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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

 三澤 廣氏の一覧


言論の話合い  (R1-8-6)

 私は、史上最年少の芥川賞受賞者である綿矢りささんのファンです。特に「夢を与える」という長編は、その構成力と人生の分析力に感動しました。子供のときから芸能界のスターになった女性が、不良少年に騙されて人生を棒に振ってしまうまでの二十年が見事に描かれています。
 このヒロインの、まだ中学生のときのファーストキスの相手が女性なのです。別の小説「ひらいて」では、ヒロインは、好きな男の子を奪うために、その子の彼女(ライバル)を誘惑したのですが、そのうちほんとのレズになってしまうという面白い設定でした。
 そして、この方、今度は、「生(き)のみ生(き)のままで」という新作を発表しました。小説の書評欄で拝見したのですが、本格的なレズを描いているということです。

 綿矢さん、本人もレズなのかなと思いましたが、そうとも限らないのです。自分ではそんな気はないのに、抽象的にレズに憧れるということはあるものです。
 東京大空襲のときの回想を女性が書いているのを見ました。空襲の翌日に、街角に、水や食べ物を配ってくれるテントが設置されているのですが、そこへ入って行くと、配っている女性たちが、男性には優しいのに、女性には冷たいのです。そこで、作者は、「こんなときでも、女は男にしか優しくできないのか」と悲しい思いをしたということでした。
 レズの女の人は優しい人が多いと聞いたことがあります。レズなら女の人にこそ優しくできるのですから、それはもっともなことだと思われます。
 ホモの男性にも同じことが言えるのではないでしょうか。
 私も、いわゆるホモッ気はないのですが、歴史上のホモの話には非常に興味があります。戦国時代の殿様の寵童は、誠実さが身上です。殿様の為なら死ぬことを厭いません。豊臣秀次の寵童だった不破万作は、主君に先だって、見事な切腹をして果てました。
 私は、LGBTの人たちは、ふつうの人よりも美しい気持ち、少なくとも誠実さを持っていることが多いのではないかと思っています。そういう人たちの権利を認める必要があると思います。

 さて、去年の末、「新潮45」が廃刊になりました。保守系の雑誌ですから、リベラルの集中砲撃を浴びたのです。杉田水脈さんの「LGBT支援の度が過ぎる」という論文が世間から非難を浴びることになったのです。
 私は、LGBTの人たちを差別してはいけないという考えなので、杉田さんの考えには必ずしも賛同できません。しかし、杉田さんは、「自分はレズやゲイの友達ともふつうに付き合っており、差別感情は全くない」とした上で、「マスコミの過剰なもてはやし」と「政治家が票を取るためにLGBTに好意的な振りをする」ことに嫌悪感を表明しているだけです。
 また、「LGBTには生産性がないから国が財政的な支援をする必要はない」とも言っています。
 マスコミや政治家の汚さについては私も同感です。ひたすら少数派に媚びて、発行部数・視聴率や票を伸ばそうという根性が見え透いています。さらに、多数派にも、「それが人間として正しい態度なんだ」と説教して、自分たちが「良心的」であることを喧伝するのです。この点、杉田氏は日本の現状を正確に観察しています。
 「LGBTには生産性がない」という言い方は、別に差別ではありません。私はむしろ、杉田氏はよく勉強していらっしゃると思いました。人口統計学の用語を使ったのです。「再生産率」という用語があります。一人の女性が平均して何人の子供を産むかを指数に表したものです。この数値が2.0(多少ブレはあるのですが)より低いと人口が減って行くということになるのです。
 「生」も「産」も「うむ」の意味ですから、「子供を生む」ことを「生産」と言って何の不都合がありましょう。LGBTのうち、子供を生まないL(レズ)とG(ゲイ)が「生産性がない」のは明らかです。
 ただ、「生産性がないから国が財政援助をする必要はない」というのには賛成できません。人間の生きる権利などとか、大上段に振りかぶった議論をする必要はありませんが、社会の役に立たない(と自分が思う)人間を切り捨てるというのは、これは言ってはならないことでしょう。
 もっとも杉田氏は、LGBTを擁護するマスコミの論調が極端であることに異を立てているだけですから、そこはそこで傾聴に値するものです。

