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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

 三澤 廣氏の一覧


海ゆかば異聞  (H31-3-7)

 大伴家持(718~785)は大伴旅人(665~731)の嫡男なり。旅人も家持も名高き歌人、父子揃ひてかほどの文學的業績を殘したるは、餘(よ)には四百年後に出づる藤原俊成・定家ならではあらじとぞ見ゆる。
 家持十六歳の砌(みぎり)に詠みたる初戀の歌は秀逸なり。
   ふりさけて若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも
 大伴氏は家持の生るるより二百年前、大伴金村(かなむら)全盛を誇り、朝廷首座の重臣たりき。椿事出來(ちんじしゆつたい)するなからましかば、物部・蘇我・藤原に右を讓ることなく、權柄を恣(ほしいまま)にしてあらまし。應神五世の皇孫と傳ふる繼體天皇を近江[または越前]より迎へ、皇位に付け奉りたるは金村。然而(しかりしかうして)、次代欽明天皇の御代(みよ)五四〇年に、任那(みまな)の經營に與(あづか)り、百濟より賄賂を收めたるの儀發覺して、金村は失脚、以後大伴氏は衰退の一途を辿る。

 惟(ただ)、大伴氏の命運盡きたるには非ず。旅人も大宰帥(だざいのそち)を經て、七二八年、六十四歳といふに大納言へと陞(すす)めらる。逝世したるは六十七歳。
 息・家持は、七四六年越中守、七八三年六十六歳にて中納言に任ぜられ、久しからざるに、六十八歳を一期(いちご)として往生せり。齡(よはひ)先考(せんかう)に過ぐるも、動(やや)もすれば出頭及ばざりしは、大伴一族の次第に落魄せるに據りてなりけん。

 已而(すでにして)、七四九年、陸奥國にて始めて金の産出あり、聖武天皇に獻上せらる。皇上(くわうじやう)これを嘉(よみ)せられ、「陸奥國(むつのくに)より黄金(こがね)出(いだ)せる詔書」を渙發(くわんぱつ)したまふ。
 この詔書に於て、大伴氏のいにしへの忠誠と武勇讚へらる。をりしも越中に赴任してありし家持齡(よはひ)三十二、感ずる所ありて、「陸奥國出金詔書を賀(ことほ)ぐ歌」を詠む。
 「葦原(あしはら)の、瑞穂の國を、天下り、知らしめしける、すめろきの、神の命(みこと)の、御代重ね、天(あめ)の日嗣(ひつぎ)と、知らし來る」と始まる萬葉第二の長き長歌なりき。
 長歌の後に、「短歌三首」の併せらるれば、ご紹介仕らん。
  丈夫(ますらを)の心思ほゆ大君の言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴(たふと)み
  大伴の遠つ神祖(かむおや)の奧城(おくつき)はしるく標(しめ)立て人の知るべく
  天皇(すめろき)の御代榮えむとあづまなる陸奧山(みちのくやま)に黄金花咲く

 この長歌の中に、「海行かば」は藏められたり。
 該當箇所を含む箇所を引用せん。

 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことた)て 丈夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今の現(をつづ)に 流さへる

 名高き「海ゆかば」より「かへりみはせじ」までは、すなはち軍歌の歌詞なり。
 この歌詞部分は、大伴家の重代傳ふる勇武の歌にして、聖武天皇これを詔敕の一部に引用したまふ。而して、家持のこれをまた孫引きしたるといふが眞相なり。最後尾、「かへりみはせじ」とあれど、此處(ここ)のみ、「長閑(のど)には死なじ」と歌ふ別儀の歌詞あり。何故(なにゆゑ)なりやは諸説唱へらるるも、そもそも古への歌に雙方ありて、掛け合ふが如くに應答しつつ歌ひたるにあらずやと言ふが有力説なり。

 さて、この「五六五七五七七六」すなはち、軍歌とは化したりけり。昭和十二年、信時潔(のぶとききよし)の作曲せる所なり。信時はキリスト敎の牧師の子、後に東京音樂學校の敎師にこそはなりたりけれ。幼時より讚美歌に慣れ親しみたるがゆゑならん、「海ゆかば」を聞けば、讚美歌獨特の旋律を感ぜずんばあらず。
 戰後のキリスト敎會にては、信時は軍國主義に協力したりしとて糾彈する人尠なからず。
 ああ、愚なるかな。心なきかな。何條(なんでふ)軍國主義ならん。何條復古主義ならん。やはか樂(がく)の音に謨事(はかりごと)のあるべけん。假令(たとひ)戰意を昂揚せしめんがために用ゐられたらんとも、歌の美しきを讚ふるにいかでか躊躇のあるべき。

 平成元年、「聯合艦隊」なる映畫、テレビにて放映せらる。映畫の終末は戰艦大和の擊沈をこそ描きたれ。三千世界の艨艟(まうどう)及ぶなかりし巨艦七萬五千噸(トン)、延べ千に及ぶ敵艦載機の猛攻に堪へず、つひに船首を抬(もた)げて直立し、やがて横轉して坊津沖(ばうのつおき)の海に没す。
 大和沈みたる海面に流るる「海ゆかば」の調(しらべ)、誰か能(よ)く涙なくして聞くを得べかりし。此處(ここ)に神洲萬姓の魂の古鄕あり。君、輕々に軍國を論(あげつら)ふなかれ。
 この歌、盍(なん)ぞキリスト敎會にて讚美歌代りに歌はざる。いんぬる師走、さる自治體の敎育委員會、民間團體の主催する歌のイベントの後援を企畫したるに、數多(あまた)の演奏曲中に「海ゆかば」含まれたりとて異を立つる者共あり、敎育委員會は恫喝に屈して後援を取りやめたりとぞ傳へらるる。
 いかい狹量、嘆息するに餘(あまり)あり。

