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仲間からの報告
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川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)

川内時男著 「教育直言」 時事評論社

  いじめ・不登校問題解決の処方箋


       〜古い体質の教育界を近代化し、科学で教育を蘇らせる〜

                                
元徳島県公立中学校長 川内時男

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問題解決の糸口を見い出せない教育界

 陰湿ないじめ、それによる子供の自殺、不登校、校内暴力、学級崩壊、モンスターペアレンツ・・・これらを見れば誰もが「何かがおかしい」「何かが間違っている」と疑問を抱くことでしょう。しかし「どこで何を間違え、どうすれば改善されるのか」と問われれば誰も答えられません。現場の教師達も多分同じです。多くの教師達は自分たちがやっている教育に疑問を持ちつつも、日々苦悩しながら頑張っています。中には深く考えることなく、毎日を安逸に過ごしている教師もいるでしょうが、私はこれを批難する気持ちはありません。教師と言えど校門を出れば一個の人間、それぞれ自分の生活があります。常に聖人君子のような人格者でいることを誰も強制できないからです。むしろ私が腹立たしく思うのは学校現場の苦悩を理解することなく、無責任な論調で教師を批判するテレビのコメンテーターや学者先生達です。彼らは美しい言葉で教育を飾り立て、もっともらしいことを口にしてはいますが、ただ子供中心主義のお題目を唱えるばかりで何の役にも立っていません。しかしこれとて彼らにとってはいわば飯の種、腹の立つことがあっても言わせておくしかありません。しかし、一部の先生の中には安きに甘んじることなく、「これではいけない、何とかしなければ・・・」と思い悩む先生達も多くいます。そういう先生はこれから先も苦労が絶えず、悩み多き教師人生を送ることでしょう。そして今の教育界のありようでは、いつまで経っても問題が解決することなく、これからも苦しみ続けることでしょう。私はそういう先生や教育関係者のために、少しでも問題解決のヒントになればと思ってこの資料を記しました。

科学を取り入れて教育界を変える
 今の教育の最大の過ちは「はき違えた子供中心主義」に目が曇り、子供に的確な指導ができなくなり、事実上子供を放任していることです。ではこれをどう変えていけばよいのでしょう。まさか「口で言って分からないやつは片っ端からぶん殴れ」などの乱暴な指導を肯定するわけにはいきません。実はそういった指導は深まりがなく、子供の根深いところにある病巣まで届かないことが多くあるのです。根の深い問題を抱える子供を教育するには、ただ厳しく指導すればよいというものではなく、ましてや「子供の気持ちを理解・尊重する」として甘やかし、放任することでもありません。もっと深く、子供の体の奥深く、DNAレベル、脳科学レベルで作用するような深い指導が必要なのです。そのために欠かせないのが「科学」です。教育と科学、これまであまり見られなかった取り合わせです。しかし私はこれまで両者に縁がなかったと言うことが不思議でなりません。後に述べるように両者は切っても切れない深い関係があるからです。
 子供の教育、特に高度に文明化された社会における子供の教育は、かつての昔のように「広い野原に子供を解放し、のびのびと成長させれば、豊かな自然と温かい地域住民の愛に育まれ、健やかに育つ」というものではありません。今の時代、このような環境はもう

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夢物語になってしまいました。
 教育は普遍的なものですが、社会が変われば教育も変わらなくてはなりません。いじめや不登校がここまで深刻になれば科学的視点に立って別の角度からのアプローチが必要です。幸いなことに現代では脳科学や霊長類の生態など、教育に深く関わる分野の研究が飛躍的に進歩しており、病める教育界に大きなヒントを与えてくれています。しかし教育界は、これらの研究成果に関心を向けることなく、独善的姿勢でこれまでの教育を変えようとはしません。その姿勢はあたかも科学というものを拒絶しているようにさえ見えます。そして科学的視点を持たなくなったことで教育界や社会は情緒論だけで教育を語るようになりました。その結果「子供がかわいそうだ」「子供の願いを尊重し」などの子供におもねる言葉ばかりが飛び交うようになり、そして「ストレスは子供の発育によくないから」として子供が苦痛と感じることを例外なく排除してきました。そして未だに「子供は豊かな自然の中で自由に育てれば自ずと心豊かに逞しく育つ」などのファンタジーに浸っているのです。今の教育界はすでに限界を迎えています。これまで通りの教育を繰り返していては時代の潮流に対応できず、ますます問題は深刻になることでしょう。今の教育界は科学的視点に立ってこれまでの教育を総点検すべき時を迎えています。
 では教育界に必要な科学的視点とは何でしょうか。いくつかありますが、とりわけ重要なものとして私は3つ挙げたいと思います。以下にその3つを順次述べます。
 まず一つ目です。それは・・・「子供を生物学的に捉えよ」と言うことです。言うまでもなくヒトは霊長類の一種です。ただ他の霊長類と違い「ヒトは高い知能と豊かな感性を身につけられる可能性をDNAによって保障されている」ということです。それ以外の点においてはチンパンジーやオランウータンと変わるところはありません。オオカミに育てられたアマラやカマラ(この話は事実ではないとする説もあります)を例に出すまでもなく、ヒトは教育を受けてこそ人間になれるのであって、それがなければただの霊長類に過ぎません。そういう視点が欠けていますから、世の大人たちは子供という生き物をメルヘンチックなイメージで捉えるのです。そのため絵空事のような教育を理想としたがるのです。童話作家や詩人ならそれもよいのでしょうが、教育関係者はそのような気分に浸っていてはなりません。生き物としての子供の本質や真の子供の世界を理解することができなくなるからです。紛うことなく子供は霊長類の一種です。これを忘れていては教育を科学的に捉え、実のある教育をすることはできないのです。人間の子供を猿と同列に扱えと言っているのではありません。生物学的視点に立って子供を観ることの大切さを言っているのです。

子供の発育と臨界期
 子供を「霊長類の一種」として捉えれば、今まで見えなかったものが見えてきます。「臨界期」と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか。動物行動学を研究する学者の間では一般的な言葉ですが、教育界ではあまり耳にすることがありません。臨界期というのは動物が成長する過程において、ある能力を身につけることの出来る限られた期間のことをいいます。この時期を逃すと動物は以後その能力を身につける機会を失ってしまうという重要な期間のことです。例えば生後間もない子猫を暗闇の中に置き、一定期間光の刺激を与えないでおくと、子猫はその後明るい場所に出しても生涯目が見えないという話は有名です。

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これは、ある期間(臨界期)に光の刺激を与えなかったことで、光を感じる脳細胞が「光を感じる能力は必要なし」と判断し、自ら視覚の神経細胞を成長させなくなることによります。また生後7週間に満たない子犬を親兄弟から切り離すと、その子犬は群れる習性が育たず、もはや群の中に戻しても群れに溶け込むことができず、他の全ての犬に戦いを挑んだり、怯えたりするようになるそうです。鳥が羽ばたきを覚えて空を飛べる能力を身につけられることにも臨界期があり、その期間を逃すとその後はどのように筋力が発達しても空を飛ぶようにはなりません。ヒトの発育にも臨界期があり、絶対音感や社会性、言語(特に発音)の習得などはこの臨界期と密接に関連しています。ですから臨界期を抜きにして教育を語ることは出来ないのです。幼児教育の分野ではこの臨界期の重要性がある程度認識され、それなりに応用されています。しかし幼児教育が終わった後の学校教育ではそれが理解・応用されていないように思われます。学校に通うようになったからと言って臨界期に無縁と言うことではありません。子供は実に多様な能力を身につけながら大人になりますが、それらの能力を身につけるには最適な時期に最適な方法で指導しなくてはなりません。ですから教育関係者は臨界期についてしっかり理解しておかないと大きな過ちを犯すことになります。それが如実に表れているのが不登校問題です。

不登校や引きこもりと臨界期の深い関わり
 子供は成長するとともに親の保護から遠ざかりはじめ、中学時代には独り立ちの準備を始めます。鳥で言えば巣立ちの時期です。親鳥は雛が巣立ちの時期を迎えると巣に餌を運ばなくなり、巣から少し離れた木の枝に止まって羽ばたきをして見せ、雛に巣立ちを促します。雛は親鳥を真似て懸命に羽ばたきをし、巣立ちの訓練をします。雛にとっても親鳥にとっても最も緊張する時期です。もし失敗して地面に落ちたりすればたちまち猫の餌食ですから、相当なストレスに違いありません。しかしこの時期を逃してはもう巣立ちをするチャンスは巡って来ません。雛は何度か羽ばたきをした後、勇気を振り絞って飛び立ち、大空へと巣立ちます。このように多くの動物にとって臨界期というのは成長する上で非常に重要な意味を持つと同時に、時には非常なストレスを伴う時期でもあります。
 ヒトの臨界期には可塑性があり、猿や鳥のように明瞭ではありませんが、なだらかな臨界期はあると言われます。今我が国では社会との関わりをもたず自宅に閉じこもる「引きこもり」が社会問題になっています。内閣府の推定では若年者だけで70万人だそうです。この引きこもりはいわば巣立ちに失敗した雛のようなものと言えましょう。引きこもり増加の原因は様々に言われていますが、要するに独り立ちする力をつける臨界期にそれが出来なかったことが原因です。鳥が全精力を集中して巣立ちをするのと同様、人間も巣立ちをするときには多大なストレスと不安を克服しなければなりません。しかし「何であれストレスは悪」と決めつける現代ですから、引きこもりがちな人に対して社会はストレスを克服することを求めず、労ることばかりに専念します。そして「独り立ちを阻害している要因は何か」などと的外れな方に目を向けるのです。明らかに間違っています。今まで親に保護されていた者にとっては独り立ちすることは人生で最初の試練です。この試練を乗り越えるためにはストレスは避けて通れない宿命です。引きこもったまま年月を過ごし、臨界期を逃し、すでに大人になった人の場合は子供のように叱りつけて強引に、という訳にはいきません。仮に家から強引に引っ張り出し、無理に独り立ちさせたとしても、その

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人は今後世間の目に怯えながらおどおどと生きていくことになるでしょう。独り立ちする臨界期を逃してしまった人間というのは誠に厄介なものです。
 ここまで読めばもうおわかりだと思います。不登校も引きこもりも巣立ちの臨界期を逃しつつあるか、あるいは逃してしまったということが原因なのです。社会では様々に対応策が議論されている不登校と引きこもりの問題ですが、肝心なことは臨界期という限られた期間にいかにして独り立ちさせるか、あるいはその準備をさせるかということなのです。この視点を外した議論は無意味なのです。
 
