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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

  多様性を認める(R2-11-5)


 今回は一見リベラルの主張に副(そ)った所論を述べることになります。本欄の読者の中には、あるいは不愉快に思われる方がいらっしゃるかも知れません。
 それは「LGBT」を認めようということです。
 「LGBT」というのは、lesbian(レズビアン)、 gay(ゲイ/ホモ)、 bisexual(バイセクシャル/両刀使い)、 transgender(性別越境者/性自認と身体的な性が一致していない人)の総称です。

 昨年秋、雑誌「新潮45」が廃刊に追い込まれました。同誌が掲載した杉田水脈さんと小川榮太郎さんの論文が、LGBTを差別しているという理由でした。
 もちろん、これはリベラルの言論封殺の一環です。百田尚樹氏や竹田恒泰氏の講演会を潰している陰謀と根は同じ所から来ています。

 よく読んでみると、杉田氏も小川氏もLGBTを差別しているのではなく、政府や自治体からの過度の優遇などを問題にしているだけです。
 この程度のことを言っていけないとなったら、言論の自由も人権もあったものではありません。杉田氏、小川氏は政治的な意見について、リベラルから目を付けられているので、言われなき誹謗をされたのです。
 リベラルからの中傷に対して、抗議の声を挙げるべきだったのに、「差別者」というレッテル貼りには、新潮社も如何ともしがたく、簡単に屈服してしまいました。
 保守派はあまり声を挙げませんでした。言論の自由を守れなかったのです。

 それはさておき、確かに、保守派の人の中にはLGBTに冷たい目を向ける向きが少なくないようです。
 でも、保守派にだって、LGBTはいます。
 私は、LGBTが悪いものだとは思っていませんので、別段誤解を恐れるわけではありませんが、個人的にはLGBTとは全く無関係です。

 しかし、歴史上の美少年には非常に興味があり、美しいものだと思っています。戦国時代の不破万作のような凛々しい美少年もいいと思いますし、「少年様」と呼ばれた江戸時代の陰間(かげま)のような美童にもそれなりの面白みを感じます。
 念友(ねんゆう/この言葉、ちょっとロマンティック)同士、胸を突き合って死んだ白虎隊の若者にも感動するのです。

 後水尾天皇の同母弟だった近衛信尋(のぶひろ)は、当代随一の美少年と言われていました。まだ幕府の統制の厳しくなかった江戸初期、大名たちは信尋を囲んで酒宴を開き、中には信尋に恋をする者も少なくなかったとのこと。皇室の皇子なのに「近衛」を名乗ったのは、母が近衛家の出身であり、後嗣のいなかった叔父・近衛信尹(のぶただ)の養子になったから。
 このときから、近衛家には皇室のY染色体が入り、「皇別摂家」になりました。現在の近衛宗家(そうけ)のY染色体は細川家のものになっていますが、分家には、旧宮家よりも皇室に近い「即位有資格者」もいるとのこと。

 伝説的美少年の中で、一番面白いのは、男性的でありかつ女性的な「浄瑠璃坂の仇討」(Wikipedia)のヒーローです。始めは学問好きの弱々しい美少年だった奥平源八(おくだいらげんぱち)が、父の仇を討つために、仲間から鍛えられて、四年の臥薪嘗胆の末に、剣の達人へと成長して行くプロセスには涙を誘われます。
 牛込土橋(飯田橋駅前の牛込見附の石垣の近く/JR架橋とは別らしい)の下に落ちた親の仇の奥平隼人(姻戚なので同姓)を、源八が橋の上から槍で突き殺したということですが、このとき源八は十五歳。
 十五歳と言えば、元服の頃ですが、元服して前髪を上げると可愛くなくなってしまうという理由で、美少年の場合は周囲の人たちが少しでも元服式を遅らせようとしたそうです。源八もまだ前髪を付けていました。

