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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

川内時男著 「教育直言」 時事評論社

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まだまだ続く「教育直言」 令和2年4期編(R2-10~12月)

74、教師が潰される!

 今回はジェンダーフリーとは別の内容で投稿します。12月23日付の産経新聞によりますと、令和元年度、精神疾患で休職した公立学校の教師の数は5478人で過去最多になったとのことです。
原因は、学習指導要領改訂の過渡期で校務が増加・複雑化したこと、指導に当たる年齢層が大量に定年退職したこと、保護者らによる教師への過剰な要求、職場内でのハラスメントによるストレスの増加、などだそうです。
近年、教師の忙しさが問題視され、教育現場の働き改革が議論されています。
しかし現状の認識を誤ればどんな改革も的外れになります。
私は社会で議論されている「教師の忙しさ」は認識がずれているように思うのです。
それは勤務時間の長さばかりに目を奪われていることです。
 教師は子供と関わることに喜びを感じ、今自分がやっている仕事が子供の成長に結びつくと実感すれば
どんなに忙しくても耐えらる・・・と私は思っています。
私自身、答案用紙を自宅に持ち帰り、深夜まで採点することが再々ありましたが、これを苦痛と感じたことは一度もありませんでした。
採点することが子供の成長につながると実感していたからです。
中学校の部活動のあり方が問題にされていますが、これも同じです。
教師も子供も燃えているのですから、勤務時間や疲労などは問題ではないのです。
 問題なのは、子供の成長に無関係な業務が多すぎることです。
その最たるものが教育委員会や文科省などの関係機関へに提出する膨大な量の連絡・報告書の作成です。
関係機関との連絡は大事ですから、ある程度の文書作成はやむを得ません。
しかし何度も同じような書類を作ることは本当に空しく苦痛です。
私は教職を退いて7年、今の学校の状況が分かりませんので、かつての同僚数人に聞いてみましたが、現実は私が在職していた当時に比べ「書類をつくる業務の量は数倍に増えている」とのことでした。
そして「こういう仕事が多すぎて子供に関わる時間がない」とのことです。
なんと言うことでしょう。教師は子供に関わることが本分のはずです。
彼らが異口同音に言うには「これでは学校ではなく役所だ、教師ではなく事務屋だ」と。
そしてこういう業務が教師のストレスになっているのです。
 この忙しさに輪をかけるのが、ほとんど役に立っていない「○○研究会」などの組織です。
これらが全て無意味だとは言いませんが、組織というものは、なければないで何とかカバーできるものです。
そして組織があればその組織自体が仕事を増やす原因になるのです。
働き方改革をするのであればまず意味のない調査報告や形ばかりの研究組織を整理し、教師の目が子供に向かうよう環境を整えることが先決です。
 ところで教師のストレスについてです。私が心配しているのは最近の学校は人間関係が希薄になっていることです。
人間はどんなに苦しくとも不平・不満を言い合える仲間がいれば耐えられると思っています。
逆に孤立はストレスが倍増しますので最も危険です。
たまには仲間と酒を酌み交わし、上司の悪口で盛り上がっては如何ですか。
要は日頃から何でも話し合える人間関係を作ることが大事だと言うことです。
役所とは違ってチームワークが要求される学校ならなおさらです。


73、男はつらいよ

 ジェンダーフリー論者がよく言うセリフの中に「男らしさ、女らしさが否定されれば『男のくせに』と言われなくなるから男の人も楽に生きられる」と言うのがあります。
つまりジェンダーフリーが社会に浸透すれば、女性だけでなく男性も楽になれる、と言うのです。
日頃は男性を敵視するような論を煽っているのに何とご親切なことでしょう。しかし私は反論します。
「余計なお世話だ」と。人間は男であれ女であれ、それぞれ美学をもって生きているのです。
そして男らしさ、女らしさもその美学の一つです。
 私の小学生時代、泣き虫だった私は祖母からよく「男の子はキ○○マが千切れても泣いたらイカンのじゃ」
と言われていました。小学5年の担任の先生も「男が泣いていいのは親が死んだ時だけじゃ」が口癖でした。
そしてアニメや映画の中でも泣くのは女の子であり、それを助けるのが男の子、というのが定番でした。
野球の世界でも王貞治や長嶋茂雄が無言のうちに男らしくかっこいい生き方を教えてくれていました。
こんな中で育つ子供ですから、当時の男の子は誰もがかっこよくなりたいと思っていたものです。
私などは背も低く、したがって体力もなく、容姿は並以下、おまけに喧嘩も弱い・・・
それでも男らしくなりたい、王や長島のようにかっこよくなりたい、と願い「涙を見せたらかっこ悪い」とやせ我慢を張っていたものです。
 「やせ我慢」、今にして思えばいい言葉です。これこそ男らしさそのものではないでしょうか。
人間は、特に男は「やせ我慢」を忘れたらかっこよくありません。
デート中にチンピラに絡まれたら、恐怖で膝が震えていても女性を守るために男は勇気を振り絞って立ち向かわなくてはなりません。
喧嘩に弱い私でしたが若い頃からそういう気概だけは持っていました。
そして、そんな自分を「ワイってかっこいい」と思っていました(まるで「男はつらいよ」の車寅次郎です)。
しかし、女性には全くもてませんでした。
やっぱり背が低い男はダメなのか、と落胆する日々でしたが「ここにこんないい男がいるのに、世の女達はどうしてワイに振り向かんのか、どこに目ん玉つけとるんじゃ!」
と心の中で吼えていました。
そして私は今でも「か弱い女に手をあげるなどは男のクズ」「女を守れずして何が男ぞ」を心に誓っています。
ともあれ「やせ我慢」は男の美学です。「男(女)らしさ」を忘れた人間は美しくありません。
その美しい「らしさ」を忘れて「楽になろう」などは美しい生き方を放棄するものです。
 ところで今、巷では「鬼滅の刃」というアニメが大ヒットしています。
これは主人公の竈門炭治郎が、鬼にされてしまった妹の禰󠄀豆子を人間に戻すために苦難の闘いを続ける物語です。
人気の秘密は 炭治郎の忍耐と、勇気と、妹を思う愛情でしょう。
このアニメがこれほどの人気を博しているのは、社会が「男らしさ」の魅力に目覚めはじめたと言えるのかもしれません。
このコミックの大ヒットが「男らしさ」「女らしさ」の復活につながってくれることを願うばかりです。