子供は群から引き離してはいけない
 大人の引きこもりの問題はさておき、問題は子供です。不登校の子供への対応は一つ誤れば一生涯引きこもりになる危険性があります。「子供にストレスを与えてはいけない」などとして子供を労ってばかりいては巣立ちの機会を逃してしまいますから注意が肝要です。子供はいつも明るく元気に走り回っているわけではありません。友達との人間関係に疲れたり、トラブルを抱えたりなどで学校に行きたくないと思うことはあるのが普通です。大人でさえ職場に行くのをおっくうに思うことがあるのですから、子供ならなおさらです。ここで大切なことは「安易に学校を休ませてはいけない」ということです。深刻ないじめがある場合などを除いては子供は学校を休ませるべきではありません。小・中学生というのは、仲間と群れる中で社会性を身につけ、自立した大人になる素養を身につけていくものだからです。精神が疲れているから、などと言って休ませていては大切な臨界期を無為に過ごし、先に述べた「群から引き離された子犬」のように社会性を身につける機会を永久に失ってしまうのです。こうなると社会という群の中にとけ込んでいくのがますます難しくなります。極めて大事なことですからもう一度言います。ヒトは少年時代という「臨界期」に「群れる習性」を養い、「集団に溶け込む能力」を身につけ、社会という群の中で生きていけるよう準備しなくてはいけないのです。この準備が十分でないと成長した後に友達の目を怖がったり、周囲の何気ない一言に異常に傷つきやすくなったりして引きこもりになるのです。
 今の時代、少子化の影響もあり、また室内に閉じこもってゲームをする子供が増えたりで、地域で群れ遊ぶ子供を見かけることが少なくなりました。またかつては一般的に子だくさんで、子供達は生まれたときから兄弟姉妹に囲まれ、自ずと群れる習性が身についていたのですが、今は核家族化でそういう家庭も少なくなりました。つまり現代の子供は生活の中で群れる習性を身につける機会がめっきり少なくなっているのです。それを考えれば今の子供達には群れる機会を意図的に作ってやる必要があるのです。そしてこれが不登校、引きこもりの最善の予防策になるのです。
 私が現職にあった頃は「不登校気味の子供は精神が疲れているので、家で休ませて充電させるのがよい」というカウンセラーが多くいました。そして「登校を促せば子供がストレスを感じるので登校刺激はしないほうがよい」という考えを学校現場に広めました。これを受けて学校は「登校するように」という指導をしなくなりました。その結果、不登校の子供の数は増え続けました。そして文科省は問題解消のために全国の小・中学校にスクールカウンセラーを配置したのですが逆効果でした。その数を増やすほど不登校の数が増えたのです。当たり前です。このようなカウンセラーを増やせば不登校が増えることくら

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い素人にでも予測できることです。子犬を群れから引き離すような指導をしていては、子供は群れる習性が育たず、ますます群を敬遠するようになるのです。ということで生物学的視点に立てばこの指導のあり方は完全に間違っているのです。つまり科学的視点をもたない指導がどれだけ危険かと言うことです。
 不登校ぎみの子供には励ましたり話を聞いてあげたりすることは出来ても、学校に行きたくない気持ちを克服するのはあくまで本人でしかありません。またそれを克服することで「生きる力」が身につくのです。ストレスを抱えているからといって居心地のよい家に逃げ込むなどは絶対にさせてはいけないのです。虫歯のある子供がどれだけ歯医者に行くのをいやがっても親は強引に連れて行きます。これと同じです。
 余談ですが、今我が国では労働力不足が問題になっています。そしてこれを解消するため政府は外国人の雇用を拡大しようとしています。外国人労働力の移入も一つの策だとは思いますが、一方では本来働き盛りであるはずの若者がかなりの人数で引きこもっているのです。もしこの人たちが労働市場に出てくれば問題は一気に解決するのではないでしょうか。外国人を雇い入れるより先にこの引きこもり問題を解決することが先決だろうと私は思います。

いじめ問題と霊長類の本能
 子供を生物学的に捉えていないために問題が深刻化している例としていじめ問題があります。この場合は、生物学的と言うより動物行動学的に、と言った方がよいでしょう。言うまでもなく動物の世界でもいじめはあります。それも人間界のものとは比べものにならないほど壮絶なものです。
 ここで動物行動学の専門的な話をしておきましょう。少々本題から外れますが、人間のいじめの本質を理解する上で極めて重要な話ですから是非とも知っておいてください。ある動物学者から聞いた興味深い話です。それは・・・動物の世界では同じ種族どうしが戦う場合、どちらか一方が死ぬようなことがない、と言うことです。動物にもいろいろありますが、例えば虎やライオンのように相手を一撃で殺す能力を持った猛獣どうしが戦う場合は、戦いの優劣が決まって相手が逃げたり服従のポーズをとったりしたときには、勝者はそれ以上の攻撃をしません。どれほど闘争心に猛り狂っていても、ひとたび勝敗が決まればDNAの働きによって闘争本能が抑制されるようにできているからです。それ以上攻撃すると相手が死ぬ場合があるし、自分自身が傷つくこともありますから、そんなことが度々起こりますと種族の個体数が減少し、あるいは種が絶滅することさえあります。DNAの働きとはいえ何ともうまくできたものです。では鳥や猿など、猛獣のように強力な攻撃力を持たない動物の場合はどうでしょう。実はこれらの動物のDNAには闘争本能を抑制する機能がありませんので、相手が屈服してもいつまでも攻撃を続けようとします。しかしこれらの動物は、負けた側は他の木に逃げたり空を飛ぶなどしてその場から逃げ去ることが出来ますから、やはり一方が死ぬというようなことにはならないのだそうです。しかし、もしこれらの動物がその場から逃げられないような状態、例えば小さな檻に閉じ込められていたらどうなるでしょう。この場合、勝った側の闘争本能が鎮まることがありませんから、残酷な話ですが、相手が倒れても執拗に攻撃を続け、ついには殺してしまいます。

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 さて人間はどちらの部類に属するのでしょう。人間は猛獣のように強力な武器を持ちませんから鳥や猿の部類に属します。ですから本来、人間のDNAには闘争本能を抑制する機能は組み込まれていません。ということは敵に対してはどこまでも攻撃を続けようとする本能があるのです。戦いになれば敵を殺し尽くし、敵のDNAを一掃し、自分たちのDNAだけを残そうとする本能は動物の常ですが、人間界も例外ではありません。世界にはこの本能そのままに殺戮をしている地域が存在します。現代社会には法律がありますから、攻撃する側も自ずと自制するようになりますが、あくまで人間はそういう本能を秘めた生き物であると言うことを忘れてはなりません。
 ところで人間の子供も霊長類の一種ですから、当然そういう残酷な一面を持っています。ですから相手が不登校になるまでいじめ続けようとするのです。負けを認めて降伏している敵を執拗に攻撃するなど、多くの大人は許せない気持ちになりますが、大人がどう考えようと子供はそういう残酷な一面を持っているのです。「子供は汚れのない心を持ち、純真で友達と仲良くするもの」などと大人が勝手に美化した子供像をイメージしていては、いじめの本質は永久に理解できないのです。こんなことを言うと美しい情緒論だけで教育を語ろうとする評論家たちから「人間の子供を猿と同列に並べるとは何事か!」と攻撃されそうですが、人間がどのように考えようと自然界の摂理は人間の子供だからといって特別扱いはしてくれないのです。

いじめはあるのが当たり前
 ところで現代の子供は自然界の鳥や猿と違って教室という「檻」に閉じこめられています。したがって、いじめられる子供は鳥や猿のように空へ逃げたり他の木に逃げるということができません。不登校になる以外に身を守るすべがないのです。いわば檻に閉じこめられた猿と同じです。ということは、子供は鳥や猿と同じ部類に属していながら、逃げる手段をもたない、という自然界の摂理に反した特異な環境に置かれていると言うことになります。
 以上のことを理解すると教育界のいじめ問題に対する取り組みの決定的間違いが見えてきます。決定的な間違いは二つあります。その一つは、いじめ問題の捉え方です。今学校現場では「些細ないじめも許さない」としていじめ撲滅に取り組んでいます。ということは教育現場では「いじめはあってはならないもの」として認識されているのです。しかし先に述べたように子供はあくまで霊長類の子であり、また生存本能に支配されている過程にありますから、トラブルやいじめはつきものです。そして、それらは子供の成長にとって有用なことでもあるのです。子猿は仲間と群れ、そして、いさかいを重ねることによって集団性を身につけます。これと同じです。ということでいじめ問題に対する正しい向き合い方は「いじめはあってはならないもの」ではなく、「いじめはあって当然、重要なのはそれをエスカレートさせないこと」と言うことなのです。
 ではいじめをエスカレートさせないためにはどうすればよいのでしょう。一つは日頃から教師が子供の様子、特にいじめられている子供を注意深く観察し、「ここが限度」と思われるところで指導に乗り出すことです。それも「子供どうしでよく話し合って」などと言うきれいごとであってはなりません。この場合の教師の役割は群を統率するボス猿の役割を果たすことです。ボス猿が牙を剥いて威嚇するように、教師はいじめる側の子供を厳

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しく叱るべきなのです。「子供どうしの話し合いで・・・」などの指導はえてして「双方に反省すべき点がある」と言う「きれいごと」の結論になり、「いじめられる側にも問題がある」となり、結果、いじめる側にその口実を与えることになるのです。いじめの加害者が被害者に形ばかりの謝罪をするだけの指導を見かけますが、全く無意味です。教師にいじめを告発した子供はまさに命がけだったはずです。このような安直な指導ですまされては被害者はたまったものではありません。話し合いでいじめを解決させようとする指導は、被害者の9割近くが不登校になると言うことです。いじめが限度を超えていると思われる場合は教師は牙を剥いて加害者側の子供を厳しく叱るべきなのです。なんと野蛮な指導法か、と思われるでしょうが、生存本能に支配されている子供の群の中でのことですから、教師はきれい事を捨てボス猿となって群の秩序を保たなければいけないのです。子供同士が互いに知恵を出し合っていじめ問題を解決しよう、などは教師のファンタジーに過ぎないのです。

