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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

川内時男著 「教育直言」 時事評論社

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42、「自分らしく」の言葉に覚える違和感(6/28)


 社会では「自分らしく」という言葉がよく聞かれます。聞くほどに耳に心地よい言葉です。
しかしこの言葉、大人に対して使う分には問題ないのですが、発育途上の子供に使うべきではないと思っています。
「××らしく」というからには××に当てはまる言葉があるはずです。
子供らしく、若者らしく、人間らしく、などいろいろあるでしょうが、人が憧れ、目指しているものがこの××に入ります。
その××に当てはまるのが「自分」だと言うことはどういうことでしょう。
見倣うお手本は自分自身ということになり、「見倣う手本など要らない」と言うことでしかありません。
今風に言えば「俺流」、平たく言えば「我流」、つまり「自分の好きなように」との意味になってしまいます。
 これまで何度も述べてきましたが、子供は自分が憧れる人物を見て「あんな人になりたい」と思って生きています。
そんなところに「自分らしく生きなさい」と言うことは「人の真似ではなく自分の好きなように生きよ」と言っているのと同じなのです。つまり、生きる手本を示さずに放任すると言うことです。
基礎・基本が身についていない子供が自分が好きなように生きていては将来に向けての成長が期待できません。
書写を習うにはまずはお師匠様の手本を真似ることから始めます。
自分らしく我流の文字など書きますとお師匠様に叱られます。
繰り返しお師匠様の書を真似て、やがて基本が身についてくると、自ずと自分独自の書体が芽生えてきます。
何が描いてあるのかさっぱり分からない絵を描くピカソでも、初期には誰もが感心するような写実的な絵を描いていました。
振り子打法という独特のバッテイングフォームで名の高いイチロー選手も、高校時代には基本に忠実なバッティングをしていました。もしピカソやイチローが基礎・基本を無視し、最初から「自分らしさ」を出して「我流の絵」「我流のバッティング」をしていたとしたら、
この二人の天才は生まれなかったでしょう。
つまり自分が確立されていないのに「自分らしく」というのは意味が通らないばかりか、有害でさえあるのです。
 マスコミや学者は耳当たりの良い言葉が大好きですから、こういうフレーズにはすぐに飛びつきます。
そして「子供に甘いこと」を「子供に理解がある」と勘違いしている社会ですから、
こんな「おべっか」のような言葉が教育界に蔓延するのです。
ともあれ、子供の教育に携わる者は「自分らしく」などの言葉は軽々しく使うべきではないと言うことです。



41,豊かな感性は扁桃核で作られる(6/24)

 私はこれまで「道徳教育ではかっこいい生き方をした偉人や大人を数多く紹介せよ」と言ってきました。
かっこいい人を知れば子供がそれに憧れ真似てくれるからです。これは逆も言えます。
子供は「かっこ悪い」と思う人を真似ません。「あんな大人になりたくない」と思うからです。
これが「霊長目ヒト科の子」である子供の本能です。
 以前、学校でいじめ防止のポスターを見たことがあります。
俳優の津川雅彦さんの「いじめ、かっこ悪い!」のセリフと顔が印象に残っています。良いポスターです。
子供の心に「いじめのかっこ悪さが」と刻み込まれたことでしょう。
人気タレントの言動は社会に(特に子供に)大きな影響を与えるものです。
ですから子供が憧れる有名人には子供にとって有益な言動をしなければいけないのです。
薄っぺらな認識で政治批判するなど、それこそ「かっこ悪い」のです。
 こうしてみると大脳辺縁系の扁桃核の働きがいかに重要かが分かります。
人はみな、かっこいいと感じれば真似るし、かっこ悪いと感じれば真似ません。
そして、その感じ方は全て扁桃核が決めているのです。人間の心はここで作られていると言っても過言ではありません。
 この地上には137万種を越える動物が生息していると言われます。
このうち人間以外の動物はすべて「体で生きる動物」です。
手足をもがれても、どれほど厳しい境遇に置かれようとも、体が生きている限り生き延びようとします。
自殺など考えません。そしてこれらの動物は自らの生命維持と子孫を残すこと以外に生きる目的を持ちません。
 しかし唯一人間だけは「心で生きる動物」です。食べて子孫を残すだけの生き方では満足しない生き物です。
金銭欲、権力欲、名誉欲にとどまらず、生きる目的が欲しい、崇高な生き方がしたい、充実した人生を送りたい、
愛が欲しい、などなど、ほんに人間は他の生き物に比べ、なんと欲張りな生き物でしょう。
しかしこれこそが人間であることの証でしょう。
因みにすべての哺乳動物は脳に扁桃核を持っていますが、
その働きは怒り、闘争心、恐怖心などを起こさせますが、人間のように美しい音楽や景色を見て感激させる働きはありません。
 私達大人は次代を担う子供達によい手本を示し、子供達がそれを真似て心豊かに美しく生き、
これからの日本を背負っていけるよう導かなくてはなりません。
それを考えれば、教育関係者の責任は重く、机上の空論をもてあそんでいる暇はないのです。
 子供は自分なりの美学を持ち、かっこよく生きたいと願っています。
そのための手本をほしがっています。
生きる手本をほしがっている子供にそれを示さず「自分で考えなさい」などは教育の放棄でしかありません。
「子供に生き方を押しつけるのはよくない」というのがその理由ですが、馬鹿を言ってはいけません。
子供には多くの人の生き方を見せてやるのです。
それを真似るかどうかは子供自身に任せるのです。それが自主性というものでしょう。


40、教育は「きれい事」ではなく、結果が全て(6/21)

 「子供は無限の可能性を秘めている」との言葉をよく聞きます。
これを額面通りに信じている人は教育界の中にも多くいます。
「子供の力を信じよう」とする気持ちから出るのでしょうが、
現実に子供の力が無限であるはずはありません。ただの「お題目」です。
しかしその「お題目」を信じているから子供の力を過信し、
深刻ないじめ問題の解決までも子供の手に任せようとする教師が出るのでしょう。
子供の力で解決する、と言うことはつまり子供に話し合いをさせると言うことでしょうが、「いじった」「いじられた」程度の軽微ないじめならまだしも、深刻ないじめは大人でさえ解決が難しいものです。
その解決を子供の手に委ねるなど、教師の責任の放棄でしかありません。
 実は教師に訴え出たいじめ被害者の子供は「先生、僕を助けて!」「僕をいじめる悪い奴をやっつけて!」と
悲鳴を上げているのです。
いわば悪人に殺されそうになった子供がウルトラマンに助けを求めているのと同じ気持ちです。
つまり、いじめ被害者は先生の強大な力で悪人をやっつけてくれることを願い、勇気を振り絞って訴え出たのです。
教師はこの気持ちに応えてやらなければなりません。
日頃から「子供の気持ちに寄り添って」と言っているのですから、当然そうすべきです。
と言っても、理も非も問わず「悪人」をやっつけるわけにはいきません。
加害者から十分な聞き取りをし、理不尽ないじめだ、と判明した時に「悪人」を懲らしめることです。
大声を張り上げて加害者の子供をとっちめるのです。
まかり間違っても「いじめはいけないことなんだよ」と説諭したり、
形だけの謝罪で済ませたりすることは許されません。
こういう指導では子供や保護者に「先生は何もしてくれなかった」との不信感を持たれ、
教師の指導力が疑われることになります。
品のない言い方ですが、こういうときには加害者をびびらせ「今度同じことをしたら先生に張り倒されるかも・・・」
と思わせることです。こうすることで被害者は安心し、教師は信頼されるのです。
野蛮だと思いますか?野蛮でもいいではありませんか。
いじめ被害者が救われるならそれでいいでしょう。
これを「力で押さえる指導は教育ではない」などという先生は、
子供や保護者から「口先だけできれい事言う先生」とされ、それを知った子供からは先生を軽んじられ、
いじめがエスカレートするのです。
いじめに対しては教師は常に厳しく指導しなくてはなりません。
「いじめを絶対許さない先生」の姿を子供の目に焼き付ければ、いじめの抑止力になり、
またそう言う先生に子供が憧れ、見倣ってさえくれるのです。
 子供が霊長目ヒト科であると言うことを忘れ、子供を美化していては指導が「きれい事」に流れます。
こんなきれい事で問題が解決できると思っている人は教育関係者だけです。
世間の人は教師の「きれい事の建前論」を聞きたいのではありません。
いじめをなくして欲しいのです。
何度も言いますが結果を出せていない者がきれい事を言っても
それは「屁理屈(私の郷里では「ツベクソ」と言います・・・下品ですみません)」


39,「子供は何事も自分の手で解決できる」という幻想(6/17)

