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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)
川内時男著 「教育直言」 時事評論社
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87、学校を応援しよう(3/28) 私の投稿を読んでいると、まるで学校の先生の多くは無能で、公務員という地位にあぐらをかき、 安穏と暮らしてるように思われるかも知れません。とんでもないです。 実は日本の学校の先生は実によく頑張っているのです。 これは諸外国の教育を観てきた私ですから確信を持って言えるのです。 欧米はじめ諸外国の先生達は教師という職業をビジネス、つまり職業ではなく「食業」としてしか捉えていません。 学校で子供に教えることだけが役割であり、それ以外のことにはほとんど我関せずです。 つまり割り切っているのです。 日本のように先生が家庭訪問をしたり、万引きをした子供を警察に引き取りに行ったり、 進路相談をしたりなどは考えられないことでしょう。 またそれらの国の国民は教師に対して多くのことを期待していないのです。 日本の教師が頑張っている事実を以下に述べます。以前にも述べたことであり、繰り返しになりますがご容赦下さい。 教育にかける国の予算の対GDP比率は実は先進国の中で日本は最低です。 にも関わらず日本の子供の学力は凋落傾向にあるとは言え、 未だに世界のトップクラス、そして何より諸外国に比べ少年非行の件数が桁違いに少ないのです。 その一例として写真のグラフをご覧下さい。これは単位人口当たりの少年による強盗事件の発生件数の国際比較です。 欧米教育と言えば、教師や学者そして多くの日本人は憧れの的になっているようですが、 それが単なる幻想であることはこのグラフを見れば一目瞭然です。 そして日本の子供がいかに真面目で、また日本の教育がいかに優れているかが分かるでしょう。 では欧米先進国を差し置いて、なぜ我が国だけがこうう教育が出来るのでしょう。 もちろん真面目な国民性が第一に挙げられるでしょうが、 私はそれよりも大きな要因として学校の先生の教育にかける情熱と保護者の惜しみない協力を挙げたいと思います。 実は日本の教師の社会的地位は(私の知る限りでは)どの国に比べても高いのです。 そして地域住民や保護者が先生を信頼し、尊敬し、学校を支えようとする熱意に溢れているのです。 教師もこれに応え「食業」としてではなく、教師として使命感をもって子供を指導しています。 これがあればこそ日本は素晴らしい教育が出来るのです。 つまり学校の先生は保護者や地域住民から尊敬され信頼されるからこそいい教育が出来るのです。 近年はマスコミによる学校バッシングもあり、先生に対する信頼が失われつつありますが、 それでも諸外国に比べますとまだまだ先生の信頼は厚いと言えます。 ということで先生と保護者の強い絆さえあれば日本の教育はまだまだ大丈夫なのです。 こう言えば、多くの方から「それなら貴方はなぜ日頃から学校の悪口ばかり言うのだ?」言われそうですが、 それは私が学校に対して今以上に高いものを求めているからです。 欧米教育の後追いばかりしている教育界に目を覚まして欲しいからです。 世界一優秀な教師が集められた教育界に奮起してもらい、世界一の教育大国になって欲しいからです。 ともあれ皆さん学校を応援し支えようではありませんか。 86,人権社会のなれの果て(3/21) アメリカは世界一の人権大国です。そして人権は人間を幸福に導くための概念です。 では今アメリカに暮らす人々は世界一幸福なのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。 弱肉強食の殺伐とした社会でしかないからです。 アファーマティブ・アクション(社会的弱者を救済する措置)や、 ポリティカル・コレクトネス(政治的・ 社会的に公正・中立とされる言葉や表現を使用すること)が 浸透していることを見れば確かに人権大国です。 しかし、これらによってアメリカ社会がどれほど歪になっているかを考えれば、 アメリカは「人権尊重国家」ではあっても、「人間尊重国家」とは思えません。 アメリカは人権大国であると同時に世界一の訴訟大国でもあります。 些細なもめ事でもすぐ裁判になります。 当事者どうしが話し合い、歩み寄ってものごとを解決するという柔軟さがないのでしょう。 そして訴訟はすでにビジネスと化しています。 事件・事故で遺族が嘆き悲しんでいる現場に弁護士が先を争うように駆けつけ、 名刺を配り、「私が賠償金をとってやる」とアピールする凄まじい国です。 因みに、単位人口当たりの法曹数(司法関係者や弁護士の数)は日本の二十倍です。 ギャグのような実話もあります。 「入浴した猫を電子レンジで乾かしたら死んでしまった」と家電メーカーを訴え勝訴した、などは日本では笑い話です。 一方我が国ではどうでしょう。