徳永信一氏の活動報告
( 弁  護  士 )

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H20-8-6 沖縄集団自決冤罪訴訟、宮城晴美の尋問のこと

 7月27日に大江山の裁判がありました。
はじめての証人尋問です。尋問は3回予定されており、次回9月10日は沖縄は那覇で金城重明という集団自決を経験した牧師に対する出張尋問。
3回目の9月10日は大阪で本人3人の尋問です。大江健三郎の出廷が正式に決まりました。大江に対する尋問は僕が担当します。12月21日に最終弁論を行って結審。
判決は3月になりそうです。

 さて、7月27日は原告側からは、皆本元中隊長、赤松隊長の副官だった知念少尉が法廷にたちました。渡嘉敷に派遣された赤松隊は、爆雷を積んだ舟艇で夜陰に乗じて米艦隊に接近して体当たりを行う特攻隊でしたが、敵に察知され、艦砲射撃のなか、自沈命令を余儀なくされました。命令を拒み、操縦桿を握ったまま自沈した若者もいました。想定外の展開に、海上特攻隊は、急遽山に登って守備隊に転進したのですが。もともと想定外の地上戦用の火器はなく、艦砲射撃のなか、鉄兜をもって蛸壺を掘るのが精一杯でした。米艦隊の無差別爆撃のなか、より安全な場所を目指して住民たちは、本部陣地の近くの山間部に避難するために移動します。しかし、そこで上陸してきた米軍による迫撃砲の射撃にさらされるなか、村の幹部が集まり、相談するなか、一緒に玉砕することになり、各家族に防衛隊(住民の男子によって構成された義勇兵的な存在で、戦闘開始後は、家族とともにいた)が所持していた手榴弾を配り、村長が「天皇陛下万歳」を三唱した後、あちこちで手榴弾が爆発した。
しかし、多くの住民は、手榴弾の不発等によって自決できなかった。手にもっていたロープや鎌や鉈などで家族同志が殺し合いをはじめた。棍棒で頭をたたき割るなど凄惨なものだった。金城重明のように、息のある村民を探して棍棒で撲殺して廻るものもいた。生き残った村民は、赤松隊の陣地に押しかけ、自決のための機関銃をかりようとしたが、当然のことながら拒否され、抜刀した軍人たちに追い返された。
住民達の阿鼻叫喚に向けて米軍の迫撃砲が打ち込まれた。赤松隊が集団自決の惨状を知ったのは翌日のことであり、後に生き残った村民を救護・手当てするために衛生兵が派遣されている。米軍は、少数の守備要員を残して引き上げ、沖縄本当の攻撃に向った。赤松隊が米軍に降伏したのは終戦の勅語の後のことであった。生き残った住民達の体験談によれば、そういうことになる。

朝日新聞が初版を占領統治下に出版した『鉄の暴風』は、GHQによる「米軍善玉=日本軍悪玉」のプロパガンダ戦略の一環だった。日本軍は日本人を抑圧して騙し、残虐に扱い、米軍は、その圧政と抑圧から解放する正義の軍隊だとされた。そのプロパガンダのために、集団自決は格好の素材となった。沖縄戦で一体となって戦った軍隊と住民を分断し、日本軍は沖縄住民を守らなかったという図式が生まれ、やがて沖縄返還後は、反戦活動と反基地運動と結びつき「軍隊は住民を守らない」という図式に普遍化されていったのである。沖縄タイムスと琉球新報という二つのメディアしたもたない沖縄県民は、事実と乖離したスローガンを事実として刷り込まれていったのである。集団自決を体験した住民たちは、沖縄タイムスの報道を、嘘と知りつつ、沈黙を続けた。それが彼らの生きる知恵だった。

『鉄の暴風』では赤松隊長は、地下に掘られた本部壕のなかで、「最期まで持久戦を戦うことになった。足手まといをなくし食糧を確保するために住民は玉砕せよ」と命じたと書かれた。住民に対する取材は一切ないまま、もと小説家だった記者の想像をもって、さも見たように書かれたものである。『鉄の暴風』の記述は、さまざまな史料や書籍に転載され、一人歩きをし、これらを鵜呑みにした大江もまたこれを『沖縄ノート』に事実として転載したのである。 

