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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

  小学校英語必修(R2-4-8)

 小学校で英語を遊びのレベルで教えるようになってから久しいが、今年からそれが必修になって、成績まで付くのだという。コロナで大変な時だ。ただでさえ授業時間が減ることになるのに、英語が入って来たら、他の教科の学力低下は避けられまい。
 ところが、国民の大多数が必修化を支持しているという。
 面白いのは、すでにインタネットなどで指摘されているように、自分で英語ができる人は必修化反対が多く、自分で分からない人に限って、必修化を推進せよと叫ぶのだということである。
 そうだとすれば、必修化は典型的なポピュリスト政策だということになる。
 私が子供の頃から、一貫して、「日本人は英語は読み書きはできるが、話したり聞いたりできないから、日本の英語教育は間違っている」と言われてきたものだ。
 進歩派やリベラルの特徴は、「嘘の前提の上に虚妄の理論を構築する」ことであると私は考えている。その例が慰安婦報道であり、「慰安婦の強制連行」という嘘の前提の上に、「日本は未来永劫謝り続けなければならない」という虚妄の論理を築き上げたのだった。
 英語教育もそれだ。「日本人は英語の読み書きはできる」という前提は真赤な嘘である。読み書きができるという定義をどのレベルに持ってくるかが問題だが、少なくとも英字新聞を辞書なしで読めなければ、「読める」とは言えまい。
 ところが英字新聞を辞書なしで読める人は、私の見た所、千人に一人しかいない。どうして、このレベルで、「日本人は英語を読める」と言えるのだろうか。
 「書く」方はもっと悲慘だ。「誰が窓を割ったのですか」などという平易な英作文を、あなたの周囲の高校生に訊いてみるとよい。正解を出せるのは二十人に一人であろう。つまり英作文など全くできないのである。それなのに、「読み書きはできる」。この嘘の前提の上に学校では会話ばかりを教えて、いよいよ生徒を怠け者にしてしまった。
 そして、「読み書きができても話せなくてはなんにもならない」と言う人がいる。この言いようは、新聞やテレビで耳に胼胝ができるほどに聞かされた言葉ではないか。これを鸚鵡返しに言う人は、新聞とテレビしか見ない人なのだ。実情を何も知らないままに、誰にでも意見を言う権利はある、と言い募る人々だ。
 英語の達人の中には、読み書きは完璧だが会話のできない人がいて、それでも翻訳や英語の論文を書いて活躍している。上記の人々に訊きたいが、そういう人たちの英語は「なんにもならない」のか。
 「六年英語をやっても買い物もできない」というのが使い古された独創性のない批評の最たるものだ。買い物なんかできなくても構わない。私はむしろ、「六年英語をやっても英字新聞も読めない」方がはるかに重大な問題だと思う。
 そういう人たちは、「日本の文法中心の学校英語では、子供は興味を持てなくなってしまう」と主張する。もっと会話教育を推進せよというのだ。
 「文法中心」というのも嘘の前提である。
 最近の大学入試の英語の問題を見たことがあるだろうか。中堅大学の入試問題では、長文3題のうち2題が会話文だったりする。文法力がなければ読めない本格的な長文は難関大学でしか出題されない。
 文法問題と称するものは出題はされる。しかし、それはほとんどが熟語の知識を問うだけのもので、英語の論理が分かっているかどうかを試そうというものではない。
 逆に、現在の英語教育の欠陥は「文法軽視」にあるのだ。
 英語教師の中には、論理的な質問を受けると、「理窟じゃないんだ。言葉なんだからそういうものなんだ」と答える人がいる。言葉に理窟がないのではなく、教師の頭の中に理窟がないだけなのだ。
 こんな風潮が昂じて、小学校の会話中心の英語教育必修化となった。
 で、日本語の基礎が固まらないうちから、喋り方だけを教えて、ペラペラ英語を話す日本人を育成しようというのである。
 こういう英語を「植民地英語」という。終戦直後、日本に乗り込んで来たGHQ(ほとんどが米国人)は国語政策に容喙しようとした。究極の目的は日本語を廃止して、英語を国語として押し付けることだったという。一つには、劣等感に取りつかれた一部の日本人が米国人に阿(おもね)って、「漢字を使う不合理な日本語は劣等言語だ」と吹き込んだことが大きな要因になったようだった。
 少なくとも、英語を第一公用語にするつもりだった。日常会話は日本語、抽象的な会話や文章語は英語にするつもりだったのだ。東南アジアではそれが成功を収めていた。
 しかし、日本人の識字率は米国よりも高く、しかも、学問も日本語でやっていたのだから、英語を国語化するメリットは何もないということが米国人にも分かってきた。それでも何か改革しなければ自分たちの実績が残せないから、当用漢字と現代仮名遣いを押し付けて日本語を貶める先鞭をつけることで事足れりとした。
 ところが、なんという嘆かわしいことだろう。敗戦から七十五年、今度は日本人自ら、英語を公用語にしようと言い出した。
 「公用語にしろとは言っていない」と反駁されるだろう。
 いや、実質的には公用語、それも第一公用語への一里塚だ。
 小学校で必修になれば、私立中学の入試にも英語が必須になるだろう。そして、それは会話中心の英語になる。
 その試験に合格するためには、どんな対策が必要になるだろう。言うまでもなく、小学生向けの英会話塾が繁昌する。大学入試の英語でも、ヒアリング対策のための塾がある。そして、受験生の間では、「ヒアリングは金をかければそれだけの効果がある」と言われている。