72、草食系男子・LGBT

 ジェンダーフリーについての私の投稿を読まれた方の中には「そんなカルトのような説を信じる人がいても、日本の社会には何の影響もないのではないか」と思われる方がおられるかも知れません。
確かに・・・男女混合名簿が広まろうが、子供どうしが男女の区別なく「さん付け」で呼んでいようが、ランドセルの色がどうであろうが、私達の暮らしには何の影響もないように思われます。
しかし、私はこのジェンダーフリーは深いところで社会に大きな影響を与えているように思われるのです。
以下に述べることは何の裏付けもない私の直感に過ぎませんが、皆さんも一度考えてみて下さい。
近年草食系男子の増加がよく話題に上ります。
ある調査によりますと20代の若者の4割が女性との交際経験が一度も無いそうです。
そして重要なことは「女性と交際したい」「恋人が欲しい」という気持ちがなく、そればかりか、一生結婚できなくてもかまわない、と考える者も多いと聞いています。
私が若い頃は、若者達は「何とかして彼女を・・」と、あの手この手で女性に接近していたものですが、世の中変われば変わるものです。
私はこの現象が学校や社会にジェンダーフリーが浸透したことと無関係だとは思えないのです。
生涯を独身で過ごす若者の割合は年々高くなっています。
少子化問題が深刻化する我が国の未来を考えますと暗澹たる気持ちになります。
 前回、男の子なのに女の子として育てられたブレンダの話をしました。
この話は男の子は男の子として男の子らしく育てることがいかに大切であるかを示しています。
「男らしさ」「女らしさ」を否定して、男女の境界をなくし、男も女もごちゃ混ぜにした社会(私は混浴は好きですが・・・笑)に住んでいると、ホルモンバランスが崩れ、こんな社会になってしまうのかな、と考えたりします。
ただしこれは何の裏付けもない私の直感です。皆さんはどう思われますか。
最後に大事なこと・・・ジェンダーフリーについて述べるときに避けて通れないのがLGBTです。
LGBTとはレズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなどの性的少数者のことです。
近年はこれにQ(クエスチョニング:自身の性自認が定まっていない人)が加えられ、LGBTQと呼ばれることがあります。
これらの人達にとっては男女を二つに分けた文化が定着している社会は生きづらいことでしょう。
LGBTであれ何であれ同じ人間です。私達はマイノリティの人達の苦悩を理解し、可能な限り配慮しなくてはなりません。
 しかし配慮すると言うことは社会の仕組みを全てマイノリティに合わせると言うことではありません。
トイレや風呂を作るのに、男性用と女性用以外にマイノリティ用に・・・と言うわけにはいかないのです。
つまりLGBTを一般的基準にしていては社会が成り立たないのです。
気の毒な言い方ですがマイナーな立場に置かれた人たちはある程度のところで我慢するしかありません。
なぜならそういう悲哀を感じつつ生きている人はLGBT以外にもたくさんいるからです。
スタンダードに当てはまらない人たちの望むこと全て受け入れていては社会が成り立たないのです。


