徳永信一氏の活動報告
( 弁  護  士 )

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H16年3月22日 作戦成功!「大阪アジア靖国訴訟」の闘いを振り返る

1 大阪地裁は2月27日、我々靖国応援団が「靖国神社を被告席から救おう」との掛け声のもと、我々、靖国応援団が2年余りかけて闘ってきた訴訟の判決を下した。 原告たちが「大阪アジア靖国訴訟」と呼ぶその訴訟は、小泉首相による靖国神社参拝が憲法の規定する政教分離原則に違反する−として、戦没者遺族ら631人が国や小泉首相、靖国神社を相手取り、違憲確認や参拝の差止め、更には参拝によって蒙った精神的苦痛に対する損害賠償などをもとめるものであったが、下された判決の内容は、その請求のことごとくを退けるものであり、原告側の全面敗訴であった。
                  
2 2年前の平成14年2月22日、「靖国神社は軍国主義の象徴」だの「参拝は侵略戦争の賛美」だのといった原告側の政治宣伝の場と化し、被告とされた靖国神社が一方的に貶められた第1回期日の法廷の様子に愕然とした我々は、憤懣のやり場のない遺族の方々とともに、このままこの裁判を放置しておくわけにはいかないと考え、靖国応援団を結成した。そもそも原告らの訴えは、静かに故人となった肉親を追慕、回顧するといった内容の宗教的人格権や民族的人格権、宗教的自己決定権なる主観的な権利を軸にして、小泉首相の靖国参拝によってこれらの権利が侵害されたというものである。それが、もっともらしい法的装いを凝らした屁理屈にすぎないものであることは、法律家ならずとも良識に照らして明らかだろう。もともと無理筋の訴訟なのである。小泉首相の靖国参拝を非難し阻止するための政治的手段として裁判を利用し、その話題性を得るためにインターネットで原告を募集し、在韓の韓国人遺族119名を原告に配し、被告に靖国神社を加えたのである。靖国神社に対する請求は小泉純一郎が「内閣総理大臣として靖国神社に参拝するのを受入れてはならない」というものであり、靖国神社の宗教的活動も認めない目茶苦茶である。政治的パフォーマンスなら、それらしく堂々と公共の場、あるいは政治的舞台で行えばよい。応訴を拒否できないことをいいことに、靖国神社を法廷に引っ張りだし、一方的な誹謗を浴びせて貶めるとは何事か!    
                  
3 我々は、この訴訟の中軸である宗教的人格権といった主観的権利を逆手に取り、原告らにそうした権利があるのであれば、首相による靖国参拝は当然の義務であると考える多くの戦没者遺族にも同様の権利があり、万一原告らが勝訴した場合、多くの遺族は言葉に表せない程の精神的苦痛を感じることになるという論理で、この訴訟に補助参加するという作戦を立てた。これによって大多数の戦没者遺族や心ある国民の声なき声を法廷に届けることができる。そして補助参加が却下されれば、原告らによる訴訟もまた理由がないものとなり、この裁判自体を早期に終結させることになる。我々はこれをパトリオット作戦と命名した。   
 狙いは的中した。      
靖国応援団からは岩井益子さん、津村忠臣さん、久保憲一さんの3名が法廷に立ち、それぞれの立場から靖国神社と英霊に対する崇敬の思いを率直に述べられ、これを直接裁判官に伝えることができた。そして6次にわたって行った補助参加は、参加の理由として掲げた宗教的人格権等は法的な権利ないし利益ではないなどとして却下され続けたが、2月27日の判決は全く同じ理由で原告らの損害賠償請求を棄却したのだ。放たれたパトリオットミサイルは見事に「大阪アジア靖国訴訟」を打ち落とした。判決が原告らの請求をことごとく退けたのを聞いたとき、2年余りの苦労が報われ、胸のつかえがスッと下りるのを感じた。      
                  
