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鳥居徹夫氏の活動報告(基)
(元文部大臣秘書官)
<教科書で教えたい近現代史!(その2)>
世界の識者から見た「大東亜戦争」! | ||
「日本との戦争のすべては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」(第31代アメリカ大統領・ハーバート・フーバー『裏切られた自由』) 昭和20年の8月15日は、第2次世界大戦が終結し、日本が武装解除した日。日本と連合国との終戦は、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日であり、この日が日本独立回復の日である。 今年(令和2年)は、日露戦争に勝利して115年目。 帝政ロシアによる東アジアへの軍事侵略を、日本が果敢に阻止したのが日露戦争である。 二百三高地陥落を受けての旅順制圧、日本海海戦でバルチィック艦隊を壊滅させ、そして奉天の会戦でロシアのコサック部隊を撃破した。 また日清戦争に勝利して125年目にあたる。 豊島沖海戦、黄海海戦で北洋艦隊を撃破し、北洋艦隊の本拠地の威海衛を制覇し、ペキンを震撼させ勝利した。 この日本の勝利は、アジアの被抑圧民衆を目覚めさせた。そして白人諸国(欧米)の植民地支配と(中国大陸の)華僑の経済支配という「二重の支配」から、解放・独立への大きなバネとなった。 日本は、非抑圧民衆にとって、アジアの曙であった。 にもかかわらず、国内の与野党の政治屋たちは、中国や韓国に迎合し、日本は侵略国家だと攻撃し、あいも変わらず日本国の名誉と日本国民へのヘイトスピーチを繰り広げている。 そして日本の左翼メディアや自称歴史学者までもが「日本は悪かった」と、ゆがめられた歴史の虚構に便乗し、祖国を貶める言動を拡散している。 大東亜戦争は、白人の植民地支配と華僑の経済支配という「二重の支配」に苦しめられてきたアジア諸国に、自由と独立をもたらしたものであったことは、厳然たる事実である。 また東京裁判は、勝者の復讐(ふくしゅう)劇に過ぎなかったのであることは、その後の歴史が証明している。 この大東亜戦争や東京裁判について、世界はどのように見ているのかを、まず日本人自身が認識しなくはならない。 --------------------------------- 世界の識者から見た「大東亜戦争」! --------------------------------- 《韓国》 ●朴 正煕 (韓国大統領、朴槿恵 元大統領の父) 私は貧農の生まれで、学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行くことができた。そうしたら日本人の先生が「お前は頭が良いから、無料の師範学校に行ったほうが良い」と推薦してくれた。 師範学校ではさらに優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果、陸軍士官学校を主席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校になることができた。今の私があるのは、清廉で誠実な日本人たちのおかげである。 《タイ》 ●ククリット・プラモード(タイ国元首相) 日本のお蔭でアジア諸国は全て独立した。 日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のお蔭であるのか。 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。 12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。 更に8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。 この二つの日を忘れてはならない。 ●タナット・コーマン(タイ国元副首相) あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。 そしてこれは、日本が勇戦してくれたおかげです。 新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。 誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。 《インドネシア》 ●モハメッド・ナチール(インドネシア元首相) アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。 大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を 日本が代表して敢行したものです。 大東亜戦争というものは本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。 もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。 ●ブン・トモ(インドネシア元情報相) 日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。 我々は白人の弱体と醜態ぶりを見てアジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。 ●ブン・トモ(インドネシア元情報相) あの戦争は我々の戦争であり我々がやらなければならなかった。 それなのに、全て日本に背負わせ、日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない。 ●M・ハッタ(スカルノに並ぶ独立の父) 資源の宝庫であるインドネシアは疲弊した宗主国オランダにとってどうしても手放せない植民地だった (中略・・・その後独立) (オランダは独立の)腹いせに多額の債務をインドネシアに要求した。 これを戦時賠償の形で肩代わりしたのが日本だった。 ●サンパス復員軍人相 戦争が終わった後、多くの日本人が帰らずに我々と戦ってくれた。 国軍基地に祀り勲章を贈った。しかしそれだけでは足りないものを彼らは我々に与えてくれた。 ●アラムシャ陸軍大将 日本にはあと5年頑張って欲しかった。 そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立できたはずだ。 