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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

川内時男著 「教育直言」 時事評論社

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96、教育専門家には新しい教育はつくれない(5/30)


「子供は霊長目ヒト科の子である」。これは私がこれまで何度も口にしてきた言葉です。
これを聞いた人の中には「・・・ということは人間の子供を猿や犬並に扱えと言うことか」と思った
方も多くおられることでしょう。とんでもないです。
私は厳しさ一辺倒のスパルタ教育で育てよ、と言っているのではありません。
もっと深く幅広い科学的知見をもって教育を考えよと言っているのです。
これまで何度も述べてきましたので聞き飽きたでしょうが、何度でも言います。
人間の子供は脳科学や動物行動学などの知見を基にした「科学的裏付けのある教育」でなければ育たないのです。
ましてや複雑で高度に進化した現代社会においては科学的専門知識なくしては子供を育てることは出来ないのです。
教育に科学がないからきれい事の空論が横行し、陰湿ないじめがはびこり、
また、いつまで経っても不登校問題が解決しないのです。
科学のない教育など医学のない医療現場と同じです。教育界が抱える病気を治せるはずがないではありませんか。
 誤解を怖れずに言います。子供は多くの大人が考えているほど高尚で清らかな生き物ではありません。
子供とは「将来高い知能と豊かな感性を身につけられる可能性をDNAによって保障された霊長目ヒト科の子」です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
ですから時には天使のように清らかであどけなく、また時には生存本能剥き出しの猿そのものになるのです。
そしてどちらも等しく子供の実体です。子供を美化してはいけません。
子供を教育するには「霊長目ヒト科の子」としての子供を直視することが大事なのです。
そのことこそが教育改革の出発点であり、科学的教育への入り口なのです。
意外なことを言うようですが、教育を考えるときには実は専門家の考えは必要ありません。
と言うより専門家の考えはむしろ邪魔なのです。
教育の目的は子供に知識を養い人格を高めることですが、そのためには幅広い分野の専門知識が必要です。
研究室に閉じこもってワクチンの研究をするような場合は「狭くて深い学識」で足りるかも知れませんが、
人間の心を発達させようとする教育には動物行動学や脳科学、あるいはそれ以外の分野をも視野に入れた
幅広い知識が必要なのです。つまり「狭くて深い知識」ではなく「浅くとも視野の広い知識」が必要だと言うことです。
車はエンジンの専門家だけではつくれません。タ
イヤ、ハンドル、ボディ、座席、安全設計など、あらゆる分野の専門家の力が結集して初めて完成するのです。
車でさえこうですから、子供の心をつくるにはどれほど幅広い専門知識が必要でしょう。
そう考えれば視野の狭い教育学者の考え、それも科学のない空論を弄んでいる教育専門家などには
教育を考えるなど無理なのです。
ではどうすれば・・・まず子供を神棚に祭り上げるような子供中心主義や欧米崇拝主義を一掃し、
これまで積み上げてきた空論を全てリセットし、白紙の状態から教育を見つめ直し
・・・もう止めておきます。言うだけ無駄でしょうから・・・。


95、専門家という肩書き(5/23)