単位人口当たりの訴訟数はドイツの五分の一、フランスの七分の一です。 アメリカとの比較では桁が違いすぎて比べることさえ不可能です。 私は欧米で人権が生まれたからと言って、かの国で人間が尊重された歴史を持っているとは思いません。 むしろ人間の尊厳が踏みにじられ、非人間的な扱いをされてきたからこそ 人権という概念が生まれたのではないかとさえ思っています。 そういう日本と欧米、貴方はどちらが豊かな社会だと思いますか? 権利という考えが日本に伝来した明治期、福沢諭吉は権利を意味する英語「right」を「権理」と訳しました。 「権」とは「一命を賭して守るべき一分」という意味であり、「理」とは道理、即ち正義のことです。 してみると命をかけて正義を守る「権理」とはなんと崇高な言葉でしょう。 ところがいつの頃からか「権理」が「権利」と表記されるようになりました。 名は体を表す、と言われますが、これでは命をかけて利益を権(はか)るという意味にしかなりません。何ともさもしい言葉です。 私達日本人は今一度原点に返り、「権利」ではなく「権理」の精神を胸に刻むべきではないでしょうか。 折も折、今テレビでは渋沢栄一が主人公の大河ドラマ「青天を衝け」が放映されています。 渋沢は資本主義を取り入れるに際し、我が国のお国柄を考えて「論語と算盤」を著し、 欧米の貪欲資本主義ではなく道徳を軸とした資本主義となることを世に訴えました。さすがです。 欧米発祥のものなら無節操に取り入れる日本の教育界はこれを見倣うべきではないでしょうか。 85、人権原理主義が文化を破壊する(3/15) いかに素晴らしい理念であっても原理主義に走りますと社会に軋轢を生みます。 今学校現場で行われている人権教育はその典型ではないかと思われます。 私が現役であった頃(今も変わっていないと思いますが)の人権教育はかなり急進的で、 首をかしげることが多くありました。人権の考えに少しでもそぐわないものはことごとく否定していたのです。 昔から伝わる童話や童話もその餌食になりました。 「桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に」の話では「鬼にも人権がある」とされ、 「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」の話は「男女の役割分担の固定化だ」と難癖をつけられ、 ウサギと亀の話では「亀はどうして昼寝をしている兎を起こして一緒にゴールを目指さなかったのか」 などの授業を大真面目にやっていました。 これらは小学校低学年の人権教育の例ですが、「馬鹿馬鹿しい」と思った人も多くいたことでしょう。 私は「授業で扱う教材に童話を持ち込んだだけ、何も目くじらを立てることもない」との思う一方、 「授業で扱うための材料なら他に適当なものがいくらでもあるだろうに、 わざわざ古くから伝わる伝わる童話を取り上げ、本来の主旨をねじ曲げて子供に教えることもあるまいに」とも思いました。 私が許せないのは教師がアレンジした話を劇にし、「桃太郎は鬼ヶ島で鬼達と仲直りをして・・・」のような劇を演じさせながら、 本来の桃太郎童話を子供に教えていなかったことです。 童話・伝説と言えど伝統文化のひとつ、もう少し敬意を払えないものでしょうか。 人権原理主義が文化を狩る例は他にもあります。「清めの塩」は死体を扱う人への差別につながるからダメ、 男児が生まれて鯉幟を揚げるなどはけしからんなど・・・。 もっと許せないのは「大安・仏滅・友引などの六曜は非科学的な迷信だからダメ」と否定することです。傲慢です。 第一、伝統的風習に科学的根拠を求めるなどはそもそもの間違いです。 「非科学的だから」の考えで文化・風習を狩っていけば盆も正月もクリスマスも七夕も、 それどころか日本全国の祭りのほぼ全てが否定されることになります。 ところで、このことについて私が日頃から提言していることとの関わりから、一言弁解させてください。 私はかねてから教育に科学を取り入れ、教育現場に巣くう「きれい事」を一掃するよう提言していますが、 かといって科学を絶対視し、科学的裏付けのないものを社会から全て排除せよと言っているわけではありません。 世の中には科学で説明できないことがたくさんあるからです。 文化的風習・習慣に科学的根拠を求めるのと教育に科学的根拠を求めるのは全く違うのです。 言うまでもないことですが、文化とは先人達が悠久の歴史の中で温めてきた知恵の結晶です。 その中には多種多様な考えが渾然一体となって調和しています。 その多種多様な考えの一つに過ぎない人権が他の考えを押しのけて肥大化すれば社会が歪になるのです。 日頃人権を口にする人達は今少し伝統文化に対して謙虚になるべきではありませんか。 84、胡散臭くなった人権と言う言葉(3/7) 多くの日本人は人権という言葉に過大な幻想を抱いているようです。 これさえ大事にしていれば自ずと明るい未来が開けてくるように信じているのでしょう。 しかし、その人権があまねく浸透した今、社会はどうなったでしょう。 