育再生・地方議員百人と市民の会
Top ごあいさつ 設立主旨、会則等 関西行事案内 動等の記録 参加者、リンク集 入会申し込み
教育NEWS
切り抜き
議会質問の
お手本
推薦図書 選   挙 一般リンク 問い合わせ
ご意見
動等の記録TOP 総 会 録 理 事 会 録 一般活動、集会録 会計報告
声明・請願・要請等 新聞・マスコミ報道 百人のニュース
百人の行事案内(記事)
仲間からの報告
My Home Page
「百人の会」のサーバーが容量不足のため、私、「活動の記録」は、MASUKI情報デスクに養子に出されました。
仲間からの報告
-My Home Page-

黒岩 徹氏の活動報告
(NPO法人日本パラオ協会 会長)

 黒岩徹氏TOP
平成20年4月26日長野の編

手記:4.26長野の変

1. 全夜までの動き
 長野市は、私の生まれ育った須坂市の、千曲川を挟んで西隣にある。長野電鉄で三十分弱の距離である。「善光寺さん」へは子供の頃より家族や親戚と一緒に何度かお参りに訪れている場所であり、言わば故郷である。
 扨て本年二月からの餃子事件でも、つくづく「シナという国にはどうしようもない・・・・」と感じていた折の三月十日、チベットの反乱とシナ政府による弾圧が起こった。日本でもこれに抗議し、北京オリンピック開催も問題である等の声も大きくなっていった。聞けばその聖火リレーの日本の舞台は長野市であり、出発地は善光寺とのことである。これは黙っている訳には行かぬ、自分一人でも行くと早くに決心を固めた。やがて善光寺では「チベットと同じ仏教徒として聖火リレーの出発地を辞退する」との発表があった。世界が注目する大国日本聖火リレーの出発地という俗世界栄誉を敢然と擲った、末代まで語られるであろう「善光寺さんのご決断」を、私は郷土の誇りと嬉しく思い、益々「何が何でも行かねばならぬ」と意を強くした。折から「地方議員百人の会」(以下百人の会という)からのメールに因れば、東京から臨時バスを出すという。そこでこれに喜んで参加させて頂いたのである。
 四月二十五日夜十一時五分、補助椅子も加えて五名を乗せたバスは、新宿駅西口を出発した。同乗者は、杉並区会議員M氏、チャンネル桜のU氏、世論の会代表M氏、遺棄化学兵器問題等の追求をされているM氏等錚々たる顔ぶれである。
 しばらくして、事務局より次のような話が合った。
 「中国からは留学生等に二千人とも言われる動員が掛かっている。それには『ペットボトルとボールペン』を持参せよ、とまで付け加えられている、とのことである。こういう相手との間で相当に危険な状態も予想される。皆さんには一応の保険が掛けてあるが、それで十分ではない。一方で、非公式ではあるが創価学会からも(中国側を支援するようにと)二千人とも言われる動員令が池田大作氏の弟名で掛かっている、との非公式情報もある。当方ではこれらに対する防御策も考えているし、動員はあまり進んでいないとも聞いている。然しとにかく現地では何が起こるかは全く予想できないので、皆さん十分に注意し、相手の挑発には乗らないように願いたい。」
 なお聞けば、ペットボトルとは「唐辛子等を混入させた水」のこと(目晦まし)であり、ボールペンとはそのまま凶器に代わる代物である。同乗者は「無事帰って来れるのだろうか」という一抹の不安と、悲壮な決意と、負けてなるかという闘志をそれぞれに秘めてやがて眠りに落ち、翌朝未明二時三十八分、仮眠予定の宿坊の駐車場に到着した。
 此処は善光寺本堂の西側にあり、本堂前まで側道がある。これを抜けるとライトアップされた荘厳な本堂が目の前に現れた。急ぎ携帯電話で初めて見る夜の善光寺さんを撮影し、他の人にも「夜の善光寺さんは中々見れませんよ」と薦めた。
 宿坊に着き、ご住職のお話があり、善光寺が広くすべての宗派を含むことは知っていたが、天台宗と浄土宗が元であることを初めて聞いた。その後再び事務局からの注意事項と明朝の予定、朝の長野は摂氏六度と聞き、午前三時半頃二つの大部屋に別れて明かりを落とし、事務局を除き全員雑魚寝で仮眠に入った。