 私が杉田氏を弁護したいのは、「生産性がないから国が財政援助をする必要はない」と言ったからと言って、それほどの問題だろうかということです。
 丸山穂高議員が、「北方領土は戦争しなければ返って来ない」と言ったために、議員としての辞職勧告をされています。
 議員の地位って、そんな軽いものでしょうか。有権者の信託を受けているのです。犯罪を犯したわけでもないのに、自分の意見を述べたという理由で、追放されていいものでしょうか。
 丸山氏の発言は、憲法九条に違反するという人もいます。
 昭和の御代には、「憲法を改正すべきだ」と言ったばかりに、大臣が辞職しなければならなくなった例が何件かありました。
 もう昔の話ですが、あの頃、不思議でなりませんでした。じゃあ、憲法というのは、一回決まったら、永遠に変えることができないものなのでしょうか。あるいは、大日本帝国憲法が日本国憲法に変わったときのように、敗戦というような特別の事情がなければ許されないのでしょうか。とにもかくにも、「憲法を改正すべきだ」と言ったら、それが「閣僚の憲法遵守義務違反」になるとは、どんな理窟でも考えられないことです。
 ただ、当時でも「憲法遵守義務は閣僚にはあるが、ヒラの国会議員にはない」という意識はあったようで、国会議員が憲法改正を主張しても非難されることはなかったようです。国会議員の発言の言葉尻を捉えて糾弾していては、政治家の言論の自由を弾圧するという大変な問題になってしまうとはマスコミも自覚していたのでしょう。
 昨今は、憲法改正を国民の大半が支持するようになったので、閣僚が憲法改正のことを公然と口にすることができるようになりました。その点だけは、日本も進歩しました。
 今回の丸山議員の場合は、ヒラの議員なのですから、憲法九条の精神に反することを言ったからと言って、咎められる筋ではありません。まして、それを原因にして、議員辞職せよとは、日本の民主主義の未熟さに惘(あき)れるばかりです。

 丸山議員が憲法遵守義務に違反しているというのなら、「皇室の人たちと同じ空気を吸いたくない」と言った女性議員なんぞは明らかに憲法第一条に違反しています。天皇を国の象徴と認めていないからです。丸山議員の上げ足取りをしていたら、またまたブーメランになって、天皇制廃止論も唱えることができなくなりますよ。辻元さんなんかは、逮捕されないといけませんね。もう一回。

 杉田議員の場合も、言った内容が多少不適切だったからと言って、議員を辞職するような問題ではありません。
 そして、本件の場合は、さらに、杉田氏の論文を掲載した新潮45が廃刊に追い込まれるという椿事(ちんじ)が出来(しゅったい)しました。
 これは重大な言論弾圧事件です。
 「セクハラという犯罪はない」と喝破した政治家がいましたが、それに倣って、私は、「差別という犯罪はない」と言いたいのです。
 差別はどんな犯罪よりも悪いなどという愚かな主張をしてはなりません。少なくとも捏造報道よりは罪が軽いでしょう。

 政治家と出版物は、犯罪を構成せず、かつ国益を損じない限りにおいて、できる限り言論の自由を認められるべきなのです。最近の日本のジャーナリズムの中で、廃刊に該(あた)るような悪事を働いたのは、三十年に亙って慰安婦強制連行の捏造記事をばらまいてきた朝日新聞だけではないでしょうか。
 一昨年から去年にかけて、「日本死ね」が流行し、その後、足立康史議員が「朝日新聞死ね」と言って物議を醸しました。ある識者は「『朝日新聞死ね』の方が言論の自由を侵害しているから、『日本死ね』よりも罪が重い」と言いました。
 ところが、そんなことを言う人たちが、新潮45を殺してしまったのではありませんか。朝日を殺してはいけないが、新潮45は殺してもいいと言っているのです。どうしてですか。百田vs香山(後述)の場合と同じ理窟なのでしょうか。鯨を食っちゃいけないが、牛はかまわないと言っているのにも似ています。
 ところで、「朝日新聞死ね」がいけないのなら、「NHKをぶっこわす」もいけないのでしょうか。
 NHKも可哀想な立場にいるんですよね。外国勢力に番組編成に介入されて、完全な反日になっているために、右派からは叩かれます。一方、国営放送局という性格があるために、左派からは、国家権力の犬だと攻撃されるのです。実質は朝日新聞と同じですから、リベラルからは擁護されていいはずなのですが。
 話は違いますが、そのうち、「朝日新聞をぶっこわす」というスローガンも誕生するでしょう。立花孝志さんに御忠告申し上げますが、その際、語呂をよくしようと思って「朝日をぶっこわす」と縮めると却ってよくありません。「を」を消して「朝日新聞ぶっこわす」にして下さい。「NHKをぶっこわす」と同じ七五調になって、小学生にも愛誦されるでしょう。

