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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

  正義とは(悪を憎め)     R2-05-29

 インタネットで「田村正和 復讐法廷」と打ち込んで動画検索すると面白いドラマを見ることができます。平成二十七年(二〇一五)にテレビ朝日系で放映された作品です。娘をレイプされた上に殺された父親の物語。中尾明慶演ずる犯人は、「警察官の暴力によって強制された自白」に証拠能力なしとして無罪の判決を下されました。その犯人を父親の田村正和が猟銃で撃ち殺して復讐するという筋書きです。
 
 ドラマがまだ序盤のうちに復讐は終わってしまい、タイトルの通り、法廷闘争がストーリーの主眼になっています。そして、元検事で弁護士の竹内結子が田村の押しかけ弁護人となり、正義を実現して、田村を無罪にするために戦います。
 中尾に無罪判決を下した裁判官・平泉成は、中尾が真犯人だという確信を持っていますが、警察官が暴力を揮ったことは間違いなかったので、刑事訴訟法の規定を如何ともすることができず、無罪を言い渡しのです。
 警察官が暴力を揮っていても、他に証拠があれば有罪になりうるのですが、この事件は物証が乏しく、自白が唯一の証拠だったので、その証拠能力が認められなければ無罪にするしか仕方がないのです。
 しかし、言い渡しの直後、中尾が田村を見てニヤニヤと笑いました。平泉は逆上して、「被告人、何を笑っているかッ」と怒鳴りつけます。平泉は後に竹内に協力して、田村を無罪にするために奮闘します。
 竹内の努力によって、だんだんと真相が明らかになってきました。中尾が田村の娘・柳生みゆを以前にレイプしていて、その後も脅迫を繰り返し、引っ越し先を訪ね当てて連れ出し、ついに殺害するに至ったのでした。それが暴かれて陪審員の心証が変わり、ついに田村の情状酌量を認めるに至りました。
 最終的に田村に下された判決は、懲役三年執行猶予五年でした。
 殺人罪の刑期の下限は条文では五年です。しかし、情状酌量の余地がある場合は軽減されて、三年まで下がると執行猶予を付けることができるのです。

 平泉が中尾を怒鳴りつける場面が圧巻でした。裁判長として、無罪判決を下さなければならなかったのは悔しかったでしょうね。
 これで私が思い出したのは、世紀末に起った過激派の爆弾テロでした。この事件は無罪が確定しているので、あんまり言うと名誉棄損に問われかねませんから、詳細は説明できません。
 この爆弾テロ事件で私が感動したのは、無罪を言い渡した裁判長が、判決後の記者会見で、「被告たちが真犯人であるという濃厚な疑いがあるが、証拠不十分なので有罪にはできなかった」と発言したことです。まことに大胆なことを言ったもので、これで失われた正義が少しばかり取り戻せたように私は思ったものでした。
 私の知人に、容疑者の一部のメンバーと面識のある人がいましたが、この人が私に向かって「あれは間違いなくやっているね」と言いました。どうも犯人から自分たちの犯行だということを仄めかされたというニュアンスでした。
 「真犯人がそんなこと人に言うだろうか。通報されたらただではすむまい」などと、私の言うことを疑ってはいけません。彼らは、どんなに有罪の心証を与えても、厳格な司法手続きを逆手に取って、有罪になることはありえないと裁判所を馬鹿にしているのです。「俺たちがやったんだよ」とはっきり言ったって、証拠にはならないと舐めているのです。
 ところが、この裁判長の悲壮な記者会見に対して、朝日新聞が噛みつきました。「自分が無罪判決を下した容疑者が実は有罪だとは決して言ってはならないことだ」と書いたのです。
 過激派の生みの親は朝日です。過激派は「藍より出でて藍よりも青」くなったのです。いや、「紅(べに)から出でて紅よりも赤し」というべきか知れませんが、朝日の身内みたいなものですから、そりゃあ弁護したいでしょうよ。
 別の知人に、「天声人語に感動して過激派になる奴って多いんだよね」と言ったことがあります。すると彼は、「僕も天声人語読み過ぎて過激派の一歩手前まで行ったよ」と答えました。
 ニヤニヤ笑いながら無罪判決を受けるような連中を弁護するのですから、朝日を始めとするリベラルの非道は、「(拉致された)たった十人のために国交回復が遅れてもいいのか」と言った外務官僚に匹敵します。
 それにしても、朝日のこの裁判長弾劾記事は、人間の良心の叫びを封殺しようとしたものでした。