 日本人は「専門家」という肩書きに弱いようです。
専門家とはある分野に関して常人よりはるかに深い知識・見識を持っている人の代名詞ですから、
多くの国民は肩書きだけで全幅の信頼を置きます。
 教師は「教育の専門家」とされています
専門家と言うからにはそう呼ばれるに値する専門知識が備わっていなければなりません
。果たして備わっているのでしょうか。大学の教職課程を修了していますので教職に関する専門知識は
それなりにもっているのでしょうが、その専門知識と言うのが、浮世離れしたファンタジーのような教育論で、
とても専門知識とは呼べません。そして教育現場では全く役に立たないのです。
役に立たない専門知識などないのも同じです。
 文科省はじめ、教育学者や評論家の言う教育というのは、子供の自主性・主体性を重んじ、
子供の気持ちに寄り添い、子供の希望を尊重し、強制せず、心を傷つけないように、個性を尊重し、
などの徹底した子供中心主義です。要するに子供がしたいようにさせる、ということであり、
つまるところ「やりたい放題」、「放任」と同じです。
子供に甘いことが進歩的文化人、とされる現代ですから、社会でもてはやされるのは当然です。
しかし、こんな教育論からは我慢、鍛錬、努力、などの発想は生まれません。
子供のご機嫌取りをするような現代の教育を見れば多くの親が「自分の子はこれで大丈夫か」と不安になるのは当然です。
しかしその不安の一方「教育を研究している偉い学者先生や専門家が言うのだから正しいのだろう」と、
釈然としないまま信じているのでしょう。しかし専門家や学者の言うことが常に正しいとは限りません。
実は教育に関してはなまじ専門家の言うことより、世間一般の素人の考えが正しいことが多いのです。
あの悪評高かった「ゆとり教育」はその典型でした。
 何度でも言いますが、私は「科学的知見に基づかない浮世離れした教育では子供は育たない、国が衰退する」との考えのもと、
こうして「教育近代化」「教育イノベーション」の必要性を訴えているのです。
しかしなんと言いましても私などは一介の元校長でしかありません。
そんな私がどれほど声を張り上げても「○○教育大学教授」という厳めしい肩書きをもった人の前では無力です。
学者先生というのは誠に無責任なものです。自分たちが現実離れした理想論を垂れ流しても、
その理想論を実践して教育現場が荒れれば、非難されるのは現場の教師達であって、学者先生ではありません。
本来なら真っ先に批判されるべきは文科省や学者先生達のはずなのですが、
彼らはいつの場合も世間から隔絶した庁舎の中か、大学の奥まった研究室で身の安全を囲っているのです。
教育の舵取りを担う者はあらゆる機会に学校に足を運び、厳しい現実を知る必要があります。
そうすれば夢物語のような教育論など口にするはずがないのです。これが現場主義というものです。


94、教育界よ目を覚ませ(5/16)

 北海道旭川市で女子中学生が凄絶ないじめ犯罪で自殺した事件はご存じの通りです。
多くの人は怒りではらわたが煮えくりかえったことでしょう。
この事件に限らず学校で起こるいじめ事件について
世の人々は「なぜ学校は加害者を厳しく指導しないのか」と首をかしげていることでしょう。
同感です。実社会ではこんな悪逆非道をすれば厳罰に処されて当然なのですから。
ところが教育の世界ではそうはならないのです。
実は教育界というところは世間では考えられないほど「きれい事」が染みついているのです。
今回の痛ましい事件はその「きれい事」が引き起こしたのです。
 今の教育界は「子供は純粋で人の痛みが分かる」、「子供を信じてやるのが本当の教育」
などのきれい事で塗り固められています。
そう言う世界ですから「いじめで友達を自殺に追い込む子供などいるはずがない」ということになっているのです。
もちろん絵空事でしかないのですが、それを本当に信じている教師がたくさんいるのです。
さらに言えば、教育現場では建前論としてはこれが正しいとされているのです。
思うに、この学校の管理職は日頃からこの建前論を言い訳にして厳しい指導をせず、
担任教師は能天気にもこれを本心から信じていたのでしょう。
だからこそ母親が血を吐く思いでいじめの事実を訴えてもそれを受け止めず、
あろうことか「デートがありますから」と言ってこれを放置したのです。
まさに「脳内お花畑」と言う他はありません。
教頭の「加害生徒にも未来がある」の発言が批判されていますが、
今の教育現場ではこの考えが常識なのです。
一体全体、教育界はなぜ世間の感覚からこれほどずれてしまうのでしょう。
つまるところ教育界が閉鎖的で、学者先生が唱える観念的教育論が脳細胞まで染みついているから、
ということになるのでしょう。
私には今回の事件が「学校よ目を覚ませ!」と警鐘を鳴らしているように聞こえます。
 現代教育は根底から間違っています。
そもそも「子供とは何か」という根本的なことが分かっていないのですから当前です。
「子供は霊長目ヒト科の子」という認識をもたず、「子供の心は純真で美しい」などのファンタジーに目が曇り、
子供が秘めた動物的残酷が見えなくなっているのですから間違えるのは当たり前なのです。
 教育界は目覚めなくてはなりません。科学的な知見をもって教育を根底から見直す必要があります。
これが私が提唱する「教育近代化」であり「教育イノベーション」です。
今教育現場では働き方改革が進められています。近年は「教職はブラック」とされ、
教職希望者が激減していると言います。
ストレスで精神を患い入院する教師が毎年5千人と聞いてはそれも当然でしょう。
 日頃は何かと厳しく批判される教師ですが、
実はほとんどの教師は子供が好きで、指導熱心で、情熱に溢れているのです。
ただ私は、教師の熱意と努力が、教育に対する間違った思い込みのために何一つ報われていないのが切ないのです。
教育界は情緒だけで教育を語るのではなく、
先端科学の視点から教育のありようを見直し、科学的裏付けのある教育にしなければなりません。


