徳永信一氏の活動報告
( 弁  護  士 )

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H7-7-31 河野談話撤回に反対するわけ

何度もいうように、僕の意見はNoです。
後の政権が、新たな証拠も示せないまま、かつての政府による「自白」を撤回しても、さしたる
効果を生むようには思えません。滋賀の共産党の諸君は、いうでしょう。「河野談話で政府が認
めていたでしょう」と。「それが真実でなかったのだったら何故自白したのか」。「不都合な真実を
政治家が捩じ曲げようとしているだけだ。」と言い張るでしょう。逆に、現時点では、安倍内閣の
歴史修正主義を宣伝する格好の材料に使われ、朝日新聞の取消・訂正・謝罪まで、安倍政権の
強権的な言論弾圧に朝日が負けただけだというストーリーの中に解消されてしまう地点に追い
込まれてしまうことのほうが余程心配です。

土俵は世界です。アメリカであり、カナダであり、オーストラリアであり、フランス、ドイツです。
河野談話の破棄が状況を転換する有効な手だとはとても思えません。破棄したり、否定してみ
せたりしても、世界からは、真実を歪めているとしか見えない、というのが僕の情勢認識です。
ことほど、反日プロパガンダは行き渡っています。

他方、国内では、既に、朝日新聞の謝罪によって大勢は決しました。植村隆元記者を応援す
る大弁護団はあります。日弁の会長経験者ら、いわゆる「大物」が名を連ねています。吉田証言

が間違っていたとしても、慰安婦の強制連行がないということにならないと真顔で主張する多く
の弁護士がいます。しかし、そんな弁護士会においても、大勢は決しました。彼らは、二度と主
流に戻ることはできません。弁護士会においても、そうですから、日本においては大勢が決した
と断言しても、まず間違いないでしょう。問題は、海外です。そこでは、未だ、中韓のプロパガンダ
と外務省の弱腰が効いていて、少女の強制連行による性奴隷は、学校で習う歴史の常識です。
ナチスのホロコーストのように。

グレンデールで会った日本人たちは、慰安婦の強制連行は嘘だということを確信していましたが、
彼らの子供たちは、学校での教育で教えこまれ、朝鮮人慰安婦の強制連行を信じ込んでしまって
いました。両親のいうことなど全く聞いてくれません。残酷な日本人に生まれたことを不幸に思い、
いわれのない差別を受け入れてしまっているのです。慰安婦の強制連行は「嘘」だと教えようとし
ても、「愚かな親だ」と軽蔑の視線を返してくるだけだということでした。日本に住んでいる僕たちが
言えることは、それでも、決して諦めず、絶望せず、希望をもって、「10年後の理解」を目指し、濡れ
衣と戦い続けようというだけです。

河野談話は破棄された!と力んでも、そのこと自体が日本人に対する不信を煽るだけかも知れ
ません。自白の撤回だからです。自白した事実は撤回しても残るのです。検察官役のコリアン系
の反日左翼は、歴史を歪めようとする極右に支持された安倍政権が人気取りのために、真実を歪
めようとしているんだという「絵」を主張するでしょう。まさしく、その論法で返り討ちにあったのが、
2007年の下院決議だったことを忘れてはならないと思います。

捜査段階でした自白を公判になって撤回する被告人は少なくありません。国選弁護をやれば、そ
ういう被告人にしばしばあたります。しかし、裁判官は、そういう自白の撤回に対して非常に厳し
い眼差しを向けます。嘘の自白をしたという主張は、状況次第で、嘘を付く信用のならない人物で
あるということを自ら認めることになります。そのこと自体が、「嘘つきの証拠」となります。世界に
向けて発信した河野談話の自白が嘘だった、などという話しが世界に受け入れられるとは、とて
も思えません。河野談話に嘘はないが、その真意がプロパガンダで歪められ、誤解されていると
いうしかないと思われます。確かに、世界遺産の顛末と同じです。

政治家による「自白の撤回」などに、魔法のような 劇的な効果を期待するのではなく、、一歩一歩
のプロセスを重視して地道に戦い抜くしかありません。一生懸命頑張る人に対し、共感するのが、
米国人です。これまで、一生懸命は、コリアンにあり、ジャパニーズは全くかないませんでした。
慰安婦問題という民族の恥辱に対し、コリアンの活動家は、真剣で必死でした。他方、日本人は、
曖昧に薄笑いを浮かべ、ごまかそうとしているように見えました。

