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(元徳島県公立中学校校長)

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61、継承すべき伝統文化としての童謡・唱歌

 以前メキシコのグアダラハラ補習授業校の校長として3年間赴任していたことがあります。
日本人学校と違い補習校の授業は主要教科のみで、音楽の授業はありません。
そして子供は補習校に来る夕刻までアメリカンスクールで勉強しますので、
日本の文化に触れる機会がほとんどありません。
現地に長く住む子供の中には日本語が怪しい子供もいます。
ですから補習校ではスペイン語は禁止、全て日本語で話すようにしていました。
私は、子供に日本人の感性を育むには童謡や唱歌に馴染ませるのがよいと考え、
子供が登校してくるまでの時間、休み時間、終業時間などに、日本の童謡や唱歌を
テープで絶え間なく流しました。
「春の小川」「鯉のぼり」「茶摘み」「ほたる」「我は海の子」「お正月」など、四季折々のうたや季節行事に関係した歌を毎日繰り返し繰り返し流しました。
こうすれば日本の歌は自然に子供の耳に馴染むようになります。
 興味深い出来事がありました。
卒業式が近づいた2月頃、子供に歌を覚えさせるために「蛍の光」を流していました。
それを聞いた子供の反応・・・
「あ、僕この歌知ってるよ」「え?何の歌?」「阪神タイガースの試合で相手チームのピッチャーが降板するときに歌う歌だよ」、
すると別の子供が「違うよ、この歌は紅白歌合戦が終わったときに歌う歌だよ」・・・聞いていて涙が出そうになりました。
卒業式で歌う歌であるとは誰も知らないのです。
私は子供に説明をしました。「今年から卒業式ではこの歌を歌うんだよ」「へえ、何で?」
「この歌は元々そのために創られた歌だから」「ふ〜ん」以下略・・・。
 ところで、我が国の財産とも言える童謡や唱歌ですが、これを敬遠する教師も多くいるようです。
理由を聞けば「言葉が難しく子供に意味が理解できないから」だそうです。
何という怠慢でしょう。分からなければ教えてやればいいではありませんか。
分からないから教えない、は教育の放棄でしかありません。
例えば「うさぎ追いしかの山」を「うさぎ美味しかの山」と思い違いをした、という笑い話もありますが、こんなことは文字で書いて教えてやればすぐに理解できることです。
話が逸れますが、学校現場では教師が指導すれば何の問題もないのに、些細な理由で止めてしまうことがよくあります。
「たき火(垣根の垣根の曲がり角)」は子供が焚火をすると危険だから止め、「かかし(山田の中の一本足の案山子)」は障害者差別につながるから止め、「村の鍛冶屋(しばしも休まず槌打つ響き)」は、子供は鍛冶屋など知らないから止め・・・
歌だけではありません。かつては二宮金次郎の像はどこの学校にもありましたが、
子供が真似て本を読みながら歩くと交通事故を起こすから、
との理由で撤去されたところが多くあります(ただし戦時中の「金属回収」で供出された例もあります)。
言うまでもありませんが、現代の価値観(即ち一時の流行)だけで歴史あるものを否定するのは、それまで守り育ててきた先人達の功績を否定することであり、現代人の傲慢でしかありません。
こういう人達は伝統文化に対して今少し謙虚になるべきではないでしょうか。


60、日本は童謡・唱歌大国

我が国には子供が歌う叙情的な唱歌や歌がたくさんあります。
「故郷」「赤とんぼ」「おぼろ月夜」などは世代を超えて歌い継がれてきた名曲です。
国民の多くは知らないと思いますが、実は我が国は世界一の童謡・唱歌大国なのです。
因みに作者を見てみますと、北原白秋、野口雨情、野辰之などの一流の作詞家、加えて滝廉太郎、山田耕筰、岡野貞一といった当代一流の音楽家が名を連ねています。
いい歌がたくさん生まれるのは当たり前です。
 それにしてもたかが子供が歌う歌にこれだけ一流の人達が関わっているという国は世界広しといえども我が国だけでしょう。
我が国の教育はそれだけ子供の情操教育を重要視していたと言うことです。
 以前、小学校の音楽の教科書を開いてみたことがありますが、「泳げ鯛焼き君」「山口さんちのツトム君」「だんご3兄弟」など子供が喜びそうな楽しい歌が載っていました。
私はこれらの歌を子供が歌うことを否定はしませんが、昔から歌い継がれてきた叙情的な唱歌や童謡はもっと大事にすべきではないでしょうか。
今流行っている歌を歌えば子供は喜ぶでしょうが、やはりその世代だけが歌う歌というのは流行歌と大して変わりません。
学校で習う歌というのは親も子供もおじいちゃんもおばあちゃんも知っている歌こそ世代を繋ぐのです。
そしてそれは子供の成育にとってとても重要なのです。
 音楽の時間に歌う曲を誰がどのようにして決めているのかは知りませんが、もし決めている人が「こんな歌を歌わせたら子供は喜ぶだろう」などの軽い気持ちで決めているとすれば大変な間違いです。
子供が喜ぶか否か、などは本来教科の内容とは無関係なのです。
「学習指導要領音楽編」にはリズム感がどうこうとか、鑑賞能力が云々などと、四の五の書かれていますが、
要は音楽教育の目的は子供の豊かな情操の涵養にあるのではないでしょうか。
もしそうでないとすると文科省は今一度考えを改めなくてはなりません。
 以前にも述べましたが、小学校の学齢期は感性脳が目覚めている最中であり、
美しい歌や景色、感動的な物語などに触れさせ、子供の感性を揺り動かして、扁桃核に刻み込ませる必要があるのです。
感動することこそ、他の霊長類にはない、人間だけがもつ特徴なのです。
たかが歌、されど歌、たかが音楽、されど音楽です。音楽の先生のご意見をお聞かせください。