 「浄瑠璃坂の仇討」は忠臣蔵の討入の三十年前(一六七二)の出来事(史実)であり、規模も四十人を超えるものだったのに、忠臣蔵の影に隠れてあまり知られていません。もっと顕彰したいものです。大石内蔵助は討入に当たって、この先例を重々研究したと言われています。
 忠臣蔵ほど有名でないのは、全員が切腹した赤穂浪士の場合と違って、源八は流罪で済み、赦免の後ある程度出世したので、悲劇性が薄いからでしょう。
 信憑性には疑問がありますが、源八は討入の時、振袖を着ていたということです。事実、江戸時代には美少年に振袖を着せるのが流行していました。

 これがLGBTのうちの、美しい「G」ですが、これと対比できるような美しい「L」の代表が、芥川賞最年少受賞者・綿矢りさ氏の最新作「生(き)のみ生のままで」です。

 二十五歳の「逢衣(あい)」ちゃんは、彼氏「颯(そう)」と二人で避暑地のホテルに行くのですが、そこで颯の子供の時からの親友「琢磨」に出会います。親友と言ってもしばらく会っていなかった琢磨も彼女と一緒ですが、その女、どこかで見た顔だと思ったら、コマーシャルに出て来る有名な美人タレントなのです。
 ところが、このタレント、「彩夏(さいか)」は如何にもお姫様タイプです。祿に挨拶もしないで、サングラスの奥から、不躾(ぶしつけ)に舐めるような視線を投げて、逢衣ちゃんを観察しています。逢衣ちゃんは最悪の印象を持ちました。二人は同い年です。ついでに、身長も同じ一六八センチに設定されています。

 翌日、海岸まで、四人同じ車で行きましたが、逢衣ちゃんは彩夏の隣に座ることになりました。気を使って話しかけようとすると、「気まずいからって、無理に話しかけることないよ。かえって疲れるでしょ」と冷たくあしらわれる始末。

 カップルで別々に海岸で遊んでから一緒になった帰り道、豪雨に遭遇し、後一歩という所で、車が泥濘(ぬかるみ)に嵌って動けなくなります。男二人が徒歩でホテルに助けを求めに帰ります。女二人は近くにあるホテルの無人施設で、屋根とテーブルとベンチだけのテラスに避難します。
 何度も何度もひどい雷が落ちます。あのクールな彩夏が、異様に雷に怯えます。祖父が雷に打たれて死んだということで、自分もきっとそれで死ぬと思い込んでいるのです。
 綿矢文学のヒロインは、だいたい「世話焼き」という共通点があって、同性に慕われるのですが、逢衣ちゃんもそれ。
 震えている彩夏を抱きしめてやります。彩夏は縋り付いて来ます。

 そうやって二人は仲よくなり、分かれる時にはメールアドレスを教えられ、しかも、その場で逢衣ちゃんのスマホからメールを送らせます。
 東京へ帰ってからは二人だけで食事をする仲になります。彩夏のマンションへも招待されます。事務所が用意してくれたタレント用の豪華なマンションです。

 まもなく、彩夏が琢磨に「愛する人ができたからあなたとは別れたい」と言い出したというニュースを、颯が教えてくれます。
 逢衣ちゃんはまた彩夏を訪ねます。
 「どんな人を好きになったの?」と訊いても教えてくれません。ところが、ベッドのある部屋でお話していると、逢衣ちゃんは彩夏に襲われます。いきなりキスされたのです。逢衣ちゃんは怒って彩夏を突き飛ばし、「同性でも同意なしに性的なことをするのは犯罪なんだよ。今度やったら警察に突き出すからね」と叱ります。
 叱りながら、自分で不思議に思います。いやだったらもうここに来なければいいのに、「今度やったら」と言ったのは、こんなことされても、まだここに来たいと思っているんだ、と我ながら分けが分かりません。

 彩夏は初対面の時、電気に打たれたように恋に落ちてしまったとのこと。一目見てあんまり好きになったので、茫然として、挨拶も碌々できなかったのだと弁明します。
 あなたを愛してしまったから、もう琢磨とは別れるしかないというのです。
 もう一度キスされた逢衣ちゃんは、今度は抵抗できませんでした。

 こうやって二人は友達でなく恋人になり、やがて濃厚なラブシーンへと発展します。
 まもなく逢衣ちゃんも一生彩夏と暮らしたいと決心し、颯に別れてくれと頼みました。
 こうなってしまったら、もう仕方がないということで、四人でお別れ会を催します。