知念少尉は、『鉄の暴風』では、その命令を聞き、沖縄県人として隊にあることの運命に『慟哭した』と記されている。しかし、実際には、知念少尉は取材すら受けたことがなかったのである。知念少尉、村長に自決命令を告げたはずの安里巡査らは、曽野綾子の取材に対し、赤松隊長の自決命令を完全に否定した。命令があったと証言した古葉蔵村長は、いつ、誰から、どのような命令が下ったかを答えることができず、その後のメディアの質問に対しても、その都度言うことがちがった。村民の体験談を収集したのは、曽野綾子がはじめてのことだった。『ある神話の背景』において徹底した取材調査の結果、隊長命令の証拠は何一つ発見されなかったことが公表された。そして、その後始まった、沖縄県による体験談の収集によっても、隊長命令を裏付ける証言は表れなかった。以前に『鉄の暴風』を孫引きしていた沖縄県史は、これを訂正し、命令の存在を否定するに至った。しかし、その後のいわゆる家永教科書裁判において、集団自決が、住民の自発的な死の例として文部省が、検定意見に用いたことから、話がややこしくなってきた。家永裁判を支援する側は、集団自決を軍による強制によるものとする必要が生じ、玉砕命令はなかったとしても、軍が管理する手榴弾が用いられたのだから、軍の関与はあった。軍の強制によるものである。その本質は皇民化教育だ・・・といった議論に刷り変わっていくことになった。

 そこで用いられたレトリックが、隊長命令はなくとも、軍の関与はあり、それは強制的といってよいものだったのだから、その事態を軍の命令と称してもよいのであり、隊長は軍の責任者なのだから、責任を免れず、それゆえ隊長の命令があったと同じことなのだというものである。

この数カ月程、沖縄のマスコミを賑わせている議論は、延々と続く、この主題の変奏であった。沖縄タイムスの記事やこれを転載している朝日新聞の記事を読めば、毎日のように新しい証言が登場しているような錯覚に陥るが、実のところ、隊長命令と同じだという新しい変奏曲を奏でているだけである。むしろ、僕などは、これだけ大騒ぎして出て来ないということが、隊長命令説が蜃気楼に過ぎないことを、証明しているように思えてならない。集合命令を聞いた。とか、防衛隊員が村長に内緒話するのを見た。
ある兵隊が米軍が上陸したら舌を噛んで死になさいと忠告したことが、すべて隊長による玉砕命令の根拠だとされて大騒ぎしているのである。
被告側からの座間味島の集団自決に関する唯一の証人として登場した宮城晴美は、集団自決を生き残った宮城初枝の長女だった。宮城初枝から、「集団自決命令は、梅澤隊長が出したのではなかった」ことが記されたノートを託され、初枝の死後、『母の残したもの』で公表したのだ。初枝の証言と手記は、決定的だった。なぜなら、それまで座間味島の集団自決が梅澤隊長からでたものだという隊長命令説の唯一の根拠が、『悲劇の座間味島』に収録された初枝の手記だったからである。初枝は、その証言をウソだと告白し、ウソをつかなければならなかった苦しい胸の内を打ち明けた事情を記しているのである。
宮城晴美は、郷土史家として、沖縄県史の編集に携わり、89年には『座間味村史』を編集した。共産党員である彼女が編纂した『座間味村史』は、左翼傾向の強いものではあるが、それでも、隊長命令には一切言及されなかった。集団自決の理由として書かれてある箇所には、「米軍に対する恐怖」が住民に共通していたものであると書かれていた。そして『母の残したもの』には、自決命令を出したのは、当時の助役であることが明記されたのである。
僕達は、この『母の残したもの』を第一級の史料として、この訴訟を構築した。
その宮城晴美が、被告側の証人となって証言するのである。当然のことながら、弁護団は緊張した。あらかじめ出された陳述書を読むと、宮城晴美は、それまでの仕事や母との約束をかなぐり捨てて、これまでの著述は誤りだったと懺悔するようであった。事実、彼女は、そのように証言した。が、そもそも無理な証言は必ず馬脚を表す。そしてそのとおりになった。 
彼女は過去の公演では、「軍命はなかった」とした新聞記事の内容を否定した。
「わたしはそのようなことは言っていません。記者のミスです」。そこには、レトリックの嘘が臭った。嗅覚を頼りに、突っ込んだところ、「隊長命令はなかった」が正しく「軍命令がなかった」とは言っていないという意味だと逃げを打った。彼女がいう「軍命令」とは、軍の論理を内面化したものの口からでたものであれば、それが兵士であろうと住民であろうと「軍の命令」なのである。その意味での「軍の命令」はあったというのが、宮城晴美の一貫した立場なのだそうだ。そして「隊長命令」について、突っ込むと、「隊長命令はなかった」という立場だったのが、この6月に宮平春子という女性の証言を聞いて変わったのだそうだ。実は、『母の残したもの』は、この春子の証言に基づいて書かれ、盛秀助役が父の盛永と水杯を交わすシーンも、その証言に基づいて書かれているというのに、その時、盛永の自叙伝にある「軍の命令がありますから」とある部分を、「お父さん軍から命令がでています」として聞いたというものであった。
両者の違いを突っ込んだところ、両者は「同じです」と答え、なら意見を変えるのはなぜかと突っ込むと、「集団自決の体験者の話しを聞いたことがありますか」と開き直り、では、なぜその伝聞証言を当時、聞かなかったのかと問うと、複数の原稿を抱えていて忙しかったため、十分な時間を割くことができなかったためというのである。
最期には、立場を変えたはずの「隊長命令」についても、それまでは「なかった」と考えていたのが、「あったのかなかったのか分からない」に変わったという始末。結局、なんのためにでてきたか、わからない結果に終わりました。
どうせ、嘘をつく決心だったのなら、中途半端な嘘をつくなというのが、反対尋問を終えた僕の感想でした。
沖縄で生きていくために、作家としての魂を売り、母親との約束を反故にする「悲しい嘘」をつかざるをえなかった作家の哀れな後ろ姿がありました。