2. 26日朝
 二十六日午前五時、起床の合図があり、再度事務局より、相当人数の中国人の動員がなされているとの報告があり、ついで我々の具体的行動についての話があった。兎も角できるだけ団体行動をし、仲間同士離れないようにとの注意があり、その後我々全員に防護服が支給された。防護服といっても服ではない。二十五センチ×三十五センチ位だろうか、厚いビニールの袋の中に紙等を重ね入れたもの二枚、その四角に穴を空けてビニール紐を通し、この二枚を前(腹部)に抱え後ろ(背中)に背負って紐で絞めて揺るがない様に工夫したものである。へえ、こんなのが売られているんだ、と珍しかったが(後に事務局の自作と判明)、取り敢えずこれでボールペンは撃退できると一応の安心を得た。殆どの皆さんは、黒の地に白い「草莽崛起」の文字が入り、その下に雪山獅子のチベット国旗をあしらったティーシャツを購入し、これを「防護服」の上に着こんだのである。話を聞きながら、前日のバスの中で配られた赤飯を朝食としていた人もいた。
 さて愈々行動に移ることになる。まず良好な場所を確保する必要があり、我々の行動の拠点確保のため約二十名の先発隊を募ることとした。またこれと別途、現地(長野)集合者を迎えるため三名を募り、筆者はこちらを担当した。残りの人たちは、八時半の善光寺参拝及び、八時十五分の「我々の聖火隊」(=後述)の三門出発時間を確認し、取り敢えず散会。筆者は現地集合者迎えの出発までの時間、善光寺さんへ参拝にでかけた。宿坊を出て三門の方に向かう途中にはチベット国旗を持つ個人やグループなども見かける一方で中国旗は殆ど見かけなかった。敵も流石に善光寺境内に入るのは遠慮していたと見える。
三門を入る時、昔(昭和三十年頃)は此処でお婆さんが鳩の豆を売っていたこと、更に境内では、参拝者の慈悲を求めて白装束の傷痍軍人が松葉杖を脇にして立っていたこと、本殿正面には大きな香炉があり、この香煙を浴びれば頭が良くなると言われ、背伸びをして懸命に手で頭に煙を被っていた幼い私。今更遅いが、今回も一束百円のお線香に火をつけ、香炉に投入しながら、その様なことが懐かしく思い出された。

3. 先遺隊出発
 六時十五分、先遺隊――現地拠点確保組と現地集合迎え組を合わせ二十名強が一緒に宿坊を出発する。目指す場所は、前者グループはイトーヨーカドー駐車場、後者三名は長野市役所前。私は平成十六年二月二十八日新宿での台湾支持デモの時に自作した頑丈な木製プラカードを持っており、今回これを長野に持参して来た。既に「中国は チベット弾圧を やめろ!!」「中国はやめろ チベット人弾圧を 許さないぞ!!」等スローガンを書いた模造紙を張り付けてあるが、まずは挑発を避けるために文字はビニール袋で見えない様に隠してある。他の人達はチベット国旗と日本国旗を掲げ、私は片手で旗を揚げ一方でこのプラカードを下げながら、本殿及び三門を背にして仁王門を出た。暫くは石畳の参道がある。これを下り、参道外(市街)に出ると愈々、赤い旗が目に付いて来た。それでも未だ未だ初めのうちはチベット国旗の他のグループも多く見られ、全体的には半々くらいだったかと思う。
 相手は特に殺気立った様子も無く、すれ違う時には、サッカーのサポーター宜しく両頬には五星紅旗と日の丸をペイントしている者もいた。また「日中友好」の垂れ幕や日の丸と五星紅旗を表と裏にした旗もあった。しかもこれらの旗を我々に向かって笑顔で振っているのである。全員が若い学生であり、我々の様な年配のグループは一人も見かけなかったと言ってよい。思うに、中国政府からの動員命令には、「友好」を目的にせよとでも言われ、遠足気分で来た学生も多かったのではないかと思う。
 これに安心したのか、我々のグループでもスローガンを書いた垂れ幕とかプラカード(柄の付いたもので無く単なる板紙状のもの)を揚げ始めた。そこで私も折角長野まで持って来たとの思いもあって、ビニール袋を外して自家製木製プラカードを堂々と揚げ始めたのである。
 善光寺を背にし、「フリーチベット」を叫びながら、市街を南に下る道路の左側歩道を進む。こちら側にはチベット旗グループとも遭遇する一方、赤旗は少なかったように思う。一方道路の反対側はかなりの赤旗がひしめいており(チベット旗は少ない)、道を挟んで対立のような構図であった。更に街路を下るにつれて、反対側の赤旗は数を増して来ており、こちら側にも多くの赤旗が入り始め、二十分ほど歩いた緩やかな坂を下り切った信越放送の交差点辺りに着いた頃は、こちら側も反対側も歩道は全て圧倒的な数の赤旗がひしめいていた。交差点では数でこそ負けるがチベット旗も赤旗の中で健闘していた。「フリーチベット」と敵の「チャイナ・加油(=ガンバレの意)の掛け声が錯綜。時刻は午前6時半過ぎ頃か、此処までは未だ不穏な動きは無かった。

