徳永信一氏の活動報告
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H31(R1)-1-23 第87回 憲法改正問題リレートーク 第2回(金沢)

憲法の現在
《憲法問題特別委員会だより》
第87回 憲法改正問題リレートーク 第2回
九条改憲賛成論:私が自民党改憲案に賛成する理由
憲法問題特別委員会 委員 コ永信一


現状の政府見解を1ミリも変えない

本稿は平成30年11月17日(土)に行なわれた大弁主催のシンポジウムで用いた配布資料「自民党改憲案に賛成する理由」に手を入れたものです。
はじめに、私は憲法9 条に係る自民党の改憲案( 9 条1 項2 項に自衛隊の存在を肯定する条項を附加する案)につき、高村正彦前自民党副総裁が述べた「現在の政府見解を1 ミリも変えない」という立場を前提にしています。それが集団的自衛権の限定的容認を認めた新安保法を合憲化するものだという主張がありますが、集団的自衛権行使の可否に関する従前の解釈論の根拠となっている9 条2 項をそのまま据え置くのですから、そうした主張は憲法解釈論レベルのものではありません(集団的自衛権の行使に関する疑義は、改憲が成ったのちも残ります)。それは所詮、政治の議論であると整理し、ここでは扱わないということを述べておきます。


では何のために改憲するのか?

こういうと、次のように批判する方々がいます。曰く「何も変わらないのであれば、改正する必要はないではないか。何のために改憲するのか?」と。これは揚げ足とりというものです。私には、かかる批判は無知によるものか、あえて議論を混乱させることを狙うものに映ります。安倍首相が再三にわたって述べているように、今回の自民党改憲案による改憲は、多くの憲法学者が自衛隊を違憲としている現状を変えるためのものです。すなわち、自衛隊の存在にかかる≪違憲の疑い≫を払拭するための改憲です。このことは、我が国初の国民投票をもって決するに値するほどの重大事です。今、このときに断行すべき必要性があるということを私はこれから明らかにしていこうと思います。


立憲主義の回復という必要性

私は、9 条改憲によって「自衛隊の≪違憲の疑い≫を払拭する」必要性について4 つの観点から述べていきたいと思います。1 つ目は、【立憲主義の回復】という観点からのものです。いうまでもありませんが、立憲主義とは憲法の規範による政治の統制のことです。その規範の内容が定まっていることが前提になります。≪違憲の疑い≫とは、立憲主義の貫徹を妨げるものであり、国民輿論に則ってこれを解消するのが立憲主義の常道です。自衛隊の存在は戦後長らく国民を二分して争われてきましたが、平成6 年の社会党の転向を契機に自衛隊を肯定する輿論が定まりました。ならば、自衛隊を明文で認め、≪違憲の疑い≫を払拭するのが憲政の常道です。


自衛隊に対する差別的扱い是正の必要性

自衛隊の存在が国民輿論によって支持されていることは今更述べるまでもありません。しかし、それでもなお、自衛隊には≪違憲の疑い≫がついてまわっています。その影響は、今も中高生が用いる教科書や憲法学説の中に色濃く残存しています。ノーベル賞作家の大江健三郎は、かつて防衛大学生につき「ぼくらの世代の若い日本人の1 つの弱み、1 つの恥辱だと思っている」と語りました。それは自衛隊が憲法に違反するという偏見に基づく発言でした。今も防衛大生は東大や京大で単位を取得することが許されません。多くの中高生は自衛隊を違憲の疑いのある組織という偏見を学校で刷り込まれます。自衛隊が参加する市民イベントが党派的市民団体からの抗議によって潰されることは日常茶飯事です。
私は、国民が自らの享受する安全と平和について自衛官の献身的な活動に依存しながら、他方で、その自衛隊を日陰の存在のままにしておくことは不当だと考えます。それは憲法を騙る偏見に基づく差別と欺瞞というほかはありません。
東大の石川健治教授は、これまでの安全保障政策 ---- 自衛隊を戦力に至らない武力組織だという政府見解 --- を肯定しながら、従前どおり、自衛隊を「違憲の疑い」ある組織に置いておくことこそが、自衛隊に対する最良の立憲的統制だという主張をしており、これに賛同する学説も少なくありません。しかし、これは自衛隊を「違憲の疑い」という偏見に基づく差別的扱いを受ける地位に留めるという主張です。つまり解釈論上の ≪疑い≫ そのものを規範化し、もって自衛隊に対する差別と欺瞞を自覚的に維持しようというものです。極めて政治臭の強い俗論であって、ためにする議論というほかはありません。かえって自衛官が可哀相という国民感情を喚起するだけでしょう。