《インド》 ●グラバイ・デザイ(インド弁護士会会長) インドは程なく独立する。 その独立の契機を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。 この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。 インドネシア、ベトナムをはじめ東亜民族はみな同じである。 インド国民はこれを心に深く刻み日本の復興には惜しみない協力をしよう。 ●ネール(初代インド首相) 彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。 それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。(52年日印平和条約締結) ●ネール(初代インド首相) アジア一国である日本の勝利(日露戦争)の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が敗れたとすれば、アジアは昔、度々そうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。 ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、「アジア人のアジア」の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。 ●チャンドラ・ボース(デリーインド国民軍裁判主席弁護人) 日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自国獲得の戦いに参加することを可能にした。 《ビルマ》 ●バー・モウ(ビルマ初代首相) 最初のアジアの目覚めは日本のロシアに対する勝利に始まり、 この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。 日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。 歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点と呼べるものであった。 ●バー・モウ(ビルマ初代首相) 「我々を白人支配から救い出してくれたのは日本だった。我々は(略)その恩は忘れない」 「日本ほどアジアに貢献した国はない。日本ほど誤解を受けている国はいない」 「特攻は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。今後数千年の長期に亘って語り継がれるに違いない」 《マレーシア・シンガポール》 ●G・シャフエー(マレーシア外相) 「何故 日本が謝るのでしょうか? あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイギリス人を追い払ってくれたではないですか? 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。この日本が払った尊い犠牲を否定することはバックミラーばかり見ているようなものです。 ●ラジャ・ダド・ノンチック(上院議員) 我々は日本軍を歓呼で迎えた。 日本は将来の我々の独立のために多くのものをもたらしてくれた。 ●Z・アビディーン(歴史家) 日本軍政はマレー人に独立の種を撒き成長させた。 ●ガザリー・シャフィー(マレーシア元外務大臣) 日本はどんな悪いことをしたと言うのか。 大東亜戦争で マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。 わずか3か月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。 私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。 日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。 ●ゴー・チョクトン首相(シンガポール) 日本の統治は過酷なものだった、しかし日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。 これはアジアに自信を与えた。大戦後、15年以内にアジアの植民地は全て解放された。 ●マレーシア:ラジャー・ダト・ノンチック(元上院議員) 日本軍は長い間、各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い出し、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に感動と自信を与えてくれました。 長い間眠っていた「自分達の祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせてくれたのです。 《アメリカ》 ●ハーバート・フーバー(第31代大統領) 私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(1946年)5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に3時間、そして6日の朝に1時間、サシで話した。 私が、日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意。 また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争せざるを得ない状態に日本を追い込んだ。 制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった。 ●ハーバート・フーバー(第31代大統領) ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ヵ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。 その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。 ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争地を引き起こすことになると警告を受けていた。 ●ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(連合国軍最高司令官) 日本原産の動植物は、蚤をのぞいてはほとんどないも同然である。 綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない。ほかにもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していたのである。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、1000万人から1200万人の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。 したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった。 ●ジェームズ・W・モーリ(コロンビア大学教授) 大東亜戦争はマルクス主義者がいうような単なる「植民地侵略戦争」ではなく、西欧列強諸国の帝国主義に反対するという意味では「反帝国主義戦争」でもあった。 ●ジョージ・フリードマン(ディッキンソン大学教授) 1920年代後半に、アメリカが保護貿易主義に傾くと、日本は危機に追い込まれた。 アメリカは重要な貿易相手国であって、アメリカ市場の喪失は、英連邦地域との貿易関係の断絶の恐れとともに、日本にはかり知れぬ危機をもたらした。 日本には2つの選択肢があった。 ひとつは、中国大陸から撤退して中国パイのおこぼれを貰うことに甘んじ、絶望的経済破局を迎えること。 もうひとつは、日本がどうしても必要としていた市場を確保するために、経済的手段以外の方法を使うことであった。 日本は後者を選んだ。 もっと正確にいえば、日本は政治的・軍事的選択をするほかに道がなかったのである。日本は地質的、社会条件によって、身動きのとれない状態にあった。 石油が日本に入るのを妨害することによって、日本が中国やインドシナに手を拡げるのを封じようとアメリカが決定したとき、日本には三つの選択肢があった。 第一は、アメリカの禁輸政策を無視して、それ以前と同じように前進していくこと。 しかしこれは不可能であった。 なぜなら日本における石油備蓄は、せいぜい長くて一年分がそこそこで、日本はもはや工業国などではあり得なくなるだろうから。 第二の道は、アメリカの要求をのんで細々と生きることを考えること。 しかし保護貿易主義が衰退することなど思いも及ばぬありさまだったから、この選択は、日本がもはや、世界中のどこの国にも商品を売ることができなくなるという経済的惨禍を意味したのであろう。 したがって、これはただ選択肢のように見えるだけであって、現実には国家としての自殺行為にほかならなかった。 日本の第三の選択は戦争であった。 日本は中国に進出していった。なぜならば、国際的保護貿易主義が日本をして警告点を超えさせてしまったからである。 いまや列強の行動は、日本が他国の要求を無視することも、それに応じることも不可能にさせていたのである。 日本はもはや、自由な主権国家として生き残れないところまで追いつめられた。 唯一の打開策は戦争であった。 ●ジョン・トーランド(軍事作家) この会議(大東亜会議)で満場一致採択された共同宣言は、正義・相互の独立・主権・伝統の尊重に基づく共存共栄の新秩序、互恵の精神を持ってする経済開発への努力とすべての人種的差別の撤廃を要求するものであった。 その共同宣言は、大西洋憲章の太平洋版というところであった。 東京に来た代表者たちは傀儡であったかもしれない。 しかし奴隷状態に生まれた彼らは、いまや自由の身になったと感じ、初めて共同でアジアのための偉大な新世界を宣言したのである。 ●エドガー・スノー(シカゴ・トリビューン紙中国特派員) (毛沢東は昭和四〇年一月九日に、アメリカのジャーナリスト・エドガー・スノーと会見した際に、次のように日本軍に謝意を表した) 「日本軍は実に役に立った。中国各地を実際に占領し村々を焼き払うことにより、日本軍は人々を教育し政治意識の高まりを早めた。共産主義者が率いるゲリラ部隊が隊員を増やし、支配地域を拡大しやすい条件を作ってくれたのだ」 毛主席と会う日本人が、過去について謝罪すると、彼は逆に「日本の援助のおかげだ」と感謝するのである。 ●レオナルド・カーニー(神田外国語大学助教授) 第二次大戦の当初、アジアの人々の多くが、アメリカなどの白人諸国に対する日本の勝利に喜んでいた、ということである。 1941年12月7日、真珠湾。 日米開戦の口火となった敵国日本によるこの攻撃を、解放への光明と喜んだアメリカ人がいた。 ブラック・アメリカン、つまり黒人たちである。 黒人の中には、この戦争は「人種戦争」だと公言し、日本はアジアを白人から解放する英雄であるという者すら出てきた。 白人優位の神話を根底から覆した日本人。 そんな日本人と戦うくらいなら、監獄に行ったほうがましだ。こんな考えが、黒人の間を駆け巡っていた。 ●J・A・ロジャース(黒人ジャーナリスト) そもそもヨーロッパやアメリカがこれらの地域を植民地支配しなければ、日本との戦争は起こり得なかった。真珠湾はなかったはずだ。 ●ジェシー・ジョーズ(ルーズベルト政権の商務長官・復興金融公社総裁) ルーズベルトは、『私は戦争を憎む』とたびたび述べたにもかかわらず、彼は、参戦に非常に熱心であった。 なぜならば、参戦は三期目の大統領の地位を約束するからであった。 もし、彼が大統領に三選されたならば、それは彼の2つの大きな希望を満たすことになる。すなわち、ひとつは戦争をするということであり、もうひとつは史上初めての三選を果たした大統領として、仮の虚栄心を満たすことであろう。 ●ハロルド・R・スターク海軍大将(海軍作戦部長) 禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込む結果となるだろう。 ●アルバード・C・ウェデマイヤー陸軍大将 (中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長) 1941年7月26日、ルーズベルトは日本に対して経済的な制裁を加えたが、この制裁は、日中事変の勃発当初であったなら中国を助けたかもしれなかったが、1941年7月では、もはや中国にとってなんの利益にもならなかった。 いまや、こうした制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリスの勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用されていた。 ●ジョイス・C・レブラ(コロンビア大学歴史学部教授) 戦時中における日本の大東亜に対する基本的な構想や施策は、終戦後二十年以上もの間、政府や軍の資料室に埋もれ、あるいは生存している戦時中の指導者たちの記憶の内にだけ秘められていた。 東京で開かれた極東軍事裁判で打ち出されたひとつのイメージ、即ち日本は世界で最も強欲な軍国主義のひとつであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。 公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争のいくつかの局面を暗闇に閉ざしているのが現状である。 また日本の歴史家たちは、東南アジアにおいて日本が大東亜共栄圏に託した理念、目的、実現方法などを吟味することに、今日まで消極的であった。 ごく最近になってアメリカの学者は日本の戦争目的を再検討することに着手し、これまでの定説を修正し始めた。 再検討を志すアメリカの学者たちの意見によれば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版ではなく、それにもましてアジアにおける西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が存亡にかかわる権益を防衛するための戦いであったのである。 さらにアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来見做されていた大東亜共栄圏の理念もまた再検討されて然るべきである。 ●ジョージ・S・カナヘレ(ハワイ日本経済協議会事務局長) 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事のなかで、最も重要なもののひとつは、正規軍および准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことであろう。 この作業は、とくにジャワ、バリ、およびスマトラで推し進められた。 のちにインドネシア独立軍の将校や下士官となった者たちほとんどすべて、および何万という兵士たちは、この訓練を経て軍事技術を身につけ、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に独立戦争を闘ったのである。 もしこの訓練がなかったら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材がなかったら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかもしれない。 こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を権力の戸口まで導いた。民族主義者にとって、日本占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかもしれない。 ●ハミルトン・フィッシュ(共和党上院議員・ニューヨーク州知事) 第二次大戦がはじまるやいなや、ルーズベルトは、われわれを戦争にまきこむことを決めた。 の理由は、暗黙の約束も含めた対外コミットメントを守るためであり、悲観的な失業状態を回復するためである。 6年間の「ニューデール」の政策とその失敗後、アメリカではいまだ1300万人が失業状態にあった。 ま た、国際主義者として、彼は実際に戦争に介入したいという欲望をもっており、戦争を指導した大統領となることで権力欲を満たし、その名を歴史に止めるため であり、さらに、国際連合を結成し、それの実質上の支配者ないしは、スターリンとの共同支配者になろうとしていたからである。 《イギリス》 ●アーノルド・J・トインビー(歴史学者) 第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国の為に、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。 その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。 日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような「不敗の神」でないことを明らかに示した点である。 イギリス人もフランス人もアメリカ人も、ともかく我々はみな将棋倒しにバタバタやられてしまった。そして最後にアメリカ人だけが軍事上の栄誉を保ちえたのである。 他の3国は不面目な敗北を記録したことは、疑うべくもない。 ●イギリス:スリム中将(イギリス第14軍司令官) たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的ではなく、本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。 《その他》 ●シャルル・ドゴール(仏) シンガポール陥落は白人植民地主義の歴史に終焉をもたらした。 ●トーマス・マン(独) ドイツでは、万歳万歳と叫んでいるのに、日本の首相は、敵の大統領(ルーズベルト)の死を悼む弔電を送っていた。やはり日本はサムライの国だ。 ●中華民国顧問 O・ラティモア 日本が立派にやり遂げた事は、欧米の植民地帝国を完全に破壊した事である。 ●ピーター・F・ドラッカー(クレアモント大学社会科学部教授) 結局のところ、最後に勝ったのは日本だった。 本のとった道、つまり自らの主権のもとに、近代化すなわち西洋化をはかるという道が、結局西洋を打ち負かした。 日本は西洋を取り込むことによって、西洋の支配を免れた。 軍事的には、日本は第二次世界大戦において、歴史上もっとも決定的な敗北を喫した。 自ら植民地大国たらんとする政治的野望は達せられなかった。 しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。 日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜させることに成功した。 その結果西洋は、アジア、ついでアフリカからの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるを得なかった。 ●ナセル第二代エジプト大統領(第三次中東戦争惨敗後) アジアには日本がいた。アラブには日本がいない。 |