4.先遺隊の衝突
 此処から我々グループ二十数名は目的地に向かうため左折する。昭和通り左側五分強ほどで「市役所前駅」のもう一本東側の交差点を渡った。既に此処には赤旗が一杯であるが、我々は市役所に行くにはここを右折、昭和通りを南に渡らなければならない。止む無くその中に割り込むように入って行ったが、交差点での歩道の狭い場所での遭遇と互いが集団行動の為、当然敵とは身体が触れ、押し合いのようになった。一方で「早く向こう側に渡れ」の声。然し警察官が間に入ってきた時には、運悪く信号が青から赤になり、約半数が信号を渡ったが、(私も含む)半数は取り残されてしまった。こちらサイドの警官は赤旗連中と我々を分けるようにしていたが、既に交差点を渡った方を見るとこちらほど多くはない赤旗グループとの間に何かトラブルがあった様子で、警官二名の慌てた様子が見える。やがて信号が青になり我々も渡って先に渡ったグループと合流した。
 合流した後暫くそこに留まり、「フリーチベット」を叫んでいるうちに、赤旗の数が増えてきた。先遺隊は元々拠点確保が目的のため大きな日本の旗やチベットの旗は持っていない。やがて彼らの赤旗がこちらに覆いかぶさるように迫ってきた。その時にプラカードが目立ったのであろうか、背の高い普通の学生よりも老けて見える赤旗男が私に向かって来て「オッサン、何だよ、プラカードなんか持って!」と流暢な日本語で迫ってきた。これは危ないと思った瞬間右横から赤旗数人が押されて割り込んで来て、私もまた一歩引いて事なきを得た。警官が又間に入り、全体もこれ以上揉めることは無かった。しかし中国人学生ではなさそうなあの男は一体何者だろう。
 この後拠点確保グループ二十名はイトーヨーカ堂に向かい、私と二名は交差点から二、三百メートルほど南の長野市役所玄関前に向かった。ヨーカ堂グループは、我々少数三名のため遠回りをしてくれたのである。
 市役所玄関前で「草莽崛起」のプラカードを掲げると現地集合者数人が寄ってきた。七時十分まで待って十名弱の同志を得て、一緒に一旦宿坊に戻ることとした。中に一人二十歳前後だろうか、誠実そうな好感の持てる若者が混じっており、聞けばこの為に一人で福井から来たとのことである。帰りは少数でもあり、刺激を避ける為、私もプラカードに再び覆いを被せ、下げて持つことにした。先ほどの衝突した交差点に差し掛かると、警官の指導と思われ赤旗グループは交差点から二十メートル離れた場所に移動させられていた。宿坊に帰るまでの約四十分、善光寺に向かう上り歩道は両側とも赤旗一色とも言ってよく、別のチベットグループとは行き違うが、相手の圧倒的数の前に「フリーチベット」の声も出す事は憚られた。一方で彼らは争いはやめるように指示が出ていたと思われ、我々を威嚇や挑発することも無く、あちこちで仲間と談笑をしていた。コンビニの前あたりが特に多かったように思う。彼らにとっては他国での集団ピクニックと言ったところだったのであろう。
 善光寺につく前頃(八時前)から雨が降り出した。丁度聖火がスタートする時刻とも重なり、聖火のスタートが終わった頃に降り止んだ。これも何かの啓示であろうか。

