■戦争観ではなく、人生観を訴えられた小野田氏
 

             〜日本会議大阪 北摂支部主催の講演会が開催〜

去る26日(土)、日本会議大阪北摂支部が主催、大阪府神社庁会館において
小野田寛郎氏をお招きしての講演会が開催された。事前に新聞紙上で行事案
内の告知記事が掲載されたこと、終戦60周年の企画として相応しかったことも
あり、会員の方以外に多くの参加者があり、約400名に膨れ上がり、場内一杯で
次から次へと椅子を追加しなければならない状態となった。丁度、大阪國學院の
方では神職養成のスクーリングを受講しておられる生徒さんたち50名も授業の
一環で聞くこととなっていて、参加者に混じった羽織、袴姿も新鮮であった。

 講演前のデモビデオの後、小野田氏が『極限で私を支えたもの』と題して講演
された。

 氏は、冒頭に自分は一端、國神社に祀られたが、生き残って生還したこと
によって、いわば英霊の落第生となったが、だからこそ英霊の声を代弁できる
のは自分しかいないと思って話している覚悟を披瀝された。そして戦後30年間、
フィリピン・ルバング島のジャングルの中で、部下とともにいかに生き続けてきた
のか、生きるためにどのようなことをしてきたのかを詳細に紹介されたが、その
中で被服を繕う針をつくる時に、今まで一人前のような顔をして何でもできると
思っていたが、針一本作ること自体、大変な試行錯誤と努力が必要であることを
痛感したとのことであった。

 また人は決して一人で生きることはできず、集団生活の中で初めて生きること
ができること、生き続けるには目的が必要で、自分達に与えられた任務とは、
任務地での残置諜報活動でとにかく行き続けることが第一の任務であることを
自覚し、いつ終るかわからない役割であっても目的を明確にしていたこと、しかし、
ある時は部下から「隊長、先に死んだ方が楽だったですね」という言葉にも考えさ
せられたことなど、話されている内容は極限状態での人間の必死さであるのだが、
不思議にも小野田氏は、静かに淡々と話されておられた。

 氏のお話を聞いているうちに、英霊の方々にとっては、あの戦争をどう捉える
のかということよりも、まず祖国危急の折に立ち上がり、極限状態に置かれたとき
に人間は何をもって生きていけるのかという人生観、とりわけ可能性が少ない場合
であっても可能性がある限り、挑戦し続けることがどんなに大切であるのかを伝え
たいように思った。

 参加者にとっても改めて戦争とは何であるのか、空疎な言葉でなく、実際、戦っ
て来られた小野田さんが口にされた言葉に戦争の真実があることを改めて実感
できたように思う。

 北摂支部としての終戦60周年を意識しての企画は大成功に終ったように思う。