 前回は脳科学の視点から見た、いじめ問題の解決法を述べましたが、
これを読んでもなお「いじめ問題は子供の手で解決できる」と信じている人もいることでしょう。
「子供達が知恵と力を出し合って問題を解決する」などはメルヘンチックでロマンがありますが、
あいにく子供はメルヘンの世界ではなく、現実世界の中に生きています。絵本の世界のようにはいかないのです。
これについては何度も述べてきましたのでこれまでにしておきます。
 随分前のことになりますが、ある中学生が道徳の授業についての感想をインターネットに投稿し、
それが新聞に掲載されたことがありました。それによりますと・・・
「先生達はいじめられた人を見かけたらどうするか」「電車の中でのマナーはどうあるべきか」など、
答えの分かりきったことばかり質問する。こんなこと子供はみんな分かっているのに、どうして道徳の時間を設けるのか・・・
と言うことでした。道徳の授業に白けた子供の率直な感想でしょう。この授業で中学生が感じた空しさは十分理解できます。
「いじめを見かけたら注意してやめさせましょう」などの中身の軽い授業が何の役にも立たないことは中学生でなくとも分かります。
授業をした教師は子供に考えさせ、話し合いをさせているつもりでしょうが、
実は、子供は「先生がどんな答えを待っているか」を考え、模範解答を探しているに過ぎないのです。
そして実際教師はその模範解答が出てくるのを待っているのです。
生き方を子供に考えさせるなどの指導は、知性脳が発達した高校生以降にすべきなのです
(と言っても高校には道徳の授業はありませんが)。
ということで、道徳の授業では、なまじ子供に話し合いさせるよりも、
子供が真似のできる具体的な例を手本として示すことが大事なのです。
 偉人が生きてきた多くの例を教えるのはもちろん良いのですが、実はそれよりもっと効果的な方法があります。
それは先生の体験談を話して聞かせることです。
いじめられたこと、いじめの苦しみから助けられたこと、あるいは自分が助けた体験、何でも良いのです。
話は少々脚色してもかまいません。
子供は説教くさい話は敬遠しますが、先生の生の体験談には子供はよく食いついてきます。
教科書や資料に出てくる偉人と違い、目の前にいる実物の先生の体験談ですから子供は興味津々です。
そして小・中学生の大部分は先生に憧れていますので、よく真似てくれるのです。
一度試してみてはいかがですか。
※ここしばらく教師向けの話が多く、興味がわかない方も多いことと思います。ごめんなさい。


38、道徳の授業でいじめ問題の解決を(6/15)

脳科学について私の投稿をここまで読んでこられた方なら、教室でいじめが蔓延しないための方策や指導、
いじめが発生したときの指導はどうすれば良いか、お分かりのことと思います。
正解は、道徳の授業などで、いじめに敢然と立ち向かったり、
弱い人達を助けた「かっこいい人」を扱えばそれで良いのです。
そうすれば多くの子供がそれに共感し、真似てくれるのです。
6千人のユダヤ人の命を救った杉原千畝や、
太平洋戦争中に海に投げ出されたイギリス兵を救助した工藤館長などは最適の教材と言えるでしょう。
前回にも述べましたが、子供が何を「かっこいい」と思うか、あるいは思わないかは、
ひとえに子供の感性脳の「扁桃核」の働きによって決まります。
この「扁桃核」には、親から「生得的(生まれつき)」に受け継いだ「感性の種」が眠っています。
どんな音楽に、どんな景色に、どんなものに感動するかがこの「扁桃核」に「感性の種」として眠っているのです。
しかしその「感性の種」も目覚めなければ意味がありません。
学校では美しい音楽を聴かせたり、綺麗な風景を見せたりして子供の脳を震わせ、
眠っている「感性の種」を目覚めさせ、豊かな感性を培うことが求められるのです。
実は私はクラシック音楽に感動する感性を持ち合わせていません。
小学生の頃から春日八郎や三橋美智也のいわゆる「ド演歌」ばかり聴いて育ちましたから、
クラシック音楽に感動する感性の種が目覚めなかったのでしょう。
 余談はさておき・・・では弱い人を助ける人を見ても「かっこいい」と共感しない人、
つまり、そのような「感性の種」を親から受け継いでいない子供はどうするのか、です。
実は、どうすることもできません。
感性を目覚めさせようにも、その「感性の種」を持ち合わせていないのですから、どうしようもないのです。
・・・とこんなことを言えば、ある方々から猛烈に批判されそうですが、
これは脳科学の専門家(九州大学名誉教授、井口潔医学博士)が言っていることですから、
私に反発されても困ります。
 ということで、立派な生き方をした人を紹介しても肝心の子供が「かっこいい、あんな人間になりたい」と思わなければ、
その子供にとっては授業は空振りだったことになります。
しかしそれでもいいのです。子供はそれぞれ個性としての感性を持っていますから、
全ての子供に同じ感じ方をさせようなどは所詮無理なのです。
むしろ同じ感じ方をさせようとすることこそ「押しつけ教育」であり「洗脳教育」になるのです。
クラスの子供全員が「いじめは許せない!」と、心からの怒りを感じてくれれば良いのですが、
現実にはそれは不可能です。
しかし、そういう子供がクラスに一定数いれば、いじめ問題は解決できるのです。
その中から敢然といじめに立ち向かう子供がいたり、いじめ被害者に寄り添う子供や、
いじめを見かけた子供が先生に知らせに走ったりする子供が出てくればそれでよいのです。


37、「道徳」は考えさせるより、感じさせよ(6/10)

 前回は途中で話しがそれてしまいました。本論を続けます。
ともあれ道徳の授業では、子供が憧れそうな人物(偉人、スポーツ選手など)を
たくさん紹介することが効果的だということです。
それらの中に子供が「かっこいい」と感じる人物がいたなら、
教師がとやかく言わなくとも子供は勝手にこれを真似ます。
逆に「かっこいい」と思わなければ教師がいくら押しつけても子供は真似ません。
道徳の授業でいろんな人の生き方を知った子供がどんな人物に憧れ、
何を真似るかは子供の感性によって違ってきます。
そして感性とは10歳頃までに大脳辺縁系の扁桃核に刻み込まれた蓄積そのものなのです。
どんな生き方に憧れるか、あるいはどんな音楽に共鳴するか、
またどんな絵や写真に感動するか、などはすべて10歳頃までの経験が
大脳辺縁系の扁桃核に刻み込まれてつくられた感性によって決まるのです。
実はその感性こそが「個性」と呼ぶべきものです。
子供の個性と言いますと多くの国民は、子供が生まれつき持っている性格や癖などを思い浮かべるようですが、
「個性」とは元来そんな薄っぺらなものではないはずです。
 またまた話しがそれてしまいました。元に戻します。
先日、小学6年生の孫が使っている道徳の教科書を見ました
(道徳はこの度「教科」に格上げされましたので「教科書」です)。
さすがに教科書だけあって、これまでのものとは比べものにならないほど充実しています。
多くの偉人の話が豊富に取り入れられており、子供が憧れ真似てくれることが期待できます。
 ところで道徳の授業の進め方ですが、多くの場合「子供に考えさせる」との観点から、
子供が意見を述べ合い、考えを深めていく、と言う形が取られます。
これを否定するつもりはありませんが、実はこれまで何度も述べてきましたように、
子供は知性脳(大脳新皮質系)が十分発達しておらず、
その代わり感性脳(大脳辺縁系)がよく機能していますので、理性より感性で行動するのです。
つまり「どう行動するのが正しいか」と考えるのではなく、「どう行動するのがかっこいいか」で動くのです。
ですから道徳で偉人の生き方を扱う授業では子供が「かっこいい」と感じれば、それで完結したも同然なのです。
突き詰めて言えば子供に読ませるだけでよいのです。
読ませて感性脳の扁桃核に響かせればそれで完了なのです。
これなら教師の授業準備も少なくなり、負担が軽減されます。
道徳の授業は事前準備が大変です。学校現場で道徳が敬遠されがちなのはこのためでしょう。
 大事なことですから最後にもう一度言います。
道徳教育は考えさせるものではなく、感じさせるものです。
今回の投稿は学校現場の「校内研修」のような内容になってしまいました。
教育関係者以外の方にはさぞ分かりにくかったのではないでしょうか。ごめんなさい。


36、脳科学が示す道徳教育のあり方(6/7)

 前回の繰り返しになりますが、子供は「頭で考えて生きる」のではなく、「かっこいい、美しいと感じる人を真似る生き物」です。
ではどんな人をかっこいいと感じるのでしょう。それは子供によって様々です。
イケメン、お姫様のように綺麗な人、腕力の強い人、勉強のできる人、努力家、スポーツ万能な人・・・
挙げていけばきりがありません。
しかし小学生のような幼少の子が共通して憧れる人がいます。それは親です。
幼い子供にとっては父親はウルトラマンのように強く、また母親は女優のように美しいのです。
当然子供がまず第一に真似るのは両親です。親の言いつけをよく聞くという意味ではありません。
親のしていることをそのまま真似る、つまり猿真似をすると言う意味です。
「子供は親の背中を見て育つ」は全くの事実なのです。
 ことのついでにお話ししておきます。よく勉強する子に育てるにはどうすれば良いか、です。
それは「勉強しなさい」を百回言うより、子供の見ている前で親が勉強する「ふり」をすることです。
あくまで「ふり」です。机に向かって本を広げていればよいのです。
読む本は推理小説であってもかまいません(漫画やエロ小説はダメ)。
子供は本を読む親を見て「うちの父ちゃん、よく本を読んでる、偉い、かっこいい」となるのです。
子供にとって親は無条件でかっこいいものですから、
子供はそれを真似て机に向うようになります(ただしこれが効果的なのは小学生まで、
中学生になると親をかっこいいと思わなくなり、親を真似なくなるからです)。
ですから子を持つ親は、子供が10歳になるまでは常に「我が子が見ている」ことを意識して手本を示さなくてはなりません。
 ついでにもう一つ・・・近年は街でチンピラを見かけなくなりました。
肩で風を切って歩くチンピラをかっこよく描いた映画やドラマがなくなったからです。
お手本になるチンピラがいないのですから、子供が真似るはずがありません。
こうしてみると「子供は世相を映す鏡」と言うことを実感させられます。
 その世相で私が不満に思っていること・・・それはスポーツ選手や芸能人などの大人の振るまいです。
お馬鹿芸人(私は芸人とは思っていません、ただマスコミによって顔が知られているだけ)が、
自分の無知を顧みることなく、したり顔で政治家を批判したりしていることです。
「無知なお馬鹿芸人」に憧れる子供はいないでしょうからまぁよいとして、スポーツ選手はなんと言っても子供の憧れの的です。
実際に多くの子供が真似るのです。
ですから彼らには「全国の子供達が自分を見ている、子供達が自分を真似るのだ」
という気持ちを忘れないでいただきたいのです。
有名人は政治に口を挟むな、と言っているのではありません。
有名人が政治家を小馬鹿にする発言をすれば、子供は政治家を尊敬せず、政治そのものを馬鹿にするようになるからです。
今回は話が脱線してしまいました。ご容赦ください。