少人数学級は深刻ないじめを助長する
 いじめ問題に関して現代教育が犯しているもう一つの過ち、それは一学級あたりの子供の人数が少い「少人数学級」を目指していることです。「個に応じたきめ細かな指導」がねらいなのですが、これはいじめ問題を考える上では大きな間違いです。鳥や猿など闘争本能を鎮めるDNAを持たない動物を檻の中で飼育する場合は、檻は出来るだけ大きくしておかなくてはなりません。檻が小さいと力の弱い鳥や猿は逃げ場を失い、悲惨な結果を招くからです。これと同様に、いたずら盛りの子供を教室に閉じ込めておくには教室という「檻」は出来るだけ広くしておかなければなりません。と言っても教室の物理的面積を広くすると言うことではありません。教室の子供の数をある程度多くしておく、と言うことです。教室の子供の数を減らすと言うことは教室という檻を狭くしているのと同じです。子供の数を減らして教室を狭くすると何が起こるかは容易に想像できるでしょう。動物を飼う場合に置き換えれば明らかに動物虐待です。児童虐待のニュースを耳にするたびに私たちは怒りに身が震える思いがしますが、よく考えますと、実は私たち自身子供を虐待しているのではないでしょうか。なにしろ生存競争のただ中にいる子供を小さな檻に閉じ込め、悲惨な環境にしているのは他ならぬ私たち大人なのですから。
 さて・・・では一学級あたりの子供の数はどれくらいが適当なのでしょう。それは私にも分かりません。ただ直感的に思うのはいじめが今のように深刻になる以前の人数、即ち45人から50人程度がよいのではないかと思われます。この程度の人数があれば教室内の交友関係も広くなり、多種多様な仲良し集団がいくつも出来ます。ある集団からはじき出された子供も別の集団へと逃げることが出来ます。また孤立しがちな子供にとっては仲のよい友達も出来やすくなります。教室で孤立する子供がいなくなれば深刻ないじめは少なくなるのです。多くの教育関係者が「少人数学級の実現を・・・」と声を上げている今の時代に「一学級あたりの人数を増やせ」などは暴論に聞こえますが、決してそうではないのです。少人数学級を推奨する人たちは欧米の学校を理想としているからですが、そもそも欧米の学校が少人数学級なのは、かの国の子供は自己主張が強すぎて日本のような大人数学級では授業が成立しないからです。日本の子供と違って欧米の子供は「教室では静かにして、先生の言うことをよく聞いて・・・」などの躾はされていません。もし欧米の

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学校で日本並みの大人数学級にしたら日本より遙かに悲惨な学級崩壊を起こすでしょう。だから欧米は少人数学級なのです。このことを忘れて軽々しく欧米を真似ることは危険なのです。
 「個々の子供に目が行き届くから」などという理由で一学級当たりの子供の数を減らすことは教師の全く一方的な都合によるものであって、檻を狭くされた子供の側から見れば理不尽そのものです。また現代教育が好んで使う「子供目線に立って」の理念にも反するのではありませんか。ところで欧米の研究によれば少人数学級の子供は大人数学級の子供に比べてテストの点数が高かった、との報告がありますが・・・これについて述べると本論の趣旨から外れますので触れずにおきます。

問題解決を諦めた文科省
 ところで、文科省は今回、不登校問題に関し「学校に行かせることのみを目的とするのではなく云々」とする方針を打ち出しました。言うまでもなく不登校問題の背景にはいじめ問題があります。つまり「いじめ等によって学校に行きたがらない子供は無理に来させなくてよい」と言っているのです。何と言うことでしょう。いじめが怖くて学校に来られないのであれば、その子供が安心して学校に来られるように施策するのが本来のはずです。それを「無理に学校に来させなくてもよい」というのは、いじめ問題の解決を諦めたと公言しているのと同じです。つまり問題を投げ出してしまっているのです。思うに「いじめ問題」「不登校問題」に関し文科省は、今や為すすべがなく、途方に暮れているのではないでしょうか。
 いじめ問題に関してはもう一つ驚くべきことがあります。それは、多くのマスコミが「夏休み明けには自殺する子供の数が増加するので・・・云々」などと、子供の自殺者数をグラフに示して注意を促していることです。かつてはいじめによる子供の自殺事件などは、一件でもあれば社会が大騒ぎしていたものですが、それが今や、自殺事件が起こったという事実よりも、その人数の増減を問題にし始めたのです。まるで「花粉情報」ならぬ「子供の自殺注意報」です。教育界は末期症状を呈していると言ってよいでしょう。
 
エビデンスがあってこそ
 以上、「子供を生物学的に捉えること」について不登校問題といじめ問題を例に挙げて述べてきましたが、「必要な科学的視点」の二つ目についてお話しします。それはエビデンス(証拠)です。エビデンス(証拠)とは何でしょう。分かりやすい例でお話しします。ここにA、B二種類の薬があるとします。Aという薬は偉い学者先生が高度な理論に基づいて開発した薬ですが、実際には患者の病気を治せませんでした。一方Bという薬は昔からの言い伝えがあるだけで何の理論的裏付けもない薬ですが、患者の病気は治せました。さてどちらがいい薬でしょう。言うまでもなくBです。なぜならBには「患者を治した」という証拠、即ちエビデンスがあるからです。Aの薬のようにどんな立派な理論的裏付けがあっても実際に患者の病気を治せなければその理論は空論でしかありません。薬を開発した偉い学者先生には気の毒ですが、それが科学というものです。科学では結果が全てなのです。「不登校の子供は家で充電させれば元気を回復して登校するようになるはず」などと言っては見ても、実際に不登校が治らなければそれは空論でしかありません。論より

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証拠(エビデンス)なのです。私が現職時代、不登校問題を扱う研究大会でカウンセラーに質問したことがあります。以下はその時のやりとりです。
「家で充電させれば、というお話ですが、どれくらいの期間充電させればよいのですか?」「人によりますが、数ヶ月間あるいは半年か数年かかることもあります」
「その方法で不登校から立ち直った事例があれば教えてください」
「・・・ありません」
全く人を食った話です。何の確証もないまま不登校の子供が立ち直るのを待ち続けるなどは、問題の放置でしかありません。一方、引きこもった大人の数は70万人を超えています。その中には、不登校を経て引きこもった人も多くおり、その人達の多くはすでに高齢を迎えています。ということは家で数十年充電しても改善しなかったと言うことです。つまり「家で充電すれば・・・」の論には全くエビデンスがなかったのです。エビデンスのないこれらの言葉を信じ、我が子が立ち直るのをひたすら待ち続けた人達に専門家達はどう申し開きをするのでしょう。いじめによる自殺問題を受けて、多くの学校では「子供に命の大切さを教えよう」とする指導が盛んに行われています。しかし、いじめによる子供の自殺は治まる気配がありません。つまりこれもエビデンスがないのです。これらの指導を無意味だとは言いませんが、このような指導は数十年も前から行われてきたことです。これだけ長く指導を続けてきたのに問題が解決しないのであれば、指導のあり方を根底から見直す必要があるのではないでしょうか。
 話がそれますが、近年は子供の自殺に感覚が麻痺してきたのか、いじめによる自殺があっても世間が驚かなくなりました。厚生労働省が発表した平成29年度の人口動態統計がショッキングです。この年に死亡した10〜14歳の子供の死因で最も多かったのはなんと自殺だったというのです。病気や不慮の事故ではなく自殺です。10〜14歳といえば小学校高学年か中学生です。そんな子供が病気や事故で死ぬより自殺で死ぬ数の方が多いのです。これはまともでしょうか。またこの驚愕すべき事態を前に平然としていられる社会などは異常と言うほかはありません。思えば恐ろしい社会になったものです。私は断言します。社会が漫然とこれまで通りの教育を続けるなら、いじめと子供の自殺は百年たってもなくなることはないでしょう。

エビデンスをもたない教育界の定説
 エビデンスを基盤に据えない教育界には根拠のない定説がたくさんあります。「詰め込み教育は子供の創造力を失わせる」と言われますが、何か根拠はあるのでしょうか。「厳しく叱ると子供が萎縮して成長が阻害される」というのは本当でしょうか。「子供はストレスを溜めると非行に走る」と言われますが、これを裏付けるデータはあるのでしょうか。この他、「少人数学級にすると教師の目が行き届くので深刻ないじめは起こらない」、「丸暗記は無意味である」、などがあります。しかし、これらを裏付ける根拠やエビデンスを私は聞いたことがありません。一方これを反証するエビデンスなら山ほどあります。詰め込み教育で有名なインドは創造力を要求されるソフトウエア開発の分野で世界をリードしています。ユダヤの教育は子供にタルムードを丸暗記させるほどの詰め込み教育ですが、ユダヤ人の独創性は世界に冠たるものです。受験地獄と言われた昭和40年から昭和52年、受験勉強に追われストレスを溜めていたはずの若者の犯罪発生率は低かったという事

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実。また若者の犯罪が増え始めたのはむしろ受験戦争の反省から始められた「ゆとり教育」の時代だったという事実。個に応じたきめ細かな指導のかけ声のもとに一学級あたりの子供の数を減らしたら深刻ないじめが増えました。教育界はエビデンスに基づいて考察・議論せず、情緒論で語るため、このような空論を固く信じて微塵も疑わないのです。その最たるものが「ゆとり教育」ではなかったかと思います。
 文科省が主導した「ゆとり教育」の論旨は、「学習内容を減らせば落ちこぼれがなくなり、勉強に対する興味・関心が高まり、学力が向上し、時間のゆとりが出来た分趣味に打ち込んだり、家庭内での対話が生まれるはず」と言うものでした。しかし、結果は子供のゲーム三昧と低学力という惨憺たるものでした。つまり文科省が提唱した高度な理論(私はそうは思っていませんが)に基づいて処方された「ゆとり教育」という薬は全く効き目がなかったのです。効き目のない薬などは片栗粉にも等しく、医者の世界なら直ちに廃棄処分です。しかし学校現場では「最先端の教育」としてもて囃されていたのですから、何ともおめでたい話です。今にして思えば随分高価な片栗粉を買ったものです。
 ゆとり教育が始まった当時のことを思い起こすたび、私は「裸の王様」の話を思い出します。私はよく「こんな教育では子供に力はつかない」と周囲に反対意見をまき散らしていたのですが、その周囲からは「あなたはゆとり教育の本質が分かっていない」と説教されたものでした。裸の王様が「馬鹿にはわしが着ている立派な衣装が見えないのだ」とうそぶいていたのに、実際は本当に裸だった、という笑い話を地で行くような話です。ともあれこの惨憺たる結果を受けて「ゆとり教育」の旗を振ってきた文科省も路線を変更し、「基礎学力の向上」へと舵を切りました。しかしまだ文科省内には「ゆとり教育」に未練がある勢力がいるらしく「アクティブラーニング」と称する「脳内お花畑」のような教育が生き残っています。(「アクティブラーニング」は大学生や高校生など、基礎学力が一応完成している者に対して行われるべき学習形態であって、膨大な知識を身につけなければならない小・中学生には学習効率が悪く、不向きなのです。)
ともあれ教育界には確たる根拠もないのに「当たり前」とされている「定説」が多すぎます。そしてその「当たり前」に対しては何の疑問を持つことなく信じ込むのです。このような体質からはものごとを科学的に考えたりエビデンスを尊重しようとする気風は生まれません。当たり前と思われるようなことでも疑ってかかることから科学が始まるのです。研究会の発表資料の中には「子供の目がキラキラしている」「子供が伸び伸びしてきた」などの記述がよく見られます。また何のデータを示すことなく「子供の意欲が高まってきた」などとする発表も多く見かけます。しかしこれらは全て教師の主観によるものであって、とうていエビデンスと呼べるものではありません。医学界の研究発表ですと「○○の患者に△△の治療をしたところ××の結果が得られた」のように、科学的な考察のもと、数値を示して成果を明らかにします。これこそが科学です。数値もエビデンスも示さない教育現場でのそれは研究発表の名に値しません。
 しかし私はこれを責めるつもりはありません。そもそも科学的知見に基づいて研究を深めるなどという壮大なことを研究指定を受けた学校だけに担わせると言うのは無理があるからです。ほとんどの学校は日々の教育活動に忙殺され、研究に目を向ける心のゆとりなどありません。そんな現状を顧みることなく指定研究を押しつけているのですから、科学的研究成果など期待する方が無理なのです。では教育現場における研究活動はどうすれば