93、日本の強さと弱点(5/9)

日本人のルーツを知れば私達の体格の貧弱さと高い集団性の由来が理解できます。
よく「日本人は個人の力は弱いが集団になると強い」と言われますが、
その国民性はこんなところから来るのでしょう。
災害時における自己を抑制した集団行動、そして社会道徳の高さは海外から絶賛されますが、
これらは全て日本人の「他を思いやる精神」があればこそなせる業です。
とは言っても、日本人の集団性の高さは良いことばかりではありません。
弱点にもなります。それは強固な連帯意識が「出る杭は打つ」のような横並び意識を生み、
飛び抜けた画期的な考えを育ちにくくさせるからです。
先人の教えを受け継ぎ、伝統を重んじることは価値あることですが、
そればかりに固執していては進化・発展は望めません。
それを考えれば外国から新しいものを取り入れることは意味のあることです。 
 我が国は奈良・平安の時代に遣隋使や遣唐使を派遣し、大陸の文化を取り入れました。
これは現代社会がひたすら欧米を真似ていることと似ています。
しかし、当時の日本人は決して大陸文化を崇拝し無節操に取り入れたわけではありません。
そこには抜け目のない計算と目的があったのです。
その目的とは、
@仏教文化を取り入れて国作りに役立てること、
A大陸に向けて「我が国はこれほどすごいんだぞ、なめんなよ!」と威嚇すること、だったそうです。
そして大陸から持ち込まれた文化と自国の文化が融合して「国風文化」が育ってきますと、
菅原道真は「危険を冒してまで行くほどの価値はない」として遣唐使を廃止しました。
いやはや、先人達の独立・自尊の精神は見上げたものです。
 翻って今の日本、とりわけ教育界の現状はどうでしょう。
明治期に海外から賞賛されていた伝統教育をゴミ屑のようにうち捨て、
それが原因で教育現場がこれほど荒んでいるのに、なお欧米の後追いをしているのですから、
教育界は欧米の植民地です。現代の教育関係者には道真の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい思いです。
 ところで、私は日本人の無節操な欧米崇拝ぶりに腹を立ててはいますが、決して欧米嫌いではありません。
欧米には学ぶ点もあるからです。その最たるものが画期的な先端科学技術です。
日本人は勤勉・実直ではありますが、画期的なアイデアを生み出す力は欧米人に及ばないようです。
残念ですがこれは認めないわけにはいきません。
たとえ画期的アイデアが芽生えたとしても、我が国特有の横並び意識によって成長が阻害されるのです。
この弱点を補うには海外からの文物、とりわけ欧米の最先端の科学技術を取り入れなくてはなりません。
中国はこれまで多くの技術者をアメリカに留学させ、先端科学技術を持ち帰り、今の地位を築きました。
我が国も負けてはいられません。
近頃の日本人は海外に行くことを敬遠する風潮があるようですが、
これからは遣唐使ならぬ「遣米使」「遣欧使」として科学者、技術者を派遣する必要があるように思います。
ただし!これは科学技術を移入することが目的であって、教育文化の移入ではありません。
なぜなら教育に関しては欧米から学ぶことは何一つないからです。