35、道徳教育と脳科学(6/2)

前回、子供は「考えて行動する」よりも「憧れる者、尊敬する者を真似て行動する」と言うことをお話ししました。
幼い女の子がお姫様になったり、もっと幼い子供ならウサギや蝶々になってその動きを真似るのと似ています。
憧れる対象は身近な親兄弟からはじまり、親しい友人、上級生、漫画の主人公などの架空の人物、
憧れのスポーツ選手や芸能人へと広がり、そして歴史上の人物や偉人を真似るようになります。
いずれの場合においても子供は憧れる者になりきり、口ぶりから所作まで似てきます。
 子供は知性脳(大脳新皮質)が十分機能していないため、感性脳(大脳辺縁系)の働きによって行動します。
ですから「頭より心」つまり理屈ではなく「好きか、嫌いか」によって行動するのです。
このことは子供の教育を考える上で極めて重要なことです。なにしろ子供が憧れそうなお手本を与えるだけで、
子供が勝手に真似てくれるのですから、こんなわかりやすいことはありません。
実は、このことは道徳教育を考えるうえで大きなヒントを与えてくれれるのです。
道徳の授業と言えば、昔はマザーテレサや二宮尊徳などの偉人伝を読ませたり聞かせたり、
また子供が憧れそうな有名人のかっこいい一面を知らせたりして、子供がそれを真似て見倣ってくれることを狙っていました。
しかしこのような授業は「生き方を子供に押しつけるものだ」として否定されます。
そして「どう生きるかは子供自身に考えさせることが大事」とされているのです。
ということで今の道徳の授業は子供に意見を出させ、子供どうしが考えを述べ合う、などの形が主流になっています。
「真似るのではなく、自分の頭で考えさせる」と言えば、多くの国民は何となく納得し、正しい指導のように思うでしょう。
しかし脳科学の視点に立てば必ずしもそうではないのです。
子供に考えさせることを一概に否定するものではありませんが「子供は真似をする生きもの」と言うことを考えれば、
「真似はいけない」ではなく、むしろ憧れて真似させるよう仕向けることが大事なのです。
 とは言っても、子供がかっこいいと感じなければ教師がどれほど押しつけようとしても子供は真似ようとはしません。
つまり真似るか真似ないかはひとえに子供自身の感性にかかっているのです。
子供が自分の感性によって生き方を決めているのに、どうしてこれが教師から押しつけになるのでしょう。
現代教育は考えることがどこかずれています。
 「伸び伸び教育」を信奉する人達は何かにつけて「価値観の押しつけだ」「洗脳教育だ」として反発します。
なぜでしょう。教え込む教育=戦前の教育=軍国主義教育=悪、との固定概念に縛られ、
柔軟な思考ができなくなっているからです。
教育の有りようを考えるときにはイデオロギーにとらわれていては教育のあるべき姿が見えなくなるのです。


34,脳科学を基盤に据えた教育を(5/31)

 脳科学が人間の教育に示唆してくれるもののうち、最も注目すべきことは「子供は真似をする生き物」だと言うことです。
大脳辺縁系がよく機能している少年期の特徴はパターン認識、好奇心、遊び、模倣であり、善悪、正邪など、
人間としてあるべきことを躾けるべき時期とされています。
そのためにはよい手本を示し、真似させることが大切とされています。
余談ですが「真似はよくない」「自分で考えよ」などの指導は
知性を司る大脳新皮質系が機能し始める青年期を迎えた後にするのがよいとされています。
 ともあれ子供は本能として何かを真似たがります。子供は霊長類です。霊長類は一部の例外を除いて仲間の真似をします。
これは霊長類の自然界における必然です。
この猿真似の本能なくしては群が群として存続できないからです。
ただ人間の子供は他の霊長類のように闇雲に真似をするのではなく、
自分が憧れる対象、かっこいいと感じる対象を真似ます。
これが他の霊長類と違うところです。母親を真似てお化粧をしたりする女の子、
風呂敷を首から垂らしてスーパーマンになったつもりでいる男の子などはこの表れでしょう。
 大事なことですからくり返します。
子供は感性脳(大脳辺縁系)は機能していますが、知性脳(大脳新皮質)である大脳新皮質は十分発達していません。
ですから子供は「考えて行動する」より、「真似て行動する」生き物なのです。「子供は親の言うようにはしないが、
親がするようにする」「子供は親の背を見て育つ」と言われるのはこのためです。
このことは子供を教育する上で極めて重要な視点です。
近頃の中高生は煙草を吸わなくなりました。なぜでしょう。
「煙草はかっこいいと思わなくなった」からです。「煙草は健康に良くないから吸わないでおこう」と「考えた」からではありません。
私が中高生の頃は、テレビや映画で石原裕次郎や高倉健がかっこよく煙草を吹かしていました。
映画スターは中高生の憧れです。当然、若者はこれを真似ます。
しかし現代はテレビや映画でそんな場面はほとんど見かけません。
また街で煙草を吸っている人と言えば、中高年のオッサンか、ケバいおばさんばかりです。
どう見てもかっこよくありません。これでは若者は煙草を吸う気にはならないでしょう。
話を元に戻します。これは大事なことですから繰り返します。
要するに子供は「考えて行動する」よりも「真似をして行動する」生き物だと言うことです。
そしてこのことは今後の教育を考える鍵となるのです。


33、脳科学で教育を近代化せよ(5/27)

 私が教育界に何としても取り込んで欲しいと願っている科学、それは脳科学です。
脳科学は日進月歩の科学の中でも最先端のものです。
まだ未知の部分が多く、そのまま子供の教育に活かせるほど成熟していませんが、
それでも脳の働きのかなりの部分が解明されてきました。
そしてその成果は様々な分野、特に医療分野で幅広く活用され、次々と新しい治療法が開発されています。
一方教育界はどうでしょう。
教育は平たく言えば心を発育させる営みです。そして心とは即ち脳の働きですから、教育は脳科学と密接な関係にあるはずです。
しかし教育界が脳科学の研究成果を取り入れ、新しい教育を開発したという話は未だ耳にしたことがありません。
そもそも教育関係者は脳科学に関心がないように見えます。
専門家の方々は得てして自分の専門分野にはくわしい反面、それ以外の分野に無知な場合が多いものです。
専門家といえど、自分の専門分野以外のことについてもそれなりに知っておかなければなりません。
「専門馬鹿」になってしまうからです。
教育界はとりわけこの傾向が強く、脳科学や動物行動学などの新しい学問と交わろうとしません。
そればかりか、これを拒絶しているようにさえ見えます。
言ってみれば自分たちが信奉する「古い教育論」に引きこもっていると言えましょう。
教育界が引きこもっていては閉鎖的になるばかりです。
そして教育現場が「世間知らず」になり、教育そのものが独善的で偽善的になります。
「学校の常識は世間の非常識」といって笑われるようでは役目を果たせません。
話を脳科学に戻します。
脳科学に過大な期待は禁物ですが、「教育近代化」のためにはこれを取り入れなくてはなりません。
脳科学については私は全くの素人ですが、九州大学名誉教授の井口潔博士の著書をもとに、
教育に関する部分の要点をお話します。少々退屈でしょうが、ご辛抱ください。
 ヒトの脳は生命維持装置とも言うべき脳幹と、
食欲・性欲・集団欲や喜怒哀楽・美的感性を司る大脳辺縁系(感性脳とも呼ばれる)と、知性を司る大脳新皮質(知性脳とも呼ばれる)の三層構造になっています。
ここで大事なことは、これらの部位は生まれたときから同時に機能しているのではなく、年齢と共に順次機能し始めると言うことです。
 生まれたての赤ん坊ではこれらの脳はまだニューロン回路がほとんど未熟で、
出生後の養育刺激で3歳頃までに大人の80%、10歳頃までにほぼ大人並に近づくということです。
すなわちヒトの体は完成された状態で生まれますが、脳はその後10年かけて完成するのです。
ということはヒトの体は自然が作ってくれますが、脳だけは人間が育てなければつくれないということなのです。
ですから教育はその脳の発達に歩調を合わせて行わなければ効果がないのです。
テレビで教育学者やコメンテーターが教育について語っているのをよく耳にしますが、
多くは幼児から小・中学生、時には高校生までも一括りにして子供と呼び、
「子供の教育はかくあるべし」と言っていることです。大間違いです。
脳の発達は年齢によって違うのですから、幅広い年齢層の子供をひとまとめにしての教育論などナンセンスなのです。
枠に入れた画一的教育がよい時期もあれば、子供に意思に任せて伸び伸び学習させるのがよい時期もあります。
自分の頭で考えさせるのがよい時期もあれば、無理矢理に詰め込むのがよい時期もあります。
子供の年齢と脳の機能を無視して「詰め込むことより子供自身の頭で考えさせよ」
などと言うのは脳科学に無知な人の言うことです。
因みに私が教育を語るときの「子供」というのは主として義務教育段階までの子供を指しています。