 
H20-6-21 明治憲法の改正をどう捉えるか

 明治憲法の改正をどう捉えるかは、保守派改憲運動の枢要をなすものとの考えから、これに対するわたし自身の考えをいろいろ述べてきました。その要諦は、ポツダム宣言受諾によって護持されたという「国体」を明らかにし、憲法改正によって護持された「国体」を明らかにすること、それによって日本が継承してきた「国体」の本義を、いまの言語パラダイムのなかで打ち立て、それを物語りとして伝えていくことにあります。

やがて、わたしの保守派としての信念は、法的装いをもった昭和憲法無効論を解体することを強く志向するようになりました。それは、昭和憲法を、「国体」護持の憲法としてその価値を再確認することから出発します。そして、いわゆる無効論の法的基盤が、宮沢8月革命説と全く同一のところにたっていることを確認し、それらがいずれも憲法改正の《あの時》の日本民族の苦渋の選択という歴史的物語りを形骸化する危険のあることを指摘してきました。無効論は、「主権」という概念によりかかって、「国体」を形骸化する点で、全く8月革命説と同根だというのが、わたしの議論の出発点であり到達点でした。戦後60年は、進歩派の陣営からは宮沢8月革命説によって、保守派の陣営からは無効論によって、昭和憲法に結実した民族の尊「国体」護持の物語から人々の関心をそらしてきたのです。国体護持の物語りは、昭和憲法が明治憲法の改正であり、それが国体を護持されるために、マッカーサー司令との協力と敵愾心との緊張関係のなかで達成された奇跡であり、それによって冷戦をアメリカとの同盟のもとに乗り切り、共産主義が敗北するなかで、「国体」を21世紀に承継することに成功したというものです。 

