丸山公紀氏の論文   
日本会議大阪事務局          

百人の会TOP
H18−3
2006/03/04  ■自分の理想を持っていない高校生 〜日米中韓 意識調査を考える〜

 2日の産経紙に下記の記事が掲載されていたが、わが国の高校生は、関心事
に携帯電話や携帯メール、流行、大衆文化には日米中韓の四カ国ではトップで
あるのに比して、勉強や成績を上げた生徒が最低の結果が出たという。
 またどんな生徒になりたいかとの問いかけには、未知のものに挑戦する、正義感
が強い、ルールをよく守る、リーダーシップが強いといった項目についても最低で
あったという。

 気にかかるのは日本の場合は「自分はどんな生徒になりたいか」という具体的な
生徒像を尋ねる質問には「特になし」が最高であったいう。

 現代の高校生が「ゆとり教育」の名の下に小中の義務教育の積み重ねの結果が
学力低下を招き、自分の頭でじっくりと思考することができなくなった実態が数値化
され、やっぱりそうであったのかと思ってしまう。

 しかし、「なりたい生徒像が特にない」が4カ国で最高となった結果は、いかに義務
教育から高等教育にかけて、自分の心にこの人のように生きてみたいとか、人のた
めに役立ちたいとか、自分の限界に挑戦をしてみたいとかいった、何かに感情移入し、
上昇志向したいという人生観に触れたことがないからではないか。

 「今、こうなりたい」という意欲がなければ、当然、具体的な生徒像をイメージする
ことは難しいだろう。ただし、「クラスのみんなに好かれる生徒」だけが、中国に次いで
2番目に高い結果が出ているが、これは意見の相違を好まない表面上の良好関係
だけを保ちたいという気持ちもあるのではないか。

 小生には、わが国の高校生全てが覇気がないとは思わないが、自分がどのような
生徒になりたいのかわからない、即ち自分の理想を持っていないことの方が余計に
今までの教育のつけの重さと将来の日本への不安を感じるのである。

 それがまた米国、中国、韓国という気になる国々との比較によるから尚更である。

[産経紙 3/2付け 引用]
日本の高校生、覇気なし 学習意欲・目的…日米中韓で調査

 財団法人「日本青少年研究所」が、日本と米国、中国、韓国の四カ国の高校生に
行った比較意識調査で、関心事に「勉強や成績」をあげた生徒は日本では二割台
と最低で、意欲にも乏しいことが分かった。多感なはずの高校時代を漫然と過ごす
現代の日本の高校生像が浮き彫りとなり、同研究所は「ゆとり教育との関係なども
分析したい」としている。
 日本の高校生で「勉強や成績」を今の関心事に挙げたのは四カ国中最低の23・4
%だった。また、「今の希望」に「成績が良くなる」を挙げたのは米中韓は七割だ
が、日本は三割台だった。

 日本の高校生の関心事を見ると、ファッションやショッピングなどの「流行」(4
0・2%)、「携帯電話や携帯メール」(50・3%)などで日本が他三カ国を上
回った。

 「自分はどんな生徒になりたいか」と具体的な生徒像をたずねる質問では、日本は
「級友みなに好かれる生徒」が48・4%と最も多かったが、日本はこうした具体的
な生徒像を挙げること自体が全体的に低調で「失敗を恐れず未知のものに挑戦する」
(39・6%)▽「正義感が強い」(25・7%)▽「決まりに従いルールをよく守
る」(15・4%)などの項目で他の三カ国を下回った。

 また「希望」に「友人関係」を挙げた割合は、米66・7%、中52・8%、韓44・3%に対し、日本は39・8%で最低だった。
   
   
2006/03/14  ■民主主義は決定システムの一つに過ぎない 
          〜岩国住民投票を違った視点で考える〜

 ご承知の通り、空母艦載機の横須賀基地から岩国基地への移駐を巡り、12日に
岩国市で条例に基づいて市長の発議で住民投票が行なわれたが、結果は予想
通り、圧倒的に移駐には反対という結果が出た。ただし移駐についての賛成派は、
投票のボイコットを呼びかけたこともあり、約4割近くの市民は棄権をしており、実際
には同市の半数近くの市民は地域振興のため、また国の安全保障上から賛成派の
実数が票には表れていない。もちろん、この結果が政府が既に決定している日米再
編の基本方針を直接、拘束するものではない。
 市のレベルで問題なのは、岩国市がまもなく近隣の市町と合併することが決まって
おり、この投票結果の有効期限が1週間という短期間であること、新市長が選出され
た後、改めて住民の信を問うか否かは新市長の判断に委ねられるようになることな
ど、今回の住民投票の意義が曖昧であったことである。