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よいのでしょう。それは今後に向けての重要課題ですが、これを述べると話が本筋から外れてしまいますのでこれまでにしておきます。

脳科学を取り入れて教育を根底から見直せ
 そして科学的視点の三つ目です。私が教育界に何としても取り込んで欲しいと願っている科学、それは脳科学です。脳科学は日進月歩の科学の中でも最先端のものです。まだ未知の部分が多く、そのまま子供の教育に活かせるほど成熟していませんが、それでも脳の働きのかなりの部分が解明されてきました。そしてその成果は様々な分野、特に医療分野で幅広く活用され、次々と新しい治療法が開発されています。一方教育界はどうでしょう。教育は平たく言えば心を発育させる営みです。そして心とは即ち脳の働きですから、教育は脳科学と密接な関係にあるはずです。しかるに教育界が脳科学を取り入れ、新しい教育を開発したという話は未だ耳にしたことがありません。脳科学に過大な期待は禁物ですが、教育が「科学的根拠のない定説」に支配されないようにするためには、これを取り入れなくてはなりません。脳科学については私は全くの素人ですが、九州大学の井口潔名誉教授の著書をもとにお話しします。少々退屈でしょうが、ご辛抱ください。
 ヒトの脳は脳幹とその上部の古い脳(大脳辺縁系)、そしてそれらを取り囲む新しい脳(大脳新皮質系)の三層構造になっています。脳幹は体温・脈拍・血圧の自動調節や免疫調整など、主として生命を維持するための機能を司ります。古い脳(大脳辺縁系)は、生存のために必要な食欲、性欲、集団欲などの生存本能を担い、そしてこの部位に含まれる扁桃体は、好き、嫌い、恐怖、闘争心などの本能的情動を司ります。この大脳辺縁系は他の哺乳動物でも発達していますが、ヒトの大脳辺縁系は喜怒哀楽などの情動を司り、また新しい脳(大脳新皮質系)と連動し、美しいものを見て感動すると言った人間らしい感性を芽生えさせる場所でもあります。このため大脳辺縁系は「感性脳」と呼ばれることもあります。これに対して新しい脳(大脳新皮質系)は「理性脳」とも「知性脳」とも呼ばれ、人間が何かを行おうとするときに道徳的かどうかの価値判断を下す働きをします。
 以上が脳の基本的構造と主だった機能ですが、大学教授の言うことはいつもお固く、私を含め門外漢の人にはなんとも分かりにくいものです。しかし子供の教育を考えるときには大雑把に「大脳辺縁系」が感性を、「大脳新皮質系」が知性をそれぞれ担う、と理解しておけば十分ではないかと思います。ここで大事なことは、これら脳の部位の働きが生まれた当初から同時に機能しているのではなく、年齢と共に順次機能し始めると言うことです。ヒトの体は赤ん坊の時から臓器も骨格も大人と同じように機能していますが、脳はそうではありません。ヒトの脳の表面にある大脳新皮質系には神経細胞がぎっしりと配列されていますが、生まれたての赤ん坊ではこれらの脳はまだニューロン回路がほとんど未熟で、出生後の養育刺激で3歳頃までに大人の80%、10歳頃までにほぼ大人並に近づくということです。すなわちヒトの体は完成された状態で生まれますが、脳はその後10年かけて完成するのです。ということはヒトの体は自然が作ってくれますが、脳だけは人間が育てなければつくれないということなのです。ですから教育はその脳の発達に歩調を合わせて行わなければ効果がないのです。
 「ヒトの脳」が「人間の脳」になるにはいくつかの成長過程があります。第1期の乳幼児期(0〜3歳)と第2期の幼年期(4〜10歳)は大脳辺縁系が機能し、青年期(11

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〜20歳)からは知性脳としての大脳新皮質系が機能しはじめます。大脳辺縁系は感情を司る部位です。第1期のうちに親から生得的に受け継いだ感性の種が目覚め、第2期にこれが発芽し、豊かな感性へ成長していきます。ですから豊かな感性を養うには、この1期、2期のうちに美しい風景を見せたり、きれいな音を聞かせたりするのが効果的だそうです。余談ながら、この時期に虐待を受けたり、両親がけんかばかりしていると、これを見た子供は感性の発達に歪みが生じ、その後の人格形成に悪影響を及ぼすことがあると言われています。また第1期(0〜3歳)はまだ知性を司る大脳新皮質系が機能していませんので、早期の英才教育などの知的刺激は感性の目覚めを妨害するので注意が必要だそうです。大脳辺縁系がよく機能しているこの時期(4〜10歳)の特徴は、パターン認識、好奇心、遊び、模倣であり、善悪、正邪など、人間としてあるべきことを躾けるべき時期とされています。そのためにはよい手本を示し、真似させることが大切とされています。「真似はよくない」「自分で考えよ」などの指導は知性を司る大脳新皮質系が機能し始める青年期(11〜20歳)を迎えた後にするのがよいとされています。
 以上のような脳の仕組みとその機能、またそれらが発育する時期を考えれば、現代教育の中には的外れなものが多いことに気づかされます。その一例が子供の暗記・暗唱を軽視していることです。

暗記・暗誦は脳を活性化させる
 「自分の頭で考えさせる」が信奉されている現代教育ですから、江戸時代に盛んに行われていた論語の素読・暗誦などは「時代の遺物であり価値なきもの」として見向きもされません(近年は価値が見直されつつあるようですが)。しかし、実はこれらは脳の活性化に極めて有効であることが脳科学によって証明されています。特に音読(声を出しての読書)は効果が高いのだそうです。
 しかるに現代では論語の素読・暗誦などは「意味もわからないまま子供に暗記させるのは教育ではない」として否定されます。いかにも正論のように聞こえますが、「子供には難しいから」といって教えないのは間違いです。意味がわからなければ教えてやればいいのです。教えてもやはり理解できない子供もいるでしょうが、それでもいいのです。やはり覚えさせるのです。今は理解できなくてもやがて大人になれば理解できる日も来ます。幼少の子供に高等数学を教えよ、などと無理難題を言っているわけではないのです。ただ暗記させるだけなのです。そしてどうしても意味のわからない子供は「世の中には自分ではわからないことがたくさんあるんだなぁ」と学問の奥深さを感じ、謙虚な姿勢が芽生え、「分かるようになりたい」とするチャレンジ精神にも結びつくのです。「子供には難しいから教えない」というのは「みんなが分かるような易しいことしか教えない」ということであり、「すべての子供が消化できるから」として流動食ばかり食べさせているのと同じなのです。

子供の教育のあり方は年齢によって違うべき
 ここで大人が教育を語るときに犯している重大なミスについて指摘しておきたいと思います。それはマスコミや教育関係者が幼児、小学生、中学生、時には高校生までを一括りにして「子供」と呼び、「子供の教育はかくあるべし」などと語っていることです。先に

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述べたようにヒトの脳は年齢と共に成長し、年齢によって機能が違います。これを考えれば子供の教育のあり方は年齢によって違うのが当たり前のはずです。枠に入れた画一的教育がよい時期もあれば、子供に意思に任せて伸び伸び学習させるのがよい時期もあります。自分の頭で考えさせるのがよい時期もあれば、無理矢理に詰め込むのがよい時期もあります。子供の年齢と脳の機能を無視して「詰め込むことより子供自身の頭で考えさせよ」などと言うのは脳科学に無知な人の言うことです(注:本論で述べている子供とは義務教育までの子供のことを指しています)。 
 この地球上には動物だけで137万種を超える生物が住んでいます。その中でヒト以外の生き物はすべて「体で生きる動物」です。そして唯一ヒトだけは「心で生きる動物」です。つまり心で生きることが人間の証なのです。地上に生まれた赤ん坊はまだ「人間」ではなく「ヒトの子」でしかありません。そのヒトたる赤ん坊の脳を育て、人間にするのが教育です。ですから(誤解を招く言い方ですが)年齢の低い子供の教育ほど犬や猫に対する躾けに似てくるのは当然なのです。学校教育は子供の心を育てる重要な役割が与えられています。心とはすなわち脳の活動です。脳科学を知らずして子供を指導している教師は子供の体を知らない小児科医と同じだと言うことです。

幼児に人形遊びをさせよ
ここで若干の余談です。今社会では少子化問題が深刻になっています。下がる一方の出生率、また子供をほしがらない夫婦がいたり、結婚したくないという若者や、恋愛もデートもしたくないという草食系が増えたりで、今後出生率の上昇は望めない状況になっています。そればかりか、せっかく授かった子供を虐待で死なせたりする例が後を絶ちません。一昔前のことですが「どうしても自分の子がかわいいと思えない」と思い悩む母親が社会で問題になった時期がありました。元来哺乳動物には「子供がかわいい」「子供を産みたい」「子供を抱きたい」という感情が本能として備わっているはずです。しかしこれらの現象を見ますと、どうも現代の人類は脳科学レベル、DNAレベルで機能に異常を来しているとしか思えません。以下に述べることは専門知識のない私の直感に過ぎず、脳科学の裏付けもなく、したがって荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが一考してみてください。
 先に述べましたように、人の感性の種は、生得的に大脳辺縁系の扁桃核に納められています。「子供が愛おしい、抱きたい」思う感性の種もここに納められています。しかしその種も目覚めなければ意味がありません。そして感性の種はすべて何らかの刺激によって目覚めます。何らかの刺激とは何でしょう。実際に赤ちゃんを抱いたり、あるいは赤ちゃんに見立てた人形をおんぶしたりお乳を飲ませたりする遊びがそれに当てはまると思います。昔は幼い妹や弟をおんぶしたり人形遊びをしたりする女の子を日常的に見かけたものですが、現代ではそのような光景を見かけることはほとんどありません。すると感性の種が目覚めず、母性本能のスイッチが入らないまま成長する人が増え、「子供がほしい」「子供が可愛い」という感情を持たない人たちが増えることになります。人形遊びなど一見どうでもよいことのように思われますが、実はこれが少子化に深く関わっているように思うのです。そこで私は保育所や幼稚園の教育プログラムの中にお人形遊びを入れることを提唱します。これをすることによって早い時期に「母性本能の種」が目覚め、その後の出生率の向上にいくらかでも役立つのではないかと思います。また幼児・児童虐待も激減する