無効論の根拠には、?『国際法の論理』と?『主権の論理』があります。?は占領軍による憲法改正は、ハーグ陸戦規約等の国際法に反するという主張、?は、明治憲法の改正は、占領統治下という主権が制限された状況のなかでなされたから、明治憲法の改正規定の趣旨に反するという主張です。後者は、昨年の渡部=南出論文によって昨年装い新たにされたものですが、昔からあった議論です。8月革命説は、ポツダム宣言が、民主化による「国体」の変更を要請しており、その受諾によって、「国体」が変更したという論ですが、それには、仮にポツダム宣言が「国体」の変更を含むものであったとしても(もちろん当時の政府及び陛下は、それが国体の護持を約束するものと判断して受諾を宣言したのですが)、なぜ、国際法の受諾によって国内法である憲法、そして国体が変更するのかは、法的に解明できていません(国際法と国内法の関係は、二元説が当時も現在も通説です。国際常識でもあります)。そして「主権」の所在の変更を「国体」の問題と同視する立場にたち、「主権」の所在が移った以上、「国体」も変更したのだとの論を唱えます。宮沢の師匠であった美濃部は、主権の所在を政体であるとし、国体は、憲法文言の外にあるものとしました。また、京大の和辻哲郎は、美濃部説に唱和し、維新前の天皇は、政治的な権力とは無縁なところにあり、昭和憲法により、むしろ本来の天皇の姿にもどったとし、国体の同一性を論拠づけました。すなわち、ポツダム宣言の受諾という国際法的行動によって国内法的な次元の問題である「主権」が変更することはありえないのであり、宮沢8月革命説は、その根拠とする「国際法の論理」と「主権論」に致命的な誤りを抱えていたといえるのです。そして、?の「国際法の論理」における致命的な欠陥は、無効論も共有しているのです。?「主権の論理」における無効論の問題点は、事実的なる意味ないし国際法上の主権論(占領統治中は、事実上、或いは国際法上、主権が制限されている)が、「国体論」と全く切り離してなされて論じられているというところにあります。「国体」を護持しえての「主権」であれば、その護持の必要が、「主権」のありようを超えて、重要になることは明らかであります。

明治憲法の改正は、まさしく占領統治下という、武装解除と主権制限状況における「国体」護持のための最後の切り札でした。そしてそれは、国体護持のために散華した尊い命の思いを活かすための民族の苦渋の選択でした。そしてそのことは「国譲り神話」の原型のもとで繰り返された「無血開城」の歴史を持つ日本人だけがなしえたことでしょう。近代日本の精神的支柱であった明治憲法を差し出すことで天皇陛下とともにある「国体」を護ったのです。

無効論を唱える方々は、ケーディスの脅迫発言(天皇の身体の安全を保証できない)を問題視します。ケーディスの発言の詳細が事実かどうかは疑義のあるところですが、政府側が彼の発言を脅迫的に捉えたのは事実でしょう。ただ、政府は、もっと差し迫った状況として、極東委員会が、マッカーサー司令の頭越しに、「国体」を破壊する危険を知っていました。日本の戦後処理の最終決定権者である極東委員会は、日本の憲法改正に関心を抱き、これに干渉する姿勢を明らかにしていました。もちろん、天皇制廃棄の方向においてです。豪州やソ連は、強硬に天皇制廃棄を主張していましたし、中英米仏の世論にもその声は少なくありませんでした。極東委員会がヘゲモニーをもって憲法改正問題に介入することになれば、天皇制の護持は重大な危機を迎えたことは想像に難くありません。その状況を打開する策が、日本国民による憲法改正の先行というウルトラCでした。マッカーサーは1週間の突貫工事で改正草案をまとめあげるよう指示し、電撃的に草案を発表し、幣原喜十郎内閣は、次期国会において憲法を改正するという荒技を行いました。これは、マッカーサー司令の占領統治戦略と、なんとしてでも「国体」を護持しなければならないという戦後の政府・国民・天皇の執念のようなものが合致した結果でした。まさしく神風が吹いたのです。皇室とは、日本人とは大したものだと関心します。これにより、靖国の英霊は、護ろうとした国体を失い、彷徨える霊魂とならずに済みました。あとは、いかに、昭和憲法によって護られた「国体」をどのように顕彰し、明徴してくかです。映画『硫黄島からの手紙』で敢闘の後、「闘いの評価は後世に委ね、安んじて国に殉ぜん」と玉砕していった栗原中将の言葉が胸に響きます。私たち、昭和憲法のもとで生きている国民は、まだ、彼らの闘いと、それが国体を護った歴史を、きちんと顕彰できずにいるのです。しかし、護国の使命を達成した英霊は、靖国神社におわし、わたしたちが彼らが護り抜いた「国体」に気づくことを待っておられるように思います。 