71、ショッキングな話「ブレンダと呼ばれた少年」

 今回はジェンダーフリーにまつわるショッキングな実話をお話ししましょう。
1966年、カナダで生まれた一卵性双生児(男児)の兄の方が包皮切除手術の際、執刀医のミスにより男性器を失ってしまいました。
医師が言うには「この赤ん坊はもう男性の機能が回復することはないであろう」とのこと。
両親は悩んだ末に、当時性科学の権威であったジョンズ・ホプキンス大学病院のジョン・マネーを訪ねました。
マネーは「男か女か、という性意識は生まれつきのものではない、2歳までであれば性のアイデンティティは自由に変えられる」とする今で言うジェンダーフリー理論の提唱者でした。
マネーは両親からの相談を、自分の理論を立証する絶好のチャンスと捉え、両親に男児を女の子として育てるよう説得し、受け入れさせました。
男児は性転換手術を受け「ブレンダ」と名付けられ、両親から何も教えられないまま女の子として育てられました。
ジェンダーフリー理論が正しいとすればブレンダはそのまま何の問題もなく普通に女の子として育つはずでした。
しかし、ブレンダは成長するにつれて行動や性格が男の子っぽくなり、彼の弟ブライアンが「ブレンダは全く女らしくなかった。
歩き方も話し方も男みたいで、僕たち二人は男友達と城を作ったり、雪合戦をしたり、軍隊ごっこをしたりするのが大好きだった」と言っています。
ブレンダはやがて「自分は女の子ではなく男の子だ」との意識が芽生え、性のアイデンティティが混乱するようになりました。
両親はこのことをマネーに報告しましたが、マネーは「単なるお転婆」として取り合いません。
マネーはブレンダに女の子としての自己認識を植え付けようと、膣形成手術を要求し続け、胸を大きくするために女性ホルモンを飲ませたり、ポルノを見せたりしたばかりか、弟のブライアントと性行為の真似事までさせたと言います。なんとグロテスクな!
 その後マネーは自説の正しさをアピールするため、実験がうまくいっているとするウソの論文「双子の症例」を発表しました。
このことでマネーは一躍脚光を浴び、「今世紀で最も偉大な性科学者」と賞賛されるようになりました。
 自分の生育歴の過去を知ったブレンダはその後、自分の性認知が混乱し、2004年、38歳の若さで自殺しました。
自分の学説の検証のためとは言え、人としてこのような実験が許されるのでしょうか。
これではブレンダは荒唐無稽な学説を裏付けるために利用され、殺されたも同じです。
一方のマネーですが、彼の論文に疑問を持ったハワイ大学医学校のM・ダイヤモンド教授に論争を挑まれ、最終的に実験のウソが暴かれ、マネーの権威は失墜しました。
 私は科学を深く信奉する者ですが、それは実験に裏付けられたエビデンスがあってのことです。
実験にねつ造があればそれは科学ではなく、ペテンでしかありません。
ともあれジェンダーフリー論は衆目注視の中で完全に否定されました。
このことによってアメリカのフェミニスト達はこの理論を見捨ててしまいました。
しかし日本では未だに教育現場でまかり通っているのです。
非科学的で迷信にも等しいジェンダーフリー論をもって子供を指導するなどもってのほかです。
科学に反逆する奇怪至極なカルトを教育現場から一掃するためには何としても教育近代化が必要です。


70、学者の独善とジェンダーフリー

 前回に続きジェンダーフリーについて述べます。
社会に広く浸透しているジェンダーフリーですが、これはすでに科学によって明確に否定されています。
ジェンダーフリー論者は「生まれたときは男も女もないのに、赤ん坊の時から男として育てるから男に、女として育てるから女になるのだ」、「赤ん坊は育て方によって心は男にも女にもなる」と言うのです。
普通の人の感覚では「そんな馬鹿なことがあるか」と思うでしょう。
その通りです。その普通の人の感覚の方が正しいのです。
ところが「信仰」とは恐ろしいもので、ジェンダーフリーを唱える人達は大真面目でこれを信じているのです。
 現代医学によれば、男の子と女の子は母親の胎内にいるときからすでに違っています。
胎児が男児の場合、ある成長段階でアンドロゲンという男性ホルモンが分泌され、それまで女児の体に成長してきた胎児が男児へと成長を始めます。
そして女児の場合はそれが分泌されませんので、そのまま女児へと成長します。
外見だけではありません。脳もアンドロゲンの働きによって男女それぞれ違った成長をします。
男の胎児は男脳をもつ者として闘争的な気質を、女の胎児は女脳をもつ者として情緒的な気質を持つように仕組まれているのです。
つまり男の子と女の子は「生まれた時」どころか、胎内にいるときからすでに形質が違うのです。
人間がどのように屁理屈をこね回そうとも、これは医学という科学の世界では常識であり、議論の余地は全くないのです。
また脳科学においても脳の特徴が男女で違うことが明らかになっています(男女どちらの脳が優れていると言うことではありません)。
つまりジェンダーフリー論はすでに科学によって明確に否定されているのです。
 しかし、教育現場では未だにこれが深く根を張って生きています。
また、これを推し進めようとする学者もいると聞いています。
何と言うこと!科学的に否定され、多くの国民もが首をかしげるようなカルトまがいの考えが教育現場ではまかり通るなど、あり得ない話です。
ジェンダーフリーを唱える学者先生達は「自分たちの考えは最先端のものだから、一般大衆には理解できないのだろう」、あるいは社会から批判されても「それは自分たちの進んだ考えに愚かな大衆がついてこられないだけだ」くらいに思っているのでしょう。
だとするとこれは傲慢・独善の極みです。
ところで、ここで何か頭に浮かびませんか。そうです。あの学術会議です。
学術会議の学者の話しぶりからは「自分たちは学問を積んだ専門家だ、政治家ごときが何を言うか」という思い上がった権威主義の臭いが漂ってきます。
権威主義に凝り固まった人達が、大学の研究室に閉じこもっているとこうなってしまうのでしょう。
これで国民の共感を得られるとでも思っているのでしょうか。
ともあれ、学校現場からカルトを一掃するためには一日も早く教育に科学を取り入れ、「教育近代化」を進めなくてはなりません。
※くれぐれも誤解のないよう一言、私は女性を差別する人には絶対に与(くみ)しません。
 「男女は平等であるべし」は私の確固たる信念です。