59、最も危険!子供の前で先生の悪口


親の中には子供の前で教師の陰口を言う人がいます。
陰口くらいならまだしも、子供がそばにいるにも拘わらず、学校に電話して、担任の先生や校長先生に罵詈雑言をまくし立てる親もいます。最悪です。
こういう親の下では絶対に子供はまともに育ちません。
教師とて個性を持った一人の人間、全ての親に好かれることなどあり得ないのです。
一方、教師の質もまた様々、親にとって「当たり外れ」があるのも宿命です。
ここで大事なこと、それは、たとえ「外れの先生」であっても、子供の前では「素晴らしい立派な先生」と祭り上げ、子供が先生を尊敬するように仕向けることです。
子供が先生を尊敬していれば自ずと教育の成果は上がるのです。
当たり前のことですが、子供・教師・親の間に信頼関係がなくては教育は成り立ちません。
ですから親は子供のいるところで先生の陰口を言ってはいけないのです。
どうしても問いただしたいことがあれば、学校に出向き直接先生に話すことです。
それでも納得できなければ校長に話すことです。
それでも得心がいかなければ、それは親の言い分が間違っているのです。
中には自分の教育方針を持ち出してクレームをつける親がいますが大間違いです。
学校には学校の教育方針があり、各家庭の教育方針に合わせることなど出来ないのです。
 ともあれ親が学校や教師への不信感をあらわにしていれば、その気持ちが子供に伝染し、
子供自身が学校に不信感を抱くようになるのです。え?モンスターペアレンツ?もってのほかです。
当人は学校が自分の無理筋を通してくれたことで得をした気分になっているのかも知れませんが、実は大きな損をしているのです。
以前にも述べましたが、子供は親の真似をします。
学校に無理無体を押し通している様子を見た子供は学校や教師の言うことを軽視、つまり舐めるようになります。
一方、教師も背後に口うるさい親がついていては子供を厳しく注意することをためらいます。
こうなると最早教育は成り立ちません。
こんなことは教育書にも書かれていませんし、教育学者も決して口にしませんが、私の経験則から言えることですから間違いありません。
 実はモンスターペアレンツが被る「大きな損」はこの後にやってきます。
横暴な態度で無理を通す快感を覚えた子供はやがて親に対して横暴な振る舞いをするようになります。
この頃には子供も親に勝る体力がついていますので思うようにはなりません。
こうなるともう子供の行き着く先は見えています。
 自業自得と言えばそれまでですが、こうならないようにするためには、親は子供の前では、たとえ表面だけでも「学校と親は一枚岩」と思わせておく必要があるのです。
また校長は現場を預かる指揮官として、モンスターに対しては毅然とした態度でこれを撃退しなくてはいけないのです。


58、自由奔放な教室は荒れる(拡散希望)

 前回と前々回は子供にとって「分からず屋の頑固親父」は大事、ということを述べました。
実はこれは教師についても言えることなのです。
といっても学校の先生が「分からず屋の頑固教師」であってもいい、ということではありません。
教師の使命をゆるがせにせず、子供からも保護者からも信頼される教師であれ、と言う意味です。
 教師や教育関係者の中には絵本に出てくる夢物語のような子供を現実のものと錯覚している人がいます。
 つまり子供は素直で、純粋で、穢れがなく、天使のような存在であり、
したがって子供を自由にさせておけば全てうまくいく、と信じているのです。
ですから教師や大人が上から目線で子供を指導するなどもってのほかということになり、
子供と対等であることをよしとします。
このフェイスブックの中でも元教師が「学校のルールは子供に決めさせよ、学校だけで決めたルールなど子供は守らなくてもよい」
と言う内容の投稿をしていました。空想・夢想もここまで来るとただ呆れるばかりです。
こんな極端な人はめったにお目にかかりませんが、これに似た考えを持つ教師、つまり学級を教師主導ではなく、
子供の自主性・主体性に委ねて運営しようとする教師は現実にいます。
こういう教師が担任する教室はさぞかし楽しいことでしょう。しかし私の経験則ではやがてこういう学級は荒れます。
荒れる理由は前々回の「素晴らしき頑固親父」で述べたのとほぼ同じです。
子供を自由奔放にさせて荒れなかった学級や学校は私が知る範囲では1例(本当に特別な学年でした)あるだけで、
それ以外は例外なく荒れました。
 子供を自由にさせたがる教師は、現実の子供を直視しようとせず、空想的な学級を思い描き、
教育活動をまるで「金八先生」のドラマか何かのように錯覚している人が多いようです。
そして厳しく指導して子供に煙たがられるより、子供とのよりよい人間関係を優先させようとします。
早い話が子供の人気取りです。こういう教師は子供に慕われているように見えて、その実、軽んじられて
いることが多いものです。子供はそう言う教師を内心「頼りない先生」と見ています。
そして(これは信じてもらえないかも知れませんが)、心の底では子供は教師が自分達を厳しく指導し、
鍛えてくれること願っているのです。そんな子供の「心の声」が聞こえないようでは教師は勤まりません。
現実は学園ドラマではないのです。
 余白もないので最後に大事なことを言います。それは問題行動を起こして教師から
厳しく指導(体罰を含む)された子供ほど、成人した後にその教師を慕います。
逆に、自分に優しく理解を示してくれた先生は子供の記憶に残っていないのです。
教師をしていて最も嬉しいこと、それは、卒業して大人になった教え子が
街で出会ったときに駆け寄って来て近況を話してくれることです。まさに教え子は教師の財産です。


57、躾は頑固親父の流儀で(8/30)

 東京目黒区で起きた船戸結愛ちゃんの虐待死事件などをきっかけに「改正児童虐待防止法」が制定されました。
これによって、たとえ躾のためであっても親は子供に体罰を加えることが出来なくなりました。
無抵抗の子供を虐待死させる鬼畜親など「市中引き回しうえ磔獄門」にしてやりたいほどの怒りがこみ上げてきます。
こういう事件が二度と起こらないようにするためにはこの法律の制定もやむを得ません。
しかし一方で多くの親からは「些細な体罰まで禁止されては躾が出来ない」「体罰しない子育ては理想論でしかない。」
などの批判の声が上がっています。
確かに、子育てをする親の手足を縛っていては子供の躾などは出来ません。
そして何より、家庭というプライバシーの中まで法で縛るというのはいかがなものでしょう。
ここで思い出していただきたいのは「教師による体罰の禁止」です。
私は教師の体罰を禁止した「学校教育法第11条」は正しいと思っています。
しかし法律の主旨は正しくとも、「何によらず体罰は絶対禁止」と硬直した運用をすれば、法の趣旨が生かされないばかりか、
別の問題を引き起こします。今の学校が荒れもこれが原因と言えます。
「母親が娘をビンタしたら娘が警察に通報した(実際にあったことです)」などが常態化すれば、家庭教育の崩壊は必至でしょう。
 親のいうことを聞かない子供の躾については例によって評論家の方々が様々に対処法を推奨しています。
しかしどれもきれい事ばかりで効果があるとは思えません。
 ではどうすれば・・・。簡単なことです。56で述べた「頑固親父」のやり方をすれば良いのです。
つまり親が機会をとらえて子供の頭上に雷を落とせば良いのです。必ずしも体罰は必要ありません。
地震・雷・火事・親父でいいのです。実は子供は親からたたかれる痛みより、親の雷の方が心にこたえるのです。
そして雷の怖さが心にしみていれば以後は毎回雷を落とさなくとも子供は親のいうことを聞くものです。
サザエさんの父親、磯野波平は屁理屈ではなく「ばっかも〜ん!」で躾けます。あれを真似れば良いのです。
 前回も言いました、子供を躾けるときには親は子供の顔色を伺っていてはいけません。
教育評論家の言うことを真に受け、子供が傷ついてはいないか、萎縮していないか、
などとビクついていては躾は出来ないのです。
 話のついでに、躾けに関して評論家の言う間違いを指摘しておきます。
それは「子供を叱るときは子供自身が『悪いことをした』と納得させてから叱る」です。
つい頷きたくなる高邁なご意見ですが、そんな配慮は無用です。
「子供を納得させてから叱る」は裏を返せば「子供が納得しなければ叱れない」になるのです。
第一、子供が屁理屈をこねて反論してきた時、親は子供を説得し、納得させられますか。
「子供の気持ちを尊重し」などと言っている親では到底無理です。「ならぬことはならぬ」の頑固親父の流儀がよいのです。
理屈では躾は出来ないのです。