繰り返しになりますが、河野談話の内容を−強制連行を認めたという−誤解から救い出すことのほうが、生産的だと考える所以です。それは、朝鮮半島における慰安婦の強制連行を認めたものではないのです。
「判例」の例えでいえば、「判例変更」ではなく、「判例の射程」を限定するという戦略です。
スマラン事件はありました。だから、強制があったことは認めます。そしてスマラン事件は、関与
者を処罰しています。しかし、朝鮮半島では、慰安婦を強制的に徴用したり、軍や政府が組織的
に人さらいのように、朝鮮人女性を強制連行して慰安婦となることを強いたという事例はありませ
ん。不良分子によるレイプはあったかも知れません、民間業者による人身売買的取引や騙された
女性がいたことまで否定することはできません。でも、今でも、先進国において毎日レイプ事件が
あり、不条理に泣いている女性がいます。従軍慰安婦問題において日本と日本人の責任が問題
にされているのは、犯罪としてのレイプではなく、国家が、植民地支配していた朝鮮人女性を、組
織的に制度的に、連行して家族から切り離し、慰安婦として兵士の相手をすることを強いられたと
いう問題なのであり、そのことについては、断じてなかったのであり、河野談話も、そのことについ
ては、何ら語ってはいないのです。

そのことを10年かけて、執拗に、粘り強く、訴え続けることが必要なのです。日本人の方がコリア
ンよりも信用できるという信頼を獲得するまで、ひたすら訴え続け、決して諦めないことが必要なの
です。河野談話の破棄や撤回が状況を「回天」する「特効薬」になるという幻想をもたないことが
大事なのだと思っています。

 
H27-7-28
  
1 日本国憲法は、その公権的解釈権限を最高裁判所に賦与しています(81条)。
2 砂川事件最高裁判決は、日本国が固有の自衛権を有していることを明言しました。
3 最高裁が認めた「固有の自衛権」には、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」が含まれます。※1
4 内閣法制局の解釈に基づく政府見解は、集団的自衛権は保有しているが、行使できないとしてきました。 ※2
5 第2次安倍政権下の内閣法制局は、従前解釈を変更し、集団的自衛権の限定的行使は可能であるとし、
同内容の閣議決定がなされ、政府見解が変更され、これに基づいて安保基本法の成立が審議されている。
僕の集団的自衛権の政府見解による解釈変更が合憲である旨の論理は、政府見解の変更は、最高裁の判断の範囲内において合憲であるという大枠のもと、砂川事件最高裁判決がいう「固有の自衛権」に「個別的自衛権」だけでなく「集団的自衛権」も含まれているという解釈を前提とします。ここが要諦です!
※1 東大の石川健治教授らは、砂川事件判決は、集団的自衛権に言及したものではないとの解釈を展開していますが、横田最高裁長官の補足意見(砂川事件判決では、最高裁判事15名全員の補足意見が付されています。)を読めば、それが誤りであることが分かると思います。砂川事件判決は、米軍基地の合憲性が争われた事件ですが、固有の自衛権として米国軍による自衛を図るという発想は、集団的自衛権そのものです。集団的自衛権には、それによって自国が守られるという局面と、そのために、他国を守るという局面があり、今回の安保法制は後者の「権利」の側面を規定するものです。
※2 最高裁が「ある」とし、国連憲章で国家の「自然権」として認められている「集団的自衛権」について「ない」といえないため、政府は「あるが、行使できない」という詭弁的論理を用いて、歴代自民党政権は、
集団的自衛権を制限してきました。そこには、当時の米国の意向があったのでしょう。安倍政権下での政府見解の変更は、世界情勢の変更に加え、これによる米国の意向の変更に基づくものだと思われます。
以上の論理から、僕は、従前の政府見解の変更は、本来であれば、明文改憲によるべきであるが、解釈改憲も、その緊急性と必要性が認められ、最高裁の判断の枠内にある以上、立憲主義に反するものではないと考えています。
本来であれば、明文改憲によるべきものである・・・というのは、憲法も法である以上、その意義の安定性という要請があることは否定できないからです。多くの憲法学者が、「違憲」といわずに「違憲の疑いがある」としている理由は、そこにあります。僕も、一人の学者としての発言を求められた場合は、「違憲の疑いあり」というでしょう。「疑い」をいうのは、学者的な「良心と姑息」のなせる技です。「疑い」を違憲側に引き寄せて報道するか、合憲側に寄せて報道するかは、新聞社の裁量というところでしょうが、それがあたかも「違憲」と同じであるようにいうのは強弁というべきでしょう。
僕は、「違憲の疑い」は否定しないが、「合憲」の論理もあり、その緊急性・必要性が認められる以上、安保法制を「肯定」するという言い方をすることにしています。
一人の憲法学徒の憲法解釈です。ご参考にして下さい。