92、日本人は世界で最も弱い民族(5/2)

 人類の発祥がアフリカであることはよく知られた話です。
そして人類はこのアフリカから世界へと拡散していきました。
6万年前には中東に到達し、その後はヨーロッパとアジアに向かう二つのルートに分かれて移動しました。
当時この中東あたりにはすでにネアンデルタール人が生存していました。
ネアンデルタール人は私達の祖先ホモサピエンスとは直接のつながりはありませんが、
体格に優れ、道具を使用し、また今の人類よりも知能が高かったと言われています。
しかし彼らは絶滅し、生き残ったのはホモサピエンスの方でした。
ではなぜ知能が高く道具も使っていたネアンデルタール人が絶滅したのでしょう。
学説によりますと、彼らは社会性に乏しく、つまり仲間どうしのつながりが弱かったから、だそうです。
一方ホモサピエンスは確固とした「社会」を形成し、
狩の道具を発明すれば仲間がそれを共有して文明を高め、
また高度なチームワークで獲物を獲ったり、獲物を分け合ったりなどして協力し合ったから生き残ったのだと言われています。
 ところで、その人類の拡散の仕方についてですが、
部族どうしが土地を巡って争い、闘いに勝った部族がその土地にとどまり、
敗れた部族は土地を追われ、新しい場所へと移動するというものでした。
当時の闘いは石を投げたり取っ組み合いをしたり、
あるいは混紡で殴り合ったりするものでしたから当然体力の強い部族が勝ちます。
ということは体力の弱い部族ほど負けることが多く、その分だけ辺地に追いやられるということになります。
なるほど・・・言われてみればアフリカから遠く離れた土地に住む人種ほど体力や運動能力が劣っている傾向がありますから、
この考えは納得できます。
ただ、ここでお断りしておきますが、この考えは数ある学説の一つであり、その分野の定説というわけではありません。
また「人種差別につながる」と言う理由から学者の間ではタブーになっているのだそうです。
とは言っても学問にタブーなどあって良いはずはありません。
まして科学的にものごとを考えようとしている時に「差別につながるから・・・」などの考えははナンセンスです。
ですから私は委細かまわずこの考えに沿って話を進めます。
 ある学者の説(定説ではなく、あくまで学説です)によりますと・・・日本人はユーラシア大陸の果てまで
追われてきたのですから、これは闘いに負け続けたということであり、
言わば「選りすぐりの弱い民族」ということが言えます。
しかしそれは体力がなかったと言うことであり、人種として劣っていたという意味ではありません。
むしろ体力の不足を補うために集団化し、高い社会性で生き残ってきたということですから、
生き方としては他の民族より進んでいたと言うことも出来ます。
これは先に述べたように、体力と知力に優れたネアンデルタール人が滅亡し、
社会性に優れたホモサピエンスが生き残った、と言うことと重なります。
ともあれ日本人は世界で希に見るほど集団性が高いと言うことです。


91、世界は今「知の大航海時代」(4/25)

