大学受験のための歴史の教科書で、今も昔も一番人気のあるのは、山川出版社の「詳説日本史」「詳説世界史」です。
古い本は手に入りませんが、記憶に頼って言えば、私の若い頃のものとは多少内容が変わっているようです。政治的にはあんまり偏りのない教科書だと言われますが、我々保守派から見れば、あの頃の版はやはりある程度は反日だったでしょう。
この教科書の副読本のような形で、同社から発行されている参考書に、「詳説日本史研究」「詳説世界史研究」があります。これも確か、昔から出ていたようです。
日本史の方ですが、私の記憶によれば、五十年前には、「教科書(詳説日本史)は比較的公平なのに、参考書(詳説日本史研究)はひどい偏向をしている」と思った記憶があります。
その「詳説日本史研究」。最近のものは、明らかに全面的な改変が行われています。
文脈から外れたコラム風の小さな活字の部分には、【満州事変と国内世論】と題して、こんな記事が掲載されています。(▼から▲までが引用部分)
▼リットン報告書が公表されると、新聞はいずれも満州国を認めないような提案は断じて受け入れられない、として国際連盟脱退の機運を盛りあげた。元外相の幣原喜重郎はこうした新聞論調を「偏狭なる排外思想」と批判したが、このような新聞などのジャーナリズムの活動を通じて、政府の協調外交路線は世論の支持を失い、日本は戦争への道を進むことになったのである。▲
剰(あまっさ)え、囲み記事には「東京朝日新聞」の記事が転載されています。
▼禍の基(もと)は理も非も無く、何ものをも打倒せずんばやまないとする支那側の増上慢であって、今日まで事なきを得たのは、日本の辛抱強い我慢のためであった。▲
昔私が慨嘆した古い「詳説日本史研究」からは一八〇度方向転換して、極めてまっとうな歴史認識を表明しています。「思い半ばに過ぎる」という表現は、ちょっとキザに思われて、私は使ったことがなかったのですが、この際、「教科書が朝日批判をすることができるようになったのを見ると、思い半ばに過ぎるものがある」と言って、正しい使い方になるのでしょうか。
因みに、朝日は戦争を煽った件について、「軍部に恫喝されてやむなく屈服した」と反省していますが、コンクリート事件の共犯が、「主犯が怖かったからやむなく同調した」と言っているようなものです。
昭和に入った頃には、新聞の発行部数のランキングは「毎日・読売・朝日」の順でした。ところが、戦争が始まる時期には朝日がトップに躍り出ていました。戦争を煽る記事が国民に受けたからです。
朝日にとって、戦争とは「究極の甲子園」だったのです。戦争になれば発行部数が伸びる。それが狙いだったのです。私は常々「太平洋戦争の真の原因は朝日新聞の部数拡大の隠謀にあった」と主張しています。
コンクリート事件の共犯は、自分の欲望のために犯行に加担したのです。
朝日新聞が「慰安婦報道」を始めたのと、日本史の教科書が検定によって、「侵略を進出」と書き換えさせられた(その後書き換えさせられた事実はなかったと判明した)というのと、ほぼ同じ時期だったように思います。朝日新聞大阪本社の清田治史(はるひと)が吉田清治を世に出したのは昭和五十七年(一九八二)のことでした。
話は違いますが、この二人の名前の不気味な暗合は、何か呪いがかかっているとしか思えません。
ちなみにソ連がアフガニスタンに侵攻したのも、ほぼこの時期の昭和五十四年(一九七九)でしたが、朝日に限らず、どのマスコミも、ソ連のアフガニスタン侵攻を決して「侵略」とは書きませんでした。これ以上侵略性の強い事件は終戦直後のドサクサ(東欧やチベット)を除けば、戦後他にはなかったと思うのですが。
リベラルは、日本は侵略をしたが、ソ連はしていないと強弁したのです。そして、教科書検定に反対しながら、その後、保守派教科書を目して、「検定で不合格にせよ」という途方もない二律背反のキャンペーンを行ったことがありました。
二十世紀のうちでしたら、戦前の朝日の戦争を煽る記事を転載などした教科書は、徹底的な弾圧の標的にされていたに違いありません。
公然たる朝日批判がいつから許されるようになったのでしょう。