56,素晴らしき頑固親父(8/23)

 今回言いたいことの結論を先に申し上げます。それは「頑固親父に育てられる子供は問題行動が少ない」と言うことです。
これは長い教師生活の中で得られた私の経験則です。親も様々で、どんな親がよいかは一概には言えません。
ただ概して言えることは分からず屋の頑固親父の子供には問題行動を起こす者が極めて少ないという事実です。
(・・と言っても働きもせず、ずぼらに生きている親父などは論外です)。
 テレビのコメンテーターや○○ママの言う「厳しく叱っては子供が萎縮する」「子供の気持ちを最大限尊重してやることこそ」
などを鵜呑みにしている人から観れば、頑固親父などは間違いなく父親失格でしょう。
また、こういう風にあおられ頑固親父は今や絶滅危惧種になってしまいました。しかし結果には常に真実が現れます。
これら「今風な子育て」をする理解ある親の子供より、頑固者を親に持つ子供の方が問題行動が少ないのです。なぜでしょう。
 「今風な子育て」をしようとする親は、子供の行動に腹が立つことがあっても、怒りを胸に押さえ込み、
子供と対話をしようと無理をします。
よく「いい子を演じる子供」が問題にされますが、私は逆に「いい親を演じようとする父親」はもっと問題だと思っています。
父親は子供の前ではもっと自分の感情をさらけ出し、自然体で接するのがいいのではありませんか。
素人教育の生兵法は怪我の元です。
 「今風な教育」が好きな父親は子供と対等な友達関係になりたがります。
子供が幼く、父親に甘えている年頃ならば対等な関係で「親子ごっこ」をするのもよいでしょう。
しかし、子供はいつまでもそういう年齢にとどまってはいません。
やがて成長し、屁理屈を言うようになり、体力(腕力)も強くなり、親に反抗するようなり、時には問題行動を起こしたりします。
そんな時になって父親が何とか押さえようと思っても、すでに友達関係になっている父親には抑止力がありません。
思いあまって父親が子供に腕力を振るえば、それで親子関係は終わりです。
 一方、分からず屋の頑固親父は「今風な軽薄な教育論」などには耳を貸しません。
「ダメなものはダメ」「ならぬことはならぬ!」の一点張りです。
ですから子供は幼い頃から「うちの親父には何を言っても無駄」とわがままを言うことを諦めます。
つまり父親に隙がないのです。よく「親や先生の顔色をうかがうような子供には育てたくない」などと、
分かったようなことを言う痴れ者がいますが、大間違いです。
霊長目ヒト科である人間が周囲の顔色をうかがうことは当たり前のことであり、むしろ必要なことなのです。
私は声を大にして言います。世の頑固親父の皆さん、貴方がやっている子育ては間違っていません。
あなたが頑固でいる限り子供は大丈夫です。家族のためにしっかり働き、頑固な父親を貫いて下さい。
(ただしそれは子供が義務教育を終えるまでです。)


55,「茹で蛙」(8/16)

 人間の感覚とはおかしなもので、かつては大騒ぎしていたことでも慣れてくると感覚が麻痺してしまい、
なんとも感じなくなるようです。
かつては、いじめによる子供の自殺が起こればマスコミが大騒ぎし、
国民も非常なショックを受けていたものです。
しかし、近年はコロナ肺炎の騒ぎの影響か、ほとんどニュースを聞かなくなりました。
しかし厚生労働省と警察庁が発表した資料によりますと、小・中・高校生の自殺者数は平成13年度以降全く減っていません。子供の数が減っていることを考えれば、自殺する子供の割合はむしろ高くなっていると言えます。これら子供の自殺が全ていじめが原因、と決めつけることは出来ませんが、教育界の隠蔽体質や世間体を憚る保護者の気持ちを考えれば、
自殺者のかなりの部分にいじめが関わっていると考えるのが自然でしょう。
もし、もしもそうでないとすれば、それは別の意味で重大な問題です。
 ところで私がここで言いたいのは子供の自殺に対して国民の感覚が麻痺していることです。
昨年はテレビで「夏休み明けには自殺する子供の数が増加するので要注意」などと、
子供の自殺者数をグラフに示して注意を促す番組を何度も見かけました。
かつてはいじめによる子供の自殺事件は、一件でもあれば社会が大騒ぎしていたものですが、それが今や、自殺事件が起こったという事実よりも、その人数の増減を問題にし始めたのです。まるで「花粉情報」ならぬ「子供の自殺注意報」です。また厚生労働省が発表した平成29年度の人口動態統計がショッキングです。
この年に死亡した10〜14歳の子供の死因で最も多かったのはなんと自殺だったというのです。
病気や不慮の事故ではなく自殺です。10〜14歳といえば小学校高学年か中学生です。そんな子供が病気や事故で死ぬより自殺で死ぬ数の方が多いのです。これはまともでしょうか。
またこの驚愕すべき事態を前に平然としていられる社会などは異常と言うほかはありません。
思えば恐ろしい社会になったものです。
「茹で蛙」という言葉があります。熱い湯の中に蛙を投げ入れますと、蛙はびっくりして飛び出します。
しかし、蛙を熱い湯ではなく、水に入れて徐々に温めますと、
蛙は水の温度が上昇していることに気づかず、熱湯になってもまだ気づかず、
そのまま熱湯の中で茹で上がってしまうというたとえです。
現実にはそのようなことはあり得ないのですが、この話は私達に大事なことを教えてくれています。
人間というのは急に襲ってくる危機には驚いて身構えますが、
それが年月をかけてゆっくりと襲来すると危機に対して鈍感になるということです。
近年の日本人は明らかに精神が劣化しつつあると言われますが、
これに対する社会の危機感が薄いのは日本人が「茹で蛙」になっているからではないでしょうか。


54,幼児・児童虐待の防止について(8/9)