5.本隊の出発
 我々グループの本体が先遺隊の拠点(イトーヨーカ堂)に向けて出発する予定時刻は八時過ぎであるが、多くは既に集合場所の三門に集まっているというので、宿坊には戻らず三門に行った。昨夜バスで顔を知った人達多くが集まっている。聞けばフジテレビが八時に撮影に来るとの事である。我々はただ行進するのではなく、火のつかない張りぼての聖火を作り(遺棄化学兵器のM氏製作)、これを先頭に行進し、アピールする計画であったのでこれの取材らしい。周囲の人達と談笑しながら時間を潰す。先程の福井からの若者には「善光寺への参拝は」と聞くと「(未だ)ない」と言う。そこで「牛に引かれて善光寺参り」の話をして、一生に一度かも知れないから参拝して来る様に薦めると、勇んで本堂に向かっていった。因みにこの話は「昔不信心で強欲の老婆がいて善光寺にお参りしたことがない。ある日牛が洗濯物の大切な布を角に引っ掛けて逃げ出した。それを追い掛けているうちに善光寺についてしまい、そのご威光の有難さに跪き、以後信心を持つようになった。」というものである。周囲の数人も「そういうお話だったのですか」と。
 八時十五分、チベット弾圧犠牲者の法要に出る人達を除き、グループは聖火を先頭に三門を出発した。朝先遺隊として通った街路を再び下る。既に聖火はこの道を下ってコースを走っている。朝と違って赤旗は殆ど見られなかったが、他の人から聞けば、聖火が通り過ぎたあと、これら動員された圧倒的数の赤旗グループが一斉に波が引く如くいなくなったと証言している。全員別の場所に移動したものと思われ、明らかに統率者がいて組織的に動いていることを思わせた。
 約二十分ほど下り、八十二銀行のある交差点の近くに来ると、再び圧倒的数の赤旗が集まっている。これとも衝突は避けるようにして、交差点を左折して長野大通り方面に向かって緩い坂道を下った。こちらには赤旗はいない。我々は粛々と日本チベットの両国の国旗やプラカードを掲げ、「フリーチベット」の掛け声と共に整然と目的地に向かっていた。ところが大きな赤旗を持つ一名の日本語を話す中国人(?)が意識的に我々のグループ内部に紛れて、赤旗を振りながら一緒に行進をしているのである。グループからは「あれは何だ、おかしいではないか」との声が上がり、私も一緒になって「(グループから)出て行け!」と声を上げた。賊は「此処は公道だ、自分は此処を歩く権利がある」などと言っている。「我々と離れて歩け」等言うが依然として離れようとしない。仕方がないので数人で賊を囲むようにして、行進スピードを落とし本体から離れたところで賊を解放してあげた。時には偶然、相手を強く押し出した様な結果になったことがあったかも知れないが、五分ほどで諦めて離れていった。
 しばらくして横断歩道を横切り右折、そこから長野大通り右側を南進し五分ほどでヨーカ堂駐車場傍の一般歩道に到着、先遺隊と合流した。此処は長野の歓楽街「権堂」の入口(出口)にある。此処は昔から善光寺参りに来た人達がお参りを終えて「精進落とし」をした場所であり、人通りも多く拠点としては適所である。到着した初めは比較的空いてお、赤旗も多くはなかったようである。また早くから聖火を見ようと来ていた一般の日本人女子学生などもいて、歩道の一番前車道側に陣取って聖火を待っていた。我々も最初の計画では此処で待機しながらシュプレヒコール等を行うことにしていた。しかし赤旗グループはチベットの旗が多く見られるところへ集まって来るようであり、やがて此処も彼らの旗が多く占拠するようになってきた。警官の数も次第に多くなり、一般歩行者は目立たなかった。
 誰かが「ここで止まっているよりも、行進を続けて移動しながらの方が一般にもアピールできる」と提案し、私もその通りと思ううちにこれが支持され、移動を開始した。この時、後ろの方が此れに気付かずに一部が取り残されそうになった。大学で応援部であった私はお役に立つのはこの時とばかり大声で「皆さん移動しますよ」と声を掛けた。我々は再び「フリーチベット」の声を上げながら長野大通り歩道を南進し始めた。

