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近藤将充氏の
活動報告
(船橋市民)


日中国交正常化交渉及び条約締結交渉の顛末を顧みての教訓 (R1-6-23)

自民党内に習近平を国賓として迎えようとする動きがある。

これに呼応するかのように中国の孔鉉佑駐日大使は二十一日、日本記者クラブで会見し、「多分近い将来に実現は可能だと思う」との見通しを示すとともに「希望としては、例えば桜満開など季節の良い時に実現したい」と来春にも行われる可能性を示唆した(6月22日付産経新聞)

言うまでもなく我が国にとっての安全保障上の最大の脅威は中国である。

その中国は覇権国家への野望を露わにし、貿易戦争の形で米国と熾烈な新冷戦を繰り広げている最中である。

その時に米国の同盟国である日本が、冷戦の相手である中国の最高権力者を国賓として迎えようとする自民党のセンスは理解に苦しむものである。

日米関係に楔を打ち込みたいと目論む中国に、自ら手を貸そうとする愚かな行為と言わざるを得ない。

昨年(平成30年)は、「日中平和友好条約」締結四十周年の年であった。

日米分断を図りたい習近平の「ニーハオ」を受けて安倍首相が前のめりになっていることに危惧を覚え警鐘を鳴らす意味で、昨年十月三十日に書いたのが左の論文である。

冒頭に書いたように、習近平を国賓として招こうとするとんでもない動きを知り、再度世論に訴える必要を感じ寄稿したものである。

 

 

「日中平和友好条約」が締結されて今年は40周年になる。

安倍首相は7年ぶりに中国を訪問し習近平と会談した。

7年前の習近平は、仏頂面で安倍首相を迎えた。

外交儀礼も何もあったものではない。

7年後の今回、習近平は(下心見え見えの)笑顔で首相を迎えた。

この見事なまでの手の平返しは中国のお家芸ではあるが、トランプによる貿易戦争を含む新冷戦の宣戦布告を受けて日本への「ニーハオ」となった。

このような下心見え見えの「ニーハオ」ではあるが、これが日本には極めて有効であることを彼らは40年前に学習した。

いま世界の安全保障環境は地殻変動を起こそうとしている。

その主たる要因は、力(軍事力)を以って国際秩序を変更し世界制覇の野望を露わにし出した中国の存在である。

トランプ政権の新冷戦宣戦布告も、そこを見据えての対中国戦略である。

日本が不用意に「ニーハオ」を返し前のめりになることは、著しく国益を損なうことになると危惧しているところである。

40年前日本は、「ニーハオ」に隠された中国のしたたかな「韜光養晦」戦略に気が付かず大失態を演じた。

それは何か。 尖閣諸島を中国の核心問題にしてしまったことである。

その舞台こそ日中正常化交渉であり、条約締結交渉である。

今回の習近平の「ニーハオ」戦術に二度と踊らされないようにするためにも、40年前の歴史の教訓をくみ取る事が必要ではないか。

以下はその顛末記である。

 

1972年9月25日〜28日にかけて、田中角栄首相・大平外相と周恩来総理との間で「日中国交正常化交渉」が持たれた。

以下に出てくる交渉の内容は、「田中総理・周恩来総理会談記録」(注:情報公開法に基づいて読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された文書)による。

この会談記録によると尖閣に関するやりとりがあったのは、第3回会談(9月27日)であったことが分かる。

「田中総理:尖閣諸島についてどう思うか? 私のところにいろいろ言ってくる人がいる」

「周総理:尖閣諸島問題については、今回は話したくない。 今、これを話すのはよくない。 石油が出るから、これが問題になった。

石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」

周恩来は何故尖閣の話を避けたのか、この大事な問いかけを日本政府は自らにするべきであったが、深く考えることもなくスルーパスした。                   これが後に尖閣諸島問題を、日中間の抜き差しならぬ事態にまで悪化させた要因の始まりだった。

中国が尖閣の領有を世界に正式に発信した翌年の田中・周会談で、日本の首相がわざわざ領有権を主張する場をつくってくれたようなものである。

しかし周恩来がその誘いに乗らなかったのには理由がある。

 

注:中国が正式に尖閣諸島の領有権を主張したのは、1971年12月30日付の「尖閣列島に関する中国外交部声明」による(出典:日本外交主要文書・年表(3),521-522.北京周報,101,13頁)

 

会談の持たれた1972年は、中国の近代化が十年遅れたと、後に中国人に言わしめた文化大革命の真最中で国内は混乱の極みにあった。

ここで田中首相の誘いに乗り真っ向から尖閣の領有権を主張した場合、もし日本が危機感を抱き自衛隊でも駐屯させる行動に出れば、中国としては元も子もなくなると周恩来が判断した可能性がある。

それは国内が文革で政治的に混乱しているばかりではなく、日本に対抗して尖閣に実効支配を及ぼそうにも、当時の中国の海・空軍力では自衛隊の敵ではなかったからである。

そもそも中国が、帝国主義国家として敵視していた日米に急接近し、国交回復を目指す行動に出たのは何故か。 この時期中国はソ連と激しく対立していた。

それは第3回会談での周恩来の次の発言に表れている。

「ソ連はカザフスタンからモンゴルにかけて100万の軍隊を配置し、中国に対抗している。 モンゴルだけでも6個師団を配置し、中国に向けている。

これでもソ連が同盟国であると言えるのか、中ソ友好同盟条約は無いのと同じだ」、国内の混乱とソ連の圧力、このままでは中国は持たないとの危機感が中国首脳にあったのは間違いないであろう。