現代の人権は自分が気に入らない人間を攻撃する道具に成り下がっているのではありませんか。 人権社会は不用意に他人に近づけばいつ相手から切りつけられるかも知れない怖い社会です。 人間どうしの絆を深めるはずの人権も、原理主義に走れば「人権ナチズム」となり荒んでくるのです。 「痴漢に間違われないように両手を上げてつり革につかまる」などは最早笑い話です。 どうしてこんなことに、と思われるでしょうが、実はこれは当たり前のことです。 日本人は「人権」と聞けばその中に崇高な理念が込められているように思うでしょうが、それは幻想に過ぎません。 実は人権は自分の縄張りを主張するだけのものです。 つまり「ここからは自分の領分、勝手に入るな」というだけのものです。 狩猟民族にとっては縄張りは大切なのでしょうが、協調・共働で生きてきた稲作農耕民族である日本人からは 生まれようのない概念です。第一「ここからは自分の領分」と主張するのは日本の村社会では無理なのです。 ところで、人権と道徳はどう違うのでしょう。同じもののように思われるかも知れませんが、本質は全く異なります。 それどころか正反対な面もあるのです。権利は外に向けて主張しますが、道徳は内省的で自分に向けられます。 権利は法的裏付けがあり強制力を伴いますが、道徳は法とは無関係で人に強制しません。 人権どうしは時に衝突して対立を生みますが、道徳どうしは衝突しません。 ある評論家が「人権が完全に守られるなら道徳は必要ない」と言いましたが、全く的外れです。 これは裏返していえば「法に触れなければ何をやっても良い」と言っているに等しく、 行き着く先は弱肉強食の荒んだ社会でしかありません。 以前私は「我が国には人権という概念はなかったが、義理・人情があった」と述べました。 これを読んだ人の多くは「時代錯誤」と大笑いしたことでしょうが、 実は義理・人情は日本人の古典道徳と言ってもよく、目指すところは人権よりも遙かに次元が高いのです。 日本のお国柄を考えれば我が国は人権大国より道徳大国を目指し、道徳を軸とした健全な人権文化を広め、 品格のある国家を目指すべきではないでしょうか。 社会ではよく反戦・平和・人権などの言葉が飛び交います。実に美しい言葉です。 しかし、これらをリベラルが好んで使うようになってからは、何となく胡散臭さを感じるようになりました。私だけでしょうか。 83、忽然と消える国旗(2/28) 私が現役教師であった頃、学校現場で摩訶不思議な現象が起こっていました。 それは県や市の研究会や講演会で、テーマが人権になっている時だけ ステージの国旗が消えてしまうと言う珍現象です。 これらの会は学校の体育館が会場になることが多いのですが、当日会場に行ってみますと、 つい先日まで確かにステージ中央に掲げられていた国旗がなぜか忽然と消えているのです。 ミステリーではありません。実は主催者である学校が撤去していたのです。 さらに不思議なこと、それは・・・日頃学校現場で目にする書類は日付が元号で表示されるのですが、 人権関連の案内状だけは西暦で表示され、元号は表示されないか、 あるいは表示されていても( )の中に別表示されるのです。 グローバリゼーションの影響もあってか、近年は人権をテーマにしない研究会や会合でも西暦表示する例が増えていますが、 人権関連の会合の案内状は昔から一貫して西暦表示でした。 国旗が消えること、元号が西暦に変わること、なぜこんなことが起こるのでしょう。 人権問題に関わる人達の中には左翼思想に染まった人達が多くいます。 そう言う人達は国旗・国歌に反対し、皇室に反感を持ち、そして元号を忌み嫌います。 こういう勢力から反発を受けないように、また会が穏やかな雰囲気で行われるようにと、 国旗を外したり、西暦を使ったりなどの措置をするのです。 こういうことが今も同じように行われているのかと思い、先日現役の元同僚に聞いてみたところ、 「国旗を外しているかどうかは知らないが、以前より随分まともになってきた」とのことでした。 これを聞いていくらか安心しましたが、考えてみれば当たり前のことです。 会のテーマが人権であろうがなかろうが、教育現場で行われる研修会・研究会は政治思想とは無縁のはずです。 特定のイデオロギーによって会のありようが左右されるなど、あってはならないのです。 ということで、この件に関してはかなり正常化しているように思います。 しかし私がここで指摘したいのは教育現場のこういう主体性のなさです。 一部の人達の反発を怖れて原理・原則を変えるなど論外です。事なかれ主義の典型です。 教育基本法第16条には「教育は、不当な支配に服することなく・・・」と謳われています。 教職員組合などの左翼勢力はこの条文を振りかざし「政治は教育に介入するな」として的外れな主張しますが、 本来この条文を遵守すべきは組合ではなく、教育現場であるはずです。 その教育現場が「不当な声」に忖度し、自ら原理・原則を曲げているのですから話になりません。 私は、現代教育を巡る様々な問題の多くは教育現場の事なかれ主義体質にあると思っています。 