 今回は少し、いや誠に突拍子もない私見をお話しします。
幼児・児童虐待についてです。
近年、親が子供を虐待し、死亡させる事件が相次いでいます。
それも子育てのストレスから、ついかっとなって虐待したからではなく、明らかな殺意をもって虐待した例が多いのです。
なぜこんな事件が繰り返し起こるのでしょう。親にとって、特に母親にとっては子供は何にも代えがたい宝物のはずです。
私は動物行動学や脳科学などの科学的見地から、これを防ぐ方法を考えてみました。
あまりにも突拍子もない意見ですが笑わないで最後までお読みください。
 人間は言うまでもなく哺乳動物です。
哺乳動物である以上、我が子を慈しみ命に代えても守ろうとする本能がDNAに組み込まれています。
特に母親がもつ母性本能は男性の理解を遙かに超えるものがあります。
しかしその母性本能は生まれつき備わっているものではなく、
それが組み込まれたDNAのスイッチがONにならなければ働かないのです。
筑波大学名誉教授村上和雄博士の説によりますと、ヒトは様々な能力を発揮させるDNAを持っていますが、
それらには全てスイッチがあり、これがONにならなければその能力は発揮されないとのことです。
人間の母性(父性)本能も同じです。ある刺激によってスイッチが入らなければ働かないのです。
 昔は遊ぶ玩具もなかったことから、人形をおんぶした女の子がたくさんいました。
そしてお乳を飲ませたり、着せ替えさせたりなどの人形遊びもやっていました。
見方を変えればこれは「母親ごっこ」とも言えます。また実物の赤ん坊(弟や妹)の世話をする子供もいました。
こうした遊びはDNAに組み込まれた母性(父性)本能のスイッチをONにする十分な刺激になったことでしょう。
ところが現代は人形遊びをする子供などほとんど見かけません。
東京の中学生に「幼い頃に人形遊びをしたことある者」を調べたら、クラスに一名いるかいないか、という状況でした。
人形遊びなどどうでも良いことのように思われますが、
動物行動学や脳科学を知るほどに、これがとても大事なことに思えてきました。
つまり、人形遊びをしない→母性本能のスイッチが入らない→子供が可愛いと思えない親の増加→
子供への虐待の増加、という流れが起こっているのではないかと言うことです。
 そこで私は保育所や幼稚園の教育プログラムの中にお人形遊びを入れることを提案します。
これをすることで早い時期に「母性本能の種」を目覚めさせるのです。
そうすれば、早い時期に母性(父性)本能のスイッチがONになる→
成人後、子供が欲しい子供が抱きたいという人間が増える(結婚したいという人間も)→
少子化問題の解消や子供の虐待の減少と。こうなれば万事めでたしめでたしです。
いかがでしょう。どこからか「そんなにうまくいくもんか」との笑い声が聞こえてきそうです。
しかし、良いではありませんか。たかが幼稚園や保育所に人形遊びやままごとを取り入れるだけですから、
手間もかからず、法改正も必要なく、また金もかかりません。
ダメ元でやってみる価値は十分あると思います。
皆さん、地元の自治体に呼びかけてくれませんか。


53、言葉を弄ぶ教育界(8/5)

いよいよこれから本格的に「ゆとり教育」が始められようとしていた平成14年の頃です。
私は「ゆとり教育」について「こんな教育では子供の学力が低下する」と
周囲に反対論をまき散らしていました。
周囲の教師の大半は「ゆとり教育」の賛同者でしたから随分肩身の狭い思いをしたものです。
多くの教師達から「貴方はゆとり教育の狙いが分かっていない」などと言われ、異端児扱いされました。
 この頃、日本の子供の学力が世界の中で低下しつつあり、教育界は国民から批判されていました。
これを挽回するべく始めたのが「ゆとり教育」でした。
しかし、いざ始めてみると予想に違わず、子供の学力はさらに低下し、
世間からの風当たりはますます強くなりました。
ここで私が述べたいのは、それまで「ゆとり教育」を進めてきた勢力の苦しい言い訳の数々です。
各種の研究会で「世界的に見て日本の子供の学力が低下している」と指摘する私に、
教育委員会や偉い学者先生達は「学力とは点数だけで計れるものではない」「学力とは
目に見えるものばかりではない」と言を左右し、ついには「目に見えない学力もある、
それが新しい学力だ」と言いだしました。いやはや恐れ入りました。
「目に見えない学力」です。目に見えない、と言った時点ですでに科学的ではありません。
こんなものがあるなら「学力低下」をテーマとする研究会など初めから無意味です。第一子供の成績もつけられません。私はこのときアンデルセンの童話「裸の王様」を思い出しました。
裸の王様が「馬鹿には自分が着ている立派な衣装が見えないのだ」とうそぶいていたのに、
実際は本当に裸だった、というお話です。
中身のない空疎な教育論をさも素晴らしいもののように宣伝していたのですが、
実は本当に空論であったことが白日の下にさらされたのです。
このことを見ても教育界がいかに言葉をもてあそぶ業界であるかが分かるでしょう。
そもそもの学力低下批判は、OECD(経済協力開発機構)が3年ごとに行う
子供の学習到達度調査(PISA)の成績が下がったことから始まっているのです。
もちろんこのPISAの成績は点数や順位に表れ、はっきりと目に見える点数で示されます。
それが下がったから批判されているのに、「目に見えない学力もある」などは、詭弁に過ぎません。
当然ながら、こんな言い訳が世間に通じるはずもなく、まもなく「ゆとり教育」は打ち切られ、
文科省は「基礎学力の充実」へと舵を切りました。
しかし文科省内にはまだ「ゆとり教育」に未練のある勢力がいるらしく、
「アクティブラーニング」などと名前を変えてその根が雑草のごとく生き残っています。
皆さん、私は重ねて申し上げます。教育界の「美しい言葉で飾られた教育」に惑わされないで下さい。
偉い学者先生であろうが、文科省の偉いさんであろうが同じです。
教育についての考えは、なまじ偉い学者よりも、教育に素人である皆さんの目の方が正しいのです。


52、教育学は絵本の世界のファンタジー(5/2)

 医者の世界に医学があるように、教育界には教育学という学問があります。
「学」という文字がついているので多くの人は確たる理論の積み重ねによって成り立っていると思うでしょうが、
実は中身は何の科学的根拠もないスカスカの空論です。
仕事柄、多くの教育書を読みましたが、およそ科学とは無縁なきれい事ばかりです。
教育心理学など、わずかに科学の香りのする分野もありますが、
それ以外は子供を美化したファンタジーに過ぎません。
 血液型はどこの病院で調べても同じ結果が出ます。
当たり前です。血液型を調べる方法が科学的根拠に基づいているからです。
風邪で熱のある患者が病院で診てもらったとき、医者によって処方する薬に若干の差はあっても、
まさか抗がん剤を処方する医者はいません。
当たり前です。なぜなら病名の診断と処方する薬には科学的根拠があるからです。
 しかし教育界はどうでしょう。いじめや不登校問題は半世以上の昔から問題提起されていましたが、
未だに治るどころか、ますます重篤になっています。
なぜでしょう。それは教育に科学がないからです。
現代教育は徹底した子供中心主義ですから、問題の根を子供の中に見つけようとせず、
社会や環境のせいにします。
子供が病気になった時、病気になった原因を突き止めようと子供の生活環境に目を向けることはありますから、
これらが全て間違っているとは言いません。
しかし病気になったからには、まず子供の体を調べ、科学的知見に基づいて治療するのが当たり前です。
しかし教育界はそれをやろうとしません。
これまで何度も述べてきましたが、教育は科学でなくてはいけないのです。
もし医学に科学がなかったらどうなるか想像してみてください。
盲腸で苦しんでいる患者の枕元で、「疫病退散」の呪文を唱えている場面・・・コメディのような笑い話ですね。
しかし、実は教育界がやっていることはこれと大差ないのです。
こんなことを言えば教育関係者から「あまりな雑言、言語道断な暴言」と猛烈な反発を受けるでしょう。
しかしそんな反発は問題を一つでも解決させてからするべきです。
風邪一つ治せない医者がいたとしたら、即刻医師免許剥奪でしょう。
どんなきれい事を言っても教育は結果が全てなのです。
現代は動物行動学、脳科学はじめ、教育と深く関係する分野が飛躍的に進歩しています。
教育界は今こそこれら最先端の科学を取り入れ、教育を根本から改革しなくてはなりません。
しかし教育界は頑なにこれを拒んでいます。
 ここで余談です。教育学は文系に分類されていますが、
私は科学に基づいた教育学なら理系に分類されるべきと考えています。
科学であるべきはずの教育学が文系の畑に植えられているから
文系学者にもてあそばれて、ファンタジーにされてしまうのです。
教育はあくまで科学であり、詩的ファンタジーで語るべきではないのです。