 因みに、朝日は、八月始めに、今度は中国での慰安婦について書き始めました。これからキャンペーンをするつもりなのでしょうか。いい根性ですよね。今度また嘘だったら、朝日の発行部数は百万を切ってしまいますよ。自分の損になり、国を貶めるためだけに、なんでそんな同じパターンの嘘八百を並べるのでしょうか。やっぱり、NHKと同様に外国人に支配されているからなのでしょうか。
 そのうち、南京大虐殺もなかったことが明らかになるでしょう。そのときは、何が何でも朝日を廃刊に追い込まなければなりません。
 いずれにせよ、杉田議員と新潮45は、たとえ非難されるべきことを言っていたとしても、そのレベルは、朝日よりは遙かに罪が軽く、とうてい議員辞職や廃刊を強要されるほどのものではありません。

 さて、名古屋市などで開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」が(右翼かららしい)脅迫によって中止になりました。この催しの問題点は、第一に、慰安婦像(韓国の少女像)を設置したこと、第二に、昭和天皇の御写真を焼いている動画が見えるようになっていることです。
 慰安婦の強制連行がなかったことは、朝日新聞さえ認めています。「私は捏造記者ではありません」と絶叫したかの捏造記者でさえ、それは認めているようです。それを、時あたかも日韓関係が危うくなっているこの時期にまた蒸し返すのは、然るべき魂胆があるからに相違ありません。
 上に述べた言論の自由の観点からすれば、昭和天皇の件はさておき(これは前述のように憲法第1条違反なのですが)、慰安婦像くらいは脅迫のタネにされるようなことではないと思うかも知れません。
 新潮45と杉田水脈氏の責任と、この「あいちトリエンナーレ2019」およびその「芸術監督」の津田大介氏の責任を比較してみましょう。どちらが罪が大きいかは各人の立場によるものですから、私も断言するのは避けましょう。
 しかし、少なくとも、新潮45が廃刊させられなければならないのなら、「あいちトリエンナーレ2019」の中止も当然のことではないでしょうか。「あいちトリエンナーレ2019」を問題視した人々の中には、新潮45の廃刊に反感を持ったことが尾を引いている人も多かっただろうと思います。保守がリベラルに報復したのです。
 2017年に百田尚樹氏の講演会を潰した「一橋事件」が起こりました。その後、香山リカ氏の講演会が潰され、保守派とリベラルの潰し合いが始まりました。今度の、新潮45の廃刊も、「あいちトリエンナーレ2019」の中止も、私はその一環だと思っています。
 すでに昨年、この欄で、暗い予兆を感じると書きましたが、その予感は当たりました。なかんずく、津田大介氏は、一橋事件を起こした在日大学院生と親しいそうです。香山リカ氏は、自分が蒔いた種なのに、「くやしい」と言って笑いものになりましたが、津田氏は今さら見苦しい泣き言を言わないで下さいね。「表現の自由に対する侵害だ」も言わないでください。自分だって似たようなことをしてきたのではありませんか。
 ところで、少なくとも、津田氏が「朝日新聞論壇委員」であることは知っておかなくてはいけませんよ。組織的反日キャンペーンの一環なのです。
 この催しの中止も「言論弾圧」ではあります。しかし、一方的に左派から言論を弾圧してくるのを看過していては、日本国は崩壊してしまいます。報復をしなければいけないのです。韓国の無法な言いがかりに対して、従来の日本は、朝日新聞の説く通りに、「大人の対応」をしてきたために、すっかり馬鹿にされるようになりました。
 今回、ホワイト国問題で、日本は初めて攻勢に出ました。そうしたら、韓国は一気にへたれてしまったではありませんか。
 言論問題も同じです。報復することによって、初めて敵と同じ土俵に立てるのです。敵が言論弾圧をやめるまで、こちらも弾圧を続けましょう。やがて、韓国と同じように、白旗を掲げて来るでしょう。
 それにしても、インタネットの書き込みを見ると、ネトウヨならぬネトパヨの、「百田はレイシストだから講演の中止は当然のことだが、香山はレイシストではないのだから、言論の自由を守られるべきだ」という意見が非常に多いのです。こんな人たちとは議論する余地もありません。民主主義のイロハさえ知らない人たちとどうして意見の交換などすることができるのでしょう。

 さて、もう一度、新潮45の話に戻ります。この「生産性」の一件がなおさら問題になったのは、杉田氏が寄稿した翌月に、小川榮太郎氏が杉田氏を擁護した挙句に、「LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だ」と言い、さらに、「痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか」とまで述べたからでした。