 思ひきや、本朝にて作りたる讚美歌を閲(けみ)するに、流行歌の旋律に神を讚ふる歌詞を付けたるありとは。「眞白き富士の嶺」に始まる「七里ケ濱の哀歌」もその曲、讚美歌となりてあり。(聖歌623「いつかは知らねど」https://www.youtube.com/watch?v=ZN5-T77sPxE)
 今、これに倣ひて、「海ゆかば」に聖母を讚ふる歌詞を付したり。あるいは憤慨せらるるクリスチャンもおはしまさんとは思へど、御自ら顧みて、かかる不寛容こそ中世に異端を火炙りに處したる宗敎裁判を生みたりけれと忸怩(ぢくぢ)たるものあらせたまはずや。

  ああマリア      〈うみゆかば〉
  祈らせたまへ     〈みづくかばね〉
  我が爲に       〈やまゆかば〉
  今日しも泣きて    〈くさむすかばね〉
  訴ふる        〈おほきみの〉
  しもべが愁ひ     〈へにこそしなめ〉
  容(い)れたまへかし 〈かへりみはせじ〉

   第二句、聖母は御自ら我らを救ひたまふにはあらで、我らを救ひたまふべく神に祈り
  たまへるなり。これによりて、「祈らせたまへ」とこそは申しけれ。

 話變りて、「海ゆかば」には、今一つバージョンあるを御存知なりや。
 人みなの知る「海ゆかば」の作曲せらるる六十年前、明治十三年に、宮内省の伶人(れいじん)[雅樂演奏の人]東儀季芳(とうぎすゑよし)の作曲せる雅樂なり。
 必ずしも秀作ならずと評せられたるを以て、昭和の御代に信時バージョンに其の譽(ほまれ)を讓りてぞ竟(をは)んぬる。さはさりながら、しつとりしたる味はひ棄て難き名曲にして、信時バージョンに勝るとも劣らじとの專門家の聲頻りなり。
 この東儀バージョンの調べ、吃驚(きつきやう)したまふなかれ。いづれもいづれも既に御周知にておはしますらん。
 軍歌「軍艦」は、第一聯が「守るも攻むるもくろがねの」(「攻めるも」にあらず)、第二聯が「石炭(いはき)の煙はわだつみの」にて始まる。第二聯の後に間奏曲入り、その後にまた、「守るも攻むるも」の演奏あり。
 この間奏曲の部分に「海ゆかば」の東儀バージョンを嵌め込みたるなり。インタネットの動畫にて聞けば、歌詞を歌へるもあり。試みに動畫「軍艦行進曲 中日字幕」を檢索したまへ。(https://www.youtube.com/watch?v=THEaz-rWy0A)
 この間奏曲の「海ゆかば」は「長閑(のど)には死なじ」、信時バージョンは「かへりみはせじ」と歌ひてあり。

 今、試みに、「海行かば」を英譯せん。散文譯にして曲に合はせたるにあらねば、以て歌ふことを得ず。然則(しからばすなはち)、押韻(あふゐん)の儀なしとて嗤誚(しせう)なしたまひそ。
  Going to war in the sea,
  I will not regret to become algae submerged.
  Going to war in the mountain,
  I will not regret to become many pieces of stone covered with moss.
  I wish I could devote my life,
  For the honor of the divine Emperor.

 algaeは「海藻」。單數形はalga。eを複數語尾とする拉典語起源。單數は「アルガ」、複數は「アルジー」なる不規則發音、「英語のスペリングは發音どほりなれど日本語の假名遣は乖離(かいり)甚だし。國語を改革すべし」と妄言を呈して今日の慘を致(まね)きたる現代假名遣を笑へるが如し。

 またインタネットに見出したる中國語譯も入興無雙(じゆきやうむさう)たらん。
  航向大海 願爲浸在水中的屍首
  踏過高山 願爲長滿雜草的屍骸
  就像是在天皇陛下身邊戰死
  可不想安逸地死去

 「現代中國語を漢文訓讀すべし」といふが我が持論、爰(ここ)に君が爲に試みん。

  大海に向かひて航(こぎゆ)けば、
  願はくは水中に浸(ひた)る屍首(どくろ)と爲(な)らんことを。
  高山(かうざん)を踏みて過ぐれば、
  願はくは雜草長く滿つる屍骸(しかばね)と爲らんことを。
  就(すなは)ち是(これ)天皇陛下の身邊に戰死するに像(に)たり。
  可(いでや)、安逸に死去せんとは想はず。

 第六句(「就」以下)は、海に山に戰うて死ぬるは、三島由紀夫の憧憬(しようけい)したるが如く、大君の白馬の前にて名譽の死を遂ぐるに異ならずと言へるなり。