この論考をかくきっかけは、今日、憲法改正の使命を委ねられた幣原喜十郎首相が、枢密院に対してした説明に関する秘密文書を読み直したことにありました。

憲法9条に対する陛下の思い(国際社会の原野をトボトボと歩む決意)が感動的に綴られています。なによりも、最後の1文が、当時の切迫した情勢を物語っています。幣原首相は、マッカーサー司令が、1週間の突貫作業で憲法草案が成案に至り、極東委員会が活動を開始する前に憲法改正の準備が整ったことを喜んでいることを伝え、併せて、「・・・もし時期を失した場合には我が皇室のご安泰の上からも極めて恐るべきものがあったように思われ、危機一発ともいうべきものであったと思うのです・・・」という。(グーグルで、「枢密院」「憲法改正」をキーワードで検索すれば、文書の全文をみることができます)。

ポツダム宣言が要求した民主化は、明治憲法の運用によって達成できるのであり、憲法改正の必要はないとした美濃部達吉博士は、枢密院の勅撰委員でしたが、憲法改正の上奏に対し、自説を封印し、沈黙し、棄権しました(国会承認後の会議は欠席)。枢密院議長だった清水澄博士は、憲法の改正とともに、入水して明治憲法に殉死しましたが、憲法改正に向けた議長の役割を淡々とこなしました。それは、単に、GHQの強制に抗しえなかったなどという情けない話ではなく、憲法改正しか「国体護持」が叶わないとの情勢認識に基づくものだったと解するのが正当でした。

保守派の基本姿勢は、当時の人々の《たった今》の視点から、歴史を理解することにあるはずです。憲法改正のときの国民と政府と陛下の視点にたち、これをみることを忘れては、大東亜戦争そのものの歴史的意義も見失うことになってしまうでしょうし、戦後の護憲リベラルの軽躁な姿勢に押し流されてしまうものと考えます。無効論は、法的理屈に拘泥する余り、国民の物語り、国体護持の物語りを見失ってしまいました。彼らは、「国体」は昭和憲法にはなく、明治憲法のなかに眠っていると考えていますが、違います。「国体」は、昭和憲法の中にあるのです。まるで「青い鳥」の寓話です。