周恩来は、国交回復後の条約締結交渉に際して、ソ連を念頭に日本にも「反覇権」を認めさせたいとの思惑があった。

事実その後始まった条約締結交渉で中国は、「反覇権」の本文明記を強く迫り、ソ連を刺激したくない日本との間で交渉は難航した。

周恩来が会談で尖閣の話を避けたのは、当時の中国を巡る危機的な国際情勢、国内の混乱、更には日本と軍事力で対抗しえない段階で、自衛隊の尖閣駐屯を誘発させる愚を避けることなどを冷徹に判断し、「棚上げ論」を述べたのである。

一方日本は、「実効支配しているから、領土問題は存在しない」という虚構の論理に胡坐をかいて、自衛隊を駐屯させるという主権国家としての当然の措置を

とらず、今日に続く禍根を残したといえよう。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のためにケ小平副首相(当時)が来日した。 この時ケ小平は尖閣問題に触れ、72年の日中国交正常化交渉時に「この問題に触れないことで合意した」と合意の存在を強調し、「10年棚上げしても構わない」と述べた。  中国が再び「棚上げ論」を言った理由・背景は何か。  

ケ小平が「改革開放」路線を提言したのは、この年の12月の第11期中央委員会第3回全体会議であり、実質的な政策はスタートラインにもついていなかった。 つまりこの時期の中国は人民帽と人民服の農業国に過ぎず、東シナ海の制海権と制空権は、72年と同様日本が完全に握っていたのである。 

この現実を認識していたケ小平は、改革開放政策により経済力を発展させ、その経済力をバックに軍事費を増強しやがて東シナ海を自国の海にする長期の政戦略を描いていたのである。

そのためには、日本が虚構の実効支配をこの先も続けてくれることが中国にとって最善の状況であり、2回目の棚上げ論を日本側に持ちかけるしたたかな韜光養晦戦略をとったものである。

当時ならば、自衛隊一個中隊を尖閣に常駐させることなど強固な政治の意志さえあれば、苦も無くできたのである。 自国の主権の及ぶ領土であることを国際社会にアピールする最善の手段は、軍隊、日本でいえば自衛隊を駐屯させることである。 しかし日本はこの絶好の機会をまたもや見過ごし、今日の厳しい尖閣問題を招く大失態を演じた。 

何故なのか、戦後70年、国家と軍隊を忌避し続けてきた、百田尚樹氏の「カエルの楽園」に出てくる「ナパージュ国」を形成してきたことに由来すると言っても間違いではあるまい。

たかだか40年前の歴史であるが、そこから教訓を学ぶ姿勢が求められる。

さてこのような経過をたどった日中正常化交渉であるが、次に条約締結交渉の実態を見てみたい。

 

日中間の条約締結を目指しての交渉開始は、日中共同声明を受けた昭和49年(1974年)11月の予備交渉からである。

両国間の交渉過程で大きな懸案事項となったのは、覇権条項と台湾の扱いであった。 台湾問題はさておいて、当時冷戦の真っただ中で同じ共産主義国家ながら既述のとおり中ソは厳しい対立関係にあった。 

従って中国はソ連を牽制する意味で、この条約に覇権主義反対のいわゆる覇権条項を盛り込むことを強く主張した。

一方ソ連を徒に刺激したくない日本は、これに反対した。

以下は林三郎東海大教授(産経新聞昭和53421日付論文より)による覇権条項をめぐる両国の交渉の顛末である。

圧力に弱く腰の引けた日本外交の情けない姿が浮き彫りにされている。

 

覇権条項そのものに反対 → 前文ならOKに後退 → 本文挿入OKに後退

→ 本文挿入OKの代わりとして「宮沢4原則」を提唱 → 中国側拒否 → 三木首相が外相を宮澤から小坂に交代 → 「宮沢4原則」を引っ込める

 

注:宮澤4原則(本条約交渉責任者であった黄華元外相談より)

 ? 双方はそれぞれ反覇権の理由と立場がある。第三国が覇権を求め、敵対行動をとるときは、双方はそれに反対するが、両国が共同行動をとる必要があるということとはイコールではない。

? 日本の反覇権は、特定の第三国に対するものではない。

? 反覇権は、国連憲章の精神に合致している。

? 反覇権条項は実際上、全世界の各地域に対し述べるものである。

 

このようにその名も空々しい「日中平和友好条約」締結交渉は、日本の完敗

に終わっている。

当時中国は国難ともいうべき内憂外患・四面楚歌の状況にあったのである。

繰り返しになるが、内憂は言うまでもない文化大革命であり、外患はソ連との

軍事的対立、さらには資本主義諸国との対立がそれである。

これでは国がもたないと危機感を抱いた中国は、死中に活を求めて日米接近   

の起死回生策に打って出たのである。

日本の頭越しに親中派のキッシンジャーを抱き込み、1972年2月ニクソン大統領が中国を訪問した。

慌てた日本は確りとした準備もなく同年9月中国との国交正常化交渉に突入した。 一方米国は中国とじっくりと正常化交渉を続け、ニクソン訪中の7年後の1979年1月正式に国交を回復し、台湾関係法も制定した。

客観的にみるならば日中正常化交渉時、明らかに中国が弱者の立場にあり、日本は強者の位置にあったのである。

然しいざ交渉を始めてみると内実は、縷々述べてきたとおりの結末であった。

拙速かつ弱腰の日本、戦略的外交の米国、ここにも40年前の歴史の教訓に真摯に学ぶ姿勢が求められると警鐘を鳴らしたい。