 15世紀の半ばから始まった大航海時代、欧米の白人国家は強大な軍事力と工業力を背景に
世界を支配しました。現代人から見ればなんと理不尽な、と思うところでしょうが、
このことの是非を現代に生きる私達が議論しても無意味です。
当時の世界はそれが当たり前だったからです。
強い国が弱い国を食う・・・これは21世紀の現代においても基本的に同じです。
無論お隣の中国のように強大な軍事力で横暴な振る舞いをすることは許されませんが、
それでも世界が弱肉強食であることには変わりはありません。
 それはさておき・・・大航海時代当時、国力はその国の工業力と軍事力によって決まりました。
それによって強大な国力を持った欧米の白人国家はアジアの国々を次々と植民地化しました。
余談ですが、当時の歴史を見ますと、我が国がそれを免れたのは正に奇跡です。
江戸時代に250年という世界史上希に見る長い平和を謳歌できたのも奇跡でしたが、
そのために貧弱な軍事力しかもたなかった日本が独立を保ったことはさらに奇跡でした。
 ところで現代は「知の大航海時代」とも呼ばれています。
これは「知」の力をもって他国に打ち勝つ、と言うことを意味します。
単に強大な軍事力を持っているだけでは世界に勝てないし、
またそれが許される時代ではないのです。
軍事力を振りかざして他国を圧迫すればお隣の中国のように世界から孤立するしかないのです。
ではそう言う世界の中で日本は今後どう生きていけば良いのでしょう。
石油などの地下資源でもあればそれを戦略物資として生き抜くことも可能でしょうが、
無い物はしかたありません。国の生き方としてはいろいろ考えられます。
ヨーロッパのように観光や農業で生きていくのか、
あるいは我が国のお家芸であるアニメや和食などの文化で生きていくのか、
つまり何で飯を食っていくのか、と言うことです。
 私は、我が国が飯を食っていく手段は持ち前の科学技術と
それによる最先端の物作りしかないのではないかと考えています。
現に我が国は明治維新以来、ひたすらそう言う道で生きてきました。
中国やアメリカとは比較にならないほど小さな国土と、乏しい地下資源ながら、
世界第三位の経済大国を築いているのですから奇跡というべきです。
この奇跡は日本人の頭脳が図抜けて優秀だったからではなく、
ひとえに日本人の真面目さ、勤勉さ、知的水準の高さがもたらしたものでしょう。
現代は正に「知の大航海時代」、アメリカも中国も莫大な資金をつぎ込み、
科学技術と最先端技術で優位に立ち、世界の覇権を手にしようと競っています。
情報技術、人工知能、自動運転技術、知能ロボット技術、バイオテクノロジー、量子コンピューター、
宇宙航空技術、医療工学技術、再生医療技術など、
世界は総力を挙げて先端技術の開発にしのぎを削っています。
我が国もこの分野で負けては生き残れません。
脳内お花畑のような教育にうつつを抜かしているとき時ではないのです。
「知」で後れを取れば転落するしかありません。それが「知の大航海時代」の掟です。
「二流国、三流国でもいい、平和に暮らせればそれでいいじゃないか」という考えもあるかも知れませんが、
それでは有史以来我が国をここまで築き上げてきた先人達に申し訳が立ちません。
教育は国の礎、国力を高めるには教育しかないのです。


90、国家観なき教育論は「きれいごと」になる(4/18)