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のではないでしょうか。第一、他の少子化対策と違って金がかからないという利点があります。いかがでしょう。
 さらについでながら・・・親子の情愛を育むような童謡、そして日本の美しい情景を歌い込んだ唱歌のCDを作成して各園、各小学校に配布したり、またこれらの歌の中で「歌わせることが望ましい」とする曲を指定し、園児や小学生に歌うよう促すのも教育効果が高いと思われます。こうすれば親から子へ、子から孫へと叙情的な歌が歌い繋がれ、親子の絆を強くする一助になると思われます。

ジェンダーフリーという迷信
 空理・空論の典型であるジェンダーフリー教育は未だに教育界で幅を利かせているようです。ジェンダーフリーについてはもうご存知でしょうから詳しい説明を省きますが、要約すると「肉体的な性差(セックス)は生まれつきのものだが、男らしさ、女らしさなどの性差(ジェンダー)は社会的・文化的に創られたものであるから否定せよ」と言うものです。この教育の結果、「男らしさ」「女らしさ」という言葉はタブーとなり、また男女混合名簿、男女おしなべての「さん」づけが主流になりました。また小学校高学年の子供達に男女同室で着替えをさせるという驚くべきことも起こりました。さすがにこれは社会からの反発もあり広がることはありませんでしたが、批判を受ける前に教育現場から自制を求める声が上がらなかったのでしょうか。世の中には多種多様な思想や価値観がありますが、思想・信条の自由が保障されている我が国ですから、それが社会から支持されていようがいまいが、排除されることはありません。ですからジェンダーフリー思想も社会にあってよいのです。問題なのは多種多様な思想・信条のひとつに過ぎないジェンダーフリー思想に日本国中の公教育が振り回されていることです。脳科学が格段に進歩している現代、ジェンダーフリー思想はこれによって明確に否定されています。にもかかわらず教育界ではこれが大手を振ってまかり通っているのです。科学的裏付けのないこのような定説が跋扈していると言うことは、即ち教育界が科学に背を向けているということの証左です。
 ここでお断りしておきますが、私は科学を絶対視しているわけではありません。世の中には科学で説明できないことが数多くあるからです。科学で説明できないからと言って切り捨ててしまう考えは科学の盲信であり、正しい姿勢ではありません。しかし科学的に検証された結果、明確に否定されたものは正しい事実ではなく迷信に過ぎませんので、まかり間違っても公教育に取り入れるなどはあってはならないのです。科学的検証の結果を受け入れないジェンダーフリー思想は科学に反逆しているとしか言いようがありません。ジェンダーフリー思想では男女の肉体的性差以外の違いは一切認めません。「生まれた時は男も女もないのに、男として育てられるから男に、女として育てられるから女になるのだ」と主張します。しかし医学界の常識では男女は胎内にいるときから違っているのです。胎児が男の子の場合、ある成長段階でアンドロゲンという男性ホルモンが分泌され、胎児は男児へと成長し始め、女の子の場合はそれが分泌されませんのでそのまま女児となります。外見だけではありません。脳もアンドロゲンの働きによって男女それぞれ違った成長をします。つまり、「生まれたときは・・・」どころか、胎内にいるときからすでに男は男脳をもつ者として闘争的な気質を、女は女脳をもつ者として情緒的な気質をもつように仕組まれているのです。人間がどのように考えようともこれは医学という科学の世界では常識

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であり、議論の余地は全くないのです。脳科学においても、脳の機能が男女で違うと言うことが明らかになっており、これも常識となっています。科学的に否定されている考え方が公教育の中ではまかり通る・・・こんなことがあってよいものでしょうか。いや、これまでまかり通ってきたこと自体不思議でなりません。ひょっとするとこれによって利益を得ている何者かが、ある種の企みをもって押し通しているのでしょうか。だとするとなおさらのこと、一刻も早く教育に科学を取り込み、これを糺していかなければなりません。LGBTなどを人質にとってジェンダーフリーを正当化しようとする人もいますが、大間違いです。社会には一般論で標準化できないマイナーな人がいることを忘れてはなりませんし、社会はそのような人たちに可能な限り配慮をすることを怠ってはなりません。しかしLGBTを一般的基準にしていては社会が成り立たないと言うこともまた忘れてはいけないのです。気の毒な言い方ですがマイナーな立場に置かれた人たちはある程度のところで我慢するしかありません。なぜならそういう悲哀を感じつつ生きている人はLGBT以外にもたくさんいるからです。スタンダードに当てはまらない人たちの言い分を全て受け入れていては社会が成り立たないのです。

教育に思想は要らない
世にリベラルと保守があるように、教育界にもリベラル的考えと保守的考えがあります。前者は「子供は元々成長する力を内に秘めているので、自主性・主体性を尊重し、よい環境を与えてさえやれば自ずと成長する」というもので、「自然主義教育」と呼ばれます。そして勉強も知識を詰め込むのではなく、子供の興味・関心を尊重し、主体的に学ばせようとします。また何か問題があれば子供に話し合いをさせ、子供自身の手で解決させようとします。現代教育では最先端とされる考え方であり、現代教育の主流となっています。これに対し、後者は子供をしっかりした大人に育てるためには、基礎・基本が大事であるから、確かな学力を身につけさせ、高い道徳性と規範意識を身につけさせなければならないとし、そのためには子供は厳しく育てるべし、とするものです。この二つの考えは教育現場だけでなく、社会においても家庭においても教育に対する考えを二分しています。一体どちらが正しいのでしょう。科学的視点に立てば(義務教育段階の子供にとっては)正しいのは間違いなく後者です。しかし後者は子供を抑圧するイメージがあり、逆に前者は子供の興味・関心、子供の自主性・など、現代人が好みそうな言葉がたくさん並んでいますので、社会に受け入れられやすく
(事実前者の方が圧倒的に支持されます)、結果、正しいはずの後者は時代遅れとされるのです。教育界には「度の過ぎた子供中心主義」が蔓延しています。このような中では「子供をしっかり躾けなければ」という正しい意見は、「子供の心を傷つけるのか」「子供の願いに寄り添うことこそ大切」「子どもの人権はどうするのだ」などの反論にひるんでしまい、結果、正しい意見は教育現場の片隅に追いやられていくのです。
 今の教育には科学こそが必要なのであって、思想は必要ありません。蛇足ながら、教育学は文系に分類されていますが、科学を基盤に据えた学問であるなら本来理系に分類されるべきものです。それを文系の畑に植えておくものですから、文系学者達の手で弄ばれ、本来科学であるはずの教育学が情緒論に汚染され、牧歌的・空想的なものに変質し、正しい方向に進化・成長しなくなるのです。

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 ともあれ明治以来我が国の教育は二つの思想の間を揺れ動き、今に至っても腰が定まりません。教育に科学がないから不毛な議論を繰り返すばかりで出口が見えなくなっているのです。教育界にはこのような空しい議論がたくさんありますが、とりわけ見過ごすことの出来ないものが道徳教育を巡る議論です。

道徳の授業を巡る不毛な議論といじめ問題の解決策
道徳の授業と言えば偉人伝を読ませたりスポーツ選手など子供が憧れる人物を紹介したりして学習させるという形が多くとられていましたが、現代ではこれが「子供に生き方を押しつけるものだ」「特定の人物の生き方を強調するのは教育の偏向だ」として批判され「大人の価値観を押しつけるのではなく、子供自身に生き方を考えさせよう」とする指導が主流になっています。世の人々が思わず頷きたくなるような考え方です。無論一方では「教師が正しい生き方をきちんと子供に示すべき」とする声もあります。どちらが正しいのでしょう。一見、決着がつかないように思われますが、子供は霊長類の一種であるという動物行動学と脳科学の視点に立てば答えは明らかです。結論を言いますと「生き方を子供自身に考えさせる」というのは大間違いです。なぜなら大脳辺縁系の特徴(模倣・好奇心・遊び)に照らせば、ヒトの子供は「考える生き物」である以前に「真似をする生き物」だからです。ほとんどの霊長類は周囲を真似ることで集団の一員として成長します。そうしなければその集団が集団の特性を代々受け継いでいくことができなくなるからです。霊長類の一種である子供は集団の仲間を真似ようとする本能がDNAに組み込まれています。ただ人間の子供の場合は見境い無く仲間を真似るのではなく、美しいもの、かっこいいもの、憧れているものを真似ようとします。ここだけが他の霊長類と違うところです。女の子が母親を真似てお化粧をしたり、ままごと遊びをしたりするのもその表れです。大げさに言えば子供は子供なりに「自分の美学」をもち、どうするのが美しいか(かっこいいか)を基準にして行動するのです。近年、中・高校生はじめ、若者がタバコを吸わなくなりました。どうしてでしょう。「タバコはかっこいい」と思わなくなったからです。「タバコは健康によくないから吸わないでおこう」と「考えた」からではありません。私が中・高校生の頃は石原裕次郎や高倉健が映画のスクリーンやテレビ画面でかっこよくタバコをふかしていました。当然子供の眼にはこれがかっこよく見えました。子供は良いか悪いかではなく、自分がかっこいいと思う人の真似をします。ですからタバコを吸う若者が多くいたのです。ところが現代ではテレビドラマの中で子供が憧れる主人公がかっこよくタバコをふかすシーンなど見ることがありません。そして町の中でタバコを吸っている人と言えば、中・高年のおじさんかおばさんばかりです。子供の目にはあまりかっこよく見えません。これでは若者はタバコを吸う気にはならないでしょう。

子供の「真似る習性」をいじめ問題の解決策に
 話があらぬ方向にそれましたが、要するに子供は憧れる人、尊敬する人・・・つまり自分がかっこいいと思う人を真似る習性を持った生き物だと言うことです。昔はスーパーマンに憧れた子供が首に巻いた風呂敷を背中に垂らした姿をよく見かけたものですが、これも同じです。小・中学生が上級生や部活動の先輩を真似るのもこのためです。真似ることの天才的な例は幼児で、お姫様になったりウサギになったり、時には小鳥や蝶々になった