51、ゆとり教育の亡霊「アクティブラーニング」(7/31)

 アクティブラーニングという言葉をご存じでしょうか。今全国の小・中・高校で行われている欧米発の授業形態の一つです。
骨子は・・・教師から教えてもらう「受動的な学習」ではなく、子供自らが進んで学習する「能動的な学習」ということです。
さすがは言葉遊びが好きな教育界、聞くほどに期待に胸が膨らみます。
多くの国民も「受け身ではなく子供が進んで勉強するというのはいいことだ」と思うでしょう。
確かにこの授業は子供の体験学習やグループ・ディスカッション、そして子供達が意見を述べ合いながら授業を進めるのですから、
教室も活気があります。
しかしその雰囲気とは裏腹に、多くの子供にとっては「活動あって学びなし」の自由時間になっていることが多いのです。
賑やかな授業と学力がつく授業とは違うのです。そして最も重要なこと、それは学習効率が悪過ぎることです。
教師主導でやれば短い時間で済むのに、この方法ではその数倍もの時間と教師の労力が必要です。
まさに労多くして功少なし、の典型です。
 コロナ肺炎による臨時休業で、学習の遅れを取り戻そうと必死になっている現在、教育界はこのような形の授業ではなく、
従来の授業スタイルの良さを見直し、学習効率を上げる必要があるのではありませんか。
 そもそもアクティブラーニングは大学の授業(一方的な講義形式の授業)を改革しようとしたのが始まりです。
それを文科省が軽率にも小・中学校教育に取り入れたのです。
 新しい学習指導要領では「アクティブラーニング」の言葉は消えましたが、
「主体的、対話的で深い学習」と言い方を変えて生き残っています。私は断言します。
アクティブラーニングでは子供に学力はつきません。
 アクティブラーニングと聞けば、多くの人はこれまでになかった新しい教育のように思うかも知れませんが、
実は「ゆとり教育」の焼き直しに過ぎないのです。さらに言えば、教育界はこれと同じ失敗を過去に三度もくり返しているのです。
 一度目は大正時代です。大正デモクラシーの風に乗せられて教育が欧米化したことがありました。
日本の伝統的な教育法が時代遅れとされ、子供の主体性を尊重する欧米教育がよしとされたのです。
結果、子供の学力が深刻なほどに低下しました。
二度目は戦後GHQの統治下でアメリカ式の教育が取り入れられた時期です。
これも子供の主体性を重視した教育だったのですが、やはり深刻な学力低下に見舞われました。
主権回復後、政府は直ちに従来の教科中心のカリキュラムに戻しました。
そして三度目が「ゆとり教育」です。これによって、またまた子供の学力が低下しました。
現在、文科省は「ゆとり教育」から学力充実へと舵を切った、と言うことになっていますが、
実は「ゆとり教育」はまだ終わっていません。
「アクティブラーニング」はその亡霊なのです。教育界は何度失敗すれば気がすむのでしょう。


50、国際性とは何か(7/26

 小学校に英語教育を取り入れる理由の一つに「国際化の時代だから」というのがありました。
世界中がグローバル化している現代ですから、
日本列島で生きてきた日本人も大いに国際性を養っておかなくてはなりません。
しかし問題なのはその国際性というものをはき違えている人が多いことです。
「国際性豊かな人」と言えば多くの人は欧米文化に通じた人のことを連想するのではないでしょうか。
流暢な英語を話し、欧米風の音楽を好み、
ともかく体全体から欧米の雰囲気がにじみ出ている人を国際性豊かだと思い込んでいるようなのです。
極端な例では、日本人でもなく、欧米人でもない、いわゆるバイリンガルな人を見て「国際性豊かな人」
と思う人さえいます。
とんでもないことです。国際性とはそんな薄っぺらなものではありません。
第一、欧米文化に通じていることが国際性なのだとすると、
欧米人が最も国際性豊かだと言うことになるではありませんか。 
 私は9年間の海外生活を経験しました。このことから私を「国際人」と称してくれる人が多くいます。
しかし私は海外で長く暮らした人がそのまま国際性豊かな人、だとは思っていません。
では国際性とは何でしょう。
 私は国際性について次の3つの要件を挙げたいと思います。
それは・・・
@異国の文化に偏見を持たず、寛大な心でこれを尊重しようとすること、
A自国の文化をよく理解し、誇りを持っていること、
B愛国心があること、の3つです。だとすれば「欧米通=国際性」などは全く的外れだと言うことが理解できましょう。
 海外、特に欧米で暮らしたことのある人の中には帰国後、
「日本なんて遅れてるよ、欧米では・・・」などと、海外生活の経験を得意げに話す人がいます。
何と言う軽薄さでしょう。
またそう言う人に限って自国の文化について無知であり、また誇りも持っていないのです。
本人は気づいていないのかも知れませんが、実は海外ではこのような人は軽視され馬鹿にされるのです。
 ところで私はこれまでの投稿で散々欧米文化の悪口を言ってきました。
しかし誤解しないで下さい。私は決して欧米嫌いでもなければ、欧米文化を見下しているのでもありません。
ただ欧米人に中に「我々こそが世界の中心であり文化の中心」と思い上がった人が多くいること、
また欧米文化に卑屈なほどにへりくだり、自国の文化をおとしめて悦に入っている日本人が
多くいることに反発しているのです。
 とりわけ教育界などはその典型でしょう。
欧米製の教育と聞けば、本質を知ろうともせず、無批判に取り入れようとします。
それは私がこれまで何度も述べてきたことですからこれまでにしておきます。
ともかく、国の根幹である教育がこんなファッション感覚で行われているようでは
我が国に未来はありません。
ついでにお話します。愛国心についてです。
ある種の日本人は「愛国心」と聞いただけで拒否反応を示します。
「故郷のために」「社会のために」と言えば何の抵抗もないのに、
「国のために」と言った途端に拒否反応でひきつけを起こすのです。
変わった人達ですね。


49、古典文芸が創る子供の感性(7/22)