世の批判に怯え、主張すべきことに口をつぐみ、ただ黙っているだけでは学校はサンドバッグにされてしまいます。 学校は保護者の声や世間の声は謙虚に受け止めなければなりませんが、それらの声が常に正しいとは限りません。 間違った声には毅然として反論しなくてはなりません。その役割を担うのはやはり校長です。 校長は批判を怖れることなく、体を張って正しいことを主張し、学校を守る使命があります。 優柔不断な姿勢では大きな声に振り回され、子供と教職員に被害が及ぶのです。 82、ほどよい傷は生きるための薬!(2/21) 「子供の心を傷つけてはいけない」、これは教育界においても社会においても鉄則のように考えられています。 果たして正しいのでしょうか。確信を持って言います。間違っています。子供が適度に傷つくのはむしろいいことです。 子供が立ち直れないほどの心の傷はあってはなりませんが、少々の傷なら子供の将来にとっては有益なのです。 私はこの点については体の傷も心の傷も同じだと思っています。 公園の遊具で子供が怪我をする事故があれば、翌日にはその遊具は撤去されるか使用禁止になります。 再び事故が起こっては管理者の責任が問われるからです。 昔の話になりますが、ある小学校で「子供がどんなにはしゃいでも絶対怪我しないように」と、 柱の角や階段の手すりなど、子供が怪我をしそうな箇所すべてにスポンジを巻き付けて安全対策をしたところ、 確かに学校内での怪我はなくなりましたが、学校外での怪我が大幅に増えたということです。 これもまた古い話ですが、私の郷里で操業中の船から若い漁師が海に転落し、溺れ死ぬという事故がありました。 何と漁師の息子でありながら泳げなかったのです。実は郷里の海はほとんど全てが遊泳禁止になっており、 波の音が聞こえるほど近いところに海があるのに子供が泳ぐことが許されていないのです。 つまり、危ないから泳がせない、泳がせないから泳げない、泳げないから溺れて死んだ、ということなのです。 私はこの事故を知って「子供の安全指導とは一体何だろう?」と考えさせられました。 安全教育はその場限り、その時だけの安全ではなく、子供の将来を見据え、 将来にわたっての安全につながるものでなくてはなりません。 怪我をしてはいけないからとして、子供の周囲から危険と思われることを全て排除し、 子供を安全地帯に囲い込むことは実は危険なのです。 子供は適度な怪我をし、痛い思いをすることで危険回避能力を身につけるのです。 私は心の傷もこれと同じだと考えています。つまり子供は適度な心の傷を受けてこそ精神的耐性を身につけ、 将来心に傷を負った時の復元力が養われるのです。 教師が子供を指導する中で、子供の心を傷つける言動があれば、世間はそれを鬼の所業でもあるかのように非難します。 大間違いです。 学校の教師や教育関係者、そしてマスコミも子供が傷つくことに対して敏感になりすぎているのではありませんか。 教師は「子供の心を傷つけるのか」の言葉の前には、まるで水戸黄門様の印籠を見せられた如く怯んでしまいます。これも教育現場で人権が暴走していることによるものでしょう。ともあれこれでは子供に厳しい指導など出来ません。 わざと子供を傷つける必要はありませんが、子供が傷つくことを怖れて必要な指導を手控えていては教育は出来ません。 特にいじめの加害者への指導は教師の指導が手ぬるいように思われます。 いじめの被害者は不登校になったり、あるいは自殺することもあるのです。 加害者にも少しくらいは傷ついてもらわなければ、被害者ばかりが傷つくことになります。あまりにも理不尽です。 81、暴走する人権が生む「悪平等」(2/14) 欧米から持ち込んだ人権文化は暴走し、学校現場に「悪平等主義」をもたらしました。 「競争=悪」とする考えが蔓延し、子供を競わせること自体を否定するようになりました。 「ゴール手前でみんな仲良く、お手々繋いでゴールイン」の徒競走は以前よく笑い話として話題になりましたが、今もなくなっていません。 長女が小学生だった時、足が遅いはずの我が子が徒競走で2着になったと喜んでいたら、何のことはない、長女は最も足の遅いグループで走った、と言うことでしたからがっかりしました。 何であれこれでは親は自分の子がクラスでどれくらい足が速いのか遅いのか、子供に聞かなければ分かりません。 早い話が今の学校は子供に差をつけることを本能的に否定するのです。 足の遅い子供が傷つくから、差別につながるから、と言うのが理由のようです。 子供の中には「成績は良くないが足の速さなら負けない」という子供がいます。 そう言う子供にとっては運動会は数少ない晴れ舞台であり、親に晴れがましい姿を 見せることが出来る数少ないチャンスです。 「お手々繋いでゴールイン」はそんな子供からクラスの英雄になれる機会を奪っているとも言えるのです。 言わずもがなですが、競争のないところに成長はありません。 そして子供は他の子供と競争し比べられることによって、自分の優れている点、劣っている点を自覚できるのです。 