69、カルトに食い荒らされる日本文化

 これまで縷々述べてきましたが、現代教育には科学的視点が欠けているため、非科学的なこと(言い換えれば迷信とも言えます)を元にした教育が行われているということです。
その代表例が「ジェンダーフリー教育」です。
「ジェンダーフリー教育」は全国的に下火になりつつあるそうですが、教育界にはこれを信奉する者も多く、今もカルトまがいの考えをもって子供を指導しています。
実はこの考えは科学的に間違っていることが立証されています(詳しくは次回に述べます)。
・・・と、こんなことを言っても「ジェンダーフリー」についてご存じない方もおられるかも知れませんので簡単にお話しておきます。
 ジェンダーフリー(今はジェンダー平等などとも呼ばれているようです)とは一口で言えば、「男らしく」「女らしく」ではなく、自分らしく、社会にある男女の枠組みに縛られることなく女も男も自由に生きていこう、と言うものです。いかがですか?言葉の響きに感動しませんか?
私などは言葉があまりにも美しすぎて、目が眩んで、意識がもうろうとして、体が震えて、鼻血が出て、卒倒しそうです。
しかし、こういう美しい言葉は注意が必要です。なぜなら美しい言葉には真実がないばかりか有毒な場合が多いからです。
ジェンダーフリーについてもう少し詳しくお話しします。
ジェンダーフリー論者の主張は要するに「男女の肉体的性差(セックス)は生まれつきのものだが、『男らしさ』『女らしさ』などは社会的・文化的に創られた社会的性差(ジェンダー)であるから否定せよ」と言うものです。
とんでもない考えです。この考えに従えば、世の中には男も女もなく、ただ男の形をした人間と女の形をした人間が混在しているだけ、と言うことになります。
もちろん男文化も女文化もありません。「父性」「母性」などの言葉もあり得ません。
 こんな考えが広まった結果、社会ではまず「男らしい」「女らしい」と言う言葉が禁句になりました。
「女のくせに」「男のくせに」はすでにれっきとした差別用語です。
教育現場には「男女混合名簿」が普及し、子供どうしが男女の区別なく『さん付け』で呼ぶ学校が激増しています。
中には小学校高学年の子供に男女同室で着替えをさせ保護者から猛烈に批判された学校もありました。
伝統文化もたくさん刈られています。
桃の節句の雛祭りはダメ、端午の節句の鯉幟もダメ、ランドセルの色を男子は黒、女子は赤と決めているのはナンセンスだ、など難癖のオンパレードです。
この分だと男子もスカートを、女子も詰め襟を、あるいは「男と女が分かれて紅白歌合戦とは何事だ!」となるかも知れません。
年配の人なら「なんと馬鹿げた!」と思うでしょうが、人間の感覚とはおかしなもので、最初は違和感があっても慣れてくると何とも感じなくなるのです。
 小6の孫(男)の口から何度も「○○さん」という名前が出ますのでてっきり女の子のことか、と思っていたら同じクラスの男の子のことでした。また先生や友達も孫を呼ぶときに『さん付け』で呼ぶのだそうです。
「そんなオッサン臭い呼ばれ方されたらいやだろう?」と聞くと、「そんなことない」と。
「男の子なら普通は○○君と呼ぶんだがなぁ」と言うと返事は何と「気持ち悪い~」でした。
皆さん、お気をつけ下さい。私達の知らないうちに日本の文化が食い荒らされていますよ。