 政府は、安全保障の問題については国の専管事項として、基本方針のまま移駐を
平成20年以降に実行に移す姿勢であるが、十分に地元に理解が得られるように説得
をしていくという。本来、地方自治体で完結できる問題については住民投票という住民
の総意を十分に尊重すべきであろうが、日米という国家間との安全保障に関わる問題
について住民投票というシステムで決定できる次元の問題でないことは明らかであり、
その意味では住民の声を聞くという今回のやり方には大きな問題があるとの批判が出
ている。
 いずれにせよ、この問題をはじめ沖縄・普天間移設問題など国の優先課題と地方分
権の折り合いがどんなに難しいかを表わしている。

 しかし、この住民投票の波紋を違った視点で考えた場合、民主主義というシステム
が十全の決定過程でないことも明らかになった。本来であれば住民の総意を代弁す
るものとして首長、地方議会、議員がいるのであり、国政に関わるものとして国会、国
会議員が存在している。しかし岩国市のように議会議長をはじめ地方議員の半数以
上が移駐賛成派であるにもかかわらず、市長は住民の声に傾き、市民団体と一緒に
なって住民投票を実施に移した。この時点で、既に市議会の機能が停止している。さら
に住民投票では、移駐賛成か反対かの二者択一となったために、当然、住民にとって
みれば騒音などの環境破壊などの情報が浸透しているために反対票を投ずることが
分りきっていた。そしてその結果が本当に正しいかどうか別にして、市長が国に交渉
することとなる、さらに住民投票の結果の有効期間が限定されているとなると、一体、
どこに移駐問題についての決定権があるのかがわからなくなってしまう。当然、政府の
リーダーシップに待つしかないわけであるが、一連の流れには民主主義とはやはり問
題決定の一つの決定システムであって、決して普遍のものでないことがわかる。

 この問題は、安全保障上だけでなく、政治学的に考えても極めて大事な課題を提供
していると思えるのだ。
   
   
2006/03/14 ■政治権力を超越した国王の権威が国を救う
          〜タイで14年前の仲裁映像を一斉放送〜

 その国の王室の権威を考えるに当って、産経紙3/14付けでタクシン首相の辞
任を求める運動が続いているタイで、テレビ各局が12日夜に1992年にプミポン
国王が政府側と反政府側の対立を仲裁した際の映像を一斉に放送したという。

 91年にスチンダ陸軍司令官(当時)らによる軍事クーデターが発生し、翌年に
同司令官が首相に就任したが、これに対して今日、タクシン首相辞任要求をして
いる市民グループのチャムロン氏らが民主化要求運動を主導し、軍・警察と市民・
学生グループが激しく衝突したが、この後、プミポン国王はスチンダ、チャムロン両
氏を呼んで「問題解決のためには争わずに向き合うように」と勧告、その結果、
スチンダ首相は辞任し、総選挙が行なわれ、民主党のチュアン党首を首相とする
連立政権が発足した経緯がある。

 今回もタクシン首相とチャムロン氏率いる抗議運動が衝突する可能性がある中
で、国王自身が統帥権を持つ陸軍傘下のテレビ局が放送を各社に命じたという節
があるという。

 そういえば1992年の政府側と反政府側の仲裁に当って、国王の前にはスチンダ、
チャムロン両氏はタイの最も礼を尽くした儀礼としてひざまずき、国王の勧告を忠
実に聞き入れている様を写真で見たことがあるが、ここには政治権力がどんなに
衝突、対立しても超然としてそびえている国王の存在という権威があることを国内
だけでなく、全世界に知らしめた。
 またどんなに優れた政治指導者が出てもタイではプミポン国王のお写真が圧倒
的な人気があるということも聞いたことがあり、驚いたことがある。

 昨年の天長節の講師であった松井嘉和先生(大阪国際大学教授)は長年のタイ
滞在の経験から、タイの人々はどんなに政変があってもいつでも起こっているから
驚かない、国王がおられる限り、タイは崩壊することなく、守られているという趣旨
のことを話されていたが、まさに今回の一斉放送も両派の衝突の回避になるような
様相だ。