「憲法が採用した『平和主義』とはなにか」という観点

9 条改憲によって平和主義はどうなるのでしょうか。
そもそも平和主義は多義的です。1 つには、侵略戦争は不正であるが、自衛戦争は正しいとする「正戦論に基づく平和主義(正戦平和主義)」があり、これとは別に、侵略戦争も自衛戦争も否定する「厭戦的平和主義(非武装平和主義)」があります。第1 次大戦の反省にたつ国際連盟の平和主義は、話合いによる解決を目指すものでした。しかし、話合いではナチスの台頭を押さえることができなかった歴史的反省から、国連憲章51条は、「正戦平和主義」に立ち戻り、国連軍を創設し、各国の個別的・集団的自衛権に基づく武力行使を認めました。
日本の平和を守ってきたのは、日米同盟と自衛隊の抑止力です。平和を愛する諸国民(なかんずくソ連、中国、北朝鮮)の「公正と信義」によるものではありません。こうした願望に国民の安全を委ねて非武装を貫くというのは、現実の悪を無視する「空想的平和主義」というべきです。それは現実を知らぬ無知の教えか、現実をみない欺瞞の教えです。ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領の演説は、平和のために軍事力を維持する必要を説きました。「なぜならば、この世には悪が存在しているからです。非暴力運動ではヒトラーの軍隊を止めることはできなかったでしょう。」と。
日本国憲法の平和主義が、非武装平和主義に立つものであるとの理解が広がったのは、制憲議会での吉田茂首相の答弁からでした。それは「二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も放棄した」というものであり、GHQの想定を超えるものでした。日本側で憲法改正を担っていた芦田均委員長は9 条2 項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入し、自衛権を維持する余地を残しました。GHQ は、これをスルーしましたが、極東委員会はこれを問題として取り上げました。芦田修正の中に再軍備の意図をみたのです。しかし、極東委員会は、結果的にこれを容認しています。国連憲章が固有の権利としている自衛権を奪う正当な理由はないからです。但し、極東委員会は、将来の軍国主義化への歯止めとして憲法66条2 項の文民条項を挿入させました。
この歴史的な経過からうかがえることは、国際社会は、日本国憲法は自衛戦争も放棄するものではなく、国連憲章と同じく自衛権に基づく「正戦平和主義」に立つものであると理解していた事実です。自衛隊を憲法の明文で肯定する改憲案は、日本国憲法の採用する平和主義が、基本的には国連憲章の立場と同じく、固有の自衛権を認めるものであることを改めて確認するものであるということがいえます。このことは憲法の平和主義をめぐる不毛な神学論叢に終止符を打つものとして重要です。私たちは国際政治の現実に向き合うべきなのです。


中国の軍事的脅威と対峙していく必要性

中国の軍事的脅威は絵空事ではありません。尖閣や沖縄に対する領土的野心を隠さず、軍事的膨張を続けています。国際秩序を無視した中国の冒険主義的行動を制するための抑止力を強化する必要があると考えています。中国は、南シナ海をめぐって中比間で争われた国際仲裁裁判所の判決を「紙クズ」だとして顧みません。ウイグル自治区やチベット自治区における苛烈な人権弾圧も国際的に知られるようになり、ネットを使った監視統制システムはジョージ・オーウェルの1984を彷彿とさせます。習近平は憲法を改正し、終身皇帝独裁の地位を固めました。話合いによる平和的解決という理想は、中国の現実を前にしていかにもナイーブに過ぎます。折しも、アメリカは中国との貿易戦争に突入し、長年にわたって続けてきた「関与政策」を転換することを内外に明らかにしました。10月4 日のペンス副大統領の演説をもってチャーチルの鉄のカーテン演説になぞらえ、米中新冷戦の開幕だとする論調もあります。
そのような国際情勢に関する重大な局面において、自衛隊に憲法上の完全な正当性を賦与することは、自衛官に誇りを持たせ、自衛隊の士気を向上させます。「軍」の力は、装備、練度、士気の3 要素によって規定されます。憲法改正によって真に国民を護るための自衛隊としての位置づけを賦与することによって、自衛隊の存在による抑止力は大いに高まるものと期待できます。それゆえ、私は自民党案による改憲が喫緊の課題だというのです。