第一のきっかけは、平成十四年(二〇〇二)金正日が拉致を認めた時点でした。朝日を初めとするリベラル勢力が、あんなに讃美し、あんなに弁護していた北朝鮮が、実は犯罪国家だったということが分かったのですから、そりゃあ国民も目が覚めたでしょうよ。
そして、言うまでもなく、平成二十六年(二〇一四)八月五日、朝日がついに、慰安婦報道を「捏造とは認めなかったが誤報だとは認めた」ことによってとどめを刺されたのでした。
私は個人的にこの日を「八・〇五」と呼んでいます。日本の政治史・思想史の大転換点だったのではないでしょうか。
余談になりますが、朝日がこの日を選んだ経緯を私は臆測してみました。
朝日は天敵と言われる週刊文春と週刊新潮を恐れていました。どちらも発行日は木曜です。月曜(八月五日)に誤報を認める発表をすれば、その週の木曜(八月八日)の両誌には間に合いません。そして、その翌週は両誌とも、お盆休みで休刊になります。朝日の発表が両誌に掲載されるのは八月二十二日の木曜になるのです。十七日も間があります。
つまり、一年のうちで一番取り上げられるのが遅くなるタイミングだったのです。その間にほとぼりが冷めて、朝日の失態を弾劾するにも効果が減るのではないかと期待したのでしょう。
さすがは朝日。その深慮遠謀は讃歎すべきものがあります。(このくらい誰でも思いつくかな)
ちょうどこの平成二十六年の二年前に、自民党が民主党から政権を奪い返したばかりでした。その後、民主党は凋落し、リベラル政権は永遠に夢物語となってしまいましたが、その責任の一端は、朝日が間違いを認めたせいで、国民がリベラルは信用できないと思うようになった所にあるのではないでしょうか。
ところが、私の右の話、ちょっと間違いがあります。前から草案を書いていたので、まずは修正しないで書いておきましたが、今回この文を書くに当たって調べてみたら気づきました。「詳説日本史研究」の奥付を見ると、最新で「1999年4月5日 第3刷発行」となっています。えええッ、慰安婦誤報を認めたより十五年も前、金正日が拉致を認めたよりも三年も前に、こんな参考書が出ていたのです。(その後改訂があったかも知れませんが)
教科書でなく参考書ですから、多少は自由が利くでしょうが、教科書を出している出版社ですから、朝日に睨まれたくはなかったでしょう。でも、以前だったらできなかったことでも、拉致の話がだんだんと本当だったと分かってきた時期だったから、もう朝日を批判しても大丈夫だと判断したのでしょう。
それにしても、マスコミとリベラルによる言論弾圧はすさまじいものがあります。両者が提携して言論の自由を弾圧しているのです。リーダーシップを取っているのは朝日新聞だと言っても過言ではないでしょう。
最近、言論の危機が高まってきたのは、平成二十九年(二〇一七)の「百田一橋事件」からでした。(https://ironna.jp/article/6755)
百田尚樹氏が一橋大学で講演をしようとした所、リベラルの団体が「百田氏はレイシスト(人種差別主義者)だから講演をさせるな」と言い出し、主催者側に暴力的な恫喝を加えて潰してしまった事件です。
右派がこれに対抗する報復措置を取りました。その後、典型的リベラルの香山リカ氏が脅迫によって何度も講演会を潰されました。
報復合戦が繰り返され、講演会潰しが続きました。言論の自由は空しくなったのです。
百田一橋事件のとき、小林よしのり氏は、「真の言論弾圧とは、権力が民間人の言論を弾圧することを言う。民間人の批判や圧力で、講演会が中止に追い込まれる場合は、主催した奴らが腰抜けだったということに過ぎない」と評しました。
小林氏は慰安婦報道に関して朝日新聞を叩いた大の功労者です。私は高く評価していたのですが、この評は受け入れがたいものがありました。(氏が変節したと言って攻撃する人もいますが、今でも言うべきことをきちんと言っている例はあります。山尾志桜里さんが右旋回したのが小林さんの影響だったら高く評価したいと思います)
「言論弾圧」の定義が問題になっているのではありません。現実に言論の自由に対して、どの程度の脅威を与えているかが問題なのではありませんか。小林氏は「主催者が腰抜け」だったと言いますが、女子学生が泣き出すほどの恫喝を受けたのです。強行すれば怪我人が出たかも知れません。中止したのは責任者としてやむを得ない判断でした。小林氏に申し上げますが、加害者を放置して、被害者を攻撃するとはどう捏ねても理窟は成り立ちません。