 タイは今でも国王によって守られているのだ。
 
   
2006/03/21 ■WBC優勝と小学校卒業式  〜愛国心の発露〜

 野球のWBCで日本が宿敵キューバを破り世界一になったことを
率直に喜びたい。WBC開会前までは、米国中心の組み合わせや
必ずしもその国のトップ選手を選抜したものでなかったこともあり、
盛り上がりに欠いていたものの、2次リーグの日韓戦、審判の誤診、
米国のまさかの準決勝前での敗退など、多くの話題を提供することに
より、日本でも急激に関心が高くなった。

 確かに2次リーグの日韓戦で1次リーグに続く2連敗を喫した時には、
韓国の国を背負っての気迫が勝っていたという、王監督のインタビューが
あった。しかし、このことが日本選手が日本を代表して来たという魂を目覚め
させ、準決勝での三度の日韓戦の勝利、決勝での勝利に結び付いたことは
誰が見ても否定できないものであった。

 他国との試合によって、自らの依って立つ基盤を自覚したという意味では
他動的なものではあったかもしれないが、日の丸の下、一つの目的のために
一致団結した日本選手の勇姿は誇らしかった。

 また韓国が決勝に進出した日本に対して、「日本は素晴らしいチームだ」と
賞賛したことも、昨今の対日対抗意識とは別次元でスポーツマンシップに則った
清々しさがあった。

 ただ、最初は日本選手には、「国を背負う」という意識が希薄だったように見受け
られたことが気にかかる。

 そこでオーバーラップしてしまうが、昨年2月、卒業生の少年が母校の小学校
3人を殺傷した事件が起きた寝屋川市立中央小学校の卒業式が20日に行われた
記事が新聞に出ていたことを取り上げざるを得ない。産経紙では、児童を守って
死亡した鴨崎先生の教え子らも悲しみを乗り越えて「これからも私たちを見守って
ください」とのメッセージを亡き恩師に捧げたという内容であった。

 事件についてどうこういうことはできないが、気になったのが卒業式の写真であっ
た。
まず講堂のステージを背にして、卒業生がひな壇で座り、対面形式で在校生と卒業生
の父兄が座るという典型的なフロアー形式。大事な演壇がその中間にあり、もちろん
日章旗は演壇の後ろになければ、ステージにもない。更にステージには不死鳥の絵が
掲げられている。(国歌斉唱が式次第に入っているかどうかは定かではない。)
 記事を読むと、卒業証書の授与では、卒業生一人一人が証書を受け取る前に、在校生
や保護者らに将来の夢を披露したという。ちなみに卒業生は94人。

 亡き恩師の思い出を大切にしたいという気持ちも大切であろう。しかし、この小学校
をはじめ、未だに国旗が舞台に掲げられることもなく、子ども達が主催したような送別会
のような形で卒業式が行われていることを白日の下に晒したのである。

 これでは学校教育の中、子ども達の旅立ちの節目で国旗、国歌の大切さを教える環境
でないことが容易に予測されるし、生命の大切さの他に、日本に生まれた誇りと感謝を
持つことの大切さを教育されていないことがわかるのである。

 その結果が、日本人が日本人として生きることの意味を考えないようにしてしまう
のである。

 WBC優勝の裏に実は眠ってしまって、愛国心を発露できない原因に、中央小学校を
はじめとする卒業式の風景がダブって見えてしまうのは、果たして私だけであろうか。
  
   
2006/03/24  ■人権侵害救済は相手を陥れる方便の言葉である
           〜鳥取県の人権条例停止と教諭による木村校長の解任要求〜

 産経紙夕刊3/24付けによると、鳥取県が先駆的に制定した人権救済条例
の施行を凍結する停止条例案が24日、県議会で全会一致で可決、成立した。

 人権救済条例は差別や虐待、中傷などの行為に対して罰則規定を設けて
いるが、「表現の自由が制限される恐れがある」といった批判が弁護士会から
も相次いでいた。また政府が画策していた人権擁護法案が国会に提出される
前の条例の制定であっただけに、広く世間に知られるようになった。
 この種の人権擁護法案については、常に憲法上の疑義がつきまとい、「思想・
良心の自由」「信教の自由」「言論・報道・表現の自由」に反する可能性があり、
法律そのものがなじまない性格がある。

 しかし問題である条例の施行を停止する条例が成立する運びになるとはよも
や思わなかった。このような論法を誰が考えたのであろうか。このようなことが
可能であれば、昨今、問題となっている全国の自治体でのジェンダーフリー思想
を背景とした男女共同参画条例の施行を止めるために停止条例の成立も可能だ
ということとなる。

