■「愛」とは、現代では「喪失した言葉」となってはいないか?


このところ広島、栃木での女児殺害事件、宇治市の学習塾で起きた塾講師
による小学6年生の殺害事件、そして耐震強度偽造マンション事件と毎日の
ように小学生の命が狙われたり、該当するマンションに住んでいる市民の生
命が脅かされる事件が続いている。本当に「毎日」という言葉がしっくりする
位だ。しかし子ども達の命が狙われ、一般市民の生活が不安に陥れ入れられ
るという被害者の境遇という点では共通している。
 しかも被害者は何の落ち度もない子どもであり、一般市民である。

 女児殺害では、加害者が「突然、自分の中に悪魔が入り込んできた」と言い
「女児がいなければ生きていけない」と受け答えをし、耐震強度偽造ではいか
にコストダウンをするか追求することが使命であったと関係者が言っており、
災いを起こした者は手前勝手な理由によって、相手がもしかしたら生命を落
とすかもしれないという恐れには何の痛みも感じていない。
 人の生命をかけがえのないものと思うのではなく、単に物と見なしている結果
であろう。

 この異常な世相の行き着く先は、まわりの人のことを思いやる利他愛、思い
やりが完全に喪失した無責任体系のギスギスした社会の到来であり、そのうち
人々はこの社会から放逐される可能性もある。自分たちが営々と作ってきた
社会から、自分達が追いやられてしまうという、笑うに笑えない事態になるので
ある。

 産経抄では、一連の女児殺害事件は戦後教育の結果、大人が育てた世代が
子ども達に襲いかかっているという意味のことを書かれていたが、更に言えば、
耐震強度偽造事件については、あたかもマンション建設に関わった人々の良心
によって支えられているルールが守られているという前提そのものが、実は骨
抜きとなって実体がなかったことを曝け出した。
 ここまでくると戦後の日本人の発展とは、実体のない劇を作り出してきたとも言え
るだろう。

 昨日、今年を象徴する漢字として清水寺の貫主が「愛」と大きな額に揮毫し
たが、その愛とは人々が手に入れたものではなく、人々が一連の事件を見聞き
する中で、いかに愛を手に入れることが難しいかを凍りついた心で実感した、
「喪失した言葉」であることがわかったからではないか。

日本人はかつてまわりのことを配慮した、慎み深い「日本人」であることをや
めようとするのかしないのかの岐路に立たされている気がしてならない。