68、吹くか、教育界への神風

 くどいようですがもう一度言います。私は課題の多い教育界を根底から改革するのは、もはや教育学者では無理だと思っています。彼らは教育を夢やロマンなどの詩的情緒で語るばかりで、科学的知見から観ようとしないからです。
文系社会学者の宿命と言って良いかも知れません。
しかし、これでは教育が絵本や童話のような夢物語になってしまいます。
一方、現実的な視点に立ち、国の行く末を真剣に憂い、伝統教育を推奨する正統派の教育学者も多くいます。
しかしどういうわけかこれらの声は教育界の片隅でくすぶり、霞ヶ関に届くことがありません。
なぜでしょう。教育現場に身を置いてきた私にはこれが不思議でなりませんでした。
 しかし、最近その原因がおぼろげながら分かるようになってきました。
実は私を含め、多くの国民の目の届かないところでどす黒い巨大な怪物が巣を作っていたのです。
その怪物とは他でもなく、今世間を騒がせている日本学術会議のことです。
 私は学術会議がもつ強大な権威と支配力と影響力はマスコミで報じられているより遙かに強大なものではないかと思っています。学術会議の会員には実は数名の教育大学教授も名を連ねています。
大学教授であり学術会議会員でもある、となれば教育界においてはその人の権威は絶大、というより絶対的頂点にあると言えましょう。
当然その「頂点」は多くの教育学者の目指すところとなり、他の学者達はこれを様々に忖度し、その姿勢や思想に倣うようになります。
これ自体はどこの社会でも普通にあることですから非難すべきことではありません。
しかし問題なのはその頂点である学術会議が思想的に偏向していることです。
それも世間の感覚では考えられないほど異常に左に偏っているのです。
頂点が偏向すれば組織全体が偏向するのは当然の理であり、教育界全体も左寄りになるのも頷けます。
 終戦直後、GHQは日本人の「精神の武装解除」を企み、20万人にも上る有為の人材を公職から追放しました。
教育界も例外ではなく、明治以来、終戦に至るまで我が国の教育を支えてきた保守派の教育学者があまた追放されました。
ということは追放を免れた残りの人達はリベラル(左翼)と言うことになります。
つまり教育界は戦後の当初からリベラルであったと言うことです。
さらにGHQの施策によって政治と教育が切り離され、教育は政治が介入できない「聖域」となり、閉鎖社会になったのです。
日本学術会議はこういう時代の中で設立されたのです。
左翼色の濃い閉鎖集団が「国家機関」という名の鎧を纏い、政治から干渉されないというのですから彼らはやりたい放題です。
 後任者を自分達の推薦で決めるなどは公的機関の私物化であり、世間の常識では考えられません。
しかし学術会議はこの手法で自分たちの偏向した遺伝子を長く継承してきたのです。
私はこれを観て教育の近代化など到底無理、となかば諦めかけていました。
しかし、そういうところに今回の「任命拒否事件」が起きたのです。
このことがきっかけとなり、これまで誰も手をつけられなかった聖域にメスが入ることになりそうです。
私はこのことが我が国に「神風」を吹かせてくれるような気がしてなりません。
世間の皆さん、もっと騒いで下さい。騒いで神風を煽って下さい。


67、閉塞する教育界に自然科学の光を

 教育が抜本的に改革されない原因、それは教育界に「保守」と「リベラル」の不毛な対立があり、それが建設的な議論を妨げているからです。こういう中ではたとえ正しい考えを提案しても、不毛な論争に阻まれて埒があかないのです。
私はこれまで、「教育荒廃の原因は文科省や教育学者が教育現場の厳しさを分かっていないからだ」と思い、退職後単身で上京し、臨時教員やアルバイトをしながら、政治家や文科省に働きかける活動をしてきました。
しかし、これと言った成果はありませんでした。
そこで、「お上に働きかけてもダメなら国民に・・・」と考え、首相官邸近くでチラシを配ったりマスコミ関係に働きかけたりしてきました。
しかし、これも成果は今ひとつでした。
そんな折、かつての教え子から「それならフェイスブックを使った方がええわ」とアドバイスされ、齢72という化石のような私がスマホという「近代兵器」を手に入れ、こうして自分の考えを発信しているのです。
いやはや何とも便利です。首相官邸近くでチラシを配っても、受け取ってくれる人はせいぜい20人です。
ところがフェイスブックなら1回の投稿と更新で数十人の方が読んでくれるのですから効果絶大です。
そして有り難いことにフェイスブックなら、わざわざ東京に出かけなくとも家にいてできますので交通費がかかりません。文明の利器とは何とも有り難いものです。
ともあれ、この活動によって私の考えが世に広まり、人々が触発され、賛同の声を上げてくれれば、岩盤のように動かない教育界も少しは変わってくれるかもしれません。
 今、日本学術会議と管総理が学術会議会員の任命を巡って激しく対立し、世間の注目を集めています。
私を含め、多くの国民はこれまで学術会議など、その存在さえ知らなかったのではありませんか。
ですからこの組織が左翼の巣窟になって国益を害していることなど国民は知る由もありません。
今、管総理の任命拒否によってこの問題が世間の耳目を集め、次第に学術会議の存在と行状が明らかになってきました。
これを機に国民の目の届かないところで国を蝕んでいる勢力を一掃してくれることを願っています。
 ところで任命拒否された6名の会員ですが、私の思った通り人文系社会科学の学者でした。
一般に科学と言えば「自然科学」であり、多くの国民は文系の学問を科学とは認知していないのではありませんか。
ネット上では「法学者?憲法学者?こんなの科学者と違うやん」という意見が多くありました。
しかし学問上の分類ではこれらも科学と言うことになっているのです。
ここで大事なこと、それは、そもそも自然科学系の学者というのは政治向きのことに疎く、というより、あまり関心をもたないのです。
保守だ、リベラルだ、などの議論より自然科学の研究にこそ関心があるのです。
ところで、以前も述べましたが、教育に関わる学問(教育学)は文系に分類されていますが、本来は理系、即ち自然科学系に分類されるべきものです。
そうすれば教育界に科学の光が当たり、政治的イデオロギーに振り回されなくなり、結果、浮世離れした「きれい事」の教育が一掃されるのです。
現代教育を再生させるためにはこれしか方法がないのです。
私はこれからも老骨にむち打って「教育近代化」に向けて頑張ります。
皆さん、私の投稿をシェアして世に広めてください。力を貸してください。ご声援をお願いします。