 その意味では鳥取県、鳥取県議会の良識をひとまず高く評価したい。

 そんな嬉しいニュースを聞いたと思いきや、同じ24日の産経紙朝刊では、府立
高津高校の教諭10人が、民間出身の木村校長が教職員に対する恫喝や人事権
乱用などのモラル・ハラスメント(セクシャル・ハラスメントではない、また最近にな
ってはじめてこのような言葉があることを聞いた)を続けているとして、大阪弁護士
会に人権侵害救済を申し立てたという。その要求は府教委に対して、校長の解任
と校内人事の改善、再発防止策をとるよう警告することであるという。
 この記事を正確に読んでみると、教職員に対する恫喝とは、教職員に対する注
意や指導などの監督、その結果、言うことをきかなかった教職員に対する対応を
問題にしたものであり、そもそも校長には実質的な人事権がないわけであるから、
どうみてもこの申し立ては一部教諭の校長に対するいやがらせのような印象を受
ける。
 弁護士会がどのような判断を下そうと何の法的拘束力を持つことはないが、木村
校長に対する社会的制裁がつきまとうこととなる。

 木村校長は民間からの初の校長として就任し、学校運営改革から教育改革を
旗印に頑張っておられる方だけに、このような言われなき誹謗中傷こそ問題である。
木村校長は、記者会見で自分に非がないことを表明することになっているが、是非、
激励しなければなるまい。ここにも人権擁護法案の類に見る、自分を正当化し、
相手を陥れる悪魔性が潜んでいる。

 両極端の事例であるが、この問題の異常さを考える上で比較考察の絶好の材料
である。
   
   
2006/03/25 ■学校長を守るのが府教委の責務ではないのか 〜木村校長辞職の背景〜

 やはり心配したことが起きてしまった。
 産経紙3/25付けによると、府立高津高校の木村校長が、昨日の記者
会見で、「校長が職場環境を悪化させている」として、教員10人が大阪弁護士
会に人権救済を申し立てた問題で、今月末に辞職することを明らかにしたと
いう。

 木村校長は、民間人校長として、府教委が関西経済同友会に適任者の推薦
を依頼して採用を決めた府下2人のうちの一人で、住友金属工業和歌山製鉄所
副所長などを経て、14年4月に高津高校の校長に就任。以来、企業の経営感覚
を振るに発揮して、大学進学実績が伸び悩んでいた、かつての進学校の復活を
目指して、難関大学への合格者数の数値目標を掲げ、進学塾と連携して土曜
授業を行うなど、教育改革を強力に推進し、また講師として様々な場所で講演を
されてきた、文字通り、公立高校の教育改革の旗手であった。

 記事によれば、人権救済の申し立てが行われたこと自体、「寝耳に水」であると
いい、「学校現場に混乱を招かないためには、私が身を引くことがベスト」、また
「(民間と違って)意思決定のスピードが極めて遅い。私が求めるスピードとは乖離
があった」として教員社会の特殊性を指摘された。
 また今回の申し立てについては「多くの事実誤認や誤解などがあり、断固反論
する」と強い口調で述べ、府教委に対して弁明の機会を求めたという。
 府教委はどう対応するのか、明確に答えねばなるまい。
 
 いわば、今回の教員との軋轢(これは訴えた教員が言っているにすぎないが)の
事実関係をはっきりさせることなく、自分を高津高校の校長の席に据えた府教委
が校長を守ろうとしなかったことに対する、強烈な抗議でもあった。 

 公立高校であれば、学校運営の方針は学校長が最終的に責任を持つことは法
令上、当然であるにもかかわらず、訴えた教員らは運営方針も職員会議で諮るべ
きだとして、木村校長のやり方はアンフィアであるとして、「我慢の限界。外部の力
を頼るしかなかった」とした。

 これでは民間出身の校長が教育改革に燃え、学校に乗り込んできても、そもそも
教員が中心(もっといえば、校長の意向を無視し、教職員組合の恣意で動く)の間違
った学校運営が続く限り、木村校長と同様の事態が続くであろう。

 それにしても、木村校長を敢然と守らなければならない府教委はどのような態度
を示したか。私学関係者から自らも接待を受けたことを後で明らかにした竹内教育長
は、「人権救済申し立てがなれたことは大変残念だが、本人の(辞職)意思が固くや

を得ず受け入れることにした」と、全く他人事のような言を吐いている。これでは木村
校長が申し立てされたことは非があるかのように認め、さらに事実関係を明らかに
しないまま、辞職願いを受理したという、教員の言い訳のみを呑んだと受け取られても
仕方がない。