4 今回の判決では主文だけでなく、傍論も注目されていた。
中曽根首相の靖国参拝の当否が争われた過去の訴訟では、公式参拝は「違憲の疑いがある」との見解が傍論で示されたため、敗訴したはずの原告が実質勝訴だと大きく宣伝したことがあったためである。      
幸いにも、今回は「違憲」を云々する奇妙な傍論は付されなかったが、小泉首相の靖国参拝は「私的参拝」であるという国の主張に対しては、内閣総理大臣の肩書で行われた「公式参拝」であるとの判示がなされた。原告らは報告集会等で、この部分をもって実質勝訴であると宣伝したようであるが、これはどうみても苦し紛れの負け惜しみというべきであろう。  
ところで、今回の判決が国の「私的参拝」論を排したことは、靖国応援団としても高く評価している。国は「私的参拝」であることを理由に、政教分離については全く論じなかったのであるが、どうみても姑息である。「私的参拝論」は英霊に対する儀礼はどうあるべきかという議論をいたずらに矮小化してしまう弊害がある。純然たる私人としての信仰に基づく参拝に過ぎないのであれば、遺族も英霊も、これを義としないであろう。国のために命を捧げた英霊に対して果たされるべき儀礼は、あくまでも公的なものでなくてはならない。今後も総理大臣小泉純一郎として参拝することを明言する以上、国も小泉首相も正々堂々と政教分離に関する合憲解釈を展開すべきなのである。      
 
5 「大阪アジア靖国訴訟」の原告らが、小泉首相の靖国参拝を違憲だと主張する根拠として引き出してくるのは、平成9年の愛媛県玉串料訴訟最高裁判決であるが、これは愛媛県による靖国神社に対する玉串料の拠出を違憲だとしたものであり、首相の靖国神社公式参拝については、これを合憲とした昭和60年の政府見解と、それを踏襲してきた歴代内閣の見解があるだけである。そもそも愛媛玉串料訴訟最高裁判決は、それが依拠した目的効果基準に照らして矛盾していることが指摘されている。国事に命を捧げた者を慰霊・顕彰するのは万国共通の儀礼であることからすれば、日本の習俗と文化的伝統に習った慰霊のあり方が認められて当然である。首相の靖国参拝も「戦没者の慰霊」と「遺族の慰謝」という世俗的行いを目的とするものであり、国民の多数が靖国神社をもって戦没者追悼の中心施設であると認識していることに照らせば、国民の信仰の自由の保障を目的とする政教分離原則に違反するものではないことは明らかであろう。

6  靖国応援団として闘う中で痛感したことは、靖国神社に息づく歴史や伝統に対し、軍国主義や国家神道というステレオタイプなレッテルを貼ることに執心する原告たちのイデオロギッシュで原理主義的な独善であった。原告に名を連ねたのは反天皇制を掲げるキリスト教諸派、神社神道を敵視する浄土真宗左派、宗教を否定する積極的無神論者、反日的な在韓・在日韓国人・・・。彼らの主張が多数の宗教・宗派を共存させてきた日本の伝統に合致するとは思えないし、多様な信教の自由を保障するものとも思えない。政教分離が信教の自由の保障を目的とするものであるならば、彼らの独善的偏狭さは、信教の自由に反するように思える。多神教的なアミニズムと神仏習合にみる多重信仰、言挙げせず教義にこだわらない寛容さを特徴とする日本の宗教文化は、民族と宗教の衝突が激化する21世紀にあっては、もっと見直される必要があるはずだ。

7 「大阪アジア靖国訴訟」は、全国6ヶ所の地方裁判所に提起された一連の訴訟の一つであるが、これらの世話役を自ら任じ、訴訟全体の中心的役割を担っていたことからすれば他の訴訟に及ぼす影響は大きいと思われる。実際、3月16日の愛媛靖国訴訟でも原告側を全面敗訴とする判決が下った。4月には福岡靖国訴訟の判決が、5月には大阪台湾人靖国訴訟判決が相次いで出されるが、おそらく同様の結論になると思われる。年内には残る千葉、東京、沖縄の訴訟にも同様の判決が下るはずである。
今回の判決により原告側は少なからず徒労感を感じており、その意気は消沈したと思われる。しかし、約半数の原告が控訴期限ぎりぎりで大阪高裁に控訴している。これで終わったわけではないのである。我ら靖国応援団も勝って兜の緒を締め、新たなる闘いに備えなければならない。                                                                 
                                      以上