32、教育に科学を取り入れ、根拠なき定説を排除せよ(5/24)

(最初にお断りしておきます。ここで述べている教育論は義務教育段階の子供に関してであり、
高校生以上については必ずしも当てはまるものではありません)
教育界には根拠のない定説がたくさんあります。
例えば「詰め込み教育は子供の創造性を失わせる」は教育界だけでなく、世間でも広く信じられています。
しかし私はその確たる根拠は見たことも聞いたこともありません。
IT技術は最も創造性が要求される分野ですが、そのIT技術でトップレベルのインドは詰め込み教育で有名です。
「画一教育は子供の個性を埋没させる」も広く信じられている根拠なき定説です。
「個性の伸長」「個性の尊重」が叫ばれ始めたのは半世紀ほど前からですが、
現代の子供が昔の子供に比べて個性豊かになったとは思えません。
また、今の大人が個性豊かになったとも思えません。
老人の懐古趣味で言うのではありませんが、むしろ画一教育全盛だった昔の方が大人も子供も個性豊かだったように思います。
 根拠なき定説はこれ以外にもたくさんあります。
「丸暗記は無意味」「教え込む教育では考える力が育たない」「受験勉強に追われるとストレスで非行が増える」などです。
これらはほとんどの国民がいささかの疑いもなく信じている定説です。
 しかし一度立ち止まって考えてみて下さい。本当にそうか。そのことを信じるに足るだけの根拠やエビデンスはあるのかと。
何の根拠もなく、ただ信じているだけでないのか。根拠もなく信じるのは宗教であり科学ではありません(宗教を批判しているのではありません)。
 私は長い教師生活の中で、これらの定説が間違っているのではないかと言う疑問を持ち続けていました。
そして動物行動学や脳科学などの先端科学を聞きかじったり、エビデンスをもとに考察したりしました。
それほど深く研究したわけでもなく、また決して博学でもない私ですが、教師の嗅覚として「これは間違っている」と確信しました。
私の嗅覚が正しく、これらの定説が間違っているとするなら、これら教育界の定説は「迷信」でしかないと言うことになります。
 だとすれば恐ろしい話ではありませんか。
「教育は国の礎」と言いながら、その大事な教育を「迷信」に頼っているのですから、とんでもない話です。
しかし私から見て「迷信」であっても、学者先生やマスコミはじめ、多くの国民もこれを正しいと信じているのですから始末に負えません。
これらの定説が迷信であることを明らかにするには、科学の視点で検証する必要があります。
私が何度も「教育に科学を」「教育の近代化を」と訴えているのはこのためです。
私はこの「根拠なき定説」を教育界から一掃するため、どこまでも真実を世に訴え、戦うつもりです。
しかし対する相手は名だたる学者先生はじめ、強力な発信手段を持つマスコミ、そしてこちらは何の肩書きもない年老いた一介の元教師です。
とても歯が立ちません。時折上京し、首相官邸近くでチラシを配ったり、政治家に働きかけたり、全国の都道府県知事や都道府県議会議長、PTA連合会に資料を送ったりしましたが、教育界は微動だにしません(郵送料だけでウン万円、年金暮らしの財布にはこたえました)。
そこで始めたのがフェイスブックです。
これならチラシを配るより遙かに効率的です。
かつての教え子達の手ほどきを受けながら、たどたどしい手つきで発信しています。
皆さん力を貸して下さい。私の考えを世に拡散してください。よろしくお願い致します。


31、舶来教育の輸入より国産の教育を(5/20)

 以前「我が国のお国柄に会わないから欧米教育を真似るのをやめよ」と書いたことがあります。
戦後、我が国の教育界は社会から問題を指摘されるたびに改革がなされてきました。
これ自体は何も悪いことではありません。社会が変われば教育も変わらなくてはならないからです。
問題なのは、その改革が欧米教育を下敷きにした輸入教育になっていることです。
以前にも述べましたが、欧米と我が国では国民性や文化、つまり「お国柄」が全く違います。
温厚で和を貴ぶ日本国民に、権利意識と自己主張の塊のような欧米教育を持ち込めば、
日本人の美点が損なわれるのです。
イワナやヤマメが棲む清流に獰猛なブラックバスを放流すれば生態系が破壊されるのと同じです。
ところで、欧米の物真似をする教育改革にどれほどの予算がつぎ込まれてきたのでしょう。
私は恐ろしくて調べる気にもなりませんが、
我々の想像を遙かに超える莫大な額をつぎ込んだことは間違いないでしょう。
教育が少しでも改善されたのならそれでも良いのですが、実は改革を重ねるほど劣化しているのです。
いじめによる子供の自殺などはその典型と言えましょう。
企業で莫大な金をかけて新しい製品を開発したとしたとき、
その製品がそれ以前の製品より品質が悪かったとすれば、その企業はたちまち倒産するでしょう。
民間企業のこの非情な論理に従えば、教育界は過去何度倒産していたことでしょう。
「親方日の丸」だから許されるのでしょうか。
 以前エビデンス(証拠)の話をしましたが、
教育界は「莫大な金をかけて開発した教育」がどれほどの成果を上げ、
社会からどう評価されているのかをほとんど検証することがありません。
即ち企業で言う品質検査とマーケティング調査を全くやっていないのです。
これでは同じ過ちが繰り返されるのは当然です。
 近年は欧米車に乗る人はほとんどいません。当たり前です。
高価な上に故障が多く、おまけに燃費が悪いとなれば当然の成り行きです。
教育界はこれまで、あがめ奉って欧米教育を持ち込みましたが、
今やその輸入教育が欠陥だらけだと言うことが露見しています。
我が国ではそれでも欧米教育を崇拝してやみません。
教育界はまだこのことに気づかないのでしょうか。
また、文科省はこの「欠陥製品」である「舶来教育」をいつまで使い続けるつもりでしょうか。
 日本の文化・文明の質の高さが認識されつつある現代、
「舶来もの」だからとして崇拝される時代はとっくに過ぎています。
教育は文化の中核であり国の礎です。
国の未来を担う子供を育てる教育が外国製であってよいはずがないのです。
これは我が国だけではありません。
世界中どの国においても教育は「その国で育まれてきた伝統的教育」であるべきなのです。
当然我が国の教育はメイド・イン・ジャパンの「国産教育」でなくてはなりません。



30、不登校・引きこもりと臨界期(5/17)

不登校と引きこもりの問題は、様々な施策が行われているにも拘わらず、なぜ解決しないのでしょう。
私は以前にも言いました。
今やっているような「本人を労り尽くして回復を待つやり方」では解決しないと(事実、全く解決していません)。
これを見て一部の短気な人は「そんなヤツは甘ったれているんだ、
無理矢理に家から引きずり出せ!」と言うでしょう。
随分乱暴に聞こえますが、そのやり方、実は正解です。
命に関わるような深刻ないじめが関係しているのであれば別ですが、
そうでない限りは、それが最も早い有効な解決方法です。
しかし現代教育はなぜかその「手っ取り早い方法」を「禁じ手」にします。
理由は私にも分かりません。
うがった見方をすれば、学者先生達が「そんな方法で簡単に解決されたのでは自分たちの立場がない」
と考えているからかも知れません。
 不登校や引きこもりを解決するにはある種の力が必要です。
と言っても相手が中学生以上、あるいは大人の場合は体力的にも無理です。
また両親が働きに出て家を留守にする家庭などもそういう方法はとれません。
ということで、ひとたび不登校や引きこもりになってしまうと、なかなか解決は難しいものです。
世間では「不登校や引きこもりになった人をどうするか」ばかりに目が向けられていますが、
私は「不登校や引きこもりにならないようにするにはどうすれば」の方が大事だと思うのです。
しかし専門家や学者先生達はそれに目を向けません。
深い根の部分を見ることなく、地表の部分だけを見ているのです。これではいつまで経っても問題は解決しません。
一見解難しそうに見えるこの問題ですが、動物行動学的視点に立って考えれば解決につながるヒントが見つかります。
 子供は成長するとともに親の保護から遠ざかりはじめ、中学時代には独り立ちの準備を始めます。
鳥で言えば巣立ちの時期です。
親鳥は雛が巣立ちの時期を迎えると巣に餌を運ばなくなり、
巣から少し離れた木の枝に止まって羽ばたきをして見せ、雛に巣立ちを促します。
雛は親鳥を真似て懸命に羽ばたきをし、巣立ちの訓練をします。雛にとっても親鳥にとっても最も緊張する時期です。
もし失敗して地面に落ちたりすればたちまち猫の餌食ですから、相当なストレスに違いありません。しかしこの時期を逃してはもう巣立ちをするチャンスは巡って来ません。
雛は何度か羽ばたきをした後、勇気を振り絞って大空へと飛び立ちます。
 引きこもりはいわば巣立ちが出来なかった雛のようなものと言えましょう。
要するに独り立ちの準備期間である臨界期を安逸に過ごさせてしまったことが原因です。
幼少期に群れ遊ばせ、その群の中で親が知らない自分の世界を持ち、親の保護から遠ざかり・・・
これが独り立ちへの一歩となるのです。
子供が独り立ちの一歩を歩み始める時期には、親は相当な覚悟を持たなくてはなりません。
「子供の気持ちに寄り添う」として「学校に行くか行かないか」という重大な問題までも
子供の自主性・主体性に任せてしまうのは大きな間違いです。
現在不登校で苦しんでいる親には厳しい言い方になりますが、親には「問答無用で子供を従わせる力」が必要なのです。
 不幸にも独り立ちが出来ず引きこもってしまった人はどうするか、
強引に家から放り出し、一切の援助を打ち切る覚悟が必要です。
実は欧米では引きこもりはありません。
親が「大人になれば親の責任は果たした、あとは本人の責任」として家から追い出すからです。
(その分ホームレスになる人は増えますが)
 ヒトの臨界期には可塑性があり、猿や鳥のように明瞭ではありませんが、なだらかな臨界期はあると言われます。
鳥や猿が全精力を集中して独り立ちするのと同様、
人間も独り立ちするときには多大なストレスと不安を克服しなければなりません。
しかし「何であれストレスは悪」と決めつける社会は本人にストレスを克服することを求めず、
労ってばかりいます。「独り立ちを阻害している要因」を探すとすればこれこそがその要因です。