言い換えれば自分の個性が理解できるのです。 それを言うとある種の先生達は「足の速い子供ならそれでも良いが、成績も悪く足も遅い子供の気持ちはどうなるのか」と屁理屈を言います。 なんと馬鹿なことを・・・子供の能力は幅が広いのです。絵のうまい子、話し上手な子、力の強い子、字の上手な子、友達に好かれる子、正義感の強い子、リーダーシップのある子・・挙げればきりがありません。 子供はそれぞれ光るものを持っています。それをクラスの中で輝かせて見せてやるのが教師というものです。 子供はみんなそれぞれ違っているのに、ひとまとめにして「みんな同じだ」とするのは平等でも何でもなく、個性の否定です。 こう言えば、ある種の先生は「何の取り得もない子はどうするのだ、傷つくではないか」と、またまた屁理屈です。 私はこんな時「それくらいの傷はあってもいい、かまいません」と言います。 これからの長い人生、傷つくことなしには生きられないのですから少々の傷はむしろプラスになるのです。 現代の子供はすぐに挫折し、回復力が弱いと言われますが、これは子供時代に適度な心の傷を 受けてこなかったことが原因ではないでしょうか。 80、「人権」の乱発と大安売り!(2/7) 前回の投稿を読まれた方の中には私のことを人権否定論者のように思われた方もおられるのではないでしょうか。とんでもない誤解です。 今の時代に人権が無用などとはゆめゆめ思いません。 世界には今日の食料にも事欠く人がいたり、またチベットやウィグル自治区には圧政に苦しむ大勢の人達がいます。 こういう人達が地球上にいる限り、私達は世界に向けて人権尊重の声を上げ続けなくてはなりません。 ところで人権という言葉についてですが、私はこの言葉は人間が生命の危険に曝されてとか、あるいは人としての尊厳が踏みにじられているような時にこそ使われるべきだと思っています。 また、そういう人達の言う「人権」であれば世界中の人が納得し、共感するでしょう。 しかし衣・食・住が曲がりなりにも満たされている我が国において、なお声高に人権を主張するのには違和感を覚えます。 いつのことだったか忘れましたが、日本の高校生が国連事務所に行って「私達は制服を着ることを強制されている、人権侵害だ」と訴えたところ、国連の人から「世界には制服どころか、服を買うことさえ出来ない人がたくさんいるのですよ。」と笑われたそうです。 しかし教育界を観てみますと、こう言う笑い話のようなことがたくさんあるのです。 その一例・・・私は子供と書くとき、「子供」と正しく表記します。 しかし教育界ではこれは禁じられています。教育界だけではありません。 世間では今「子供」ではなく「子ども」と交ぜ書きするのが通例です。 新聞業界でも、産経新聞以外のほとんどのマスコミは「子ども」です。 学校はどうかって?当然「子ども」です。「子供」などと書こうものなら人権感覚を疑われ、直ちに書き直しさせられます。 理由をご存じでしょうか。二つあります。 一つは「子供という字の『供』は殿様が家来を連れて歩くときの『供』を意味する。 子供を見下しているからけしからん。」というものです。 もう一つは「『供』と言う字はお供え物の意味である。子供をお供え物に例えるなど人権侵害だ」というものです。 それギャグで言っているのか?と言いたくなるほどの屁理屈です。 多分どこかの三流教育学者が言い始めた屁理屈でしょうが、何であれ教育界ではこれが当たり前なのです。 ということで「子供」と書く人間などは私のような頑固ジジィか、よほどの信念を持った人しかいません。 因みに私の手元にある三冊の国語事典には「子供」はあっても「子ども」はありません。 このように人権が暴走すると正しい日本語まで踏み荒らされてしまうのです。 話しがそれてしまいましたが、要するに些細なことで「人権」の言葉を乱発しないでいただきたいと言うことです。 今の人権はそのほとんどが自分の立場を有利にするか、あるいは気にくわない相手をへこませるための道具にしか使われていません。 日常の些末な問題は人権問題ではなく、モラルの問題として扱われるべきです。 79、凶暴化する人権(1/31) 以前も申し上げましたが、近年の我が国の国力衰退はひとえに欧米教育を真似てきたことによります。 なぜなら、欧米の教育は日本人の体質に合わないからです。 これについては以前から何度も申し上げてきましたので、これまでにしておきます。 しかしここで大事なこと・・・それは海外から何かの文化を持ち込むときには、それが我が国の風土、即ちお国柄に合うかどうかを熟慮し、慎重にするべき、と言うことです。 拙速に持ち込めば古くから我が国に根づいていた文化を荒らしてしまうからです。 ジェンダーフリーなどはその典型でしょう。 ところで、近年はやたらと世間がギスギスしてきたとは思いませんか。 些細なことで「人権侵害だ」「プライバシーの侵害だ」「セクハラだ」「パワハラだ」 「差別だ」などの言葉が飛び交い、加えて「○○権」などの言葉が雑草のようにはびこり、うかつにものが言えなくなりました。 