 昭和五十四年(一九七九)年以来、有罪判決を受けて死刑や長期刑の判決が下された人々が再審によって無罪を勝ち取り、釈放されるという事件が相次ぎます。最近もまたそれがありました。
 私は十件を超える冤罪再審事件のたびごとに新聞や週刊誌を丹念に読んで検討しました。その結果、「間違いなく冤罪だ」と確信できたのは、「弘前大学教授夫人殺害事件」(懲役十五年)と「徳島ラジオ商殺し」(女性/懲役十三年)と「袴田事件」(死刑)の三件だけでした。
 それ以外は「よく分からない」というレベルでした。よく分からないのは「疑わしきは罰せず」の原則によって無罪にすべきですが、中には二件か三件、いやもっとたくさん、「これは間違いなくやっている」と疑われるものもありました。
 しかし、マスコミは一旦犯人が冤罪を訴え始めると、内容の吟味なしに冤罪だと断定して、再審のためのキャンペーンを張るのです。真犯人を無罪にするのが反権力の象徴だと思っているのではないのでしょうか。
 ギベラル(疑似リベラル/私の命名/中国や北朝鮮のような国を作ろうとする自由の守護者)は「人民は悪を行うことはできない」という信念を持っています。悪は必ず国家権力が行うものであり、人民は常に被害者である。人民が悪を行ったように見える場合は、国家権力の非道によって悪事へと駆り立てられたに過ぎないのだから、厳しく罰するべきではないと考えているのでしょう。
 だから、左寄りの人に限って、冤罪を訴える人は全部ほんとうに冤罪だと主張するのです。
 再審で無罪になって釈放された人々は「冤罪は国家権力による陰謀だ」と訴えるリベラルから誘われて、講演を行ったりしています。ところが、本当に無実だったと確信できる「弘前大学教授夫人殺害事件」の那須隆さんは、そういう誘いを一切断って、「国家権力の陰謀とかそういう問題じゃないんだ。やってるかやってないかだけの問題なんだ」とおっしゃいました。この言葉を聞いたとき、私は、一点の曇りもなく、この人は無実だと確信しました。
 一番最近、無罪の再審判決が出たさる冤罪事件は、特に「ほんとはやってる」の疑いが強いものでした。ところが、玉川徹氏と室井佑月氏はインタネットで対談し、玉川氏は「これは間違いなく冤罪のケースですから」と言いました。
 私はこの事件は再審になった事件の中でも、一番「ほんとはやってる」の可能性が強い事件だと思いました。インタネットの書き込みを見ても、みんな疑問を投げかけています。それをしも、「間違いなく冤罪のケース」とは偏向のかたまりである玉川氏の面目躍如たるものがありました。
 室井氏はよく分からないのに、自分の立場上、調子を合わせなければ、と思っている様子が声の調子から見え見えでした。
 この事件「冤罪ではない ○〇〇事件」と打ち込んで検索して下さい。事件の真相が分かる記事が満載です。〇〇〇に字を入れるとやばそうなので空白にしておきます。
 
 再審無罪とはちょっと違いますが、「小野悦男事件」というのも注目されます。逮捕は昭和四十九年(一九七四)年です。
 再審事件ではなく、もともとの裁判で、一審は無期懲役でしたが、人権派の奔走が功を奏して、高裁で逆転無罪になった人です。それが、釈放された後、同じような事件を繰り返したのです。
 このとき、もとの裁判の弁護人の一人は、「だからと言って、前の事件まで小野がやったなどというのは不謹慎だ」と開き直りました。ところが、もう一人の弁護人は、「こうなると前の事件も小野がやったと思わざるを得ない」と評しました。
 じゃあ、「思わざるを得ない」と言った弁護人は、前の事件の裁判をしていたときには、本当に小野を信じていたのですね。それに対して「不謹慎だ」と言った弁護人は、ニヤニヤ笑いながら、人権派の弁護士としての実績を積むために励んでいたのでしょうね。
(http://yabusaka.moo.jp/onoetuo.htm)
 どっちにしても、人権派って、「北朝鮮は天国のような国だ」と言った人たちと同じように笑えますよね。