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りもします。くどいようですが、大事なことなのでもう一度言います。「子供は清く正しい心をもち、自分の頭で考えて行動する生き物」ではなく、「何者かに憧れ、それを真似る生き物」だということです。これが大脳辺縁系によって動いている子供の本質です。それを考えると道徳の授業で多くの偉人の生き方を子供に紹介する授業は極めて理にかなった手法だということが分かります。正義感に燃え、弱い者を助けたかっこいい人物を授業で扱えばそれに感化され、それを真似、勇気を振り絞っていじめられる子を助けようとする子供が出現することでしょう。また、いじめや嫌がらせにくじけることなく忍耐強く生き抜いた人物を扱えば、いじめられている子供もそれに触発され、耐え抜く姿の美しさに目覚め、「負けてたまるか」と自分に言い聞かせ、気力を奮い立たせ、自殺したり不登校になったりする事例は激減するでしょう。そうなれば、いじめや不登校問題は案外早く片付くのではないでしょうか。ということでいじめ問題を解決するには、感性を司る大脳辺縁系に働きかけ、いじめる人のかっこ悪さ、それに耐えている人の強さ、いじめに立ち向かっている人のかっこよさなどを、「理屈」ではなく「感性」として大脳辺縁系の扁桃体に刻み込むことが大事なのです。そうすることを怠る一方「どうすればよいのか子供に話し合いをさせて・・・」などの指導をしても効果の上がるはずがないのです。
 こうしてみれば「大人が生き方を押しつけるのではなく、子供自身に考えさせる」がいかに的外れな空論であるかが分かるでしょう。これなどは文系学者の情緒的教育論そのものです。このような指導は青年期中頃以降で十分です。ということで道徳の授業では子供に考えさせるよりも、子供が憧れそうな人物(偉人、スポーツ選手など)をたくさん紹介するのが効果的なのです。これらの中に子供がかっこいいと感じる人物がいたなら、大人がとやかく説教しなくても子供は勝手にこれを真似ます。所作から口癖まで真似てその人になりきろうとします。逆にかっこいいと感じなければ大人がいくら押しつけようとしても子供は真似ようとはしません。「子供は親の背を見て育つ」「子供は親の言うようにはしないが、親のするようにする」と言われるのはこのためです。
 道徳の授業でいろんな人の生き方を知った子供が、どんな人物に憧れ、何を真似るかはそれぞれの子供の感性によって違ってきます。そして感性とは10歳頃までに大脳辺縁系に刻み込まれた蓄積そのものなのです。こうして育った感性こそが子供の「個性」とよぶべきものです。「子供の個性」といいますと世の人々は子供が生まれつきもっている性格や癖などを思い浮かべるようですが、元来個性とはそんな薄っぺらなものではないのです。ともあれ子供がこれからどう生きるかを子供が自身の感性によって決めているのに、どうしてこれが「押しつけ」になるのでしょう。日々学校現場で悪戦苦闘しつつ子供を指導している教師達、その苦労は察してあまりあるものがあります。そういう苦労をしながら指導しているのに、それをこのように真っ向から否定されては反発する教師も多いことでしょう。実は私も現職であった頃は同じような指導をしていました。子供の指導に追われ、多忙な生活を送っていた私はものごとを広く見渡せる心のゆとりがなく、決められた指導法に沿って一心不乱に頑張っていました。しかし教育現場を退き、一般社会の中に身を置きますと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。それが今述べている「科学」なのです。科学の目から見ますと真似ようとしている生き物である子供には理屈は無用なのです。真似るお手本を示せばそれでよいのです。

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「自分の頭で考えよ」は教育の放棄
 真似る手本をほしがっている子供を前にして、それを示すことなく「自分で考えよ」というのは教育の放棄でしかありません。これでは子供は自分をかっこよく見せる生き方が見いだせません。大げさに言えば自分の理想像が描けないのです。子供が自分の理想像を描けなくなると心が飢えてきます。よく「現代の子供は三無主義(無気力、無関心、無感動)で白けている」と言われますが、その原因はかっこいい生き方の例を示さない学校教育にあるのかも知れません。
 教育界に対する世間の厳しい目は相変わらずです。そして多くの教師たちは世間の批判に怯えながら子供を指導しています。厳しい社会の批判を受けて教育界内部では「教師の使命感を・・」「子供の心に寄り添って・・・」などとする研修が盛んに行われています。これらも大切なことには違いありませんが、教育界の問題はもはや教師の熱意や、教師の資質向上だけでは解決できない深刻な事態になっているのです。ともあれ今教育界に必要なのは教育イデオロギーではなく、美しいだけで何の役にも立たない教育論でもなく、科学によって処方された実効性のある「実学的教育論」なのです。

歴史は新しい権力者の手によって書かれる
 「歴史は勝者によって書き直される」と言われますが誠にその通りです。これまでの人類の歴史は全て勝者によって塗り替えられてきたと言ってもいいでしょう。我が国の歴史も例に漏れません。明治の世になると新しい権力者は、それ以前の江戸時代の歴史を「武士がふんぞり返っていた暗黒の時代」として全否定しました。第二次大戦が終わって戦後という新しい時代を迎えますと、権力者はそれまでの歴史を「軍国主義の血塗られた時代」として全否定しました。新しい時代を迎えると新しい権力者がそれまでの時代を否定するというのは勝者の論理ですが、歴史の宿命であればそれも仕方ありません。ともあれ教育界はその歴史の宿命的あおりを受け、輝かしい成果を上げてきた伝統教育が全否定されることになりました。高い識字率を支え、勤勉を尊び、欧米から惜しみない賞賛の声を浴びていた日本の教育でしたが、戦後、手のひらを返したように「日本を戦争に導いた軍国主義教育」としてことごとく否定されるようになりました。教育現場は混乱しました。しかし情熱的な教師たちの頑張りと、教育熱心な保護者の支えによって、教育大国日本の地位は揺らぐことなく、今も世界トップレベルの水準を保っています。近年何かと社会からバッシングされる学校ですが、日本の教育の質は高く、まだまだ欧米と比べられるほどには衰退していないのです。因みにGDPに占める教育予算の比率は日本は先進国中で最低です。それでも成績は世界でトップレベル、青少年の非行は欧米に比べて桁違いに少ないのです。これらをみれば、日本の先生たちは社会からバッシングされるどころか、むしろ賞賛されてよいのです。とは言いつつも、日本の教育に翳りが見られるのもまた事実です。なぜでしょう。原因ははっきりしています。我が国が長い歴史の中で育んできた伝統的な教育を「戦前の古くさい教育」としてうち捨てる一方、「欧米では・・・」などとして軽々しく外国を模倣したことが原因です。我が国は戦後一貫して欧米の教育を真似てきました。協調性に富み、和を重んじる日本人が、自己主張が強く「個」の確立を最優先する欧米の教育を真似ているのですから、元来うまくいくはずがないのです。日本人は体格に恵まれず、個人としての力は貧弱ですが、集団となると無類の力を発揮します。いわばミツ

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バチ集団と言えましょう。この力があればこそ我が国はこれまで世界の列強と対等に渡り合ってこられたのです。その日本人が欧米に倣って「個」ばかりに目を向けた教育をしているのですから、これは日本人の強みを自ら捨て去っているのと同じです。現代教育が犯した重大な失政のひとつといえましょう。バブル崩壊以降、我が国の国力の低下は誰の目にも明らかですが、その遠因は長く日本人の体質に合わない欧米流の教育を続けてきたことにある、と私は思っています。
 我が国の教育衰退の原因を「戦後GHQの陰謀」などという人がいますが、大間違いです。欧米の教育を真似て我が国の教育を衰退させたのは他ならぬ日本人であって、日本人自身の責任なのです。

今こそ教育維新を
深刻な問題が山積し、その中で苦しみもがいている子供と教師、そして保護者・・・教育界は空理・空論を弄している時ではありません。また社会もそれを許してはなりません。「理屈は要らない、ともかく一刻も早くいじめと不登校の問題を解決せよ」と教育界に迫るべきなのです。
 二十一世紀という今の社会は科学の進歩とともに、日進月歩で進化しています。何か新しい発見・発明があれば産業界や医学界など、あらゆる分野の業界はいち早くこれを取り入れ、国際社会で生き抜くためにしのぎを削っています。その中にあって教育界だけはこれをよそ目に十年一日のごとく浮世離れした教育を続けています。パソコンなど最先端の教育機器を取り入れてはいますが、教育の要である「理念」と「手法」は中世ルネッサンス期から全く進化していません。その姿はあたかも科学の受け入れを拒んでいるようにさえ見えます。これでは「人材」という我が国唯一の資源が枯渇してしまうでしょう。
 教育界は変わらなくてはなりません。いつまでも旧態依然とした教育にしがみついているのではなく、進んで科学を取り入れ、それをもとに新しい教育を創造し、教育を近代化しなくてはなりません。近代化とは即ち科学を取り入れることです。かつて我が国は明治維新を成し遂げ、欧米の科学を取り入れて国を近代化し、飛躍的に成長しました。そして社会は今も刻々と進化し続けています。教育界だけが古い教育にあぐらをかき、安穏としていることは許されないのです。

教育界に科学を取り入れる手立て
 では教育に科学を取り込むにはどうすればよいでしょう。今さら大学の教育学部に対して「脳科学や動物行動学などの科学について教えるように」と指示を出したところで無用な反発を招くだけです。第一、文科省が先頭に立って反対するかも知れません。何しろ文科省はすでに時代に取り残された教育界となれ合いの体質になり、前近代的な教育をこれまで通り守っていこうとする勢力になり下がっているからです。ではどうすれば・・・よい方法があります。こうするのです。まず最初に教員免許を国家資格にします。現在の教員免許は各大学の教職課程で一定の単位を修めれば無条件に与えられる仕組みになっています。これを医師免許や弁護士資格と同じように国家資格にするのです。つまり国家試験に合格しないと免許を与えないようにするのです。そうした上で国家試験のテスト問題に脳科学や動物行動学などから教育に深く関わる分野の問題を出題するようにするのです。