うっかり口を開いて失言でもしようものならたちまち噛みつかれます(まるで今の野党議員のようです)。 心なしか私には人々の顔が尖って見えるようになりました(蓮○議員などはその典型)。 こんな社会では人々は、世間から「口撃」されないようにするには人との関わりをもたないのが一番と考え、建前論ばかりが横行するようになります。 当然人間どうしのつながりは希薄になり、温かさが失われていきます。 これも我が国に持ち込まれた人権が過激化したことが原因・・・と言いたいところですが、まさか人権そのものが悪いはずはありません。なんと言っても人権は人類普遍の価値観です。 これを否定するならご近所にある国と同じです。 では何が悪かったのでしょう。人権が暴走し、人権という言葉をかぶせればどんな無理筋でも通る、という「人権原理主義」になったからです。 こんなものが社会にはびこりますと、本来人間を幸福にするはずの人権が、無機質で窮屈な社会を作ることになります。 江戸の庶民は人権の概念がなくとも、九尺二間の裏長屋で心豊かに暮らしていました。 板きれ一枚で仕切られた棟割長屋ですからプライバシーなどないも同じです。 それでも現代人よりずっと心豊かでおおらかに暮らしていたそうです。 なぜこんなことが出来たのでしょう。それは江戸の社会には「人権」より温かい「義理人情」があったからです。 「義理人情だと?古くせぇ、わははは・・・」の声が聞こえてきそうです。 ではかっこよく言い換えましょう。「ジャパニーズ・トラディショナル・ヒューマニズム」ではいかがですか(笑)。 誤解しないで下さい。私は「人情があれば人権など要らぬ」と言っているのではありません。 欧米直輸入の人権を、我が国のお国柄にあうような温和な人権にすべき、と言っているのです。 マスやイワナが棲む美しい渓流に獰猛なブラックバスを放てば、たちまち渓は死んでしまいます。 調和のとれた美しい日本の社会にはブラックバスのごとき獰猛な人権は似つかわしくないのです。 凶暴な人権ががはびこっては日本人の品格が失われるのです。 78、当たり前の教育を当たり前に(1/24) 私の投稿を読まれている方の中には「この爺さん、一体いつの時代に生きているつもりだ?」 「時代に取り残された化石のような人物」と笑っている人もおられることでしょう。 そう、多分私が訴えていることなどは教育界では一笑に付されるに違いありません。 それは私自身十分承知しております。 しかし、教育界から一歩外に出て、世間一般の人に聞いてもらって下さい。 そうすれば教育関係者の言うことより、私の言っていることの方が遙かにまともだと分かるはずです。 と言うことは教育関係者の考えていることがいかに世間からずれているかと言うことです。 フェイスブックに投稿していますといろんな方からご意見をいただきます。 その中に「教育を難しく考えすぎる、もっとシンプルであるべき」との意見がありました。 私はこれに全く同感です。本来、教育とは誰にとっても分かりやすいものであるはずです。 当然です。多くの国民は子供時代に先生や親から教育を受け、そして大人になってからは 子供を育てるなどして教育に関わってきました。 そう言う体験をする中で教育に対する考えを持っています。 つまり実体験の中で培われてきた教育論を持っているのです。 実体験に基づく教育論ほど確かなものはありません。 教育学の書物を読んだり、欧米の教育を勉強して身につけた「机上の空論」よりずっと正しいのです。 多くの人達が経験値の中で身につけた教育論は極めてシンプルです。何も難しくありません。 よいことをすれば褒められる、悪いことをすれば叱られる、甘やかしてはいけない、しっかり勉強させるなど、ほとんどはこういうシンプルで分かりやすく「当たり前」なものばかりです。 事実、子供には当たり前の教育を当たり前にやっていれば当たり前に育つのです。 ジェンダーフリー教育のようなおよそ「当たり前」からかけ離れた教育は無用なのです。 第一そんな教育を望む親がどこにおりましょう。 ところが学者や評論家が「悪いことをする子は何かストレスを抱えているに違いない」とか、「教え込んでは創造力が育たない」「子供の心を傷つけるな」「褒めて育てよ」 「子供の自主性・主体性を」、果ては「怒るのではなく、叱ること」などと言うものですから混乱するのです。 このような視点も大事ではありますが、それに傾きすぎると「当たり前」の教育が当たり前に出来なくなるのです。 学校が最も大事にすべきことは、@子供が安心して勉強できること、A先生がしっかり教えること、Bえこひいきしないこと(実がこれが最も子供の信頼を失います)の三点です。 これさえ肝に銘じておけば、他のことは少々不足していても何とかなるのです。 要するに教育関係者は頭でっかちになっているのです。 「○○教育」などの聞き慣れない言葉を持ち込み、教育を複雑にしているのです。 ひょっとすると学者先生達は自分たちの教育論を権威づけるために、わざと難しくしているのかも知れません。 