「古池や蛙飛び込む水の音」、これは俳聖松尾芭蕉の句です。
「蛙が池に飛び込む音が聞こえた」、ただそれだけの句です。
外国人が聞けば「それがどうした?」となるところでしょう。
実際、句にはそれ以上の意味はないからです。
ところが日本人はこの句から奥深い趣を感じ取ります。
もの音一つ聞こえない閑散とした情景、一匹の蛙が飛び込んだ音、
そしてその後に再び広がる静寂を感じ取るのです。
さらに言えばこの音を聞いた作者は居間で本を読んでいたのか、
庭を見ながらぼんやりしていたのか、それとも床に横たわっていたのかなど、
様々に連想し、想像を膨らませます。
俳句は世界で最も短い詩だとされています。
たった十七文字の中にこれだけの余韻を含ませて詠むのですから、
まさに言葉の芸術と言って良いでしょう。
このように言葉の芸術を味わうことの出来るのは日本人の研ぎ澄まされた感性があればこそです。
自由律俳句の種田山頭火の句「まつすぐな道でさみしい」などは欧米人の脳では到底理解不能でしょう。
 これまで何度も述べてきましたが、小学生という学齢期は感性脳が育まれている最中です。
特にその中の扁桃核(扁桃体とも言う)には親から受け継いだ感性の種が眠っており、
外部からの刺激によって目覚めの時を待っているのです。これが目覚めてこそ豊かな感性が育つのです。
子供の感性(特に日本人としての感性)を目覚めさせるにはなんと言っても国語教育が大事です。
我が国には欧米を遙かに凌駕する質の高い国語文化があります。
万葉集をはじめとする和歌・短歌、奥の細道や方丈記などの古典、俳句、そして質の高い文学作品・・・。
子供にはこれらの文化に触れさせ、感性の種を目覚めさせ、日本人の脳(即ち心)を育てなくてはなりません。
 ところが教育現場からは「国語の授業時数が削られて十分な指導が出来ない」という声が聞かれます。なんと言うことでしょう。
教育の根幹とも言うべき国語教育がここまで軽んじられているのです。
前回述べた藤原正彦氏によれば「国語を大事にしない国に未来はない」と言うことです。
このままでは早晩我が国は衰退していくことでしょう。いや、すでに衰退は始まっています。
 余談ですが、木曜日の夜7時からTBSテレビで放送している番組「プレバト」では、よく俳句を扱っています。
小・中学生でも楽しく観られる番組ですから、ぜひ子供さんに見せてあげてください。
 ともあれ、小学生という感性が芽生える大事な時期に、英語など学ばせていては、
ますます国語教育が軽んじられ、
子供の感性は貧相になっていくことでしょう。
 私ごとで恐縮ですが、私は地元のある句会に所属し、下手の横好きで駄句ばかり創っています。
恥を忍んで一句紹介します。笑わないでください。「夕蝉の声に静けき過疎の里」・・・お粗末でした。


48、国語が子供の繊細な感性を養う(7/18)

「英語より日本語が大事」という人は多くますが、大事というその中身は日本語の会話力や、
漢字の読み書きと意味だけを指している場合が多いようです。
もちろんこれらも大事なことに違いありませんが、我が国に住み、
長く暮らしていれば日本語の会話力や発音、そして漢字の意味などはそれなりに身につきます。
つまり子供は放っておいても日本語力は空気を吸うように自然に身についてくるものです。
こうしたことから保護者はもとより、多くの国民も国語という教科を軽く見るのでしょう。とんでもないことです。
学校で学ぶ国語はもっともっと深い意味があるのです。
 ベストセラー「国家の品格」の著者藤原正彦氏(お茶の水女子大学名誉教授)は
「子供の勉強で大事なものは一に国語、二に国語、三・四がなくて五に算数」と言っています。
実は氏は数学者です。その数学者が「算数より国語が大事」と言っているのです。
それほど国語教育が大事だと言うことです。
氏が言うには「算数や数学は、論理立ててものごとを考える力を養うことには役立つが、
日本人としての繊細で深い感性を養うには国語教育が欠かせない、とのことです。
以下、氏の請け売りになりますがお付き合い下さい。
 欧米人は虫の鳴き声を「音(サウンド)」として聞きますが、日本人はそれを「声」として聞きます。
秋が深まれば多くの虫たちが一斉に鳴き始めます。一生を終える虫たちの別れの声です。
日本人はこの声に季節の移ろいと、命のはかなさ、ものの哀れを感じ取り、涙さえ流します。
日本人の感性はなんと繊細なのでしょう。
翻ってその虫の鳴き声が「音(氏は著書の中で雑音と記しています)」にしか聞こえない欧米人の感性とは何と貧相なのでしょう。
また、氏はこうも言っています。「西暦五百年から千五百年までの十世紀間に日本一国で生まれた文学作品が、
その間に全ヨーロッパ(一国ではなくヨーロッパ全体です)で生まれた文学作品を質および量で圧倒している」と。
日本人の感性はヨーロッパ人を圧倒するほど感性豊かだということです。
その感性豊かな日本人が、ひたすら欧米文化に憧れ、それを真似ているのです。
なんと愚かしいことでしょう。とかく日本人は自国の文化がヨーロッパに比べてはるかに劣っていると思い込んでいるようです。
教育に関しては言わずもがなです。ですから教育であれ、何であれ、欧米のものと聞けば見境いなく取り入れようとするのです。
 文化とは元来土着のものであり、その土地に生まれ、歴史と年月によって磨かれ、育まれてきたものです。
教育はその典型と言えましょう。
ですから教育はファッションのように流行を追って異国のものを取り入れて良いはずはないのです。
時代について行くためには、時には欧米の教育を参考にすることもあるでしょうが、
その時にも木に竹を接ぐような性急なことをしてはいけないのです。
思慮を欠いて性急に移植された文化は社会に正しく根付かないばかりか、
それまで根付いていた土着の文化を破壊してしまうことがあるのです。
(すみません、書き切れませんでした。以下は次号に譲ります)


47、日本語が日本の子供を育てる(7/15)