6.本体と赤旗隊の衝突
 行進開始後約五分、鍋屋田小学校当たりの歩道には赤旗がところ狭しと密集していた。ここは聖火の通り道近くである。これは少々ヤバイぞと思い赤旗の間を素早く抜けるようにして進んだ。ところが本隊の真ん中辺りにいた私がすり抜けた後に背後を見ると誰も就いて来ない。それどころか、赤旗集団が歩道を塞いでおり後部部隊が見えないのである。どうしたのかと見ていると何かざわついている。本隊は通り抜けた後直ぐの交差点で止まり後続を待つ。この間約30秒程度だろうか、やがて歩道を塞いでいた赤旗集団の真ん中が割れ、後続部隊が我々に追いついたので安心した。
 しかし後で判明したことであるが、この後続部隊は敵にやられたのである。目撃者によれば、揉めていた時に突如シナ人女性が突進してきて、後続部隊に跳び蹴りを食らわせたのである。直ちに後続部隊がこの女性を捕まえ、写真も撮ろうとしたところ、それよりも素早く女性はその場を離れようとし、我々部隊と女性の間に多数の赤旗部隊が乱入して来たために、ついに逮捕することが出来ず逃げられてしまった。この時に怪我をしたのが産経新聞5月5日の一面トップ記事になったN氏である。氏はその脚ですぐ病院に向かったのである。またもう一人敵に顔面を殴打され転倒し、更に足蹴にされた挙句に眼鏡を落としてなくしてしまった仲間がいた(T氏)。医師の診断の結果、第五腰椎骨折(全治六週間)であった。複数の目撃者はこの一部始終に対し、敵は予め訓練されているか或いは明確な行動指示が出ていたとしか考えられないと言っている。なおこの二名と更に一名は後日被害届が受理され、5月17日長野県警に呼ばれ事件の事情聴取と実地検分が行われている。