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そしてこの分野の出題者は教育学者ではなく、これまで述べた動物行動学者や脳科学の専門家達にするのです。こうすれば教育大学はじめ、教職課程を持つ各大学はいやでもこれらについて指導せざるを得なくなります。こうすることによって教育界にいくらかでも科学の風を送り込むことができます。では今すでに教室で子供を指導している先生達の免許はどうすればよいでしょう。そのままにしておくわけにはいきません。しかし幸いなことに教育現場には夏休みなど、研修する機会には十分恵まれています。これを利用して科学的教育論について研修するようにします。こういう研修なら今あるような子供中心主義のお題目を唱えるばかりの研修に飽きている先生達も意欲的に取り組むのではないでしょうか。
 実は今の教員免許は10年ごとに大学で講習を受け、更新(教員免許更新制度)することが義務づけられています。教員の資質向上をねらいとした制度ですが、その実、何の役にも立っていません。空しいほどに中身のない形ばかりの研修、しかも費用は自己負担(2〜3万円と言われます)・・・現場教師に不評なのは当然です。即刻廃止すべきところでしょうが、現実にはなかなかそうはいきません。そこで免許更新の講習を利用して科学的教育論を身につけさせる方法も考えられます。いずれにしてもこの講習は大学任せにせず、文科省が主導し、まかり間違っても空理・空論を弄して生きてきた教育学部の「お偉いさん達」に丸投げするようなことのないよう注意が肝要です。
しかしこのような改革をしても、空理・空論に支配された教育界を変えるのは至難の業です。なにしろ科学とは無縁の「虚構の教育論」は教育界の奥深くまで浸透し、今や文科省、教育学者、教育委員会、そして現場の教師までもがこれを信奉し、四者一体となって岩盤のごとき閉鎖社会を作っているのです。またマスコミがこれらの教育を賞賛しますので、少なからぬ国民もこれに染まっています。「おネェ言葉」で評判の某大学教授は「教育は愛とロマンです」などと宣います。そしてマスコミも社会も手をたたいてこれを喝采・賞賛します。冗談ではありません。教育は科学なのです。たしかに教育には愛もロマンも大事ですが、まして必要なのは教育科学です。
 話しがそれましたが、ともかく脳天気な教育論の染みついた教育界ですから、あの手この手を使って抵抗を続けることでしょう。改革するに際しては断固たる決意が必要です。そして、あくまで教育界が抵抗するようであれば(多分頑強に抵抗するでしょう)最終手段に訴えることも必要です。最終手段とは
全国の教育学部と教育大学を解体することです。「何たる暴論!」と思われたでしょうか。実は私もそう思います。しかし長きにわたって惰眠をむさぼってきた教育界です。これを覚醒させ、我が国の人材資源を枯渇させないため、そして何より子供の命を救うためには暴論であろうとなかろうと手段を選んでなどいられません。以前「文科省解体論」が世間で囁かれたことがありましたが、実は教育界で「子供中心主義」という「ばい菌」を作っているのは文科省ではなく、教育大学に巣くう教育学者なのです。権威の上にあぐらをかき、中身のないファンタジーな教育論を振りかざし、教育を混乱させている彼らこそが教育荒廃の元凶なのです。無論彼らにはそんな自覚はありません。先に「文科省、教育学者、教育委員会、現場の教師の四者が一体となって」と書きましたが、実は「四者」ではなく「一者」なのです。「一者」とは言うまでもなく大学の教育学者です。全ての教師は教職課程を修める過程で学者先生の訓導を受け、教育現場に入ってからも様々な機会を通じて学者先生から指導を受けます。また学校を指

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導監督する機関として教育委員会がありますが、そのメンバーの大部分は元教師です。ということは教育委員会や学校教師の頭の中は学者先生の頭のコピーでしかないのです。そして文科省は学者先生や教育委員会、学校(校長)の意見を集約し施策に反映させます。つまり文科省は「関係機関の意見を聞きながら・・・」とは言ってはいますが、その実、学者先生達の「子供中心主義に感染した意見」にしか沿っていないということなのです。これでは既存の枠組みの中でしか思考できず、斬新な考えなど出てくるはずがありません。ましてやこれまでに述べた「教育に科学を」などの提言は「聞く価値もない戯言」とされ、議論することさえ叶わないでしょう。つまり教育界は文科省を頂点としていますが、教育の考え方を隠然と支配しているのは教育学者、つまり教育大学をはじめとする教員養成機関なのです。ですから、真に教育の質を変えるためには文科省を指導するよりも、教育学者の巣窟である教員養成機関を潰す方が手っ取り早いのです。「はき違えた子供中心主義」という「ばい菌」を除去するには「ばい菌」を製造している工場を潰すのが近道と言うことです。
 とは言っても、これは文科省を解体する以上の難事業です。力のあるリーダーが長期間の見通しをもち、腰を据えてかからなければなしえません。注意すべきはこれまでのように組閣のたびに文科大臣の首がすげ変えられるようなことであっては、官僚が大臣を軽んじ、「面従腹背」などの言葉を公然と口にする事務次官が出現することになります。これではいかに力のある大臣でも事を成し遂げることはできません。ということで今後は長く萩生田大臣を文部行政のリーダーに据え置くことが肝要かと思われます。繰り返しになりますが、教育界にはびこる「子供中心主義」という「雑草」は、目に見える地上の部分だけ刈り取っても「教育大学」という「伏魔殿」にその根を深く下ろしていますから、仮に文科省に代わる省庁を作ったとしても、残った根の部分から再び芽を出し、教育界にはびこるのです。ということで抜本的に改革するには、教育大学という根の部分を完全に取り除くことが必要なのです。
 ところでこれほどの大改革をするのですから、大臣が逆立ちしてもおいそれとはいきません。
「教育近代化推進プロジェクトチーム(仮称)」をつくり、教育学部や教育大学の解体、またこの後に述べる改革について検討・意見集約、そして意見具申をすることとします。勿論このチームのメンバーは、動物行動学者、脳科学者、心理学者はじめとする先端科学の学者で教育に確たる認識を持った学者とします。大事なことは、教育学者をメンバーに加えないことです。なぜなら「教育大学・教育学部解体」などは彼らにとっては「住み家」をなくすことに等しいのですから、賛同するどころか妨害するようになるからです。以前「教育改革国民会議」を立ち上げて、改革に取り組んだことがありましたが、これといった成果を上げられなかったのは、これまでの教育に固執する教育学者が多数入っていたからだと推測されます。教育を議論する場に「○○教育大学教授」などの肩書きをつけた学者がいれば他の委員は気後れしてものが言えなくなり、勢い彼らの意見が主流となるのでしょう。そもそも我が国の「お国柄」に似つかわしくない欧米の教育観が骨の髄まで染みついた教育学者など無用なのです。つまり欧米の教育観から抜け出さない限り「教育の戦後」は終わらないと言うことです。政府の大英断を期待する次第です。
 ここで少々余談・・・教育委員会は本来レイマンコントロール(素人集団によるチェッ

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ク機能)の役割を果たすために設置された機関ですが、メンバーのほとんどは教師出身です。これでは教育委員会は学校となれ合いの体質に堕しやすく、本来課された使命が果たせず、ますます教育界が閉鎖的になります。教育界を抜本的に改革するには、教育委員会の委員には教育界の垢に染まっていない一般の社会感覚を持った人物を起用するよう都道府県を指導することが肝要です。
ところで教育界には教育をより閉鎖的にしている法律があります。それは「教育基本法第10条」です。そこには「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と記されています。一読する限り至極当たり前の条文です。しかしこんな当たり前のことを何故わざわざ書く必要があるのでしょう。教育に限らず、行政の行う施策は「不当な支配に服してはならない」のは当然のことです。その当然のことをあえて書いたことで多くの人に「教育は聖域」とする思い込みが生まれました。そして教育関係者に「自分たちが行う教育は誰からも干渉されない」との思い上がった意識が芽生え、世間の感覚からかけ離れた教育が平然と行われるようになるのです。一方この「不当な支配に服することなく・・・」は教職員組合などのイデオロギー集団に都合よく解釈され、偏った教育をするための格好の隠れ蓑になっています。世の中に聖域などあってはなりません。教育とて数ある行政施策の一つです。どうして聖域になり得ましょう。聖域などを作れば人が足を踏み入れることができない場所を作ることになり、やがてそこには雑草が生い茂るようになり、害虫がはびこります。聖域としてよいのは神社仏閣の祭壇と皇室だけです。ともあれ書く必要のないものをあえて条文にした教育基本法第10条は早急に削除しなくてはなりません。志ある政治家の英断を期待します。

参考までに・・・(私学に負けないだけの学力を身につけさせる)
以上、これまで教育近代化について縷々述べて来ましたが、私が現代教育に危機感を抱く根底には、現代の公立学校の著しい地盤沈下を憂慮する気持ちがあります。現代社会における学校の評価は圧倒的な「私高公低」です。
 かつて、我が国には貧しい家の子でもリンゴ箱を机代わりにして勉学に励み、国立の超一流大学に合格するという例があまたありました。しかし今はそんな話しはとんと聞きません。何故でしょう。公立学校の教育がふがいないからです。誰のせいでもありません。今の圧倒的「私高公低」も全て公立学校自身が招いた結果です。具体的には教育界にはびこった「悪平等主義」のためです。進路指導する公立中学校の教師は「底辺校に通う生徒の気持ち」を考え、学校間格差が生じないよう、小学区制や総合選抜制度を取り入れたりするなどして、あくなき平等を目指したのです。その結果、たしかに学校間格差の拡大は抑えられましたが、公立学校が「みんな仲良く」「平等」に地盤沈下するという結果を招きました。格差を減らすということは学校間の競争を否定すると言うことです。競争のないところに進歩がないのはいつの世も同じです。裕福な家庭の子供でも貧しい家庭の子供でも等しくレベルの高い教育を受けられるようにするのが真の平等のはずです。公立学校は全般的に指導が生ぬるく、校風が緩み、いじめなどの問題もはびこります。こうしたことから子供の将来を憂慮する保護者は経済的に多少苦しくとも、私学を選択することになりました。公立学校が「我が校はこうやって子供の豊かな感性を育んでいる」などとアピールしてもそんなきれい事には多くの保護者は振り向きません。あくまでも学力の高い高

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校に生徒は流れます。ともあれこうして「私高公低」がはじまり、その傾向はますます強まっています。今後は裕福な家庭の子は私学でレベルの高い教育を受けてますます裕福になり、貧しい家庭の子はますます貧困へと追いやられることでしょう。そうなれば我が国は貧しい者と富める者が階層として社会に定着し、欧米のような階級社会になり、国力は衰退していきます。そうならないためにはどうすればよいでしょう。答えは簡単です。公立学校が頑張って私学に負けないだけの質の高い教育をすればよいだけの話です。ところが現代の公立学校はこれまで述べてきたように、はき違えた子供中心主義の害毒が蔓延し、子供どうしの競争を否定し、学校間の格差を否定し、このため基礎学力が低下、そしていじめ・暴力が蔓延し・・・というていたらくです。公立学校は私学とは違い、入学してくる子供を選べませんから、問題を抱える子供も多く入学し、様々な問題が発生します。ですからそれらの問題を全て克服して私学と同じような成果を・・・などの要求は酷です。しかし学力を上げることは努力すれば十分可能です。以下にその方法を述べます。