「民間人の批判や圧力」は言論弾圧ではないと小林氏は言いますが、それでは朝日新聞が慰安婦問題について、一方的な報道を垂れ流して、知らせる義務を果たさなかったことも看過していいと言うのでしょうか。朝日新聞は国家権力ではないからという理由で、言論に圧力をかけることが許されるべきでしょうか。
現に朝日は慰安婦の強制連行がなかったと主張した人たちに対して、甚だしい誹謗中傷を繰り返しました。朝日が叩き漏らした人は、他のリベラルメディアが叩きました。小林氏もその被害を受けたはずです。弾圧とは感じなかったのですか。
なるほど、リベラルの干渉は国家権力の弾圧とは若干ニュアンスが違っているとは言えるでしょう。実態は同じなのですが、まあ、語感からすれば、リベラルからの攻撃は「弾圧」という用語にはそぐわないかも知れません。
そこで、私は、このような言論に対する干渉を「言論封殺」と呼ぶことを提案します。(私の独創ではなく、すでにそういう呼び方もあるようですが) 講演会潰しも、「報道しない自由の行使」(私はこれにthroughism〈スルーイズム〉と命名してみました)も、「報道管制」も「言論封殺」に含まれると言えば、ぴったりした使い方ではあるませんか。
言論封殺の最近の顕著な例は、「横田家記者会見」です。これは言論封殺の中でも、典型的な「報道管制」の例でしょう。
六月(2020)に横田滋氏が亡くなり、その直後に、早紀江氏および拓也氏と哲也氏(めぐみさんの双子の弟)が記者会見を行いました。このとき、二人の弟さんがマスコミとリベラルに対して、辛辣な批判をしました。(https://herewe5.xyz/2020/06/15/post-1927/)
なんと、哲也氏は、「四十年以上も何もしてこなかった政治家や、『北朝鮮なんて拉致などするはずないでしょ』と言ってきたメディアがあったから、ここまで安倍総理・安倍政権が苦しんでいるんです」と言ったのです。
この言葉、心ある国民が何十年にも亘って抱いていた憤懣を見事に表現してくれたものでした。特に、名指しに近い形で青木理氏(関口宏氏の盟友)を批判した件(くだり)は、洵に「我が意を得たり」と思わせてくれました。
この記者会見が行われたことは、新聞もテレビもみんな報道したのですが、一番重要な「マスコミ・リベラル批判」の部分については、どのメディアも完璧な「報道しない自由」を行使しました。
さらに、これに関連して、改めて驚かされることがありました。
まず第一に、産経新聞も週刊文春も週刊新潮も、この件を報道しなかったのです。いずれも、朝日の対極にあると思われるメディアなのですから、徹底的なキャンペーンをして、マスコミ・リベラル批判を展開してくれるだろうと思ったのに、不気味な沈黙を保ったのです。
この言論の闇の背景に何があったのだろうと不思議でなりません。インタネットをいくら繰ってみても、真相は明らかになりません。産經の阿比留瑠比氏のご意見を伺いたいと思っています。
第二に、リベラルマスコミのこのスルーイズムが見事に功を奏していることです。私の知人に数人、社会的地位の高い保守派知識人がいます。中には痛烈なリベラル批判を発表している人もいます。ところが、七月から九月頃までの間に、その数人にこの話をぶつけてみたところ、全員が、哲也氏がそういう発言をしたことを全く知らなかったのです。
リベラルとマスコミの「情報管理」「印象操作」は成功しています。安倍前首相は「インタネットがなかったら、僕はとっくの昔につぶされてしまっていただろう」と言いました。まことに、テレビと新聞だけが情報を仕切っていた時代は終焉を迎えようとしているように思われます。しかるに、一方では「横田家記者会見」に見られるように、言論界旧勢力(リベラル)の根強い抵抗が民主主義撲滅への道を開こうとしているのです。
今日本は重大な岐路に立っています。中国の属国にされてしまうのか。皇統護持に失敗して民族のアイデンティティを失うのか。英語が公用語になって日本語が堕落してしまうのか。みんなこの十年くらいで決着が付きそうな恐ろしい問題に直面しています。
