徳永信一氏の活動報告
( 弁  護  士 )

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靖国合祀取消訴訟第3
回(平成19年4月10日)報告
  

               冒涜の虜囚 〜 原告陳述にみる自閉と倒錯 〜

 
それにしてもおかしな主張のオンパレードでした。/4月10日の第3回弁論期日では、國神社の霊璽簿の氏名抹消を求める裁判の原告の方々の心の叫びなるものが開陳されましたが、そこで展開された自閉的な唯我独尊に胸糞の悪くなる思いを禁じえませんでした。/キリスト教徒であるN氏は、2年半前に父親が國神社に祀られていることを知ったといいます。神社に行き「どんな権利をもって合祀するのか」を問われたそうですが、明治天皇の安国の誓詞と神社規則を示した國神社の応答に対し、「《安国の誓詞》をもって合祀を正当化できるのは明治天皇だけだ」と毒づき、《神社規則》は「國神社の規則であって私たちにはなんの関係もない、これが法治国家といえるのでしょうか」と揶揄しました。/このN氏の主張のなかに、この裁判の矛盾と捻転が集約されています。/神社がN氏の父親を祀る権利は、憲法が保障している信教の自由に基づくものです。「法治国家」なる概念を持ち出し、國神社の英霊祭祀を崇敬する多くの日本人・遺族を取り締まれといわんばかりの暴論は、他者の信教の自由に全く配慮していないことを白日の下に晒す暴挙でした。何よりもそのことに当の本人が全く気づいていないらしいということが、この裁判が具有する悲喜劇性を象徴していました。

この裁判の原告たちは國神社を軍国主義の中心施設であると誹謗していますが、父親を勝手に神として祀るなというN氏の主張こそが、彼らが憎んでいるはずの排他的宗教ファシズムに通じるものではないでしょうか。例えば、ユダヤ教の神もキリスト教の神もイスラム教の神も同じく旧約聖書に書かれた唯一神です。それぞれがそれぞれの祭祀と信仰を尊重するのでなければ、宗教的寛容に基づく信仰の自由の多元的共存はありえません。/國神社の崇敬遺族らは、みな故郷の墓に故人を祀り、仏式あるいはキリスト教式の法要・礼拝を営んでいます。國神社は、そのことに一切干渉しませんし、参拝を強要することもありません。参拝者の宗旨や方式を問うこともありません。2年半前まで國神社に父親が祀られていることを知らなかったというN氏もまた父親の墓をもっているはずです。

信仰の重畳的併存を許容する日本の宗教的伝統は、宗教的寛容と信仰の多元的共存を可能にする一つの道筋です。神道的な自然崇拝と先祖供養を励行し、結婚式はプロテスタントの牧師のもとで行い、葬式は仏教僧侶を招いて行うという多くの日本人の暮らしのなかに生きている文化的伝統のことです。/憲法20条が規定する「政教分離」は、この裁判の大きな主題ですが、多元的宗教の共存と宗教的寛容による信仰の自由の確保こそが「政教分離」本来の目的です。自己の礼拝対象に対する他者の信仰的意味づけすら否定するのであれば、異なる宗教の自由の共存的保障は不可能になります。そのことこそが、山口自衛官合祀取消事件の最高裁判決において確認された尊い教訓でした。/そして國神社の有り様は、まさに日本的な文化的伝統に則ったものであり、本来の政教分離の趣旨を体現しているものなのだということを、N氏の陳述は改めて気づかせてくれたのでした。 

地裁による東京都の国旗掲揚・国歌斉唱通達に対する違憲判決に関する問い合わせが、複数わたしに寄せられてます。この事件を担当した弁護士(教師側)とも議論し、間違いのないと思われる肝心なところを記しておきます。

まず、当該判決は、旭川学テ最高裁判決を踏襲しています。

この旭川学テ判決は、よく日教組や共産党が援用しているので反保守判決と誤解している方も少なくないのですが、

1)教育の「不当な支配」については、組合も含めた社会的勢力による「不当な支配」を排除すべきものとし、行政も不当支配の主体となりうるとしたものです。今回の改正で、法に基づく教育行政による統制は「不当な支配」と解釈することができなくなり、組合による「不当支配」に教育基本法も反対するものであることが明確になりました。上記東京地裁判決は、東京都の通達が違憲であり「不当な支配」だとしましたが、通達が「法に基づく行政」の範疇であるとすれば、教育基本法違反の指摘はすでに死文化しています。