 「教育は国の礎」とは教育関係者でなくとも誰もが言います。またこれを否定する人はいません。
しかし私にはこの言葉がただのお題目になり、言葉だけが踊っているように感じます。
この言葉を本当に言葉通りに理解しているなら、教育関係者は自分が携わっている教育が
これからの国づくりにどう結びついていくのかと考えるはずです。
それを考えないままに「教育は国の礎」などと言っても空念仏にしかなりません。だから空論のきれい事になるのです。
 我が国はこれからどう生きていけば良いのか、またどういう国でなければならないのか、
そのためには国民にはどうあってほしいか、
そしてそういう国民になってもらうにはどういう教育をすべきかと、国の未来像から教育のあり方へと考えを辿るはずです。
つまるところ、明確な国家像をもたなければ国の未来を見据えた教育は出来ないと言うことです。
近年、我が国の衰退は我の目にも明らかです。コロナワクチンの開発にも後れを取ってしまいました。
もはや科学技術立国などとはおこがましくて口に出来ません。どうしてこんな体たらくになってしまったのでしょう。
「教育は国の礎」の言葉に従えば、これらの原因は全て教育が衰退したことにあります。
国の行く末に何の危機感も持たず、何のビジョンも持たず、「子供が笑顔で伸び伸びしていればこと足れり」
とするおめでたい教育を長く続けてきたのですから、こうなるのは当たり前です。
 何度も言いますが、私は自由伸び伸び教育を否定しているわけではありません。
ただそう言う教育は基礎学力と人格の基盤が一応完成した高校教育以降にすべきだと言っているのです。
ところで、前回私は、国が発展するためには貧しい家の子でも努力次第で大成出来る社会でなくてはならない、
と言いました。かつての日本はそう社会であり、それが我が国の強みでもありました。
しかし現代の教育界、特に小・中・高校は「私高公低」です。
いい教育を受けるには高い学費を払って私学に行くしかありません。
しかし学費の払えない貧しい家の子は入学どころか、最初から選択肢に入っていないのです。
 つまるところ我が国が発展するためには公立学校が私学に負けないだけの教育をするしかないのです。
しかしこれは道のりが遠すぎてにわかには実現できそうにありません。そこで一案・・・。
 厳しいバッシングを覚悟で提案します。全国の高校三年生の中から「非凡な才能の持ち主」と認められる者数百人を募り、
大学進学後の経費(授業料・生活費)の一切を国が負担する奨学金制度をつくり、
貧困のために志を断念することがないようにするのです。
言わばこれは「将来我が国に貴重な果実をもたらしてくれそうな苗木」に十分な肥料を与える、という施策です。
外国人留学生という苗木に肥料をやることも無意味とは言いませんが、
外国で実をならせる苗木よりも、自国に実を落としてくれる苗木の方がもっと大事だと私は思います。


89、懐かしき学生時代(4/11)

 前回は貧しい家の子にも芽の出るチャンスを・・・という主旨の投稿をしました。
これに関わって、ちょっと恥ずかしいのですが私の生い立ちについて述べます。
決して自分の苦学ぶりをひけらかすわけではありませんのでご容赦ください。
 地元の徳島東工業高校(現在の徳島科学技術高校)電子科の3年生であった昭和41年の2学期半ば、
志すところがあって進路を変更、徳島大学工学部を受験しましたが、あえなく不合格になりました。
波乱の人生の始まりです。
 家は稲作農家と零細な八百屋ですから、高校を卒業した若造の私に「来年こそ頑張れ」と
ただ飯を食わせてくれるほど甘くはありません。
叔父に連れられ和歌山でブルドーザーの修理をしていましたが、「このままでは道が拓けない」と心機一転し、東京に出ました。
有り難いことに東京は選り好みさえしなければ仕事はいくらでもありました。
新聞販売店に住み込み、夜は皿洗いや出前持ちなどをしながら専門学校に通っていましたが、
学費が追いつかず退学しました。
このままでは・・・と焦る気持ちから再び心機一転して大学進学を決意、アルバイトで学費を貯めながら猛勉強しました。
幸いなことに高校時代に培った電気の知識が役立ち、
ビルに住み込んで変電設備や冷暖房機器のメンテナンスの仕事をしました。
一応技術職でしたから新聞配達より給料がよく、また勉強する時間も十分とれました。
怠惰な私でしたが、このときばかりはよく勉強しました。その努力が実り、無事中央大学理工学部数学科に入学できました。
徳島の両親に学費の援助を頼んでみましたが案の定「家にはそんな余裕はない、金は出せん」とのことでした。
ということで学費は親に頼りませんでした。
 学校に行ってみると同学年の者はみんな私より4つ歳下です。普通なら大学を卒業している年齢での入学でしたから
同級生から見ればまるでオッサンです(教室の仲間からは「さん」づけで呼ばれていました)。
ということで入学してからは昼間は大学、夜はビルの変電設備や冷暖房機器の保守管理の仕事をやっていました。
 こう言いますと随分暗い学生生活を送ったように思われるかも知れませんが、結構楽しい生活でした。
最も楽しかったのは、友人、知人を集めて草野球チーム(貧乏学生の集まりだからチーム名は「ビンボーズ」)をつくり、
江戸川グランドで試合をしたことです。農作業の手伝いなどで、まともにスポーツをさせてもらえなかった私にとっては
この上なく新鮮でした。
ところでこの当時、新聞配達や牛乳配達をしながら大学に通う苦学生はたくさんいました。
しかしこの頃の大学は「よりよい学習環境を」との理由で校舎を都心から郊外に移転することが多くなりました。
親の仕送りを受けている学生にとっては都心の喧噪よりも郊外の方がよいのかも知れませんが、
郊外ではアルバイトをしながら大学に・・・というわけにはいきません。
このときばかりは「俺たちのような苦学生もいるんだぞ!」と怒鳴りたい気持ちでした。
今回は私事ばかりの投稿ですみませんでした・・・反省。