 さて、冒頭の「復讐法廷」を放映したのがテレビ朝日だったというのが驚きです。よく朝日がこんなものをと思うではありませんか。ギベラルの人たちは、ほんとはやっていても無罪にしたがる。つまりいつも加害者の味方ですから、被害者による自力救済、つまり復讐は絶対に許さないのです。
 平成十三年(二〇〇一)の九・一一事件(貿易センタービル)の後、ブッシュ大統領が報復宣言をしました。すると、天声人語は、「小泉首相はすぐにアメリカへ飛んで、ブッシュ大統領に報復の空しさを説くべきだ」と説教を垂れたのです。そんなことをしていたら、小泉氏はブッシュ氏に頭を撫でられてしまっていたに違いありません。いい子、いい子と言われて。
 あの事件の後、二十一世紀はテロルの時代だと予感されました。ところが、現実にはそうならずに済んだというのは、間違いなくブッシュ氏の徹底的報復がテロリストたちを抑え込んだからでした。ビン・ラディンを殺したことが世界の平和につながったのでした。
 最近また、トランプ大統領が、イランの英雄ガセム・ソレイマニ司令官をイラクで無人機を使って攻撃し、殺害しました。私は喝采を叫びましたが、朝日は懲りずに社説でトランプ氏を弾劾しています。
 こんなときには朝日はこう書くと決まっているのですから、わざわざ講読する必要はないのではないでしょうか。社説とか天声人語とかは、インタネットで只で読めるのですよ。
 日本一のオピニオンペーパー(と言われる)がこんな子供みたいなことを書くのですから、日本のマスコミのお里が知れるというものです。

 いつのことだったか記憶にありません。まだ二十世紀だったと思います。インタネットで検索してもはっきりは分かりませんでした。演じた俳優の年齢から考えると相当昔だったように思います。私が好きだった中山忍さんが推理ドラマで犯人の役をやっていました。レイプされた上に、それをタネに脅迫されて、犯人を殺してしまうというドラマでした。
 このとき、中山さんと親しい女性監察医の名取裕子さんが、中山さんが真犯人だということを突き止めました。そして、本人を問い詰め、その境遇に同情しながらも、「だからって、殺していいってことにはならないでしょう」と絶叫するのです。
 でも、ここまで追い詰められたら、殺す以外に方法はないでしょう。名取さんは、中山さんに「自殺しなさい」と言っているのに等しいのです。(名取さんという女優を非難しているわけではありませんが) その後、見逃してやるのかと思ったら、自首させました。こんなケースで庇ってやらないというのは、仲間内の賭け麻雀を犯罪だとして暴き立てるのに似ています。
 冒頭の田村さん・柳生さんの場合も同じです。「不倶戴天の敵」という言葉があります。「不倶戴天」とは、「ともに天を戴かず」と訓みます。同じ天の下にいることができないということですから、つまり、どちらかが死ななければならない、という意味なのです。田村さんから見れば、娘を強姦殺人した犯人が刑務所にも入らず、のうのうと娑婆で安穏な生活を送っているのですから、これはどちらかが死ななければならないのです。
 それを「命の軽重に差はない。どんな人でも生きる権利はある」というリベラルは、結局は田村さんが死ねばよかったと言っているのです。