 府教委は、まず教員の立場に立つ前に、学校運営責任者の学校長の立場に立た
ずして、教育改革などできるはずはない。これでは大阪の教育はよくはならない。
このことは是非、府議会で問題にしてもらわねばならない。

 この事件ほど、現行教育基本法第10条の「教育は不当なる支配に服しない」という
文言が、不当に介入するのが「国」であるとする教職員組合の間違った解釈が一人
歩きし、一体、教育権は国や自治体が持つのか、教員が持つのかが判然とせず、
現場では教員が持つように解釈されている弊害を如実に表わしているではなかろうか。
 
 教育基本法改正を急がねばならない所以である。
   
   
2006/03/29   ■言語は思考そのもの  〜小学校での英語必修化の愚〜

 昨28日の産経紙によると中央教育審議会の外国語専門部会は小学校で
全国一律に英語を実施するよう事実上の必修化を求める審議報告をまとめ
たという。
 審議報告では、高学年(5、6年)で「年間35単位時間(平均週1回)程度で
共通の教育内容を設定するよう検討するよう検討する必要がある」とし、最終
決定後、文科省では早ければ来年度にも学習指導要領の改定に臨むという。
 また文科省の全国調査によれば、公立小学校全体の93.6%が現在、「総合
学習」の時間を利用している英語活動を取り入れているのである。

 しかし、この報告は果たして多くの親御さんが賛成するのか大いに疑問で
ある。小学校でも道徳が学習指導要領で年間35時間の授業が定まっているに
もかかわらず、文部省が実施した「道徳教育推進状況調査」によれば標準時
間数を満たしていないクラスが、全国の学校の4割を占めているにもかかわら
ず、逆に英語の時間を「領域」または「総合学習」として年間35時間設定する
というのだ。これはもう主客転倒の考えである。

 多くの識者、世論が指摘するように小学生は国語を通じて、情緒を培い、
基本的な思考能力を高めることが最も肝要であるにもかかわらず、人間形成
がなされる前から英語をことさら必修化する努力をする必要性はなかろう。

 国際コミュニケーションの手段としては確かに英語の上達は欠かせないであ
ろうが、世界の中の日本人としての自覚を持たない会話が果たして相手に尊敬
されることになるのだろうか、極論すれば英語そのものに価値があるというという
よりも、情報交換の手段であると知らなければなるまい。

 最近読んだ藤原正彦氏著『国家の品格』では小学生への英語教育を警鐘乱
打されている。

 初等教育で、英語についやす時間はありません。とにかく国語です。一生
懸命本を読ませ、日本の歴史や伝統文化を教え込む。活字文化を復活させ、
読書文化を復活させる。それにより内容を作る。遠回りでも、これが国際人を
つくるための最もよい方法です。
 (中 略)
 国民に受けるのは、「国際化だから英語」といった、いちばん分り易いワンス
テップの論理だけです。ある大新聞の世論調査によると、小学校で英語を教え
ることを86%の国民が支持しているといいます。こうやって国民が国を滅ぼし
ていくのです。
 中央教育審議会も文部科学省も教育学者も、いい加減に考えているわけで
はない。一生懸命、何度も何度も討議して、誠心誠意考え抜き、その末に小
学校での英語などという馬鹿げた結論にたどり着いたのです。(引用終わり)

 藤原氏によれば、中教審も文科省も国際人になるためにはどうしたらよい
のかを考えるに当って、小学生から英語を習得するという愚にも似つかない
結論を出してしまう、論理の限界を指摘されているのである。

 批判を承知で言うが、情緒や物の見方が不十分な小学生に英語を教える
ことは百害あって一利もないのではなかろうか。もう一度、言語が思考そのもの
であるという原点から出発することだ。一体、外国語専門部会は何を考えてい
るのか。気がついてみたら、国語を学ぶなくなったことが、わが国を滅ぼす
原因になったと歴史に総括されなければいいのだが・・・
  
   
2006/03/31 ■文科省自体が“南京大虐殺”説の立場を体質化している
          〜来年度使用高校教科書の検定結果出る〜

 産経紙3/30付けによると、来年度から使用の高校教科書の検定結果が
発表されたとのことである。
 それぞれの教科で生徒の学力の度合いによって段階別の内容の教科書が
増えたということであったが、英語では、ある教科書ではアルファベットから
復習するものもあり、学力低下がそのまま反映されているといえ、驚いてしま
った。しかし、学校現場の先生は、段階別の教科書の登場は一様に歓迎ムード
という。少なくとも子ども達の学力の二極化の状況ではやむ得ない対応である
かも知れない。