88、日本の衰退の根本原因(4/3)

近年はほとんど聞かれなくなりましたが、その昔ジャパニーズドリームという言葉がありました。
これは貧しい家の子でも勉学に励んで学業を修め、一流大学を出れば高い社会的地位を得て
成功を収めることが出来るという「ドリーム」です。
私が若かりし頃は貧しい家の子がリンゴ箱を机代わりにして猛勉強し、
一流国立大学の医学部に・・・などの話は珍しくありませんでした。
私の知る範囲でもそう言う人が何人もいたのですから、全国を見渡せば
どれほど多くの人がそう言う夢を実現したことでしょう(「一流大学を出ることだけが
成功なのか」などの青臭い反論はお断りします)。
要は貧しい家の子であっても、目標をもって必死に頑張れば社会で頭角を現すことが出来る社会であったと言うことです。
ところが近頃はこう言うジャパニーズドリームの話はとんと耳にしなくなりました。どうしてでしょう。
近年「日本の社会が階層化してきた」との指摘があります。
よく言われることですが、金持ちの子は有名私立校から一流大学に進学し、高い学歴を身につけ、
高収入を得られる職に就いてますます裕福になり、
一方、貧乏人の子は塾にも行けず、質の高い教育が受けられず、所得の低い職に就き、ますます貧しくなり、
その結果、貧富の格差が拡大し、固定化している、と言うのです。
これらをすべて肯定するわけではありませんが、確かにその傾向は否定できません。
 現代は大学全入時代ですから私の身辺でも大学で学ぶ若者は多くいます。
しかし、いわゆる超難関の超一流大学に入学したという話はほとんど聞こえてきません。
このままいけば我が国は富裕層と貧困層の格差がますます拡大し、固定化し、
二極構造の階級社会になっていくことでしょう。
 目を転じれば太平洋を隔てた対岸の大陸にはアメリカンドリームというのがあります。
これは「一発当てれば大富豪になれる」というアメリカらしい野望です。
事業で成功したり、大発見・大発明をしたり、あるいはプロスポーツ選手になったり、
などで巨万の富を築く人は今も珍しくありません。
そしてアメリカはこう言う人達の活力によって支えられているのです。
アメリカは膨大な人口を抱え、また世界中から優秀な研究者が集まってく来ますから人材は豊富です。
そして有能な人材が豊富にあればこそエネルギッシュに成長できるのです。
今我が国はこんなアメリカと競争しています。
 競争に勝つには突出して優れた人材が必要です。そう言う人材は貧困層からも富裕層からも芽生えてきます。
しかしジャパニーズドリームがなくなった我が国では貧困層から出た芽は育つことが出来ません。
貧しさのどん底から這い上がってきた野口英世のような話はすでに夢物語なのです。
富裕層という「狭い畑」から出てくる芽だけに頼っていては我が国は人材が乏しくなります。
貧困層を含めた広範な層から出てくる多くの芽を大事に育てる必要があるのです。
国を牽引するような人材になるかも知れない大事な芽を、空疎なきれい事の教育で腐らせているのですから
国が衰退するのは当たり前なのです。