日本帝国憲法は世界に冠たる憲法であります」と書いてあります。感動しないではいられません。

 朝日岩波文化人と言いますが、岩波本の著者が朝日に逆らおうというのですから、いい度胸です。
 それにしても、この岩波ジュニアの憲法読本の第五条解釈は、現在の左翼ばかりの憲法学界でも惘(あき)れるほどの偏ったものです。単純な間違いと言ってもいいでしょう。どうしてこんな人が憲法学者をしていられるのでしょう。憲法学者といえば、安保法制に対して、九割以上の人が「憲法違反」だと言ったのですが、そう言わないとテレビに出してもらえないからでした。でも、そんな憲法学者たちであっても、この岩波本には絶句するのではないでしょうか。
 かつて故黛敏郎氏が言った名言があります。「全国のお父さん、お母さん。どんなに先生が薦めても、どうかお子さんに、少年朝日年鑑だけは買い与えないで下さい。それがお子さんのためです」。
 私は黛氏のような大物ではありませんから、「どうかお子さんに岩----------」とは申しません。逆に褒めておきましょう。「岩波ジュニア新書は、理科系の書籍にはいいものが多いですよ」と。