7.旗の先陣争い
 さて後続と合流した本隊が再進行後に立ち止まった長野大通りと昭和通りとの交差点は、間もなく聖火が通ることであったが、今までの他の場所と違い赤旗も居たには居たが、初めは意外に空いていたように思われた。よって我々のチベットの旗も車道からも見える場所に数多く掲げる事が出来た。しかしそれも束の間で、数分後には我々の周囲には、矢鱈にポールが永く高く掲げられる旗、直系三センチもあるようなアルミ製ポールで旗を丸めればそのまま凶器になるもの、チベットの旗を隠す為の畳二畳分ほどの大きな旗、その他大小赤旗が、明らかに我々のチベット旗を彼らの赤旗の中に埋没させる目的で集まってきた。我々も黙っていない。少しでも多くのチベット旗が聖火隊の目に触れるようにと、当初からの車道側の位置を死守しようと懸命であった。そして敵はまたこれを遮ろうと、大きな赤旗を横から或いは上からチベット旗に覆い被せるように突き出してきた。以後旗の先陣争いとも言える戦いで彼らの執拗な妨害行動が続くなか、我々の中でも勇気ある数名は、覆い被さる赤旗幾つかをポールから抜いてしまったり、運動会棒倒しよろしく敵の旗を引っ張りポールを倒すようにした。先陣で既に場所を確保していた我々を、後から来た輩が大きな武器(旗)でそれを遮ったのであるから正当防衛行動であると断言する。
 さて此処では直接の肉弾衝突は起きなかった。彼らの上部からの指示が徹底していたのではないかと思う。私はシナ人と目される濃紺のジャンバー(?)を着込んだ、一般学生よりも老けた(30歳以上と見える)男が、旗の戦いには加わらず、現場を見回りながら衝突をしないように指示を出していたのではないかと推測される。それでも一度だけ交差点車道側から強い集団の力が一斉に加わり、私も含め十名弱が転倒しそうになったことはあった。
 ところで私は旗は持たず、常に自家製のプラカードを持っていた。初めはこれを出来るだけ高く掲げようとしていたのであるが、やがて奇妙なことに気付いた。若いシナの学生たちはプラカードを見ると一様に顔を横に背けるのである。考えて見れば「チベット」こそカタカナであるが、彼らは「中国」「弾圧」「虐殺」「止(めろ)」などの漢字は読めるのである。そこで私は高く掲げることを止め、努めて彼らの目の前に露骨にプラカードの文字を突き付けるようにした。勿論「フリーチベット」を叫びながら。そしてこれは効果覿面(てきめん)であった。みな顔を背け、また意気が萎えるような顔をする。
 さて聖火は、この旗の先陣合戦の間に通りを通過した様であるが、私を含め我々の殆どもシナの学生も聖火リレーを見ている余裕などは全くなかった。勿論我々の戦いの中に一般の人は皆無であった。また警官は聖火隊の警備に忙しいのか、我々の旗合戦には介入して来ないようだった。
 やがて聖火が通り過ぎ数分後、旗の戦いも穏やかになり、赤旗も心なしか少なくなった。我々も本隊から「引き上げ」の指示が出て、戦闘は大通りを右折し、昭和通りを西に向かった。このとき又も後続部隊十数名が引き上げに気付かず取り残されそうになったので、再び私の「応援部」を活用した。昭和通りを進み始めて数十メートル、私は後ろから背中を軽く突かれた。何事ならんと振り返ると、若き闘志、日本保守主義研究会I君の人懐こい笑顔である。互いの健闘を讃え合い、数枚の写真を撮った。
信越放送の角を右折し善光寺に向かって北上した。途中には未だ多くの赤旗が林立しており、その陰にチベット旗も散見された。11時頃宿坊に凱旋した。

8.宿坊での会話
 昨夜は遅く、今朝は早く、更には戦闘と、皆かなり疲れたようであった。NHKテレビで、聖火リレーのニュースを見た。福原愛の走行中の妨害が何度か映された。我々の感覚ではチベットの旗も部分的には目立っていたのだが、テレビでは赤旗一色であった。そういう場面を選んで放映していたのだろうか。
 以下は宿坊での幾つかの会話である。
 「敵の旗の大きさと多さには圧倒された、我々は遠慮し過ぎていたかも知れない。旗も大きいのを用意すべきだった。」
 「彼らは指揮命令系統がはっきりしていて行動が一斉である。これに比べれば我々は全くの素人。」
 「やけに日本語が上手いのが混じっていたが。」
 「そうその通り、『日本人か』と訊いたら、『韓国人』と答えていた。」何故韓国人が?
 「ところで創価学会二千人は何処へ行ったのだろうか?」
 「そういえば分からなかった。中国人の中に紛れ込んでいたのかも知れない。日本語の上手いのがそうかも知れない。」
 筆者注:後に発表された中国人の数は約六千人だったとか。とすると当初動員予定中国人数四千人+創価二千人?また、上記「4.先遺隊の衝突で私のプラカードに迫ってきた背の高い日本語男はひょっとして創価・・・・?」
 やがて宿坊の「精進料理」で昼食、その間に先の怪我をしたN氏が戻ってきた。この件の今後の対応については事務局に一任となった。