66、教育は科学であるべし

前回、教育界には「伝統教育であるべし」とする考えと、「新しい教育でなければ」とする考えの二つの流れがあること、そして本来正しいはずの「伝統教育」が流行を追い求める「新しい教育」に押され、教育現場の片隅に追いやられていること、
そしてまた、これらが政界でいう「保守」や「リベラル」のイデオロギーと絡み合い、不毛な議論を繰り返し、教育界全体が沈滞していること、について述べました。
今教育界が抱える多くの問題の根源は実はここにあるのです。
 先の大戦が終わって75年、世界では共産主義・社会主義が衰退する一方、民主主義は隆盛を極めています。
中国共産党だけは相変わらずの我が儘放題ですが、これも断末魔のあがきでしょう。
我が国でもリベラル勢力が衰退するとともに社会が保守化し、かつての55年体制は面影もありません。
しかし、その中にあって教育界だけは頑としてリベラルの牙城です。
つまり、教育界は世の中の潮流とは無縁な世界にいるのです。
学校の塀の外は保守化(ある人達に言わせれば右傾化だそうです)しているのに、塀の内側では左翼のままなのです。
なぜこんなことが起こるのでしょう。
 教職にあった時代、私はこのことが不思議でなりませんでした。
教育界は学力低下、いじめ、いじめによる自殺、不登校など深刻な問題が山積しているのに、これを横目に相変わらず能天気に浮世離れした教育をするばかりで、まるで危機感がないのです。
一時は「教育行政を担う者は事態の深刻さが分かっていないのか」、それとも「文科省が馬鹿なのか」などと思ったりしました。
これは私だけでなく、多くの国民もそう思っていることでしょう。
 こうなる原因ははっきりしています。教育に科学がないからです。
科学がないから美しい言葉で飾られた実効性のない教育がまかり通るのです。
マスコミで持ち上げられている「○○ママ」とか言う教育評論家は「教育は夢とロマンです」と宣いました。
冗談ではありません。「教職」には確かに夢とロマンがありますが、教育は科学であるべきなのです。
こんなことを言っているから教育がきれい事の空論に走るのです。
この状況を打破するには科学の力を借りる他はありません。
なぜなら科学には保守もリベラルもなく、左翼も右翼もなく、真実に導いてくれるからです。
大事なこと、それは・・・ここで言う科学とは狭義の科学である「自然科学」を指しているのであり、広義の「人文系社会科学」のことではありません。
人文系はやはり政治思想に染まりやすく、純粋に科学とは呼べないのです。
 今、日本学術会議と管総理が学術会議会員の任命を巡って激しく対立しています。
学術会議は「科学者の集まり」とされています。しかし・・・以下は次号に譲ります。


65、教育の近代化こそが急務

 最近の私の投稿を読まれた方の中には「この爺さんは、要するに昔の学校生活を懐かしみ、自分の子供時代にあったような教育に戻したいだけではないのか」と思われた方がおられるかも知れません。
確かに・・・小学校からの英語教育に反対し、ゆとり教育をこき下ろし、頑固親父を推奨し、童謡の価値を見直せ、などとする私の投稿を読めばそう思われるのも無理からぬことです。
しかしそれは全く違います。私は個人的な懐古趣味で教育改革を訴えているのではありません。
私が目指しているのはあくまで「教育の近代化」です。近代化とは科学を取り入れることです。
教育に科学を取り入れ、教育界にはびこっている「きれい事の空論」を一掃し、動物行動学や脳科学などの先端科学の知見に立ち、エビデンスに基づいた実効的な教育をすることです。
私がこれまで主張してきたことは全てこの考えに基づいているのです。
そしてこれを提言しているのは多分日本では、いや世界でも私だけだと思います。
 我が国には伝統教育の良さを訴える人はたくさんいます。
しかし一方ではこれを「時代遅れの古くさい教育」と見下し、「新しい教育こそ」として今風で軽薄な教育を進めようとする勢力があります。
無論、前者の「伝統教育」が正しいのですが、現代教育では後者の「今風な教育」が主流になっています。
 今の教育界では「伝統教育」の言葉を出しただけでも「頭が古い」「柔軟性がない」
「戦前の時代遅れの教育」、果ては「軍隊式教育」「右翼」などのレッテルを貼られたりします。
そして困ったことに、これらが保守やリベラルなどの政治思想に影響され、教育論争と言うよりイデオロギー論争と化しているのです。
こういう中では保守勢力がどれほど伝統教育の正しさを訴えても、保守・リベラルの不毛な論争に呑み込まれて埒があきません。
これは政界の保守とリベラルの対立が今に至っても決着を見ないことと似ています。
政治の世界であれば民意に問い、「選挙」で決着をつけることが出来ます(事実決着しつつあります)が、教育界にはそのような手段がありません。
こういう中にあっては「××教育大学教授」などのいかめしい肩書きを持った学者の「空論」に引きずられます。
もとより根拠のない「きれい事」ばかりの教育ですから実効性などあるはずがなく、教育現場が荒れるのは当たり前です。被害者は一番に子供、保護者、そして日本国民です。
私が思うに学者と呼ばれる人達はほとんどが世間知らずです。
世間を知らずして子供の教育など出来ましょうか。お笑いぐさです。
 教育改革をするのに最も早い方法は、教室で直接子供を指導している先生達が声を上げてくれるのが一番なのですが、
公然とそんな声を上げれば今の教育界では異端児扱いされかねません。
しかし、プライベートな話の中で同僚と教育論を交わすことくらいは出来るのではありませんか。
そんな会話の積み重ねが教育を変えていく力になるのだ、と私は確信しています。