もう少し待てば、情報が完全に公開される社会になり、リベラルマスコミの思想統制の力は弱まると私は見ています。途方もない無理難題をふっかける韓国に対して、世論が冷たい態度を取るようになったのはその兆候です。しかし、その前に、取り返しのつかない変革が起こってしまうのではないかと私は憂慮しています。この十年が勝負なのではないでしょうか。
リベラルメディアの支持基盤は中高年女性です。私は中高年女性と話す機会を持つたびに、インタネットを勧めています。「お金がかかるから」と二の足を踏む方には、「新聞取るのやめなさい。テレビを棄てなさい。NHKの集金人を追い返しなさい。そうすれば、インタネットの費用くらい浮きますよ」と言っています。今度テレビが壊れたら、もう買うのやめて下さいね。
大河ドラマだって、インタネットで見られるようになっています。見るのが難しいのはワイドショーくらいのものです。主婦のみなさん、ワイドショーで、関口宏や玉川徹や安藤優子の話を聞いて、何が面白いのですか。何か教養が付くとでも思っていらっしゃるのでしょうか。
そして、マスコミのバイアスのかかった報道を批判できるようになって下さい。
「山口敬之と伊藤詩織」の事件はご存じでしょう。(知らなかったらWikipedia)
実は私は山口氏と伊藤氏の両方のファンなのです。山口氏は前からインタネットでご意見を拝聴するのが好きでした。伊藤氏は一目お姿を拝見したら、あまりのお美しさに、たちまちPC(インタネット)の前で土下座をしてしまいました。この事件は本当に「藪の中」というのがぴったりの案件です。どちらかと言えば、山口氏の言っている方が真実に近いと思っていますが、そのことには今日は触れません。
マスコミは、伊藤氏を殉教者に仕立て上げ、山口氏を横山ノックのような悪人として描き出しています。中立(?)の私の立場から見て、あまりにも一方的な報道をしています。伊藤氏を守ろうというグループは、立憲民主党のようないかがわしい団体ばかりです。
一方、「柳原病院事件」別名「譫妄(せんもう)事件」というのをご存じでしょうか。インタネットを見て下されば概要は分かるはずです。乳腺外科の医師が患者の意識混濁に乗じて裸の胸を舐めたという事件です。平成二十八年(二〇一六)に起こった事件ですが、事件現場の病院が民医連(共産党関係)に属する病院だったので、リベラルが大騒ぎで医師を弁護しました。
つねづね性犯罪について、「セカンドレイプがあってはならない」というのがリベラルの主張です。しかるに、「柳原病院事件」では、リベラルがセカンドレイプのし放題です。被害者は真面目な女性なのに、リベラルは共産党関係の加害者を弁護するために、性的に問題のある女性だと言い募ったのです。典型的なダブスタです。
去年(2019)、地裁で無罪判決が出ましたが、今年になって高裁で逆転有罪判決が出ました。
ところで、「ダブスタ(double standard)」と「おためごかし」と「二律背反」と「片手落ち」はほぼ同義語ですからね。最後の用語を使うと叱られることがありますが。
また「おまゆう(おまえが言うか)」と「ブーメラン」も意味がかぶります。実例は蓮舫氏が安倍前首相に向かって言った「息をするように嘘をつく」です。
この柳原病院事件、典型的な「弁護側もほんとはやっていると知っているのに、立場上無罪を主張した」ケースです。「偽冤罪事件」と呼ぶべきでしょうか。
面白いのが、この事件に関する一般人の書き込みです。
去年、一審判決が出る頃には、「2ちゃんねる」や「5ちゃんねる」を初めとする書き込みは、九割方が医師弁護論でした。ところが、だんだんと情勢が変わって、女性弁護論が多くなり、現在二審判決が出た後では、逆に九割方が「ほんとはやってる」となりました。
(https://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1472105787/318-n)