これまで小学校からの英語教育に関して一般的な反対意見を述べてきましたが、実は私はもっと重大な理由でこれに反対しています。
それは小学生に英語教育をすれば、子供に「日本人としての感性」が育たなくなるということです。
つまり日本人でなくなってしまうのです。そんな大げさな!と思われるでしょうか。
しかし「国民性はその国の言語によって決定される」と断言する言語学者(名前は忘れました)もいるほどですから多分事実なのでしょう。
 松居和(まついかず)という有名な尺八奏者の講演を聴いたことがあります。
氏はニューヨークを生活の拠点とし、世界各地を股にかけて演奏活動していました。
しかし、英語文化にどっぷり浸かって生活するうち、次第に性格が変わっていく自分に気づいたそうです。
日本では人を二人称で呼ぶ場合、「××さん」「××様」「貴方」「君」「あんた」「お前」など数多くの呼び方があります。
外国人にとってこれはとても煩わしいことだと聞いています。
一方、英語なら相手が友達であろうが上司であろうが「you」の一語で片付けられます。
そして氏が言うには、著名な社長を相手に「you」と言った瞬間、戦闘的な気持ちになっている自分を感じたそうです。
氏がさらに怖かったのは自分の家族も同じように闘争的な性格を帯びてきたことでした。
氏は「こんな国で自分の子を育てるわけにはいかない」と決心し、家族を帰国させたそうです。
この方は本当に言葉を大事にしている方なのでしょう。そして賢明な選択をしたと思います。
 いくらかでも海外生活の経験がある方はご存じだと思いますが、海外、特に欧米では人と対立して議論するときは、
とにかく相手を言い負かすことに全力を注ぎます。
相手の言い分を聞くより自己主張が優先されるのです。
交通事故を起こした時などには、徹底的に相手の非を責め立てて自分の立場を有利にしようとします。
相手のことを気遣って「大丈夫ですか?怪我はありませんでしたか?」などというのは日本人くらいのものでしょう。
つまり欧米では「言葉で勝った者が勝ち」なのです。攻撃的な言語になるのは当然です。
日本人は、言葉には「言霊(ことだま)」と呼ばれる霊力が宿り,その霊力が言語表現の内容を現実に実現することがあると信じています。
婚礼などの場である特定の言葉が忌み嫌われるのはそのためでしょう。
ただの験担ぎ(げんかつぎ)でしかありませんが、それだけ言葉に重い意味を持たせたのです。
世界には数々の言葉がありますが「言葉に霊魂が宿る」などと考える人間は多分日本人だけです。
だから日本語は大事なのです。毎度退屈な話ですみません。次回は日本語と感性についてお話します。


46、たかが外国語!たかが英語!(7/11)

 前回は小学校からの英語教育に反対する意見を述べましたが
「子供の発育」という観点からもお話しておきたいと思います。
義務教育段階の子供、とりわけ小学校時代という時期は物覚えがよく、語彙の数が爆発的に増える時期です。
新しい言葉を驚くべき速さで吸収します。
「子供が仲間と群れ遊び、早くからコミュニケーションをとれるように」と自然が仕組んだからに違いありません。
その意味では小学校からの英語教育に賛同する人達の言う
「英語は幼いときに始めた方が身につきやすい」というのは事実です。
しかし私は声を大にして言います。「そう言う時期だからこそ、英語ではなく、
しっかりと母国語を身につけさせるべきなのだ」と。
今、海外に在留する日本人の間で奇妙な現象が起きています。
現地に住む日本人の多くが、自分の子供を日本人学校ではなくアメリカンスクールに通わせる例が増えているのです。
ついこの前までは、子供が帰国したときの受験のことを考え「何としても日本人学校に」と希望する
人が多かった(ただし欧米以外)のですが、小学校の教科に英語が入ったことで、
多くの保護者が「アメリカンスクールで身につく英語力は魅力」と考えるようになったのです。
そんなこと間違っている!とは言っても、子を思う親心を考えればやむを得ないことでしょう。
 しかし私はここに大きな見落としがあることを指摘しなくてはなりません。
それは・・・本当にしっかりした英語力を身につけたいのであれば、真っ先に母国語を学習させよ、と言うことです。
私が言うのではありません。多くの言語学者が言っているのです。
幼少期から英語を学習した子供は、確かに当初は語彙力も発音も他の子供より秀でているのですが、
その後の成長ぶりを比べて見ますと、ほとんど差がないどころか、
むしろ母国語をしっかり身につけた子供の方が英語の上達が早いと言うのです。
つまり外国語というのはしっかりした母国語の上にこそ築かれると言うことです。
母国語がしっかりしていない子供に英語を教えても「チーチーパッパ」の英語になってしまうのです。
 さらにもう一つ大事なこと、海外でどれほど英語が堪能になったとしても、
満10歳になる以前に帰国してしまえば、それまで蓄積された英語は記憶から消えてしまうと言うことです。
因みに3歳から6歳までインドネシアに滞在した長女は、それまで流暢に話していたインドネシア語を全く忘れてしまい、
今では私の方が上です。つまり外国語など所詮その程度のものでしかないということです。
話は変わりますが、今の社会はカタカナ語であふれかえっています。
中には「日本語でも言い換え出来るではないか」と思われる言葉がたくさんあります。
社会にあふれかえっているカタカナ語・・・小学校からの英語教育はこれに拍車をかけるのではないかと危惧しています。
 明治期に「日本語をやめて英語にしてしまえ」の暴論を提案した福沢諭吉翁でしたが、
翁は一方で大変な偉業を成し遂げています。それまで日本語になかった外国の言葉を日本語で言い表し紹介したのです。
「人権(human rights)」「民主主義(democracy)」「自由(free)」など全て翁の作った日本語です。
大発明ですね。実は漢字の輸入元である中国で使われている言葉の7割は日本から伝わった造語だと言います。
共産主義、経済、社会主義などたくさんたくさん・・・。何と痛快で皮肉なことではありませんか。
 それはさておき、我が国にあふれかえっているカタカナ語、インテリの方々は好んで使っているようですが、
福沢翁を見倣ってこれらを適切な日本語に訳してくれないものでしょうか。(今回は長くなってしまいました、ごめんなさい)


45、小学校からの英語教育(7/8)

今年から小学校高学年(5・6年生)における英語教育が必修化され、正式に「教科」となりました。
週2時間の授業です。巷では賛否両論あるようです。
賛成する声は「国際化の時代だから」「英語は幼少時から始めないと身につかないから」というもの、
そして反対する声は「外国語より母国語が大事だ」「母国語と英語、どちらも中途半端になる」などです。
どちらの意見もそれなりに正しいように聞こえます。では脳科学の視点に立つとどうでしょう。
結論を先に言いますと、小学校からの英語教育など、とんでもない間違いです。絶対にやってはいけないのです。
一般的な賛否の両論の中身については様々に言い尽くされていますので、ここでは述べないでおこう・・・と思いましたが、
それでは幅広い見識が持てませんのでお話します。
反対意見の中で代表的なものは「そこまでして小学生に英語教育をする必要があるのか」と言うものです。
我が国は島国であり、古くから日本語という単一の言語に慣れ親しんできたことから異国の言葉に馴染みがありません。
そのためかどうか、外国語(特に英語)が話せることに憧れ、これを過大に評価しがちです。
流暢に英語を話す人を見ると、まるで超エリートであるかのように思い込む傾向があります。
しかしよく考えて下さい。英語が話せることはそれほど価値のあることですか。
英会話などは所詮は自分の意思を伝える手段(道具)に過ぎません。
そしてアメリカに行けばホームレスでも流暢に英語を話すのです。
私は海外で計9年間生活してきましたが、そこで知ったのは、海外で生活していれば、言葉など何とかなる、と言うことです。
実際、必要に迫られれば何とかなるのです。
私はインドネシアのメダン日本人学校に3年間赴任していたことがあります。
もちろんそれまでインドネシア語など一度も勉強したことがありません。
運転手、メイド、学校のスタッフは全員インドネシア人です。日本語は全く通じません。
それでも身振り手振りを交えて会話するうちに何とか通じるようになります。
職場は日本人学校でしたから当然日本語で授業をします。
それでもその国の言葉に囲まれて生活していればそれなりに上達するのです。
商社マンともなればインドネシア語を使って商売上の取引をします。会話がそのまま仕事なのですから、会話力もすごい!
私達日本人学校の教師など足下にも及びません。
因みに私の長女(当時3歳)は現地に到着してから2週間後には隣に住む中国系インドネシア人の女の子と
インドネシア語でわめきながらつかみ合いの喧嘩をしていました。
 何が言いたいのか、つまり外国語などは現地に行けばわずか数ヶ月で身につくものであり、
わざわざ子供の貴重な授業時間を潰してまで学ぶ価値はないということです。
中学から始めれば十分です。小学生は学校教育で身につけなければならないことが山ほどあります。
英会話の習得などにうつつを抜かしている暇はないのです。
 小学生に英語を学ばせる理由に「国際化の時代だから」というのがありますが、なんと軽い発想でしょう。
第一「国際化の時代」などと言っている人達は「国際」の意味が分かっているのでしょうか。
これについては別の機会にお話したいと思います。
ともあれ、週29時間しかない授業の中に2時間の英語が繰り込まれれば、その分他の教科の時数が圧迫され、
教育全体が歪になります。
「新しい指導要領は施行されたので、もう遅い」と思われるかも知れませんが、
間違っているのであれば今からでも声を上げなくてはなりません。