64、教育は流行を追ってはいけない

卒業式で全国的に「仰げば尊し」が姿を消しつつありますが、私が校長とて赴任した学校では校長権限としてこれを歌わせました。
一部に「そんな偏った・・・」との意見もありましたが、「心の目を開かせてくれた先生に、歌で感謝の気持ちを表すのは当たり前、歌わないことこそ偏っている」と言って押し切り、「蛍の光」と「仰げば尊し」は必ず歌うことにしていました。
いざ歌ってみると地域住民(特に年配者)は「やはりこの歌がなかったら卒業式じゃない」と言って喜んでくれました。
実は地域住民や保護者も心の中では「子供達がつくった」とされる今風な卒業式よりも、きちんとした形式の厳粛な卒業式を望んでいるのではないでしょうか。
元来、結婚式であれ何であれ、儀式などというものは古式に則って行うから重みがあるのであって、流行ばかり追うものには儀式の価値はないのです。
また学校が流行に流されてばかりいては世間から教育そのものが軽んじられます。
 そして、これは大事なことですが、卒業式は卒業生だけでなく、在校生、教師、保護者、校区住民、教育委員会など、関係者が一同に会し、卒業の門出を祝い、送り出す学校行事としての儀式です。
決して卒業生のためだけに行われるものではありません。
したがって送られる卒業生は式に関してある程度の意見を述べることは許されるとしても、式の形に対してあれこれ注文をつけるなど筋違いなのです。
古い話で恐縮ですが、平成12年3月、東京都国立市立国立第二小学校の卒業式当日、卒業生6~7人が、国旗を掲揚した校長に謝罪と土下座を要求するという事件が起きました。
子供達の言い分は「先生達はみんな国旗掲揚に反対しているのに、校長先生は相談もなく国旗を掲げて自分たちの卒業式を台無しにした。
式は僕たちのもの、土下座して謝って欲しい」でした。
何とも唖然とするような言い分です。もちろん、これらは全て陰で組合教員が操っているものでした。
それにしてもなんと卑怯なやり口でしょう。
子供を前面に出してこれを盾とし、自分たちはその陰に隠れて身の安全を図り、自分たちの思想信条を通すなど、教師として、というより人間として許されません。
日頃は「子供を戦場に送るな」のスローガンを口にしながら、自分たちの意見を通すためには子供をためらうことなく「国旗・国歌反対闘争」という「戦場」に引き込むのです。
これが彼らの体質です。
 それにしても、この事件によって全国に名を馳せた国立第二小学校の名誉、そして何より、校長に土下座を迫った子供達は当時のことをどう思っているのでしょう。
今も肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。
組合員の思い上がった行動によって、大事な子供の将来に大きな禍根を残したことが今さらながら悔やまれます。
 ともあれ、卒業式で当たり前に歌われるべき「仰げば尊し」が、「子供達が決めた」の言葉にたじろいで、歌われなくなっていることは見過ごせません。
「仰げば尊し」を歌えば教師が尊敬されるようになるとは思いませんが、その歌詞が子供の脳裏に残っていれば学校に対する思いも少しは違ってくるのではないでしょうか。