@週五日制を改め、土曜日に半日授業を行う。
私学ではほとんどの学校が土曜授業をしています。学力を向上させて学校の評価を上げるのは多くの私学にとっては生死をかけた戦いです。土曜日に授業をするのは当然の流れでしょう。私学に後れをとっている公立学校はこれを見習わなくてはなりません。倒産する恐れのない「公立」の立場にあぐらをかき、ぬるま湯に浸かったような教育をしていてはますます私学に水をあけられます。学習塾が多く、しかも進学熱の高い東京の公立学校の一部では土曜授業をしている学校がありますが、東京だけでなく、全国の公立学校も実施すべきです。土曜日に勤務した教員の代休は夏休みにまとめ取りすればよいでしょう。

A全国学力テストを学年の幅を広げて実施し、結果を全て公表すること
現在行われている全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)は毎年4月、小学6年生と中学3年生を対象として行われていますが、その集計結果は都道府県別の成績が公表されるだけで、学校別はおろか、市町村別の成績も非公開です。保護者はじめ社会からは成績をもっとオープンにするように、との要望がありますが、教育界は頑なにこれを拒みます。「学校間格差が生じる」と言うのがその理由なのですが、その実、成績の振るわない学校の校長や市町村教育委員会が、地域社会から自分たちに非難の矛先が向けられることを恐れているからでしょう。成績さえ公表されなければ・・・という、公務員の横並び意識そのものです。これでは学力に対する危機感は生まれず、競争原理も働きません。競争のないところに進歩はない、というのは世の常です。子供の学力を向上させるためには金のかかる特別な施策は無用です。学力テストの結果を市町村別、学校別にそれぞれ順位を付して公表するだけでよいのです。またテストの対象学年も最高学年の小6、中3だけでなく、幼少の学年を除いた小4〜中3までの全学年で実施することのがよいと思われます。

B「総合的な学習」の時間を廃止すること
 現在小・中・高校では「総合的な学習の時間」というのがあり、小学校では週3時間程度、中学校では週1時間程度の授業が組まれています。この総合的な学習というのは従来の教科の枠を超えて、様々な課題に総合的に取り組ませる学習です。この時間を使って地

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域の歴史や文化、産業、環境問題、体験学習など、多種多様な課題について学習しています。その狙いは「変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる(学習指導要領)」となっています。しかし、そのような高い理想とは裏腹に、授業がお遊び的になり、これと言った成果は上がっていません。高校生など基本的な学力が身についた生徒には効果はあるでしょうが、小・中学生には不向きな授業です。現に私学ではこの時間を第二外国語の学習や教科の補充学習に当てたりなどで、前向きに取り組んでいるところは少ないようです。週の授業時間数が限られ、窮屈なカリキュラムを強いられている一方で、このような脳天気な授業で時間を費やしているとはなんと言うことでしょう。また教師にとっても授業準備が大変で、かなりの負担になっています。元々「ゆとり教育」が生んだ産物であるこの「総合的な学習」は一刻も早くなくさなくてはなりません。
以上、教育界を抜本的に改革するための政治的課題について述べてきましたが、話しが逸れたついでに、教育現場が荒んでいることの原因と背景についてお話ししておきます。学校現場が荒む原因は様々に考えられますが、まず第一にあげるべきは現場の教師達が忙しすぎて心のゆとりを失っていることです。私が教師になったばかりの昭和50年頃は、テスト問題、報告文書などの書類は全て鉄筆原紙とヤスリ板を使っての手書き、印刷は手回しの輪転機でした。子供の家を訪問するには自転車かバイク、その他諸々・・・随分不便で何をするにも手間のかかることでした。それに比べると現代は教師それぞれがパソコンを所持し、資料収集や調べ物、そして連絡・通信は迅速、また移動手段も迅速・快適・・・これらを考えますと、学校現場は当時より遙かにゆとりがあってよいはずなのですが、実際にはそうなっておらず、むしろ昔よりずっと忙しくなっています。一体どういうことでしょう。それは学校の業務に無駄が多すぎることです。即ち、子供の指導に直接関わりのない仕事が多く、教師の負担になっていると言うことです。関係機関への連絡、報告、各種調査、研究会の打ち合わせや発表資料の作成、校内研修(全く役に立っていない)とその資料作り、年間計画と実施報告そしてその評価・・・これらの仕事をやっていますと、自分が教師なのか役所の事務官なのか分からなくなるほどです。教師は子供と関わってこそ教師であって、事務仕事に追われていては教師としての喜びは感じられません。しかし現場の管理職(特に校長)や教育委員会には書類好きな人が多く、子供の成長よりも書類の厚みの方が気になる傾向があります。ですからこうなるのはむしろ必然と言えましょう。近年、教師の長時間勤務が話題となり「学校=ブラック」とさえ言われるようになりました。教職を希望する若者も減少していると言うことです。これでは教師は子供に目を向ける余裕をなくし、教育界は衰退していくばかりです。学校や教育委員会はさほど意味のない研究組織や会合・出張を止めるなどし、教師の業務を全面的に見直し、真に子供の教育に必要な業務に絞らなくてはなりません。
 働き方改革の観点から、中学校の部活動が話題に上りますが、これは少し趣が違います。教師というのは、子供が頑張り、成長し、そして保護者から感謝され、励まされていれば、その子供や保護者の期待を意気に感じて、どれほど忙しくても頑張れるものです。ですから部活動の忙しさなどはさほど心配することではないのです。
 教師を最も疲れさせるのは一部保護者からの理不尽なクレーム、即ちモンスターペアレンツからの攻撃です。近年はマスコミの学校バッシングに乗じ、筋の通らないクレームを

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押しつけてくる保護者が増加しています。学校や教育委員会は役所の保身的体質が染みついているのか、クレームがあると条件反射的に頭を下げます。「事を荒立てたくない」「頭を下げることで穏便にすませたい」という防衛本能がそうさせるのでしょう。無論こちらに非があるなら誠心誠意謝らなくてはなりませんが、そうでないなら毅然とした態度を示す必要があります。その意味では校長の姿勢は極めて重要です。「保護者の願いを謙虚に受け止める」という姿勢は大事ですが、理不尽なクレームにさえ頭を下げてばかりの「事なかれ主義」では、職場の秩序を守ることができません。そればかりか、これを知った他の保護者までもが「何を言っても許される」と言う気持ちでモンスター化することになります。校長は職場の長として学校(子供・職員)を守らなくてはなりません。保護者から教師に対して理不尽なクレームがあった時などには、校長は決然として保護者の前に立ちはだかり、防波堤となって職員を守らなくてはなりません。防波堤になるべき校長が保身第一に考えて安易に保護者の要求を受け入れたり、頭を下げたりしていては、教師は保護者の荒ぶるクレームの波をもろにかぶることになります。校長は職場の長でありますが、ひとたび争いが起こったときには部隊の指揮官として、相手が保護者であれマスコミであれ、職を賭して戦う覚悟が必要なのです。学校の平穏を願うなら校長は時として保護者と厳しい関係になることを覚悟しなくてはいけないのです。事なかれ的な平和主義一辺倒はむしろ職場の平和を乱すのです。そうしてこそ職員が校長を信頼し、学校が一丸となれるのです。文科省はこのことを研修等を通じて校長に指導する必要があるでしょう。

今こそ「教育近代化」「教育維新」を目指す時
 話が随分それましたので本論に戻しましょう。教育界は今、未曾有の危機に立たされています。いじめが原因で多くの子供が自殺している現実を前にして、教育関係者はなすすべがなく、ただ立ちすくむばかりです。日頃したり顔で教育を論じている人たちは今こそ問題解決策を世に示すべきなのですが、それもありません。そして子供の自殺は今も続いています。しかしマスコミはニュースとしての価値なしと考えてか、ほとんど報じなくなりました。もはやこれは「瀕死の状態」と言うより、「死んでいる」と言ってもよいでしょう。間違った教育行政によっていたいけな子供の命が失われていくのを私はこれ以上黙って見ているわけにはいきません。
 今こそ教育維新を成し遂げ、教育を近代化すべき時です。そのためには脳科学者、動物行動学者、文化人類学者など、最先端の学者が結集し、科学によって裏打ちされた真の教育を創造し、社会に向けて声を上げなければなりません。保守とリベラルが延々と観念的教育論をぶつけ合っている場合ではないのです。
 私はこのことを新聞記事で世に訴えたり、本を出版したり、文科省はじめ政府機関に働きかけたりして活動してきましたが、これと言った成果もなく失敗しました。失敗の原因ははっきりしています。「教育のあり方」「教育の理念」などと言うものは世間の目からはあまりにも遠く、したがって国民の関心も薄く、どのように訴えかけても世間には理解してもらえないのです。教育界を眺めてみますと、「教育のあり方」などという核心に関わる部分は頭の固い大学の教育学者に握られています。そんな状況ですから志ある方々がどれほど声を上げても心に届かないのです。学者先生達が教育の近代化を拒むのは、ひょっとすると、教育に科学が持ち込まれることによって、これまで自分たちが進めてきた教

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育の重大な過ちが白日の下にさらされることを怖れているからかも知れません。
 「教育の近代化」は吃緊の課題ですが、実はイギリスやアメリカではすでにこの動きがあると聞いています。イギリスと言えば世界に先駆けて産業革命を成し遂げた国です。さすがという他はありません。「欧米でやっているから我が国も・・・」などの軽率な考えはいかがかとは思いますが、正しい道であるならこれに後れをとってはなりません。
 我が国では近年EBE(Evidence Based Education:証拠に基づいた教育)を研究する動きが始まっています。まだ大きな潮流にはなっていないようですが歓迎すべき動きです。私はこれをさらに一歩進めてSBE(Science Based Education:科学に基づいた教育)にしていくべきと考えているのです。
 皆さん力を貸してください。そして私と共に「教育近代化」「教育維新」の実現に向けて声を上げてください。みんなで声を上げれば国を動かすことができるかも知れません。私も齢七十代を迎えました。独りで徒手空拳の活動を続けるのは正直さみしいですが、日本の子供達のため、我が国の未来のために、老骨にむち打って頑張るつもりでおります。応援してください。声を上げて下さい。



川 内 時 男
住     所 :〒773-0023徳島県小松島市坂野町字太郎丸16−8、
メールアドレス:kaicho71369@yahoo.co.jp
電 話 番 号:08086305099
昭和23年12月16日徳島県小松島市にて出生
昭和50年中央大学理工学部数学科卒業
昭和52年徳島県公立学校教員
昭和58年〜昭和60年 在インドネシア共和国メダン日本人学校教諭
平成8年〜平成10年 在チリ共和国サンチャゴ日本人学校教頭
平成12年徳島県木沢中学校校長
平成18年徳島県小松島市立立江中学校校長
平成21年定年退職
平成22年3月〜平成25年3月 在メキシコ合衆国グアダラハラ補習授業校校長
                             (文科省シニア派遣)
著 書:「教育直言」(日本時事評論社)