29、臨界期と大人の引きこもり(5/13)

大人の引きこもりは今も深刻です。その数は全国で推計70万人と言われます。
60代の高齢者の引きこもりもありますが、これは職場を退いた隠居身分の人達ですからしかたないとして、
問題なのは20代の若者から60代までの、本来なら社会の最前線で活躍しているはずの人達の引きこもりです。
私が特に私が注目するのは、15〜39歳の最も精力に満ちあふれた若者の数の多さです。
平成27年度の内閣府の調査によれば、推計54万人だということです。
そして引きこもりになったきっかけの内訳は、職場に馴染めなかった24%、病気24%、就職活動の失敗20%、
不登校12%、人間関係12%、大学に馴染めなかった7%です。
これらを俯瞰してみれば、病気を除けば残りのほとんどは「人間関係の不調」が原因と見ることが出来ます。
 学者や専門家達が「不登校」や「大人の引きこもり」の問題を前にした時の思考形態はは
「彼らを家に閉じこもらせている原因は何か」「その原因を取り除いてやれば自ら進んで家から出るようになるはず」
というシンプルでお決まりのパターンです。
事実、私が知っている臨床精神科医は「不登校を治すのは簡単です、
不登校を引き起こしている原因を取り除いてやればすぐにでも治ります」と、こともなげに言っていました。
聞いていて怒りがこみ上げてきました。
故障した機械なら原因となっている箇所の部品を取り替えればすぐに直るでしょうが、人間は機械ではありません。
第一その原因となるものが見つけられたとしても、それが簡単に取り除けるようなものかどうか。
学業成績のこと、友人関係のこと、家庭内部のことなど、どれ一つとっても機械の部品を取り替えるようにいかないものばかりです。
 専門家達がこのような思考回路に陥っていく原因は専門家達が欧米の教育観に毒されているからでしょう。
欧米の教育観とは「人間はもともと正しく伸びようとする力を秘めている」「正しく伸びないとすれば、成長を阻害する要因があるはず」「それを取り除いてやれば正しく成長するはず」というものです。
もし不登校や引きこもりがある種の病原菌によるものであればこの考えは正しいと言えます。
人間には体内に免疫力が働く仕組みがありますから、その働きを阻害している要因を取り除いてやればすむことです。
しかし「不登校菌」や「引きこもりウィルス」などはこの世に存在しません。
 ということで、こんな的外れな考えにとらわれていては、いつまでたっても解決策は見えてこないのです。
解決の糸口はやはり科学です。動物行動学の視点で考えれば解決の糸口が見えてくるのです。(このことは次号で詳しく述べます)


28、不登校と臨界期(5/10)

不登校問題は数十年の昔から社会問題になっていました。
世間からは早急な解決を求められていましたが、
残念なことに教育界は今に至っても解決の糸口さえも見つけられずにいます。
文科省も様々に施策を講じてきましたが、これと言った結果が出せていません。
そればかりか近年文科省は・・・いやマスコミや学者先生も
「学校に行かないことも選択肢の一つ」などと言い始めました。
もっともらしい言い方をしていますが、私には「問題解決を諦めた」としか聞こえません。
以前にも述べましたが、不登校問題に関して多くの専門家や学者先生は
「子供はストレスで疲れているので家で休養させ、元気を回復させれば自分から進んで・・・」
などと、絵空事のファンタジーな方法ばかりを推奨します。
そして、この方法が何ら効果がなかったことは以前述べたとおりです。
考えてみれば当たり前のことです。
群れる生き物である子供を家庭で過ごさせるなどして、
群から引き離すなど逆効果でしかないのです。
 近年は動物行動学や脳科学など、
教育に深く関係する先端分野の研究が飛躍的に発展しています。
しかし教育界がこれを取り入れようとする動きはありません。
思うに教育関係者は、子供という生き物を美化するあまり、
科学的な目で見ることを忘れているのでしょう。
子供の成長を猿の生態と比較・対照するなど「子供に対する冒涜」とさえ思っているのかも知れません。
しかし子供は間違いなく「霊長目ヒト科の子」です。
大人がどのように考えようと、子供は霊長類の宿命から逃れることは出来ないのです。
私は断言します。
子供を科学的な目で観ることなく、これまで通りの指導をしていたのでは、
いじめや不登校問題は百年経っても解決しないでしょう。
 以前にも述べましたが、人間を含め犬や猿のような群で生きる動物は、
幼少期に仲間と群れ遊ぶ体験をすることなく臨界期を過ごしてしまうと、仲間と群れる能力が育たず、
成長した後も群から孤立するようになります。
この例を人間の子供に当てはめれば不登校を防ぐ手立てが見えてくるではありませんか。
今社会では「不登校になった子供をどうするか」ばかりに目を奪われていますが、
私はむしろ「子供が不登校にならないようにするためにはどうすればよいか」の方が大事だと思うのです。
私は動物学者ではありませんので確信を持っては言えませんが、
要するに子供は幼少期にしっかり仲間と群れ遊ばせることが大事で、それが不登校の予防策になると言うことです。
また群れ遊ぶ経験をすることで、子供は「いじった、いじられた」程度のいじめに対処する方法を
身につけるのではないでしょうか。現代は核家族化と少子化の時代です。
子供が群れ遊ぶ環境は確実に失われつつあります。
加えて一人で遊べるゲームがふんだんにあります。
大人達はこのことをしっかり認識しておく必要があると思います。


27、「臨界期」と子供の成育(5/6)


「臨界期」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
動物行動学者の間ではよく知られた言葉ですが、教育界ではあまり耳にしたことがありません。
「臨界期」というのは動物が成長する過程において、ある能力を身につけることが出来る限られた期間のことです。
その期間を逃した動物は永久にその能力を身につけることが出来ません。
例えば生後間もない子猫を暗闇の中に置き、一定期間光の刺激を与えないでおくと、
子猫はその後明るい場所に出しても生涯目が見えないという話は有名です。
これは、ある期間(臨界期)に光の刺激を与えなかったことで、光を感じる脳細胞が「光を感じる能力は必要なし」と判断し、
自ら視覚の神経細胞を成長させなくなることによります。
また生後7週間に満たない子犬を親兄弟から切り離すと、その子犬は群れる習性が育たず、
もはや群の中に戻しても仲間に溶け込むことができず、他の全ての犬に戦いを挑んだり、怯えたりするようになるそうです。
鳥が羽ばたきを覚えて空を飛べる能力を身につけられることにも臨界期があり、
その期間を逃すとその後はどのように筋力が発達しても空を飛ぶようにはなりません。
 ヒトの発育にも臨界期があり、絶対音感や社会性、言語(特に発音)の習得などはこの臨界期と密接に関連しています。
ですから臨界期を抜きにして教育を語ることは出来ないのです。
幼児教育の分野ではこの臨界期の重要性がある程度認識され、それなりに活かされていますが、
幼児教育が終わった後の学校教育ではそれが出来ていないように思われます。
学校に通うようになったからと言って臨界期に無縁と言うことではありません。
高度に文明化され、システム化された現代社会に生きる子供は、
森に住む動物より遙かに多種多様な能力を身につけなければなりません。
また、それら膨大な種類の能力にはそれぞれ臨界期が関係していますので、
能力の種類に応じて最も適した時期に、最適な方法で身につけさせる必要があります。
ということで、学校教育においては子供が身につけるべき能力とその臨界期について理解しておくことは極めて重要なことです。
しかし現代の教育界では全くそれに関心がないように見えます。
 「霊長目ヒト科の子」である子供にとって絶対に欠かせない能力、
それは「仲間と群れる能力」、つまり「仲間に入って人間関係をうまく構築する能力」でしょう。
森に棲む子猿は多くの仲間と群れ遊ぶ中で社会性を身につけます。
子供も霊長類の一種、社会性を養うためには、幼少期に仲間と群れ遊ぶ体験が欠かせません。
この群れ遊ぶ体験をしなかった子供は、群から引き離された子犬のように、仲間との友人関係をうまくつくることができず、
群になじめなくなるのです。少子化が著しい現代ですから、大人はできるだけ子供が群れ遊べる機会を作るよう心がけなければなりません。


