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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

川内時男著 「教育直言」 時事評論社


 仰げば尊し(R2-2-16)

虚構の教育理念(12
 「仰げば尊し」はかつて卒業式の式歌の定番であった。文化庁が募集した「親子で歌い継ごう日本の歌百選」の中にも入っているが、その中でも別格の名曲と言えるだろう。作詞・作曲者不詳のこの名曲、現在の中高年の世代までは卒業式の式歌として歌い継がれてきたのだが、最近の卒業式ではほとんど歌われなくなった。理由をご存じだろうか。実はこれも現代教育の潮流が生みだした一つの現象なのである。子供に阿(おもね)ることを以て「子供中心の教育」と勘違いしている現代教育のこと、教師自らが「私たち教師を敬いなさい」などの歌を子供に歌わせることに抵抗があるからである。しかしこれでは教育は成り立つまい。目上の者に対する礼儀、世話になった人に対する感謝の気持ち、これらを教え身につけさせるのも教師たる者の勤めであろう。
奇妙奇天烈な卒業式
 卒業式といえば学校長が壇上にいて卒業生に卒業証書を授与するのが一般的であるが「この形は子供を見下している」として段差のないフロアで、教師・子供・保護者が輪の形に列し「対等」な形で進める学校がかなりある。何でも平等にしたがる現代教育の体質が産みだしたものだがまことに珍妙な風景である。何が珍妙か。卒業式の正式名称は「卒業証書授与式」である。「授与」とは「上」から「下」に授け与えるという意味である。ここまで平等にこだわるのであればなぜ「授与」の二文字にこだわらないのか。ついでに「卒業式」なる名称もやめて「卒業祝賀会」とでもすればよいと思うがいかに。そもそも教えられ導かれる側である子供と教え導く側である教師とを対等に位置づけるなどは教育の放棄であり、突き詰めれば教えること自体を否定しかねない論理である。
伝統に則ってこそ儀式
人生の節目節目に儀式をもち成長を祝うのは我が国の伝統文化である。およそ儀式などと言うものは古式ゆかしく伝統的形式によって執り行うからこそ儀式としての重みと意義があるのであって、流行を追い軽々に形を変えるようなものには儀式としての価値はない。子供が思いつきで考えた卒業式を「子供の手作りの卒業式」などと持ち上げ賞賛している学校があるが、儀式の意味を全く理解していないのではないか。かつて卒業式に「仰げば尊し」と「蛍の光」はつきものであった。教師の権威は時代の流れとともに薄れ、今や子供さえもこれを軽んじ、また教師自らが貶めようとさえする今の時代である。そしてまた悪平等のはびこった現代社会であるから「仰げば尊し我が師の恩」などの気持ちは子供の意識の中に微塵もなかろう。これでは心豊かな子供の育成など到底期待できるはずはない。
己自身の偽善に気づけ
 現在「仰げば尊し」に代えて歌われている歌には近年流行した子供が好みそうな歌が多い。「別れ」や「思い出」などを織り込んだ曲が多いのでそれなりに式にマッチしてはいるのだがやはりこれはおかしい。伝統と形式を重んじる卒業式に流行歌まがいの歌はやはり場違いでしかない。「でも子供がこの曲を歌いたがっているから」という教師もいるがこれも少し違うのではないか。古式に則り厳粛に執り行うべき卒業式の式歌であるからには子供に選ばせるというのは筋違いというものである。結婚式を司る神主や神父が厳かに行うべき式の進め方について新郎・新婦に希望を聞いているのと同じではないか。子供の希望はどうであれ伝統に則りしかるべき歌を歌わせるのが式というものである。また卒業式は学舎を巣立ちゆく卒業生にとっては、祝ってもらうと同時にこれまでお世話になった恩師に感謝の意を表する場でもある。その気持ちを歌に載せて伝えるのは人として当然の姿であり形というものであろう。何事も子供中心とし、平等としたがる教師は、一見するといかにも子供を尊重し大切に扱っているかのように見えるが、これによって子供が重大な思い違いをし、人の道を踏み外しているであろうことを考えるとその責任は極めて大きいと云わざるを得ない。本人はよかれと思ってやっているのかも知れぬが結局は重大な過ちを犯しているに過ぎない。多くの教師は一日も早く己自身の偽善性に気づくべきである。