63、師を仰ぎ見させることに抵抗感

 「仰げば尊し」が歌われなくなったことのもう一つの理由・・・
それはこの歌を子供に歌わせることに抵抗を感じる教師がいることです。
確かに、気持ちは理解できないわけではありません。
これを歌わせることは、教師自身が子供に「自分たちを敬いなさい」と感謝の気持ちを強制しているということになるからです。
感謝の気持ちと言うものは身のうちから湧き出てくるものですから「自分たちを仰ぎ見なさい」などは何とも押しつけがましく、抵抗があることでしょう。
しかし教え導く教師と、教え導かれる子供の間ではそうはいきません。
教師に挨拶しない子供や失礼な態度を取る子供には指導し、躾けなくてはなりません。
「自分を教え導いてくれる人には尊敬と感謝の気持ちを持ちなさい」と指導は当たり前のことです。
当たり前のことを当たり前にやればよいのに何をためらう必要があるのでしょう。
 しかし、なんであれ上から目線で子供に接することに抵抗がある教育界ですから、つい「仰げば尊し」も敬遠するのでしょう。
ある教師などは「私は子供に感謝されるほどのことをしたつもりはありませんから」
などと平然としていました。本人は謙遜しているつもりかも知れませんが、それは謙虚でも何でもなく、するべき指導をしなかった、ただの怠慢でしかありません。
 欧米では教師のことをティーチャーとよびます。
これは「教える人」と言うだけの意味で、尊崇の意味はかけらもありません。
しかし我が国では「教師」と呼ばれ、「師」とは即ちつき従う師匠と言う意味です。
そして、子供が卒業して師弟関係がなくなった後も「恩師」と呼ばれ、同窓会などを通じて師弟関係が続きます。
 日本の教育の源流は寺子屋にあります。
寺子屋の「お師匠様」は子供や親の期待と尊敬を一身に集め、ボランティア精神で子供の教育に尽くしました。
これによって我が国は欧米諸国を遙かにしのぐ高い識字率を支えていたのです。
明治維新後、我が国の飛躍的発展は、この高い識字率があったからだと言われています。
 教育に限らず、我が国では教える者と教わる者は師弟関係で結ばれます。
これは職人の世界でも芸人の世界でも同様で、我が国特有の文化です。
教える者の情熱と教わる者の尊敬の念が一つになって深い絆が生まれるのです。
 現代の教育界はこの関係が完全に破綻しています。
誰の責任でもありません。社会全体の責任です。
学校をバッシングして正義漢を気取っているマスコミ、
学校を支えようとせず不平不満ばかり口にする親、使命感と情熱を忘れた教師、そして教師を尊敬しなくなった子供、これだけそろえば教育が良くなるはずがありません。
 「仰げば尊しなど古くさい、偏っている」という教師がいますが、大間違いです。
偏っているのは自分たちの方だと言うことに気づかなくてはなりません。こういう時代であればこそ、学校は「仰げば尊し」の価値を子供に伝える必要があるのではありませんか。


62、仰げば尊し

 「蛍の光」と「仰げば尊し」、この二曲は「親子で歌いつごう日本の歌百選」にも選ばれた名曲です。
卒業式等で古くから学校に定着していましたので日本生まれの曲と思われがちですが実は違います。
「蛍の光」はスコットランド民謡、「仰げば尊し」はアメリカ生まれです。
「仰げば尊し」は最近まで「作者不詳」とされていましたが、平成23年1月、一橋大学の桜井雅人名誉教授が、アメリカの楽譜集「The Song Echo」(歌のこだま)に収録されていた「Song for the Close of School(学校卒業の歌)」を見つけ、これが原曲であることを発見しました。
 と言ってもスコットランドやアメリカでもこれらの歌を歌って厳かに卒業していった、わけではありません。
欧米の卒業式では国歌は歌っても、卒業式のために歌を合唱するという文化はありません。
「蛍の光」に至っては卒業式とは全く無関係で、
スコットランドでは友達との飲み会で、宴会が終わる時の別れの曲だそうです(準国歌として扱われることもあるとか)。
また「仰げば尊し」の原曲であるアメリカの「Song for the Close of School(学校卒業の歌)」には「師を敬う」などの言葉は一言もなく、ただ学校と友達に別れを言うと言うだけの歌です。
なんだか興ざめしますね。
我が国の卒業式では熱い感謝と惜別の気A持ちを込めて歌われ、会場の涙を誘います。
ルーツがアメリカであってもスコットランドであっても、これほど違った感情で歌い継がれてきたのですから、ルーツになっている曲とはもう別物と考えていいのではありませんか。
ということで、この二曲は我が国の歌と言ってよいのです。
 ところで私がここで言いたいのは、これらの歌の「出自」ではなく、卒業式の式歌として歌い継がれてきたこれらの歌が全国的に歌われなくなってきたことです。
理由をご存じでしょうか。これも現代の悪しき潮流が生み出した珍現象です。
子供の自主性・主体性が何よりも優先される現代ですから卒業式で歌う歌を子供に決めさせる学校も多くあります。
それはそれで大いに結構、しかし厳A粛に行われる卒業式ですから、その式にふさわしい曲でなくてはなりません。
私が赴任したある学校の一年目、ある保護者から「校長先生!いくら子供の希望だからと言っても、卒業式に『ドラえもんの歌』はあり得ませんよ」との不満を聞きました。
自分の子が卒業するのに「ドラえもんの歌で送られるなどギャグとしか思えません。
私が早速「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌うようにしたことは言うまでもありません。
 実は「仰げば尊し」が歌われなくなったのには、もう一つ理由があるのです。
私はむしろこちらの方が深刻だと思うのですが、これについては次回述べます。