世論は今やみんな女性の味方になりましたが、インタネットの医学関係者のブログなどでは、医師弁護論が圧倒的な多数を占めています。そして、実は医師はみんな、心底では「ほんとはやってる」と思っているのです。
インタネットで、「YouTube Hiro Channel 柳原病院」と打ち込んで、「動画」にしてみると、病院側の裏工作の疑いを綿密に検証しています。これを見れば、他の事件に関しても、リベラルがどんな細工をしているかが連想されます。
医師がみんな身内を庇おうとする異様な事態になっています。こんな正義が蹂躙される事件は滅多にありません。この件では、私は、日本中の医師たちに猛省を促したいと思います。医師が医師の不正を暴いてなぜいけないのですか。
リベラルは「原子力ムラ」のかばい合いを非難しますが、この医師たちの手口はそれとは比較にならないような犯罪隠蔽工作です。
リベラルは、伊藤詩織氏の切々とした訴えを真実の声だと信じました。ところが、柳原病院事件の被害者のことは、無実の医師を陥れようとするとんでもない女性だと誹謗するのです。
私は伊藤詩織氏の崇拝者ですから、この方を悪く言うつもりはありません。ただ藪の中の事件だから、リベラルの言うように、一方的に山口氏を叩くのはおかしいのではないかと言っているのです。
それに対して、状況証拠から見て、柳原病院事件の医師は間違いなくやっています。これをしもリベラルは強弁によって冤罪だと叫び、被害女性の切々たる訴えを「譫妄(手術後の妄想状態)のせいだ」と言って相手にしません。
被害女性の訴えは下のURLで見て下さい。
(https://www.jprime.jp/articles/-/14933)
妄想だと言って斥けるリベラルのダブスタには惘(あき)れるばかりです。
この事件を新聞は無視しました。どうも本当はやっていそうだから、反権力闘争に役立ちそうにないと見限ったのでしょう。
逆にインタネットで言論封殺が行われていました。
さきほど述べたことと矛盾するようですが、インタネットは必ずしも右派に乗っ取られているのではありません。インタネットでマスコミに反対の意見を述べる人たちは「ネトウヨ」と呼ばれますが、それと並んで結構、左派が強硬な意見を述べ、朝日新聞風の言論封殺を試みるのです。これを私は「ネトパヨ」と命名しました。
よきにつけ、あしきにつけ、インタネットには右から左までいろんな意見が載っているのです。その中から取捨選択して、自分が正しいと思う意見を採用すればいいのです。ところが、新聞やテレビの場合は、一方的な意見を絶対の正義として押しつけるのですから、個人が一人一人、独立した意見を形成する機会が奪われてしまいます。だから、新聞やテレビをやめてインタネットに頼るべきだと私は言うのです。
伊藤・山口事件に触発されて、自民党の杉田水脈氏が「女はいくらでも嘘をつけるから」と発言して物議を醸しています。これが女性差別だということで、杉田氏はリベラルからの集中砲火を浴びています。
しかし、譫妄事件の被害女性は、リベラルから、嘘つきだというひどい攻撃を受けています。一応、「譫妄状態に陥った可哀想な人だから」ということで、故意の虚言ではないと評価されていますが、実態は人格攻撃です。弁護人は「性的に過激な表現の多い作品に出ている女優」などという中傷をしました。
リベラルの方々。リベラル派はどんな差別発言をしてもいいと言うのですか。この弁護人の発言は誰がどう考えても、許しがたい差別発言です。セカンドレイプです。まさしく、ヘイトとはこのことではありませんか。
杉田氏の「女はいくらでも」という一般論に比べて、この弁護側の、個人情報を利用した誹謗の方が遙かにひどい差別発言ではないでしょうか。
こんな無法が許されたら、正義も人権もあったものではありません。リベラルの正義や人権がどんなに恣意的なものであるかがよく分かるというものです。
今、リベラルは、道理の通らない社会を作ろうと画策しています。一歩一歩その地獄が実現しようとしています。そして、彼らの強力な武器が言論封殺なのです。
マスコミの動向に注意して、その無法を丹念に糾弾して行かなければ日本の未来はありません。
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