 昨年の文科大臣の「身の丈に応じて」は経済力の格差を公然と認めた失言だったが、すでに大学入試に英語のヒアリングが導入されて以来、経済力による教育格差が広がったとは知る人ぞ知る現代の奇観である。
 そして、今度はそれが中学受験にも及んで来ることになる。
 さらに、親が英語を話せる家庭では、親子の会話に英語を混ぜるようになり、時とともにその比率は高まる。
 今でさえ、愚かな親の中には、生れてまもなく英語教育を始め、客に向かって、「うちの子に日本語で話しかけないで下さい」と言う者がいるそうだ。言っておくが、そう育てられた子供は将来必ず、知能に欠陥が出て来るに違いない。
 中学入試に英会話が出題されるとなると、英語がだんだんとfamily language(家庭内の公用語)に変わって行く。
 一流私立中学に子供を入れようと思うエリートの親ほどそれをするようになる。
 そうなると、family languageは、エリートの家庭では英語、庶民の家庭では日本語になる。つまり、母語が英語と日本語に別れるのだ。
 こういうと差別的だと批判されるだろうが、日本語が庶民だけの母語になれば、頽廃して行くことは避けられない。
 決して杞憂ではない。現に、東南アジアやアフリカではそういう現象が現実のものになっている。ある識者が鋭い明察をしていたが、特にエジプトでそれが顕著だという。
 エジプトのアラビア語は、かつてはアラビア語の中でも特に美しい方言を話すと言われていた。ところが、早くからイギリスの影響下に入って、上流階級は英語が母語のようになってしまった。その結果、エジプト・アラビア語は教養ある人からは見放されて、下層階級の手に委ねられ、近年甚だしく劣化しているという。その美しい響きさえ失われ、文章語としてはものの役に立たないレベルにまで堕落しているとのことである。
 これが日本語の未来かと考えると、暗澹たる思いに駆られる。
 かつて、さる文部大臣は、「日本の大学ですべての講座を英語でやる所が一つもないのは恥ずかしい限りだ」とコメントした。
 こんな人が文部大臣をやっていることこそ、恥ずかしい限りだ。「すべての講座」とは口が滑っただけだろうが、国文科の授業も英語でやれというつもりか。
 そもそも、アジアの他の国々では大学の授業を英語で行うが、それは、母語が学問に堪えられない構造をしているからだ。
 日本人は古来学問に熱心だった。江戸時代もオランダを経由して天文学などの近代科学の理論を学んでいた。独自の数学まで開発していた。
 その伝統の上に明治の先人たちが、日本語を西洋の学問に適合するように改革した。明治初期に日本で作られた学術用語は中国に逆輸出された。
 だから、日本では日本語で学問をすることができるのだ。これは真に誇るべきことであり、それをしも「恥ずかしい限りだ」という政治家の知性の低さに私は愕然とする。
 先年、韓国の新聞が、「なぜアジアで、日本人ばかりノーベル賞を取るのか」という特集を組んだが、その結論は、「日本人は科学を日本語で学ぶから」だったそうである。
 世間は、特に進歩派は大きな誤解をしている。さかしらな高校英語教師が、「英語でものを考えろ」と生徒に助言するという話を聞く。
 冗談を言ってはいけない。英語でものなんか考えられるものか。考えられたとしても、せいぜい、I want to beat this teacher.などという極めて日常的・本能的な考えを表現するレベルにとどまる。そもそも、そういうことを言う教師は、自分で英語で物を考えているわけではないのに、何か気の利いた風なことを言いたいから口にしただけだ。無責任極まりない。
 人生の意味を考えるような深遠な哲学的思考は、子供の頃から親しんだ母語でなければ、とうてい表現することはできない。いや、表現する以前に、頭の中でまとめることができないのだ。帰国子女でなければ、英語でものを考えろとは無理難題をふっかけているに過ぎない。
 もっともエジプトのように、上流階級の母語が英語になってしまえば、彼らは英語でものを考えることができるだろうが、今度は、上流階級と庶民が別の言語で思考活動をするという恐ろしい乖離が始まる。民族の一体性が失われ、格差社会が一段と進行する。
 小学校の英語必修化は紛れもなく「英語第一公用語化への一里塚」なのである。
 もう一つ訊きたいのだが、英語ができるようになって、どんなトクがあるというのだろうか。
 女性差別と言われかねないが、賢くない女の子が英会話に興味を示す場合、たいていはハンサムな外人と友達になりたいと思っているだけだ。末は、アリゾナ州の山の中に埋められる運命が待っているだけだというのに。
 二〇〇八年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英京大名誉教授は、授賞式に招待されて、「英語で演説しなければいけないのなら出席しない」と通告した。そうしたら、向こうから「日本語でいい」と返事があり、後のスクリーンに英語の字幕を付けて日本語で話すことになった。この人、日本人の誇りだと私は思う。
 益川教授は本当に英語を話せないのだという。少なくとも上手ではないらしい。もちろん、読み書きは非常に優れたレベルだそうだが、前述の言語進歩派の説によれば、益川教授が英語で論文を書いても、その英語は「なんにもならない」レベルだということになるのだろうか。
 今や、日本全体がポピュリスト社会になってしまった。特に教育の分野でそれがひどい。大学入試改革はすればするほど悪くなる。ゆとりの教育はひょっとすると文化大革命の際の「下放政策」に学んだのではないかと思われるほどだ。
 ポピュリスト社会といえば韓国がその代表だろうが、韓国は恐ろしい格差社会になっている。日本もその轍を踏み始めた。経済政策も教育政策も、民主化を装って格差社会を作る結果になるばかりだ。
 日本は重大な岐路に立っているのではないだろうか。よくよく心しなければならない。