 また「竹島」「尖閣列島」「北方領土」についての記述も、「わが国固有の領土」
という文言を記述していること、わが国の立場を確認する上では評価できよう。
 「ジェンダーフリー」の文言が今回の検定でなくなったことはよかったが、子育て
についての記述、「3歳児神話」について、家庭教科書は「まったく根拠のないこと
である」などと否定している記述など、まだまだフェミニズム思想は払拭されていな
いことは暗澹たる思いがする。

 それにしても、日本史、世界史の近現代史、戦争の記述はあまり変わってい
ない印象は否めない。
 とくに南京事件の犠牲者数をめぐる日本国内の学説は「20万人以上」が最有力
とする記述が今回検定を合格した教科書19種類のうち、4種類が中国政府の政治
的プロパガンダである「30万人」や「20万人」という膨大な数字を記述しているとい
う。
問題なのは文科省が根拠として示した、洞富雄・元早大教授、藤原彰・一橋大名誉
教授、笠原十九司・都留文科大教授、吉田裕・一橋大教授、江口圭一・愛知大学
名誉教授の5人の、いわゆる“大虐殺派”学者の著書は古い資料で、産経新聞が
調査をした文献では笠原、吉田、江口の3氏は、この10年の間に10万から20万人
に下方修正をしており、もともと洞、藤原両氏も戦死者を含めて20万人以上として
おり、不法殺害を20万人以上とする歴史学者はいないという。

 文科省は「有力」といわれる学者の実際の主張を鑑みることなく、依然として古い
資料を根拠にして「日本や東アジアの近現代史を専門とする学者の中で、20万人
以上説をとる人が相当多い」という見解を示している。文科省は諸説を配慮する
ようにとの検定意見をつけた、ある教科書では「さまざまな説があるが、そのなか
では20万人以上とする説が有力」と書き換えて合格した例もあり、これでは諸説が
存在しているという公平な記述訂正を指導していない、そしりを受けても仕方があ
るまい。

 これはとりもなおさず文科省自体が“南京大虐殺”説の立場に立っているといっ
て過言ではない。もはや文科省がこの説を体質化していると言ってもいい。

 さらに「慰安婦」の記述についても中学校の歴史教科書では記述がなくなったとい
うことであるが、高校教科書ではまだまだ顔を背けたくなる記述が合格している。
 「性の相手をさせられた」(三省堂・現代社会)、「性の欲求の相手」(山川出版
社・倫理)、「日本軍将校・兵士は、彼女たちを辱め」(第一学習社・政治経済)な
どなど、これが教科書の記述として相応しいかどうか大変疑問が残る形で合格し
ている。どんなに中学校の段階で「慰安婦」の文言を目にしなくとも、高校の段階で

赤裸々にこのような文言を目にすることになってしまうのである。

 その意味では教科書の偏向した記述を即刻、変えることは今の法体系に縛られ
ている文科省では難しいことを実感する。何回も繰り返すが、これは現行教育基本
法の下では無理なのである。
  
   
2006/03/31 ■全国学力テスト結果の公表を市区町村や学校でもお願いしたい

 産経紙夕刊3/30付けによると、平成19年度に行なわれる全国学力テストのあり
方を検討していた文科省の専門家会議は、テスト結果の個別公表を都道府県単位に限
定する中間報告をまとめ、文科省に提出したという。

 中間報告ではテストは国公立すべての学校の小学6年と中学3年の全児童・生徒を
対象に、国語と算数(数学)の2教科で実施、20年度以降も毎年行なう。都道府県別
の他では、「政令指定都市や東京23区、中核市、その他の市、町村」などと、自治体
規模に応じた集約結果を公表させるにとどめた。市区町村レベルを公表しない理由に
ついて「序列化や過度な競争につながるおそれがある」としている。

 しかし、そもそも全国共通テストのねらいは学校現場で「学習指導要領」に基づい
た教育が実施されているかどうかの調査であり、学校ごとにその結果を公開しなけれ
ば、子どもを通わせている親にとって、学校が頑張っているのか子どもが頑張ってい
るのか判断することもできない。

 密室の授業による弊害ではなく、教育荒廃の解決のためには教育委員会が定期的に
各学校へ訪問調査を行い、教育内容及び学校運営の実態を徹底公開することが迫られ
ていることを考えれば、文科省は市区町村や学校側ごとの公表が必要であろう。是
非、文科省は全国学力テストの効果を実のあるものにするために、再考を促したい。