26、我が国を支える日本人の「集団性」と質の高い労働力(5/5)

 我が国は世界でも希なほどに便利で快適な国です。
当たり前のように水道水が飲めて、郵便物は当然のように届き、女性は平然と夜の街を歩きます。
社会は精密機械のように機能し、警察官から理不尽な暴力を受けることがなく、
また権力者の悪口を言っても逮捕されることがありません。
多くの日本人はこれを当たり前のように思っているでしょうが、こんな国が他にあるでしょうか。
これらは日本人だからこそ出来るのです。
こう言えば「そんなこと、その気になればどこの国でもできるではないか」と思われるかも知れません。
また「集団性」などと言うと条件反射のように「戦前の軍隊教育」と拒絶反応する人がいます。
しかし9年間を海外で暮らして分かったことですが、これは日本人の質の高い労働力があればこそ出来る奇跡なのです。
「日本人の労働力の質の高さ」と言えば、多くの人は職人がもつ「匠の技」を連想するかも知れません。
それも労働力の質の高さでしょうが、今私が言っている労働力の質というのは、「労働力の信頼性」ということです。
具体的な例でお話ししましょう。
 私がチリ、メキシコにいた頃に何度も経験したことです。
衣料品専門店で買い物をする場合、店員と話をし購入する品物が決まると、まず店の奥にあるカウンターで金を支払い、
領収証を貰い、それを商品受け取りカウンターで渡して商品を受け取るという、ややこしい手順を踏みます。
つまり客一人が服を買うのに、客に応対する店員、金を受け取る店員、
商品を手渡す店員と、3人もの別々の店員が関わるのです。
「大都会の役所ではあるまいし、なんでこんな非効率なことを」と不思議に思っていましたが、
ある日系の方から話を聞いて納得しました。
「客との応対、現金の扱い、賞品の受け渡しを一人の店員に任せると、商品や現金をネコババするなどの不正が起こるから」
ということでした。つまり店の経営者は店員を信用していないのです。
学校の事務員に「××色の画用紙を買ってくるように」と頼んだら、数日待っても画用紙が届かない、
本人に聞いてみると「頼まれた色の画用紙がなかったから」と言います。
「それならそうと、店にいるときなぜ学校に連絡してこないのか」と聞くと
「そんなことは言われていないから」と言って平然としています。
言われたこと以外は一切しない・・・全く子供の使いそのものです。
いや日本なら小学生の子供でも、それくらいの気は利かせるでしょう。
昨日や今日に雇ったおばちゃんをレジに立たせて現金を扱わせる日本は、
彼らから見れば信じられないことでしょう。
それほど日本人の労働力の質は高いのです。大事なことは、このような日本人を多数生み出している原動力は教育(学校教育だけとは限りません)の力だと言うことです。
「近頃の若いモンは」と愚痴をこぼしている年配者の皆さん、私は断言します。
彼らはさほどに無能ではありません。
街をうろついている茶髪の兄ちゃんでも中南米へ連れて行けば間違いなく「超」がつくほどの優等生です。
こういう若者を数多く輩出している日本の社会・・・まさに「教育は国の礎」です。


25、世界一窮屈な日本の学校(4/29)

 日本には「学校は子供の心身を鍛え、学力を身につけるところ」との伝統的な考えがあります。
学校というところは、子供がこれから生きていく力を養うための、いわば「道場」と考えられているからです。
メキシコ人や欧米人が考えるように楽しいことばかりであるはずがありません。
日本の学校は子供に甘くなったとは言っても、まだまだ「頑張れ文化」が生きています。
歯を食いしばって、苦しみながら努力している子供を、大人達は「頑張れ、頑張れ」と応援するのです。
蛇足ながら、この「頑張れ」と言う言葉、チリやメキシコではついぞ聞いたことがありませんでした。
ここで小話をひとつ(・・とは言っても実話です)、
日本の運動会で子供のパン食い競争を見たある外国人曰く「子供がパンを食べようと悪戦苦闘しているのに、
わざと食べにくくして楽しんでいる日本人って、趣味が悪い」だと。文化の違いを感じさせられます。
 欧米と違い、日本の学校は「道場」ですから、窮屈さがあるのは当然です。
私は日本の学校の窮屈さは世界一だと思っています。
固い椅子に何時間も座らされ、先生から、よそ見をするな、無駄話をするな、机にもたれるな、ひじをつくな、
背筋を伸ばせ、宿題を忘れるな、時間を守れなど、これ以外にも挨拶や言葉遣い、整列、頭髪の決まり、
制服の決まり・・・まるで修行そのものです。外国人が聞いたら「虐待ではないか」と思うことでしょう。
しかし、これがあるからこそ日本人の高い集団性が育つのです。
集団性などと言えば、欧米教育を信奉する学者先生達から「戦前の軍隊のような教育」と、目を?いて叱られそうですが、
これは大事なのです。郵便物が間違いなく届く日本、災害時においても整然と行動できる日本人、
これらは日本人の集団性があるからこそなのです。
アメリカンスクールで学んで帰国した「帰国子女」の中には、日本の学校の窮屈さに絶えられない子供が多くいます。
このことで日本の学校を批判する学者先生がいますが、見当違いです。
帰国子女達が伸び伸び生活できる学校があるとすれば、それはすでに日本の学校ではなく、
日本にある欧米の学校でしかありません。我が国の学校は日本人を育てるための「窮屈な学校」なのです。
それに馴染めないなら、普通の公立学校ではなく、帰国子女を受け入れている学校に通わせるほかありません。
マスコミは厳しい校則をバッシングしますが、我が国の学校文化を深く理解する必要があります。


24、これほど違う欧米と日本の学校(4/27)

 前回は欧米教育と日本の教育の違いについて述べましたが、
この違いは当然、学校に対する認識の違いとなって表れます。
欧米と日本の学校の違いと言われても、多くの人はピンときません。
ということは日本の教育がそれだけ欧米化してきたと言うことでしょう。
しかし実は大きく違うのです。
欧米人が「学校は子供達が楽しく過ごしながら勉強をするところ」と考えるのに対して、
日本人は「学校は子供が学力を身につけ心身を鍛える道場のようなところ」と考えています。
「楽しく過ごす場所」と「道場」、意味が全く正反対です。
「楽しく過ごす場所」は「生き生き伸び」につながり、「道場」は努力と忍耐の強制につながります。
 私がグアダラハラ補習授業校(在メキシコ)で勤務していた時、
校舎やその他の関係でメキシコの教育に触れる機会が多くありました。
メキシコの教育は欧米流ですが、そこで知ったことは、メキシコでは教師が完全にサービス業になっており、
教師が子供や保護者の「ご機嫌」をとるのに熱心だと言うことです。
子供が問題を起こした時には、教師は「それは子供が悪いのではなく、
子供をそうさせている原因が他にあるからだ」と言って、子供や親の責任にはしません。
例えば子供の成績が悪かった時、親は「うちの子供の成績が悪い。
先生達はどんな指導しているのか」と学校を責めます。
すると教師は「あなたの子供は優秀でよく頑張っている、しかし今回は××があったりして運が悪かった」として子供を庇います。というより、こう言って教師は親の追及をかわしているのです。子供に問題行動が続けば「あなたの子供がそんな悪いことをするはずがない。何か病気かも知れないので一度医者に診てもらってはどうか」などと、日本では考えられないような対応をします。要するに学校で何があっても子供や親の責任を問わないのです。親も親なら先生も先生です。
学校を「人生の道場」と考える日本人とは大違いです。
日本では担任教師に「うちの子をビシビシ鍛えてください」と頼む親を見かけますが、
メキシコの親が聞けば「自分の子供を虐待してくれと頼む親がいるのか!」と目を丸くすることでしょう。
こういう環境で育つのですから、何かにつけ、他に責任転嫁しようとするメキシコの国民性も頷けます。
この話を聞いて笑った方もおられたでしょうが、実は人ごとではありません。
我が国でも教育が欧米化するにつれて、自分の子供の非を棚に上げて学校に怒鳴り込むモンスターや、
子供が悪いのではない、悪いのは大人だ」と考える教師が増えているのです。
とは言っても欧米の学校とは違い、日本の学校にはまだ「頑張れ文化」が生き残っています。
しかし現代の潮流は、子供が苦痛と感じるものをできるだけ排除し楽にしてあげようとする「はき違えた子供中心主義」が花盛りです。学校が「道場」でなくなる日は近いかも知れません。
(今回、ついメキシコ人のことを悪く書いてしまいましたが、太陽にように明るく、おおらかに生きる彼らを私は大好きです。念のため)


23、日本はミツバチ集団国家 (4/22)