44、伝統教育の正しさを脳科学が証明した(7/5)

 現役時代、講演会で、ある脳科学者から「脳科学の視点に立って最新の教育について考えていくと、
我が国で古くから行われていた教育が正しかったと言うことが分かる」と聞かされたことを覚えています。
中でも強く印象に残っているのは「現代教育では暗記・暗誦は無意味とされているが、
実はこれが脳を活性化させる」ということでした。
 私は数学教師でしたから、脳を活性化させるには、数学の難しい問題に取り組ませ、頭が熱を持つほど深く考えさるのがよい、
と考えていました。しかし脳科学的にはそうではなかったのです。
数学の問題に悪戦苦闘している時は確かに脳は熱を帯びます。
しかしそれは脳のごく限られた部分でしかなく、脳全体が活性化するというものではありませんでした。
研究調査の結果、脳が最も活発に働くのは実は読書している時で、
それも声を出しての読書(音読・朗読)をしている時だったというのです。
加えて暗記・暗誦も脳の活性化に極めて高い効果のあることが分かりました。
朗読・暗記・暗誦・・・どれも現代教育が「時代遅れ」として振り向きもしないものばかりです。
 江戸時代、武士の師弟は塾で論語の素読に勤しんでいました。素読は朗読・暗記・暗誦そのものです。
その素読が脳を活性化させることが脳科学によって明らかにされたのです。
現代教育が「時代遅れ」として否定してきた教育が、最先端の科学によって評価されるとは何とも皮肉な話です。
 今、小学校では少しですが論語や古典の暗記・暗誦が復活しているそうです。
論語の暗記・暗誦に関しては多くの学者から「子供には難しい」との声がありました(今もそう言う声は多く聞かれます)。
また「意味も分からないまま暗記することに何の意味があるのか」という人もいます。しかしこれは大きな間違いだったのです。
暗記・暗誦は脳を活性化させるのです。
子供には難しい?意味が分からない?意味が分からなければ教えてやればいいのです。
「難しいから教えない」というのは、つまり子供でも分かるような易しいことしか教えない、と言うことでしかなく、
子供の知識が貧弱になります。これは「消化によくないから」として子供に流動食ばかり食べさせるのと同じです。
これでは子供の知識脳は栄養不良になります。大人の思いとは反対に、実は子供は高度なことを学びたがっているものです。
高度な知識を身につけることに格好良さを感じているのです。
小学校高学年の子に誰でも出来るような易しい遊びをさせようとしても、誰も真剣にやりません。これと同じです。
 義務教育段階の子供は知性脳が発達していない分、大人が及ばないほどの暗記力を持っています。
これから生きていくために豊富な知識が身につけられるようにと自然が作ったのでしょう。
とは言っても子供の中には丸暗記が苦手な子もいます。特に私などは徹頭徹尾、暗記が嫌いでした。
理由は面白くないからです。
しかし子供がどれほどいやがっても、かけ算の九九と同じで、必要なことは教え込まなくてはいけないのです。
子供の気持ちを忖度してばかりでは教育は出来ないのです。


43、ゴルディアスの結び目(7/1)

 ギリシャに伝わる伝説に「ゴルディアスの結び目」言うのがあります。
これは古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、アレクサンドロス大王にまつわる伝説です。
昔々のその昔、フリギア国のゴルディアス王が自分が乗ってきた荷車の牛車の轅(ながえ)を
ミズキの樹皮でできた丈夫な紐で、それまで誰も見たことがないほど複雑な結び目でしっかりと柱に結びつけ
「この結び目を解くことができた者がこのアジアの王になるであろう」と予言しました。
この結び目は「ゴルディアスの結び目」として知られるようになり、
その後、結び目を解こうと何人もの人たちが挑みましたが、誰も結び目を解くことができませんでした。
数百年の後、この地を遠征中のマケドニア王アレクサンドロス三世が通りかかり、
剣を持ち出してその結び目を一刀両断に断ち切り、結び目をいとも簡単に解いてしまいました。
後に彼は遠征先で次々と勝利し、予言通りアジアの王「アレキサンダー大王」になったと言うことです。
 この伝説は何を意味するのでしょう。
アレクサンドロスが現れるまでは、人々は複雑に絡み合った結び目を「ほどく」ことばかりに注意を奪われ、
剣で断ち切ることに思いが至らなかったからです。
つまり「結び目を解く」という目的が「結び目をほどく」に代わっていたのです。
 私がなぜこんな昔の伝説を持ち出したかと言いますと、この伝説があまりにも今の教育界に符合していると思ったからです。
今の教育界は問題の複雑さばかりに目を奪われ、思考が混乱し、簡単に解決する方法が見いだせなくなっています。
 多くの保護者や国民はいじめ問題について「いじめる子供を先生がコテンパンにやっつけたら問題は簡単に解決するではないか」
と考えるでしょう。
実はこれが正解なのです。
しかし教師は「いじめる側の子供は心に様々な闇を抱えていて、それがいじめの原因ではないか」などと考え、
「その心の闇を取り除いてやることこそ重要」として問題を複雑にしてしまいます。
いじめの問題に、いじめる側の「心の闇」や「家庭環境」などを持ち込めば問題は際限なく複雑になります。
こんなことはいじめとは切り離して別個に考えるべきなのです。
それをしないから問題が複雑化し、肝心のいじめ被害者の心に寄り添うことができなくなるのです。
そして、加害者が被害者にされたり、時には「いじめを傍観する者が一番悪い」などの結論になったりするのです。
こうなるともう一般の国民には理解不能でしょう。まるで「国民感情を無視した裁判」を見ているようです。
では教育の問題を「ゴルディアスの結び目」のように複雑にしている張本人は誰でしょう。
言うまでもなくマスコミとコメンテーター、そして「きれい事の空論」で教育をいじくり回す教育学者達です。