 そのうち、二人の仲がマスコミに漏れてしまいました。彩夏は有名人ですから、大スキャンダル記事が出てしまいそうです。彩夏のキャリアの危機が訪れます。事務所からは莫大な賠償金を仄めかす恫喝を受けます。
 逢衣ちゃんは、彩夏の将来を思って、別れる決意をし、事務所に、「ただし、彩夏が十分事務所に尽くした後になったら、また交際を許して欲しい」と注文を付け、もう会わないという約束をします。引替に事務所は週刊誌に交渉して、スキャンダル記事を揉み消してくれます。

 そして、お別れの一回だけということで、マンションを訪ね、好意的な女性マネージャーの暗黙の了解を得て、最後の熱烈なベッドシーンが展開されます。なるほど、レズって、こうやって愛し合うのかと納得できる激しいシーンです。濃厚すぎるくらい濃厚なのですが、どういうわけか清潔感に溢れています。
 性愛って、男がいないと清潔なのかな、と思いました。でも、美少年も爽やかですから、男そのものが不潔なわけではなく、男と女がいっしょになると、科学反応が起こって、水質が汚濁してしまうのかも知れません。

 そして、七年が経ちます。彩夏は芸能人として成功を収めています。逢衣ちゃんは別れる前に彩夏が紹介してくれた出版社でキャリアを積んで行きます。
 しかし、芸能ニュースを見ていると、彩夏が病気になっている様子が報道され始めました。逢衣ちゃんは彩夏に手紙を書きますが、返事は来ません。

 ところが突然、彩夏の母親から手紙が来ます。彩夏が精神的に不安定になって、実家に帰っているが、もう面倒を見切れないから、あなたが引き取ってくれというのです。無責任な母親の描き方が見事な筆致です。彩夏は、今でもあなたを慕っているから、あなた以外には頼めないというのです。
 逢衣ちゃんは彩夏の実家を訪ねて行きます。実家と言っても、マンションに母子二人で暮らしているのでした。父親は子供の時に出て行ってしまいました。七年ぶりに会った彩夏は「南里さんには関係のないことです。今すぐ帰って下さい」と冷たい反応です。逢衣ちゃんに捨てられたと思って怨んでいるのです。

 日を改めて訪問した逢衣ちゃんは、「あなたはもう、事務所からもお母さんからも捨てられてしまったの。私と暮らすしか生きて行く道はないんだよ」と説得します。彩夏はボーッとした様子で、「もうどうでもいいや」と言って、車椅子に乗り、逢衣ちゃんの言うがままに、東京に帰ります。逢衣ちゃんは溜めた金をつぎ込んで、二人が最初に愛し合ったマンションを借りて、彩夏を迎えるための準備をしていました。
 逢衣ちゃんの献身のおかげで、彩夏は肉体的にも精神的にも立ち直り、また芸能活動ができるようになります。

 別れる時の彩夏のお母さんのセリフ。「この子が死にそうになったら連絡してね。あんた。遺産を独り占めしようなんて思うんじゃないよ」。

 あとは一気にハッピーエンドに向かいます。ふたりでハワイへも行きます。
 そして、最後は観音崎の灯台で、二人だけの結婚式を行います。
 誰もいない展望台から、美しい海を見下ろしながら、逢衣ちゃんは「私は荘田彩夏を一生妻として愛することを誓います」と叫びます。彩夏も同じことを叫びますが、私は、彩夏は「妻として」じゃなくて、「夫として」と言うのかと思って読んでいました。でも、彩夏も同じく「私は南里逢衣を一生妻として愛することを誓います」と叫んだのでした。

 私はレズビアン小説はあまり読んだことがありませんが、なんと綺麗な夢物語のような純愛小説かと感銘を受けました。
 レズビアンというと、男役と女役に別れて模擬男女みたいな愛し方をするのだとばかり思っていましたが、この二人は、どちらも優雅な女性なので、お花畑で美少女が二人、花を摘んでいるような綺麗な雰囲気が最後まで続きます。だからこそ、タワーの上から、二人とも「一生妻として」と叫んだのです。