要するに科学的裏付けのない役に立たない教育論や知識を頭いっぱいにため込み、それにとらわれ、振り回され、その一方で大事な基本的なことを忘れているのです。 欧米教育を真似て今風な教育をするより、今一度頭をリセットして教育を原点から見つめ直してはいかがですか。 77、世界に冠たる「人材資源大国」日本!(1/17) 我が国は資源小国と言われます。地下資源に乏しく、加えて毎年のように台風や地震の災害に見舞われ、そのたびに多くの人命を失います。 そして国土はと言えば極東の山ばかりのちっぽけな島国、つまり我が国は地理的には全く不遇な条件に置かれているのです。 そんな我が国が、今は衰退しつつあるとは言え、世界第三位の経済大国です。 思うにこれは奇跡ではないでしょうか。 普通に考えれば発展するはずがないのにこうして豊かな国を築き、 国民はそれなりに恵まれた生活を謳歌しているのです。 どうしてこんなことが可能なのでしょう。 私は冒頭に「我が国は資源小国」と言いましたが、実は人材を資源と捉えれば、我が国は世界に希に見るほどの資源大国なのです。 そしてその品質は世界で群を抜いて高いのです。 人材という資源は国の発展を考える上では地下資源などより遙かに重要な意味を持ちます。 そして有り難いことに、この資源は教育さえ間違えなければ枯渇することがありません。 幕末期から明治期に我が国を訪れた外国人は一様に治安のよさや国民の礼儀正しさ、誠実さ、そして勤勉さに驚愕したと言います。 そして明治維新後、我が国の国の急速な発展ぶりにはド肝を抜かれると同時に、怖れさえ抱いたということです。 言うまでもなく、これらを支えていたのは上質の人材資源であり、それを生み出していたのは質の高い教育です。 実はこの頃、我が国はすでに欧米を遙かにしのぐ教育大国だったのです。 因みに識字率ではロンドンやパリをしのぎ、世界一だったのです。 「教育は国の礎」と言われます。国の発展はひとえに教育にかかっていると言っても過言ではありません。 国の発展を長期的視点で捉えるならば、教育ほど大事なものはないのです。 数ある国の施策ですから、中には間違えることもあるでしょう。 しかし教育だけは絶対に間違えてはいけないのです。 それを間違えると人材資源を失い、発展の原動力を失ってしまうからです。 今や我が国の国力の衰退は誰の目にも明らかです。 私の観るところ、これは戦後GHQの施策によって我が国の教育が根こそぎ破壊され、上質な人材資源を生み出せなくなったことによるものです。 そして残念なことに、かつて世界から賞賛されていた伝統教育を日本人自身が「戦前の古くさい教育」として否定し、履き古した草履のようにうち捨てる一方、欧米教育を崇拝し、一貫してこれを真似てきたのです。 私はこれまで何度も申し上げてきましたが、個の確立と自己主張を最優先する欧米の個人主義教育は、稲作農耕民族として和と協調で勤勉に生きてきた日本人には不向きなのです。 つまり、近年の我が国の国力衰退の根本原因は 日本のお国柄に合わない欧米教育を続けてきたことにあるということです。 経済力だけで国力を測るのはいかがとは思いますが、かつて世界を席巻した日本の経済力も、 近未来にはインドに抜かれ世界四位になるとの予測もあります。 これまでの教育行政の失敗のツケは大きく、我が国の衰退は今後も当分続くことでしょう。 私達は今のままの教育を続け、国を衰退させて良いのでしょうか。 そうなったとき、私達は先人達や自分の子や孫にどう詫びればよいのでしょう。 76、今こそ教育イノベーションを(1/10) イノベーションという言葉をよく聞きます。 イノベーションとはこれまでの概念を根底から覆し、社会を一新させる大変革のことです。 社会や文明はなだらかに進化・発展するのではなく、階段のように跳び跳びに変化してきました。 ある時期に大発明がなされるとそれによって社会が飛躍的に発展し、以後はそれを活用し改良する時代が続き、その後また新たな大発明が・・・と言う具合です。 蒸気機関が発明されると産業革命が起き、鉄道が開通し・・・はその典型例です。 近い時代ではインターネットの発明もそれに該当するでしょう。 我が国の教育は明治5年の学制の施行、戦後GHQによる教育破壊がありましたが、イノベーションと呼べるようなものはありませんでした。 そして実は我が国を含め、いずこの国も教育イノベーションはなく、 中世ルネッサンス期から何も進化していないのです。 今世界ではどの国の学校もいじめや不登校など深刻な問題を抱えています。 中でも欧米の学校は我が国以上に荒れているそうです。 昔から我が国の教育は欧米の教育より質が高く、幕末期から明治期に日本を訪れた外国人は我が国の教育水準の高さに舌を巻いたと言われます。 そして「やがてこの国は我々と肩を並べるほどの強国となるであろう」と言わしめました。 その予言は見事に当たりました。当たり前です。 我が国は古くから世界に冠たる教育大国だったのですから。 ところが戦後、GHQによって教育破壊されて以降、我が国の教育は一貫して欧米教育を真似るばかりで、進化・発展するどころか、ますます退化しています。