 テレビや新聞で教育に関する解説を聞くことがありますが、
それらのほとんどは「欧米の学校では・・・」などと欧米の教育を例にあげ、それを真似ようとする話ばかりです。
「我が国の国民性はこうだから・・・」と、自国のお国柄を基盤に据えた教育論はほとんど聞いたことがありません。
マスコミや学者はとかく欧米の教育を崇拝しますが、
その根底には「日本の教育より欧米教育の方が進んでいる」との思い込みがあるからでしょう。
だとすればとんでもない思い違いです。
実は、衰退しつつあるとは言え、我が国の教育は欧米教育より遙かに良いのです。
それは本稿の「8、実はよく頑張っている日本の学校(3月1日投稿)」で述べました。今一度ご覧下さい。
 「個」の力で生きる欧米と違い、稲作農耕民族国家の我が国は国民が団結し集団の力で生きる国です。
生き物に例えるならミツバチ集団と言えましょう。
ミツバチはそれぞれの個体は非力ですが、集団となると無類の強さを発揮し、時には獰猛な熊をも撃退します。
もしミツバチ集団のそれぞれの個体が自己主張し、勝手な行動を始めたら、
そのミツバチ集団は時を経ずして絶滅することでしょう。
子供に自由、権利、平等を教えることも大事ですが、
日本のお国柄を度外視して、これらばかりに力を傾注するのは極めて危険なことです。
 ところでミツバチについてもう少しお話させてください。
ミツバチが最も恐れるのはスズメバチです。
スズメバチは強力な顎と牙を持った獰猛な生き物で、希に人間を殺すことさえあります。
このスズメバチに襲われますと、さしものミツバチも反撃できず、たった数匹侵入されただけで全滅させられてしまいます。
実は養蜂家が飼育するミツバチは全て西洋ミツバチです。
そして彼らの故郷であるヨーロッパにはスズメバチが住んでいないことから西洋ミツバチはスズメバチを撃退する方法を知りません。ですからスズメバチに全く抵抗できず、全滅させられるのです。
 しかしそのスズメバチでも相手がニホンミツバチとなるとそうはいきません。
ニホンミツバチは巣箱で人間に飼育されることはなく、木の洞(うろ)の中に住み、自然の中で生きています。
体は西洋ミツバチより一回り小さく、性格も温厚でめったに人を刺しませんが、
外敵が現れますとすさまじい集団性を発揮します。
そんなニホンミツバチの巣をスズメバチが襲いました。
西洋ミツバチなら手もなく全滅させられるのですが、
なんとニホンミツバチは、体が大きく凶暴なスズメバチに集団で襲いかかります。
最初の十数匹はかみ殺されますが、続々と仲間が襲いかかり、
やがて数百匹の仲間でスズメバチの体を包み込み「蜂の玉」を作ります。
そして「蜂の玉」となったニホンミツバチは一斉に羽ばたきをして自分の体温を上げます。
このとき「蜂の玉」の中心部の温度は46度以上、
この高温によって玉の中心にいるスズメバチを蒸し焼き状態にし、殺してしまいます。
スズメバチが高温に弱いことを知っているニホンミツバチの作戦勝ちです。
とは言ってもニホンミツバチにも被害はあります。
最初に飛びかかってかみ殺された十数匹と、蜂の玉の中にいた仲間のその後の寿命が4分の1になってしまうことです。
しかし、その犠牲のおかげで数万匹の仲間の命が救われるのです。
すごい防衛の仕方ですね。究極の日本人を見るような気がします。


22、欧米教育を真似る危うさ(4/19)

  「今の学校の教育はふがいない!」「子供に甘すぎる」と憤っている国民は多いことでしょう。
その通りです。甘すぎます。マスコミや三流教育評論家の影響か、まるで「子供に甘いこと」を「子供に理解がある」と勘違いしているようです。
ではどうして我が国の教育はこれほど子供に甘くなってしまったのでしょう。
それは現代教育が長く欧米教育を真似てきたからです。
  欧米と我が国とでは教育に対する考え方がまるで違います。
欧米では「子供は成長しようとする力を体内に秘めているので、
恵まれた環境を与えてさえやれば大人が手出しせずとも自ずと成長する」と考えます。
確かに、柿の種は肥沃な土地においてやりさえすれば自分で芽を出し、自然に成長し、やがて実をならせます。
これと同じように考えているのです。このことから欧米の教育は「自然主義教育」と呼ばれます。
「大人はよけいな手出しをせずともよい」との考えるのですから、欧米の子供が自由奔放なのも頷けます。
  しかし我が国では違います。
「奔放に育てていたのでは子供は正しく育たない。教え導き、厳しく鍛え、責任感や公徳心を養うべき」と考えます。
古来から我が国に根ざす「伝統教育」と言えましょう。
しかし、そんな教育文化が根付いている我が国に、自由奔放に育てる欧米教育を取り入れたのですから、
うまくいくはずがありません。子供を甘やかすようになるのは当然です。
子供は(少なくとも日本人は)は欧米人が考えるような「柿の種」ではないのです。
欧米人は概して「個」の意識が強く、「自己主張しない人間は価値なし」と考えます。
一方、日本人は「個」よりも、仲間と協調し、周囲と調和し、集団で生きようとします。

事実この国民性によって我が国はここまで発展することができました。
精密機械のように運行する交通機関、災害時にも整然と行動できる集団、これらは全てこの国民性の故です。
これを考えれば我が国に欧米の教育がふさわしくないのは明らかでしょう。
 外国から文物を持ち込む時には、それが自国の土壌にふさわしいかどうかをよく吟味し、
慎重に持ち込まなくてはなりません。砂漠に稲を植えても育ちません。
沼地に桜を植えても花は咲きません。
何によらず何かを持ち込む場合には、自国の土壌、即ち気候・風土・歴史・文化・国民性を考え、
慎重に見極めること大事なのです。 現代教育は「個性の尊重」「個の確立」などが叫ばれています。
これらも大事なことに違いありませんが、あまりにも「個」に偏りすぎるのは危険というものです。
むしろ我が国の「お国柄」を考えれば「集団の一員としての教育」が大事なのではありませんか。
「集団主義=軍国主義」という人がいますが、これこそ時代遅れの石頭と言うべきです。


21、校長よ、信念を持って原理・原則を貫け(4/15)

 前回「校長は法を破ってでも子供の命を守れ」と述べました。
要するに「学校は毅然とした姿勢を持て」と言うことになるのですが、
これはいじめや暴力に限らず、学校運営全般について言えることです。
近年は学校に無理難題を押しつけてくる不埒な保護者や地域住民が多くいます。こんな時、ともすれば学校は「ことを穏便に済ませたい」とする気持ちが働き、毅然とした態度がとれないものです。
公務員のいわゆる「事なかれ主義」とも言うべき「組織防衛本能」です。明らかに学校側に非がある場合は平身低頭して謝るべきですが、そうでないなら学校、特に校長は自分の思うところを堂々と主張すべきなのです。しかし、多くの校長は「頭を下げて穏便にすむならば・・」という気持ちが優先し、頭を下げて相手の意見を受け入れてしまいます。そして、それを職員に伝え「こういうことがあったから以後注意するように・・・」と指導するのが常です。 学校の「保護者の声には謙虚に耳を傾け・・・」の姿勢は大事なことですが、声にもよりけりです。筋の通らない声にまで謙虚に耳を傾けていては学校が一部保護者の声に振り回されます。この場合は、たとえ保護者と喧嘩になっても一歩も退いてはなりません。なだめることさえ無用です。私の経験では一歩でも退くと、以後その保護者の声はエスカレートし、むしろ信頼関係が壊れることになるのです。そして学校が保護者のごり押しに屈しますと先生達は保護者に萎縮するようになり、当の保護者はもちろん、他の保護者も学校を軽んじ、筋違いなことをぶつけてくるようになります。そして、いわゆる「モンスター」が増殖し、ついには学校の信頼は失墜してしまいます。つまり、校長が外に向けて軟弱な姿勢を取れば職員が萎縮し、意欲を失い、一部の保護者の声に怯えるようになるのです。外から理不尽な攻撃を受けたときには、校長は逃げ回っていてはいけません。最前線になって学校(子供・職員)を守る責任があるのです。真っ先に逃げ出すのはどこかの国の船長だけでいいのです。
 今学校現場では毎年五千人の教師が精神疾患で休職しています。またサンドバッグのようにたたかれる学校を見て、教職に就こうとする若者が減っています。
 教育現場には、いじめ、暴力、子供の自殺、不登校など、深刻な問題が山積しています。このうえ、学校が一部のモンスターに振り回され、若者が教職を目指さなくなれば、近い将来、学校崩壊どころか、教育崩壊を起こすことになりかねません。しかし、それでも校長さえ腹をくくって毅然と対応していれば何とかなるものです。そして有り難いことに、法治国家の我が国では命までとられることはないのです。校長先生、腹を据えてください。


20、校長よ、腹をくくれ!(4/12)