 何よりも感動的だったのが、男女の恋愛よりも純粋な誠実さにあふれていることです。女同士の愛ばかりでなく、男同士の愛にもそれを感じます。戦国の武将や江戸の大名に愛された美少年は、真心の塊(かたまり)になって、殿様に命を捧げますが、それを連想させるようなストーリーでした。

 昭和五十七年(一九八二)の大河ドラマ「峠の群像」では、郷ひろみが片岡源五右衛門(げんごえもん)を演じました。浅野内匠頭の短慮から刃傷に至ったことを「殿の無調法だ」と言います。しかし、殿に非があったことを認めた上で、「殿の気持を思ってもみろ」と言うのです。吉良が悪くなくても、復讐はするんだと誓うのです。
 郷ひろみの演技が素晴らしいと思いました。どうしてこの人、俳優として大成できなかったのでしょう。最初の奥さんが悪かったのでしょうか。本木雅弘の昭和天皇と並ぶ名演技でした。
 片岡源五右衛門は浅野内匠頭と同い年です。三十台半ばになっていますから(美少年の花の盛りは十七八まで。どうかすると元服まで)、肉体を愛されることはないのですが、いったん主君に愛されたからには、命を棄てて仕える決意を持っています。そして、自分の容色が衰えたのを知ると、別の美少年を殿に紹介します。それが磯貝十郎左衛門。磯貝は二十歳くらいです。

 刃傷の後、大石内蔵助を中心にして、「恭順論」「籠城論」「殉死論」などと藩士たちの意見は分かれますが、片岡と磯貝と田中貞四郎(これは後に脱落してしまいます)は、「我々は特別だから」と言って、三人だけでも討入をすると言い張ります。
 「我々は特別だから」というのは威張って言っているのではありません。むしろ寵童は、他の武士たちから軽蔑されている所があるのですから。単に、特別の関係を結んだからには、もう選択肢はないと言っているのです。

 この美しい忠義はホモ(gay)の関係から生じるのです。いや、現実にはホモでなくても、忠義というものはすべて「疑似ホモ」から出ていると言えなくはありません。忠義とは「究極のマゾヒズム」だと言った人がいました。
 馬鹿馬鹿しいと言われるでしょうが、私はホモとかレズとかは崇高な存在ではないかと思っています。特にレズの場合が分かりやすいのですが、彼女たちは「汝の敵を愛せ」を実践しているのですから。

 私は若い頃から、ホモセクシャルは保守的概念かと思っていたのですが、最近、保守派の中に、LGBTのようなノーマルな状態から外れた嗜好を排斥する人が少なくないのを残念に思っています。

 私が好きな純粋保守の精神的特徴があります。ここが保守の保守たる所以(ゆえん)で、リベラルには理解しがたいものです。それは「多様性を認める」ことなのです。
 平成二十九年(二〇一七)の衆議院選挙の際に、秋葉原駅前で安倍首相の演説に対して、ひどい集団野次が飛ばされ、安倍首相が「こんな人たちに負けるわけには行かないんです」と叫びました。「こんな人たち」が野次を飛ばした人たちを指していたのは明らかだったのに、マスコミはみんな「有権者・国民を相手にしない」という意味だと故意の誤解をして安倍叩きに利用しました。
 このとき、コメンテイターの高木美保氏が「政治家・総理として多様性を軽んじている!悲しい!」と言いました。私が尊敬する知己の六十代女性がこれを評して、「多様性を軽んじているのは自分じゃないの」と笑いました。

 高木美保さんだけではありません。テレビ局という所は、学者を招待して意見を述べさせる場合でも、局の方針に副った意見の持主しか呼びません。(学術会議なんてそんなのばかり)
 多様性を認めない例としてこれ以上のものがあるでしょうか。
 朝日新聞が学者にコメントさせる場合もひどい。正面切って朝日の社是に反対する意見を朝日の紙面で見たことはありません。慰安婦問題の池上彰さんも、一回は切られてしまったのを憶えていらっしゃいますよね。

 六月(2020)の「横田家記者会見」の一番大事な部分を、全マスコミがカットしてしまったのは、多様性を認めない例の最たるものです。
(https://matome.naver.jp/odai/2159169523853673401)
 「多様性を認めよ」という最近のスローガンはリベラルが好んで使っていますが、実はリベラルが一番、多様性を撲滅しようと言論封殺を図っているのではありませんか。