 中山忍さんのドラマのように、二十世紀には、絶対に復讐はいけない、というのが良識的な意見でした。それが、二〇一五年に到ってようやく、法が裁いてくれない場合は被害者が復讐するのも已むを得ないのではないかという疑問を呈するまでに、日本社会も成長して来たのです。
 それと比べると、米国は社会問題に対する意識が進んでいます。かの有名な映画「リップスティック」が上映されたのは、昭和五十一年(一九七六)のことでした。主演は文豪ヘミングウェイの孫娘マーゴ・ヘミングウェイでした。
 マーゴは、自分をレイプした犯人が無罪になった上、同じ犯人に妹までレイプされたために復讐を決意し、白昼ライフルで犯人の運転する自動車を銃撃して殺害するのです。そして、田村さんのような中途半端な執行猶予判決ではなく、完全無罪を勝ち取りました。
 その二年前、昭和四十九年(一九七四)には、チャールズ・ブロンソンの「狼よさらば」も上映されました。無法者に妻を殺され、娘をレイプされたブロンソンが、犯人は分からずじまいになったので、社会の悪に対する復讐を決意しました。回転拳銃を持って夜ごとにニューヨークの町を徘徊し、無法者を見ると挑発して射殺するのです。
 最後にブロンソンは逮捕されてしまいますが、警察は、ブロンソンがニューヨークから出て行くことを条件にして、逃がしてくれるのです。日本ではありえないことです。警察はマスコミが怖くて、正義を実現することができないからです。
 こんな昔に、米国ではすでに、こういう硬派のドラマが出来ていたのです。これは映画でしたが、現実社会でも、娘をレイプされた父親が犯人を射殺して、無罪の判決を得た例があります。日本の「復讐法廷」は五十年遅れましたが、やっと人生を真面目に考えるドラマが出て来たのです。