9.帰りのバス
 昼前から降り始めた雨は午後には本降りとなり、午後1時、新幹線で帰る人等を除きバスに乗り込み、雨の中帰路に就いた。最初の休憩所「横川」までは車内多くが爆睡。
 横川を出る前、売店等へ行きバスに戻った人が言うには、「動員された中国人学生と思われるが、先程売店では彼らとにらみ合いがあった」とのこと。東京から動員された彼らが丁度休憩所を同じくした訳であるが、誰かが隣のバスもそうではないかと言う。窓越しに左隣のバスを見ると、疲れた顔の若者がうつむき加減に空中の一点を見つめていた。
休憩所を出てから、全員にマイクを回し本日の感想等を述べて貰うことになった。中国の横暴、日本政府の体たらく等々意見などが出た中で、次の様な意見があった。  
「彼らは必ずしも政治的意図を明確に持って動員されているのではないと思われる。日当も出てバス旅行が出来て、言わばミーハー気分で参加しているのが大半のように見える。ある意味では可哀想な人達ではないか。」
私も前述のとおりその雰囲気を感じていたが、他の人も見るところは同じと思った。そして恐らく彼らは、我々が自由に「フリーチベット」を叫び、公然と反政府行動が出来て官憲もそれを咎めないこの日本という国を羨ましく思ったに違いない。中には動員令が出ても行きたくは無かったが、断ると本国に居る家族の身に如何様な影響が出ないとも限らないと考えたかも知れない。そう考えると、先程のバスの若者の不機嫌そうな表情も頷ける。
前言を受けて「彼らが将来本国へ帰り、自由な国を作ろうと考えることを期待する。」と述べた人も居た。私の番が来て、私は「先程のミーハー気分の参加というのは当たっていると思う。」として、前述の「プラカードの彼らが読める弾圧、虐殺の文字を面前に突き付けた効果」を説明した。
午後五時前、解散場所新宿駅に着く直前に丁度マイクが行きわたり、世話人の挨拶のなか到着、解散となった。その後意気投合した人三人でのどを潤し、健闘を讃え合った。この二人とは、5月6日の東京水谷橋公園のデモで再会し、終わったらまた一杯・・・・。
扨て既にシナの国を挙げての傍若無人ぶりは広く国民に知られるところとなったが、一般マスコミは産経新聞を除き、これを報じるのに身が引けている。彼らは空気を読み間違えていると思われる。一方で、4月26日夜の日本テレビでは、胡錦涛が中国学生の行動に祝辞を与えたことが報道され、またユーチューブでは福田首相が明確に中国寄りの発言をしていることが明らかになっている。現場の警察官は本心は別として、サラリーマンとしての職務に忠実にならざるを得なかった筈である。警察権力の背後にいる福田の罪は大きく、将来最低の首相と評されるであろうことは間違いない。
五月十二日四川省の大地震が起こった。被害者は、本当に気の毒であるが、あの国では、災害は時の皇帝の不徳が原因と考えられている。シナ共産党は労働者独裁の名の下に、政治・経済を独占するばかりか、精神の自由をも抑圧している。オリンピックなどを主催している場合ではない。

                      以上












日本は単一民族国家である――中山国交相への応援歌
 
  平成二十年九月二十七日           NPO法人日本パラオ協会
                          理事長 

 本日の新聞報道によれば中山成彬国土交通相が「日本は単一民族である」と発言したことに対し、共産党等が罷免要求をしている。そして一般にも、これは中山大臣が間違っているかの如く受けとめる人達が多いようである。しかしこれは一般のほうが間違っており、中山大臣の言うことは正しい。共産党は例によりわが民族の解体を目指す政党であるから論外であるが、一般の誤解は解いておかなくてはならない。