 前述のように、私はホモやレズに共感する所がありますので、前半部分には賛同できませんが、後半部分について言えば、まさしく「我が意を得たり」と喝采しました。
 知己の若者が「右翼の文章は面白いけど、左翼の文章はつまらないですね」と言っていました。そのとおりです。左翼は右顧左眄して発言に気を付けます。ちょっとでも非難されることを恐れて、人と同じことばかり言おうとするのです。
 右派は自分でものを考えて書いたり喋ったりするのですから、内容が面白いのも当然です。「痴漢」は左翼的観点から言えば絶対悪ですが、右翼的観点から見れば、同情すべき余地があるのです。左派は、友達をいじめ殺す中学生高校生のことは、「いじめる方にも人権がある」などと言って庇いますが、私は、そういう若者は、痴漢よりずっとタチが悪いと思っています。しかし、「いじめの方が痴漢よりタチが悪い」と口にすると、激しく糾弾されるのが、偽善に覆われた現代日本なのです。
 極論すれば、「左翼はいじめっこの味方。右翼は痴漢の味方」なのです。この現象、分析すると面白いですよね。

 法律用語で言えば、「心神喪失」は罪を免除され、「心神耗弱」は軽減されることになっています。
 私は、痴漢というのは、許すべからざる犯罪だと思っています(一応)。しかし、同時に、痴漢行為に走る人は、大半が精神的に問題のある人なので、その分は情状酌量をしてやるべきではないかとも思います。
 史上一番残酷な犯罪とまで言われた昭和の綾瀬コンクリート事件(インタネット参照)のとき、朝日新聞は、犯人の少年たちが精神的に追い詰められた状況にあった(嘘だったのですが)ということで情状酌量すべきだと訴えました。情状酌量され過ぎて、早期に出獄した犯人たちは、またまた傷害などの犯罪を繰り返しています。
 コンクリート事件は、性犯罪の極致だったのに、殺人にまで発展したために、リベラルの人たちは、典型的な性犯罪とは違うという意識で、弁護しやすくなったらしいのです。それと、犯人たちが少年だったために、いささか同情的な意見が聞かれました。

 平成の御代の痴漢事件の中で印象に残るのが、第一にはコメディアン上がりの府知事が選挙カーの中で運動員の女性にさわりまくったという事件です。女性は家族が府知事の世話になったという過去があったために、拒絶することができなかったのですから、典型的な権力犯罪です。
 平成のもう一つの痴漢事件は、高名な経済学者が電車の中で痴漢をして、逮捕された事件でした。オズオズと悪事に手を染め、最後のときには手鏡で下から眺めただけだったのですから、府知事の強引な手口に比べれば、数段罪は軽いと思ったのに、なんと府知事には執行猶予がつき、経済学者は実刑になってしまいました。まあ、累犯だったから仕方なかったかなという所はありましたが。
 しかし、この経済学者、最初の事件(その前から何度もやってはいたのですが)で有名大学の教授の座を棒に振り、全国に恥を晒したにもかかわらず、めげずにやり続けたのです。皮肉な知人が、「地位も名誉も捨てて自分の趣味に打ち込んだ人だ」と褒めていました。
 それにしても、地位も名誉も失うことが分かっているのに、どうしてもやめられなかったのですから、これは病気としか言いようがありません。心神喪失や心神耗弱とは違うかも知れませんが、情状を酌量されて、減刑されるべきケースではなかったでしょうか。

 小川氏の「痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか」という言葉はまことに含蓄の深いものがあります。私はなれなれしく女性の肩などに触るという「合法的痴漢」もしないように気を付けています。そういう習慣が身に付くと、止めることができなくなるからです。
 煙草をやめたときの苦労を思い出すと、習慣とは恐ろしいものだと実感できます。痴漢をする人って、どうしてもやめることができないのだろうなと私は同情に堪えないのです。「彼らの触る権利」には流石に苦笑しましたが、軽々に逮捕するよりは、痴漢を一つの病気と見て、カウンセリングなどを活用して善導する必要があるのではないでしょうか。
 小川氏のこの文は社会に対して重大な問題提起をしています。ちょっとは耳を傾けて下さい。
 そして、何よりも、百田一橋事件に始まる不毛の言論の潰し合いを何とかしなければなりません。言論弾圧戦争で被害を受けた左派の代表は香山氏と津田氏です。このお二人、今にして目覚めなかったら知識人とは言えません。左派の自己批判の上に立って、潰し合いはやめようと連名で訴えたらどうでしょう。左派が始めた弾圧なのですから、左派から提案があったら、右派は潔く受けることになりますよ。