H20-5-4 日本会議大阪の憲法シンポに参加して

 潮匡人の講演はよかった。他者の防衛を認める正当防衛が、集団的自衛権につながるものであり、その行使を禁じる憲法9条の政府解釈が反道徳的であるという視点は、新鮮であり、この問題を論じる一つの切り口となると感じられた。もちろん、潮氏自身が認めておられるように、氏のお考えは、「不正」「正義」の判断基準に難を抱えており、自然権的に説明できる個人レベルの正当防衛とは違い、国際社会のなかにお
ける国家判断の困難をどう解決するかという問題に、多くのものが納得できる解決を与えなければ、護憲派との議論においては、足を掬われることになるだろう。
 問題なのは、このシンポジウムにおいて感じられたのは、改憲派が、方向性を見失っているように思えたことである。言いたいのは、「日本国憲法無効・廃止論」の弊害である。それは状況が苦しくなるとゾロ出てきて、憲法改正に向けて収斂させるべき議論を、御破算にしてしまうのだ。観客は一瞬の爽快感を味わい拍手があがるが、苦しい状況の突破に向けた精密な議論への集中力を萎えさせてしまう。そして何も変わらない。そして改めて「保守陣営」における世代の断絶を思い知らされ、運動の行く末に対する不安にかられるのである。
 「日本国憲法無効論」が、ハーグ陸戦法規や明治憲法の改正条項違反を理由として主張されてきたが、それは、明治憲法ノスタルジーを掻き立て、占領統治下の不条理に対する喚起の意味はあるが、その法律論としての粗雑さ(ハーグ条約違反の主張は、国際条約違反が、なぜに国内法である憲法の無効という法的効果を導くのかという点において宮沢俊義の8月革命説と全く同じ欠陥を内包しており、明治憲法条項違反の主張は、主権者であった昭和天皇の裁可がなされたという事実を乗り越えることは不可能だろう)と非現実性(仮に、マスコミや国民の圧倒的多数の賛同を得ないまま憲法無効を宣言することは、単なるクーデターであり、護憲派の巻き返しを呼び込むだけであり、その可能性−昭和憲法復活の可能性−がある限り、霞ヶ関の官僚は動かず、復活したはずの明治憲法は全く機能することなく、昭和憲法の復活を招くことになるだろう)は、いうならば憲法マスターベーションとでも呼びたくなるものである。
 護憲派は、改憲論議の盛り上がりのなかで、その震源地が9条であることを見定め、9条の現実的解釈として、政府見解まで後退し、自衛隊と日米安保が違憲であるとの主張を引っ込め、その現状を認めつつ、イラク問題等にこと寄せ、「自衛隊の海外派遣」「専守防衛」「集団的自衛権」等の個別的防衛問題についての政策論争と憲法論争をごっちゃにすることで、その必要性に対する懐疑を国民に巻き起こすという戦略に切り換え、そのことは、拉致問題の混迷のなか、国民の反ブッシュ感情と結びついて一定の成果をあげている。その結果が、昨日の朝日新聞のアンケートで明らかとなった65%の国民が9条改憲に反対しているという世論の現状だと思う。
 そうした護憲派の戦略的対応に較べ、改憲派の戦略のなさは嘆くべきものがある。筋を通すことを大事にすることが保守の大義であることは認めるが、それぞれが自分の正しさを高吟するだけで止まっていては、現実は動かないことは明らかである。
 改憲を目指す保守勢力に呼びかけたい。まず、「日本国憲法無効論」を徹底的に議論すべきである。その理論的根拠、そして政治的可能性について、もし、その議論を通じて、「無効論」に可能性があると感じられるようになれば、それに向けて運動を収斂していくべきだし、そうでなければ、これを政治運動として掲げることはやめようではないか。そして佐伯啓思先生が言われるように、「無効論の気概をもって憲法改正にあたる」という現実的方向に舵を切るべきである。 
 

  
  
H20-5-4 日本会議大阪の憲法シンポに参加して

わたしのような、改憲論者は、決して戦争を歓迎しているわけではありません。護憲論者が改憲論は、戦争を称賛するかのような主張がなされますが、これは誤導であります。このことは、平和を祈願する国際社会において、日本が何をなすべきかという、優れて安全保障政策の問題です。
21世紀という現在において「日本の平和」と「世界の平和」を守るためには、「戦争放棄」を掲げて平和を呼びかけるだけではなく、「軍備の均衡」が必要だという考えに立っているのです。将来、「戦争放棄」による平和を達成できる時代が来ることを諦めているわけでもありません。いつか、そんな日が来ることを信じながら、現在の平和を守るために必要な努力を怠ってはならないと考えているのです。
わたしも含めて改憲勢力の多くは、戦後60年の日本の平和が、朝鮮を侵略し、ベトナム、アフガンに侵攻したソビエトや中国といった共産主義勢力の野心を、米軍という最強の軍隊による威嚇が押しとどめたのだという歴史的理解をする者にとっては、現時点(集団安保体制が整っておらず、かつ、独自武装できない時点という意味)において米軍という背景なしに、平和を守ることは困難ではないかという考えに依拠しています(もちろん、同じ立場に立ちつつ、自衛隊+日米安保の合憲解釈から護憲を主張する方々もいます)。
わたしのような臆病者にとっては、日本が軍備を放棄し、日米同盟を放棄することは、中国の武力行使ないし威嚇を背景とする外交力の専横を招くことになると危惧しているのです。そして、中国も米国も、「平和を愛する諸国民」の国だと盲進し、軍備を解除して恭順の意を表明することが、日本のそしてアジアの平和に結びつかないだろうと考えています。そうした政策がもたらすものは、今のチベットの姿ではないでしょうか。現在の政財界の利益優先姿勢に由来する中国政権への追従姿勢が、その結果、民族の独立を失わせ、文化と人権を根こそぎにしてしまうのではないかとおそれているのです。 
そんな意味で、果たして現在の国際社会は、今回のチベット危機を、チベット民族と文化を尊重する方向で解決することができるかどうか、ハラハラしながら見守っているのです。