 特に私が、「リベラルは多様性を認めない」の例として挙げたいのは、MeToo運動に始まる性的な抑圧です。
 20世紀のうちは、性的に奔放なのは左派でした。
 そもそも、戦後、自由に性的表現をすべきだと言い出したのは左派だったのです。昭和三十年代後半、朝日新聞に連載されていた石坂洋次郎氏の「光る海」では、初対面の女性の胸を「ツンツン」と指で突くのが進歩的な態度だと好意的に描かれています。
 そして、石坂氏は日本社会党支持であることを公言していました。

 まだリベラルという言葉はありませんでしたが(「リベラル左派」という言葉があったように記憶しています)、当時の左翼、あるいは「進歩的文化人」というのは、今で言えばまさしくリベラルでした。そんなリベラルの象徴的存在だった大橋巨泉氏を覚えていますか。この人がセクハラの元祖だったことには異を立てる人はいないでしょう。
 おまけにパワハラもひどく、テレビのバラエティ番組で、共演者を「おまえ」と呼んでいたのを思い出します。

 リベラルの性表現に対する態度について、はっきり記憶に残っている番組があります。
 一九九〇年代だったようです。「ヘアヌードの解禁」について、関口宏氏が数人の識者を集めて、座談会風の番組を司会していました。
 ヘアヌードを規制するな。未成年者に見せたっていいじゃないか、という主題でした。このときの手口が如何にも今のリベラルと同じで、「問題のすりかえ」によって視聴者を騙そうというものでした。
 なるほど関口氏って、昔からこうだったんだ。

 関口氏は、出産場面を写した科学映画を見せ、「こんな真面目な映画でも、ヘアが映っているというだけで、公開できないんですからね」と訴えたのです。
 ヘアの映っている動画が科学映画であることは極めて稀でしょう。例として持って来た映画が、極めて例外的な作品だったのです。典型的なポルノだったら、視聴者の反応は全く違っていたはずです。それをあえて科学映画で代用したというのは、明らかな誘導尋問です。

 関口宏氏の息子は、NHKの「チベット鉄道の旅」のレポーターとして、チベット侵略のための鉄道を、チベットの人々を幸せにする素晴らしい施設ができたと言って絶讃したことがあります。
 それと似たような、事実を隠蔽する策略なのです。この親子だけでなく、リベラルはみんなこの手を使います。みなさん、どうして騙されるのですか。

 さて、このヘア解禁の番組ですが、パネリストだった藤本統紀子氏が「おおらかに、おおらかに」と繰り返していたのを覚えています。性的な表現は自由であるべきだ。些細なことに目鯨を立てるな、と言っていたのです。
 関口氏も藤本氏も、リベラルですから、今ではすっかり変節しています。ほんの些細なことでも、セクハラまがいの発言があったら徹底的に糾弾せよという方に与(くみ)しているのです。
 それにしても、20世紀のリベラルが、現在ならセクハラに当たる行為を弁護していた時の常套句が「おおらかに、おおらかに」だったんですよね。

 一昨年の福田元財務次官のセクハラは、どんな発言をしたか知っていますか。そのままに言うと露骨だからでしょうか、ほとんど報道されませんが、最大の問題発言は「おっぱい、触っていい?」だったそうです。英訳するときは、Can I occupy your occupies?と言って下さい。
 この程度のことは、つい二十年前には「おおらか」な発言だからということで、さほどの問題になることはなかったのです。そして、関口氏や藤本氏や巨泉氏や大島渚氏や野末陳平氏や野坂昭如氏のような進歩的な人が、むしろそういう自由な発言を支持するような世の中だったのです。
 リベラルの、この「手のひら返し」には愕然としますよね。

 野坂昭如氏なんかは、今生きていらっしゃったら、最近のセクハラ糾弾の風潮に批判的になって下さったのではないかと思います。関口氏や巨泉氏と同断に論ずるべき人ではなかったでしょう。自分の考えのある人でしたからね。野末氏は駄目。媚中のために信念を曲げる発言をしていましたから。