 日本では異様に復讐殺人が少ないという統計があります。
 米国では銃の所持が許されているせいもあって、復讐殺人が日常茶飯事であることはよく報道されています。
 米国の大学で教えていた知人の話では、米国では少なくとも知的な職業の職場では、いじめは皆無に近いとのこと。なぜって、いじめるとすぐに撃ち殺されるからです。なるほど、銃が正義の実現のために役立っているのですから、日本人が米国に銃規制せよと要求するのは、内政干渉も度が過ぎます。怖ければアメリカなんか行かなければいいのです。
 平成二十七年(二〇一五)、呉智英氏は産經新聞のコラムで、「いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ」と書いて物議を醸しました。結局は少年法の甘さを衝いているのですが、「死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから」とまで言っています。さらに、「死ぬべきは加害者」と付け加えていますから、はっきりと復讐殺人を奨励しているのです。当然、人権派・ギベラルは大騒ぎをしました。
 日本の陰湿ないじめは目を覆うものがあります。引籠りになる人々はほとんどが、学生時代にいじめられた経験があるということです。そういう人たちが、社会に恨みを抱いて大量殺人に走ったりするのですから、いじめの加害者を「暖かく見守る」という悠長な態度が社会を攪乱しているのです。
 農水省の元次官が息子を殺した事件もそれです。息子は高校時代にいじめに遭ってから精神的におかしくなったということです。この次官に対して、子供の暴力を「役所などに相談すべきだった」という意見が多いのですが、役所がそんな相談に親身になって乗ってくれるとはとうてい考えられません。父親は自分が役人だったからこそ、役所に相談しても無駄だとよく知っていたのです。
 いじめだろうが、家庭内暴力だろうが、日本は官も民も綺麗ごとを言うばかりで、苦しんでいる人を思いやる立場には立てないのです。
 いじめの加害者はすぐに転校させるという処分をするくらいは何でもないことだと思うのですが、ギベラルは、「どんな生徒も見放すべきではない」と言って、加害者を保護し、被害者を見放すのです。人権派が人権を弾圧しているというこのジレンマ。こんな不正義があっていいものでしょうか。
 しかも、無法者になってしまった連中も、中学入学の頃に、「新しい学校でいじめられないだろうか」と不安になり、それを避けるために非行少年グループに入りたがるということです。これだけの荒廃をリベラルの人々は放置しておいていいというのでしょうか。
 美人女優が元ヤンキーだったという話をよく聞きますが、これも同じ。特に美人は他の女生徒からいじめの標的にされやすいのです。野田聖子さんは、高校時代、美人で勉強が出来るお嬢様タイプの同級生ばかり狙い、子分を率いて壮絶ないじめを繰り返し、退学や精神疾患に追い込んだそうです。十代の時からボスだったのですから、日本初の女性宰相たるにふさわしいリーダーシップの持主と言うべきでしょうか。
  (https://matome.naver.jp/odai/2152754730454687501/2152756886764217403)
 そこで、かわいい子は、ヤンキーと親しくなればいじめる方に回れると判断して、自分もヤンキーになってしまいます。吸血鬼に噛まれて吸血鬼になってしまうようなものです。日本から清爽の美少女という種族が絶滅してしまったのは、こんな所にも原因があるのでしょう。
 考えれば、アイドルの時代と言われた一九八〇年代の清爽の美少女たちはどこへ行ってしまったのでしょうか。
 二十一世紀のアイドルたちに真面目な子は少ないのです。元彼が少年院へ入ったというアイドルがなんと多いことか。
 去年のAKBの総選挙の後、優勝したメンバーが三位になったメンバーをいじめたことが発覚しました。いや、発覚ではなく、自分からいじめの事実を滔々と記者団に語ったというのです。このアイドルは流石にその後仕事がやりにくくなったようで、ここでも多少は正義が実現されたように思いました。
 インタネットの台湾系のブログに、「日本はいじめ大国としても世界にその名を知られており、日本語の『ijime』が国際的にもそのまま意味が通じるほどにそのことが広く認知されている」と書いてあるのを発見しました。
 なるほど、なるほど、なるほど、と三度も頷(うなず)きました。
 老人のくせにこんなことを言うのは恥ずかしいのですが、私は台湾の女性歌手が歌っているのをインタネットで見るのが大好きなのです。因みに、日本人歌手の歌なんか聞きたくもありません。あれ、私としたことが、反日になってしまった。
 台湾の歌手は、男も含めて、歌がうまいのです。日本では、特に女性歌手の場合は、プロと言える歌手と容姿だけの歌手とに二分され、後者の歌は学芸会レベルです。ところが、台湾の歌手は、美貌が売り物の歌手であっても相当な訓練を積んでいるのか、笑い出したくなるような歌を聞くことはありません。
 その上、台湾の女性歌手には、昔の日本女性を思い出させる本当の清純派、性格のよさそうな人が多いのです。さらに研究すると、見かけだけでなく、本当に性格のよいことで有名な人が多いとのこと。
 もちろん、いじめがないので、清純可憐な女生徒は、ヤンキーにならなくても身の危険を感じないですむからです。
 AKB(ほんとはSKEだってさ)のいじめっ子JMなどは、北朝鮮へ追放して金正恩の側室になってもらいましょう。リベラルは、そんなことを口にするだけでも人権問題だと言うでしょうが、その場合は、慰安婦の償いだと言ってやりましょう。JMを追放して、代わりに、台湾の歌手を日本に呼び寄せればいいじゃありませんか。
 この異様な日本国。いったいどうしたらいいのでしょうか。何よりも、悪を憎む気持を持たせるように教育しなければなりません。被害者の人権よりも加害者の人権を重んじるという倒錯を是正することが第一です。
 恨みに起因する殺人は、計画性と確定的殺意があるということから、むしろ通常の犯罪よりも罪が重くなる傾向があります。しかし、道理というものを考えてみると、恨みから来る殺人は情状酌量の余地がある場合が多いのです。むしろ無法な暴力による、殺意のない傷害致死(ほんとは死んでも構わないと思っているのですが、立証が難しいだけです)の悪辣さの方が責められるべきです。
 最近、刑法に危険運転致死傷罪が新設され、無法な運転者の罪が重くなりました。それと同じように、「無法致死傷害罪」を新設し、無法者の暴力で死傷者が出た場合は、もっともっと厳しい刑に処することができるようにすべきです。致死罪の場合は、殺人罪に準じた制裁を加えなければなりません。
 そして、学校でいじめがあった場合には、積極的に警察力を導入して、必要とあらば加害者をどんどん転校処分にすることができるようにして欲しいものです。
 甘ったるいマスコミに振り回されるこの日本。マスコミの「良識」を排除して、当たり前のことを当たり前と言える、常識に基づいた社会を建設できないのでしょうか。