 
  対等になった教師と子供(R2-2-16)
 
虚構の教育理念(13)
 前回「仰げば尊し」が歌われなくなったことについて述べたが少々補足することがあるのでこれを続けよう。要するに現代の悪平等主義が教師と子供を対等な位置関係にしてしまったことが原因なのだが、これらの風潮により教師という存在はもはや子供にとって仰ぎ見る対象ではなくなってしまったらしい。これは子供だけでなく親についても同じことが言えるのだが、何より深刻なのは当の教師自身が教育者としての誇りと使命をうち捨て、子供と対等どころかひたすら子供に媚びるようになってしまったことである。ある県には授業の始まりと終わりの「起立」「礼」を省くところがあると聞いている。「子供に礼を強制するのはよくない」というのが理由らしい。そして「子供は教えてもらう権利がある。また教師は給料をもらっているので教えるのは当然の義務であるから、授業をしたからといって子供に礼を強要するのは筋違いだ」とのことである。何ともあきれ果てた感覚である。そこには教育者としての使命感も情熱のかけらも感じられない。このような教師に教えてもらう子供こそ気の毒という他はない。権利、義務、そして給料をもらっているからなどの言葉は教職をビジネス感覚でしか捉えていないことの表れであろう。何事も権利と義務で割り切ろうとする風潮には辟易しているのだが教育に携わる者までがこのような感覚でいるとは何ともやりきれない。家を建ててもらった大工や病気を治してもらった医者には大抵の者が礼を言うであろう。これをビジネスで割り切るならば礼を言うのはむしろこれを生業としている大工や医者の方であるはず。しかし外国人ならいざ知らず大抵の日本人なら「支払った金」より「してもらった行為」に重きをおき、感謝の意を述べるのが普通である。これらは私たちが子々孫々までに伝えていきたい我が国の奥ゆかしい精神文化の一つではないか。
子供尊重という偽善
 子供は次世代を担う宝物である。だからこそ教え、鍛え、しっかり導かなくてはならない。その役割を担う教師が子供と対等になっていてどうしてその職責が果たせようか。ましてや子供にへりくだって歓心を買おうとする教師など無用というより害毒でしかない。
卒業式の「仰げば尊し」を拒否する教師の中に「私は子供から仰がれる程のことをしたとは思いません」という者がいる。本人は謙遜しているつもりなのかも知れないが、そのような薄ら寒い謙遜をするより自身の指導の結果どのような子供が育ったのかを客観的に観て子供に接する態度を反省することの方が先であろう。また真実子供からの感謝に値しない程度の仕事しかしていないというのであればその教師は直ちに職を辞するべきである。世の中には教職を目指している情熱的な若者がわんさといる。真に子供のことを考えるのであれば教職を退き後進に道を譲るべきである。
 教師は「知」を売るセールスマンであってはならない。「知」を授け、そしてこれを磨いて「智慧」とし、子供が心の目を見開くよう導いてやることが教師の使命なのである。未熟な子供をさも一人前であるかのように扱うことをもって「子供尊重」などとは大きな心得違いというものである。
厳しい教師であってこそ
 ここでもう一つ大切なことに触れなければならない。それはこれまでに述べたような偽善的教師は結局子供に心の内を見透かされ、軽んじられ、教師としての信頼感を得られないということである。一方、教師としての立場をゆるがせにせず、毅然とした態度で厳しく子供に接する教師は当初は煙たがられてはいても、ついには子供と深い信頼関係で結ばれるのである。これは筆者の長い教員生活の経験から確信をもって言える。幼い低学年の子供ならいざ知らず、ある程度の年齢に達し自我に目覚めつつある子供は教師のおべっかに乗せられるほど愚かではない。換言すれば子供に迎合する教師は子供を愚かな者として軽く見ていると言うことも出来よう。子供は未熟ではあっても決して愚かではないことを知るべきである。