 リベラルの人々全体が、20世紀には「自由に性的な行動や発言をすべきだ」と主張していたのに、21世紀になって、米国からMeToo運動が入って来ると、俄かに「女性に性的なジョークを言ってはいけない」と豹変したのです。
 極端から極端へ走ったのですが、「どんどんやれ」と言っていた時期にも、「してはいけない」と変わった後もどっちも、反対意見はおろか、中間的な意見も許さない独裁的思想統制をしています。なるほど、なるほど。リベラルは「多様性を認めない」という点で一貫性があると言えそうです。

 中川淳一郎氏は「ユーミン騒動」に関連して、「リベラルがまったく寛容性を持たない」ことを歎いていますが、この「寛容性」は「多様性」と言い換えても大差ないでしょう。
 (https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0908/sgk_200908_9520138264.html)

 リベラルはブーメランで自滅することが多いのですが、保守派がそれを利用して、リベラルにブーメランをお返しできそうな二つの言葉が、最近では「忖度」と「多様性」です。
 モリカケ問題で役人が安倍首相の意向を忖度しているということから流行した「忖度」なのですが、現実には、リベラルが中国・韓国・北朝鮮・朝日新聞を「忖度」して、どんどん反日に流れて行くことを揶揄するために使えそうです。
 そして、独断的な意見に凝り固まったリベラルの「多様性」のなさを保守派は攻撃できそうです。

 戦争に負けて、天皇が神でなくなってしまった時から、日本人は誠実さを失ったのではないでしょうか。あれほど崇拝していた存在を、「もう民主主義なんだから、俺たちと同じ人間なんだ」とは、真心を持った人間なら言うことのできるセリフではありません。

 立憲民主党は内心では天皇制打倒を目指しているくせに、「皇位の安定的継承のために女系天皇を認めよう」と言います。
 これは余りにも「論理的誠実さ」を欠いた言い方ではないでしょうか。「皇位の安定的継承」などを望んでいるはずがありません。蓮舫氏が投げたブーメランのとおり、リベラルは「息をするように嘘をつく」のです。
 そして、保守派もその矛盾を指摘することがありません。論理の一貫性とか、論理的誠実さというものが存在価値を失ってしまったからでしょう。

 我々保守派は、卑劣なリベラルの偽善を見抜き、その論理的な矛盾と戦わなければなりません。
 そのために、日本国に誠実さというものを取り戻し、多様性に寛大な国を作りたいと思うのです。

 保守派こそ実は多様性を涵養しようと努力している勢力であり、またそうでなければならないのです。
 真の民主主義を守ろうというのが保守派なのです。
 ただ、そのような保守派の中に、LGBTなど個々の問題については、少しばかり頑固になる人のいるのが残念です。

 綿矢りさ氏は政治的な意見はほとんど言っていらっしゃいません。小説家がすぐにリベラルに変わってしまうこの時代に、政治に喙(くちばし)を容れないでいられるというのは毅然とした人生観と知性を持っているからです。

 検察庁法改正に反対のハッシュタグを流した芸能人が、芸能人の中でも特に知性の低い人たちばかりだったことを思い出して下さい。
 あるアイドルは、このツイッターをした後で、「元ヤンキーでも、馬鹿じゃないんだよ」と付け加えました。語るに落ちるとはこのことで、知的劣等感に苛(さいな)まれて、自分を少しでも知的に見せようと悪あがきをしていることがよく分かります。
 それに対して、冷静な知性を持つ、こういう文学者の世界を大事にして差し上げたいものです。
 一部の保守派が性的に頑迷な態度を取ると、綿矢氏のような健全な知識人をリベラルの方へ追いやってしまう危険があります。
 性的な多様性を許容しましょう。
 その第一歩としてLGBTに寛大になってみませんか。一言言っておきたいのですが、「他人の性的嗜好に四の五のケチをつけるのは見苦しいですよ。そんなこと、どうだっていいじゃありませんか」。同性愛がふえたからって、人口統計学にかかわる大問題が生ずるわけではないのです。

 まずは、「生のみ生のままで」をお読みになるようにお勧めします。人間がどこまで誠実になれるかを描いた人生小説なのです。