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テル爺の活動報告
(日本会議岡山幹事 西川晃男)


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ささやかな戦争体験談    平成22-4-1
 
   
私は一年半の軍隊体験がある。 復員してみると実家は幸いにして戦災に遭っていなかった。 それで、戦災で丸焼けになった神戸の複数の戦友の家の再建の手伝いに、昭和22〜24年の間何度か神戸へ通った。
 戦友は「時々変な奴等が集団でやって来るから、彼等と決して目を合わせるな」と言った。
何日目かに、腰に付けた小太鼓を打ち鳴らしながらやって来た三十人ばかりの彼等は、頭だった者は前記のように飛行服を身につけ鉄パイプを持っていて、子分共は不揃いな軍帽を被り肩バンドつきの帯剣を着けて、拳銃らしいモノやごんぼ剣を下げたりして居た。 そして「我々は戦勝国民タ!文句カある奴はテテこい!」と喚いて周囲を威嚇しながらやって来た。
 小太鼓の音が遠くから聞こえたし戦友から注意を受けていたので、逸る心を抑えながら建てた柱を支えて壁のトタンの隙間から見送った。「コン畜生!戦争に負けたからと言って、奴等からこんな恥ずかしい目に遭わされねばならないとは・・・」と悲憤したのを思い出す。
 兵庫区と林田区の裏通りだったせいなのか、二度と出会わなかったのが幸いだったが、買い出しに闇市へ行って「スイトン(色の茶色い小麦粉の団子が入った雑炊のようなモノ)屋」へ入ると「生田警察署が奴等に襲撃されたらしい・・・」とか「蒸しパンを売っていたら朝鮮人に台をひっくり返されて蒸しパンを奪われた人が居る」などの話が飛び交っていた。

 神戸へ通っていたある時、三宮駅のホームで電車(当時鉄道省の電車を省線電車と言っていた)を待っていたら、上り線に当時占領軍専用にされていた一等車(車体に白い帯が描いてあった)が信号待ちの故か停車した。 「どうせアメ公がふんぞり返っているのだろう…」と思いながら目の前の車両を見ると人影がない。 不審に思って近寄って中を見ると、白い麻のカバーを掛けた座席の上から通路まで、麻袋や木箱に入って縄掛けされた一見して闇物資と思われる貨物が満載されている。 そして扉を開けた前後のデッキには「戦勝国民」と大書した腕章を着けた男が二〜三人ずつ、我々を見下し勝ち誇ったような顔でニヤニヤしていた。 「虎の威を借る狐」よろしく、RTO(占領軍の鉄道輸送司令部)に渡りをつけて、警察が手をつけられない占領軍専用列車で、白昼堂々と闇物資を大阪向けに運んでいたのだろう。 すぐに発車したが、闇物資を積んでいたのは2両で莫大な量だったと思われた。
 そして最後尾の展望車には占領軍の家族だろう若い女や子供達が乗っていて、我々を見下ろし蔑んだ目で見ていたのが印象に残った。 今から思えば、彼等の国での列車はプラットホームが無いか在っても低いので、車内の彼等・彼女等と目線が大体同じ高さなので気に食わなかったのかも知れない。

 時は遷って昭和27年春の、白黒テレビの試験放送が始まって間もない頃。 焼け残った我が家に当時珍しかったフィリップ社の14インチテレビが導入された。 プロレスの力道山が大活躍していた時だったので、夕食後の我が家の座敷には近所の老若男女が集まって立錐の余地が無い程の賑わいで「よし行け!」「なんでやねん・・・」等の声援が飛び交っていた。   
その時はるか遠くで打つ太鼓の音が聞こえた。 その時の皆の様子が今に忘れられない。
“ギョッ”としたその場の雰囲気・・・それは「とぅとぅこの近所にも朝鮮人が押し寄せてきたのか」という緊張の瞬間で、中には腰を浮かせて逃げだそうとする者さえ居た。
しかしその太鼓の調子から、戦争に因ってしばらく中断していた春祭りを再興しようとする青年団が、稽古のために少し離れた神社で打っている太鼓の音だと判った。 その時のヤレヤレといった雰囲気との落差が忘れられない。 事ほど左様に、朝鮮人の暴虐行為が巷の人々の間に知れ渡っていたと言う事なのだが、今では全て忘れ去られてしまっている。  以上