そしてそれは今も続いています。 自国より質の低い教育を真似てどうするというのでしょう。 今や我が国の国力衰退は誰の目にも明らかです。私はこの原因は教育が衰退したことにあると思っています。 我が国の教育界は今、イノベーションが必要です。それも「破壊的教育イノベーション」でなくてはなりません。 一般に「日本人は改良するのは得意だが、イノベーションを起こすのは苦手な民族」と言われています。 しかし中部大学の山本尚教授は著書の中で「日本人は内向型民族でありイノベーションを起こすのは苦手だが、 全てが焼け野原になった終戦後は、前例が消失して存在しなかったので破壊的イノベーションが勃興した」と言っています。 今の荒廃ぶりを観れば教育現場は正にその「焼け野原」と言えましょう。 つまり今こそ日本人は教育界に破壊的イノベーションを起こす時なのです。 では教育イノベーションとは何でしょう。 それはこれまで何度も申し上げてきたこと、つまり教育に脳科学や動物行動学などの科学を取り入れ、科学的根拠のない「きれい事のの教育」や「はき違えた子供中心主義」を一掃し、科学的知見に基づいた教育にすること、即ち教育の近代化です。 そしてこれは18世紀に起こった産業革命に匹敵するほどインパクトのあるイノベーションなのです。 こんな壮大なことを言えば偉い教育学者先生達は「一介の元校長風情が何を偉そうに・・」と笑うことでしょう。 しかし、もしそう言う学者先生がいたら私は逆に反論します。 「一介の元校長でさえこうして頑張っているのに、あなたたちは今まで何をしていたのですか。 屁理屈を言うだけなら誰にでも出来ますよ。」と。 75、教育は学者の専有物ではない(1/3) これまでジェンダーフリーのカルトぶりを述べてきましたが、一体全体、なぜこんなグロテスクな考えに社会がなびいたのでしょう。 それは多くの国民が男女平等と男女共同参画とジェンダーフリーの三者を明確に区別していなかったからではないかと思います。 当初「ジェンダーフリー」という耳慣れない言葉に出会ったとき、多くの人達はこれを「男女平等の延長」くらいに思っていたのでしょう。 そして「何であれ平等ならいいことだ」と安易に受け入れたのではないでしょうか。 男女平等は誰が何と言おうと絶対に正しいものです。男女共同参画の考えは少々行き過ぎもありますが概ね正しいと言えましょう。 しかしジェンダーフリーは科学を無視したカルトであり、絶対に教育現場に持ち込んではいけないのです。 カルトめいた考えを信じると、正常な感覚が麻痺し、異常な教育が平然と行われるようになります。 かつて問題にされた過激な性教育もその一つです。小学生も高学年ともなればそれなりに性教育も必要でしょう。 しかしセックス人形を使って、男女が交わっている部分を露骨に見せる必要がどこにあるのでしょう。 ジェンダーフリーの考えがどういう屁理屈で過激な性教育に結びつくのか知りませんが、こうした常識外れの教育を見過ごすわけにはいきません。 ここで大事な話をします。それは教育関係者の学校教育に対する姿勢についてです。 得てして教育界の人、特に教育学者達は学校教育を自分たちの独占的領域と考え、自分たちが思うように進めてよいと考えているようです。しかしこれは大きな間違いであり、思い上がりです。 学校教育は大多数の親の願いに沿っていなければいけないのです。 それを理解するには学校のそもそもの発生起源を知らなくてはなりません。 人類が動物を獲って生活していた原始の時代は、親が子供に狩りの道具の作り方や獲物の捕り方、村の決まりなどを教えていましたが、 社会の進化・発展とともに教える内容が膨大になりますと親の手に余るようになり、江戸時代には豊富な知識を持った寺子屋のお師匠様が親に成り代わって子供に教えるようになりました。 その後明治期になって教育制度が整えられ、現代のような学校教育になりました。 しかし教育制度がどう変わろうとも「親に成り代わって学校が子供を教育する」という原点は変わりません。 つまり学校教育は多くの親の願いに沿っていなければいけないのです。 こういう視点に立てば、過激な性教育もジェンダーフリー教育も、そして「ゆとり教育」もあり得ない話です。 教育関係者は今一度親や国民の願いを真摯に受け止め、それを踏まえた教育をしなければなりません。 教育は学者の専有物ではなく、また机上の空論を弄ぶ玩具でもないのです。 とは言っても国の未来を見据えた国家戦略も必要ですから無制限に親の希望に添うことは出来ませんが・・・。 最後に男女共同参画についてひとつ・・・ よく耳にすることですが、ある特定の職業について「女性の割合が少ない、欧米では○%が女性なのに我が国では」と批判していることです。なんと馬鹿なことを!それぞれの国にはお国柄(国民性)があります。 自己主張の強い欧米の女性と違い、日本女性は目立ちたがらず、万事控えめに生きることを好みます。 そう言う国民性を無視して、なぜ欧米基準に合わせる必要があるのでしょう。欧米は欧米、日本は日本なのです。 |