2)旭川学テとの関係でもっと重要なのは、それが学習指導要領の規範的効力を認めている点です。ただし、学習指導要領の規範性は、大綱的性格に限定されていると解されることから、学習指導要領全てではなく、その大綱的性格を有するものに限定されるのだという解釈が可能になり、日教組や共産党は、この解釈を運動方針として採用し、最高裁判決を味方につける形で大衆運動を展開しました。

ところで、当該東京地裁判決は、旭川学テ判決を踏襲し、日の丸、君が代を尊重するという学習指導要領の法的規範性は肯定し、これについては合憲判断をしているということは見逃せない点であり、むしろ、君が代推進派にとって歓迎すべき判決ともいえます。日教組サイドの学習会等で、この判決に言及されたときには、この点は突っ込みどころです。

3)では、なぜ、違憲判断がなされたかというと、それは東京都教育委員会の通知の特異性にあります。君が代はピアノ伴奏が必要で、卒業証書の渡しかたの向き、日の丸の場所等の細々とした細則を規定し、そのとおり遵守しなければ業務命令違反となるとした踏み絵的性格を、良心の自由に反して違憲だとしたのです。違憲無効の対象は教育委員会の漫画的な通達であり、国旗・国歌の儀式の尊重をいう学習指導要項ではありません。  

ですから、まず、そうした重箱の隅をつつくような一見漫画的な通達についての判断なのであり、こうした通達のない東京都以外の教育現場には、そのまま妥当しないということは覚えておいて欲しいものです(もちろん、具体的な作法や式次第をつくる際に、これでは違憲判断がなされた東京都の例と同じだ!という攻撃は覚悟すべきですが、日の丸・君が代斉唱の儀式自体については合憲と判断し、むしろ尊重すべきだとしていることを反撃してください。この点があるために、全国の反国旗・国歌運動に、拡大援用することは無理だと弁護士レベルでは理解しているようです)。

そして最も重要なことは、なぜあのような漫画的といってもよい東京都通達が発令されたかということですが、それは教職員組合の反国旗・国歌運動と、その学校現場における職員会議での決定という因習を利用した、執拗なサボタージュ闘争におけるそれこそ漫画的な反対闘争の結果なのだということ、いわば狐と狸の知恵比べ、いたちごっこの果てなのだということを理解し、東京都教育委員会というより保守派を小馬鹿にして嘲笑する雰囲気に冷水を浴びせることです。国旗掲揚と君が代斉唱の式次第を決めるときに、生徒を起立させるかどうか、テープかピアノ伴奏か、国旗を掲げる場所、中央、右袖、左袖、国旗の大きさ・・・・そういったこと全てを職員会議での議論を通じて決定しなければならないとし、時間切れに持ち込むという牛歩戦術です。ほかにも現場には面白い話しが転がっていることでしょう。

現場の校長たちが、国旗・国歌儀式の励行を指示する教育委員会に対し、こうした牛歩戦術に対抗するために教育委員会が責任をもって統一的で疑義の余地のない牛歩戦術の余地のない重箱の隅をつつくような詳細な式次第を通達して実施を応援して欲しいと望んだのが、この漫画的な通達の原因であり、正当性の根拠でした(控訴審では、東京都から、そうした点が子細に主張されるでしょう。) 

新聞はこうした日教組や反日教師による組織的妨害工作の実情を報道しないまま、漫画的な通達の異常さを非難し、違憲とした判決を称賛していますが、市民集会等や職員会議でこのことが議論されるときには、必ず、その原因となった教職員組合による組織的妨害工作のことを指摘して反論すべきです。東京都での苦労は、土屋都議や古賀都議に講演してもらって勉強する機会があればと思っています。  

また、当該判決は、東京地裁という一審段階での判決ですが、同種事件において東京、大阪高裁は、君が代ピアノ伴奏の業務命令違反処分を含め、合憲合法判断を出しており、前記地裁判決は、これを揺るがすものではないこと、そもそも憲法判断については、憲法は、最高裁にのみ解釈権能を与えており(憲法81条)、地裁、高裁段階の憲法解釈判断には、当該裁判官の意見表明であることを超える法的意味はないことも押さえておいて欲しいものです。いずれにしても、この判決は必ず、最高裁まであがりますので、その結論がでるまでは、反日教師らの煽動に陽動されないようどっしり構えて反撃する余裕が欲しいものです。