 これまで教師達が手足を縛られ、身動きできない状態にされ、その結果深刻ないじめがはびこっている、と言うことを述べてきました。無論これは先生達の非ではなく、あえて言うならその責任は学校をがんじがらめにしている社会と言うことになりましょう。ですから、教育界が「体罰絶対禁止」の姿勢を貫いている限り、改善されることはありません。では学校で今いじめや暴力を受けている子供はこのまま耐え続けるしかないのでしょうか。
 子供が自殺しても社会はこのまま指をくわえて見ているしかないのでしょうか。ある人達からは問題解決の策として「道徳教育によっていじめ問題を解決させよ」との声があります。実はそれは大変重要なことですが、実は今やっている道徳教育では無理です。理由は別の機会に述べます。
 さしあたって私は教育現場に向けて言いたいことがあります。それは「校長よ、腹をくくれ!」と言うことです。原理主義と言って良いほどに硬直化した「体罰禁止」は文科省の姿勢に始まり、都道府県教育委員会、市町村教育委員会、そして保護者や国民、またマスコミや学者など、つまり社会全体に浸透しているのです。こういう中にあっては教育現場ではいかなる時も、いかなる些細な体罰も許されることがありません。
 ではどうすれば良いのでしょう。校長が腹をくくることです。校長が自身の首をかけ、校長の責任において体罰を容認することです。何という暴言!と思われたでしょうか。校長とて公務員、その校長に暴力をそそのかすのですから暴言には違いありません。しかしこれを責めるなら「絶対的体罰禁止」で教師を身動きできない状態にしていることこそ責められるべきではありませんか。「絶対非暴力」という美しい言葉の陰で深刻ないじめがはびこり、子供が自殺する事態にまでなっているのです。責められるべきはこのような状態を放置している社会の方ではありませんか。
 教師は公務員、法は守らなくてはなりません。しかし子供の命は法を守ることより遙かに大事なはずです。「法で縛られているから」といって、全ての関係者が責任回避し、事なかれ主義になっていては一体誰が子供を守るのでしょう。校長は法に背いてでも子供の命を守らなければなりません。校長は「これ以上放置していては危ない!」と確信したときには、腹をくくって力を行使しなくてはなりません。所属教員に対して「責任は全て自分が負う」と明言した上で、教師による子供への体罰を容認することです(もちろん子供に怪我をさせないようにと指導した上で)。「法は守ったが子供の命は守れなかった」というのでは公務員としては正しくても、教育者としては失格です。
 行政から処罰されたらどうするのか。甘んじて受けましょう。そして公の場で自分がとった行動の正当性を、保護者はもとより世間に向けて訴えるのです。校長たる者、子供の命を守るためにはそれくらいの覚悟が必要です。
酷な言い方ですが、校長は学校においては最高指揮官、これが決断できるのは校長しかいないのです。



19、体罰禁止はここまで来た!(4/8)

 親しい友人から聞かされた話です。教師が子供を厳しく指導するとき、教師は両手を後ろに組み、自分は絶対に子供に手を出さない、と言うことを態度にして示すそうです。教師とて人間、指導の途中で感情的になり、つい手を出すことがないとも限りません。そこで、間違っても子供に手を上げることのないよう、自制するポーズをとるのだそうです。
 実は私が現役だった頃、そういう話を耳にしたことがありました。当初私は「変わった学校もあるもんだ」くらいにしか思っていなかったのですが、その後退職してから10年、それをやっているのは「変わった一部の学校」ではなく、多くの学校で行われているとのことです。確かにこれであれば教師が子供に手を上げることはなくなることでしょう。しかし教育的見地から観て、これは正しいあり方でしょうか。教師のこのようなポーズは「何があっても自分からは手を出さない」と子供に意思表示をしているようなものです。その友人の話では、子供は教師の絶対非暴力を見て、教師を挑発したり、中には手で教師の顔をピシャピシャと打つ子供もいるのだそうです。完全に子供に舐められています。相手が絶対に反撃してこないと知ったとき、人間はどういう行動をするでしょう。我が国に向けてミサイルを発射したり、領海を侵犯したり、国民を拉致したりする国があるのを観れば明らかでしょう。まして相手は人間になりきれていない「霊長目ヒト科の子」です。こうなるのはむしろ必然です。
 教師がこんな状態に置かれていては「いじめ撲滅」などのかけ声は空しく響くばかりです。いじめられている子供が教師に被害を訴え出たら、自分をいじめている子供と握手させられてオシマイ、という例が多くあるそうです。何と安易な指導でしょう。実はこのような指導はいじめられた子供の8割方が不登校になるそうです。いじめられる子供にとっては、教師に訴えるのは彼らからの報復を考えれば命がけです。それをこのような安易な指導ですまされたのではたまったものではありません。「学校は平和ボケしているのではないか」との非難も当然です。
 しかしです!世間はこの教師を非難することができるでしょうか。かつて同じ教師であったから庇うわけではありませんが、教師が手足をがんじがらめに縛られて、何もできない状態にされている今の学校ではこの程度の指導しかできないのではないでしょうか。


18、非現実的なきれい事が、教育現場の荒れを招いた(4/5)

 前回の投稿で「学校という所は『霊長類ヒト科の子』である子供を『教室』という『檻』に閉じ込めて『飼育』しているのだ」、と言いましたが、あまりにもえげつない言い方に、腰が引けた方もおられたのではないでしょうか。正直なところ私も少し言い過ぎたかな、と反省しています。しかし、品のない言い方ではありましたが、何も間違ってはいません。むしろこういう言い方の方が教育を正確に捉えることができるのです。これを「学校では子供が目を輝かせて生き生き伸び伸び、そして希望に胸膨らませて明るい未来を描きつつ、互いに尊重し合って・・・」などと、どこかのCMソングにあるような絵空事を語るものですから、人々が大きな思い違いをし、学校に非現実的な「きれい事」を押しつけるようになるのです。そういう人達は「子供は常に正しく清らかであり、したがって子供がどれほど横暴な振る舞いをしても、責任は子供を正しく導けない教師にある」と結論づけるのです。ですから子供への体罰などもってのほかと言うことになるのでしょう。 「子供は霊長類ヒト科の子」、これは誰がなんと言おうと動物学的に正しい事実です。また年齢が幼いほど霊長類の生態そのものです。その「ヒト科の子」を毎日指導しているのが教師です。「ヒト科の子」である子供の大部分は両親にしっかり躾けられており、問題なく学校生活を送ることができますが、決まりを守らず、学校の秩序を乱す子供がいるのは大人社会と変わるところはありません。教師はそんな子供を指導する役割を担っているのです。しかし今の教師は手足を縛られて何もできません。教育現場の荒れの原因はここにあるのです。第一、このように教師の手足を縛っておいて、どうやって学校の秩序を保てと言うのでしょう。どうやっていじめや暴力を防げと言うのでしょう。教師の子供への暴力を防ぐために体罰を禁止したら、いじめを抑止することができなくなった。すると深刻ないじめがはびこっって子供が自殺した、などは笑い話ではすまされません。憲法九条を持ち出すまでもなく、一切の力の行使を排除して平和主義に徹すれば、抑止力が働かず平和が脅かされると言うことです。教育現場の厳しさを見ようとせず、きれい事を押しつければこういうことになるのです。


17、「体罰絶対的禁止」が学校を機能不全にさせた(4/1)

 改めて言うまでもありませんが、教育現場では子供に対する体罰は禁止されています。
法によって明確に禁止されている以上、体罰は是か非か、などの議論は無意味です。
ご存じない方も多いでしょうが、実は体罰禁止は戦後になってからの話ではなく、
明治の時代からすでに禁止されていました。
ということは、体罰禁止は我が国の伝統教育とも言えるのです。
「体罰を禁止するから学校が荒れるのだ、そんな法律など廃止しろ」と言う声もありますが、
私個人としては体罰禁止は正しい姿だと思っています。
なぜなら体罰を全面的に容認すれば、指導力のない教師が力にたよった指導をするようになるからです。
 しかし法律であれ何であれ、決まりというものは弾力的に運用することが肝要です。
杓子定規に「いかなる場合も、いかなる些細な体罰も許されない」としていたのでは、
現実の場面で法の趣旨が生かせません。
この場合の法の趣旨とは「教師が子供に対して理不尽な暴力を振るうことを防ぐために」と言うことです。
その趣旨を踏まえることなく、杓子定規に解釈して、
教師から一切の力の行使を禁じてしまっては、学校は機能不全に陥ります。
学校は全ての子供が身の危険を感じることなく、安心して学べる場所でなくてはなりません。
それこそが「子供の学ぶ権利」です。
この権利を保障するためにも教師による必要最小限の力の行使は認められなければなりません。
教師の指示に従わず反抗的な態度を取る子供の胸ぐらをつかめばこれが体罰、
子供を厳しい言葉で叱りつけたら言葉の暴力、授業中に騒ぐ子供を廊下に立たせたら教育を受ける権利の侵害など・・・
決まり事が硬直化して弾力性を失えば、そもそもの学校教育本来の機能が損なわれるのです。
クラスメートに暴力を振るう生徒を見かけても、教師はその生徒を引き剥がすことしか許されません。
教師の面前であってさえこうですから、教師の目の届かないところで起きる暴力やいじめなど、
どうして止めることができるでしょう。
現場教師の苦労を知ろうともせず「力で子供を押さえ込むのは教育ではない」「加害者も被害者、話し合うことが大切」などと、きれい事を並べる無責任なマスコミやコメンテーターなどは教育を荒廃させた張本人と言えましょう。
教育を語るのに「きれいな言葉」は無用です。
学校という所は「霊長類ヒト科の子」である子供を「教室」という「檻」に閉じ込めて「飼育」しているのです。
この現実を忘れてファンタジーに浸っていては教育はできないのです。