この「日本は単一民族か」と言う問題については本年三月二十日産経新聞、石原慎太郎東京都知事の月一連載「日本よ」で、「日本の国民が単一民族からなっているなどというのは基本的に間違った歴史認識で、我々の民族的ルーツは東西南北あちこちにある。」との発言をされ、更には外国人の移民を積極的に受け入れるべきであると主張していた。
 更に三月二十五日には国家基本問題研究所の講演会で、代表の櫻井よし子氏が概ね次のように述べていた(録音要約)。
「大陸や朝鮮半島、海等色々な方面から来た人が日本列島に行き着き、そこで止まって日本人になった。よって日本は世界で最も多様性に満ちた民族であり、多民族の行き着いた先である日本民族に対して大和民族であるとか我々の血は純粋であるとかは間違いである。」
更にまた起訴休職外務事務官佐藤優氏は、月間日本(七、八月号)で、アイヌ民族先住民決議に関連して「日本は多民族国家である」と断言している。
以上のとおり保守と看做され発言力があると目される人達でさえ「日本は多民族国家である」という認識に何の疑問も持たずに発言されており、しかも現在までこれに対する明確な反論が為されていないこともあって、一般の人達には「日本は元々多民族国家ならば移民受け入れでよいではないか」との錯覚を与えかねない状況になっている。そしてこの論議は次は容易に、「先進多民族国家の欧米に倣い移民を容認すべきである」に変容してしまう。これは由々しき問題であり、そこで筆者は、「民族」とは何かとの語義からも実態からも、日本は「多民族国家」ではなく、むしろ「単一民族国家」という方が妥当であることを示すこととする。

 初めに「民族」の定義であるが、複数の辞典を要約すると「人種・言語・歴史・文化・宗教等の要素を共通にする一団の人々」と解される。したがって「単一民族国家」とはある一定期間に右の要素を共有する人々だけで成立している国家であり、「多民族国家」とは要素を共有する集団を同一時期に複数抱えている国家ということになる。具体的には米・露・支那等の大陸国家は全てそうである。
さて石原氏も櫻井氏も「日本の国民は単一民族ではない」と言われるが、これは「単一民族」という言葉の解釈により議論を要する。多分両氏とも「単一民族」とはアイヌとか、アメリカインディアン等のイメージを持たれておられるのでないかと推測される。したがって一般の人が「日本は単一民族」と言ったことに対して、両氏が「日本列島には元来から日本人という古来からの単一人種民族だけが住んでいたのではない」ことを言いたいのであれば、これ自体は別に間違いではない。
しかし中山大臣や一般に「日本は単一民族」と考える人達は、石原・櫻井両氏のような意味で言っているのではないと思う。何故ならば両氏が幼少教育を受けた頃はいざ知らず、筆者のような戦後世代は昔から教科書で、日本人は方々から渡来した人達の混血であると習っている。従って石原氏が「我々の民俗的ルーツは東西南北あちこちにある。」と言い、櫻井氏が「大陸や朝鮮半島、海等色々な方面から来た人が日本列島に行き着き、そこで止まって日本人になった。」と言うのは全くその通りであり、現在では殆どの日本人もそのとおり思っている筈である。では両氏のどこが違うのか、それは各所から来た渡来人たちのその後の「混血」の量と時間の捉え方によると考えられ、筆者から観ればお二人にはこの点の考証が欠けていると思われる。

さて現在の我々は、周辺から渡来した諸民族の少なくとも一万年以上の長い時間による混血の末に完成した日本人であり、既に他国とは違うDNAを持った民族であることも自覚しているのではないだろうか。特に地上で国境を接し互いに頻繁に攻防を繰り返して来た世界の殆どの陸続き国家と違い、日本は海という天然の壕のお陰で多年に亘り他国から侵略されたこともない。また石原氏の言われる限られた国民の間の混血は、徳川時代に限らずそれ以前からであり、海外からの渡来も歴史上一般には少数且つ散発的であり、その後は短期間に日本に同化してしまい、日本人全体の遺伝子が急激に根本的に変わってしまうことはなかった。そしてこのような結果、現に例を挙げればABO血液型や男子のみに継承されるY染色体の型の保有比率は、世界各国と日本では明らかに違いがあり、これら遺伝子の日本型組み合わせが個人の性格もその集団である国家の性格もある程度規定していることは紛れのない事実である。
これを見ればこの日本列島の中では、古来同一時期に複数の渡来した民族文化集団が長期間にわたり分居していたようなことはない、つまり日本が「多民族国家」であったことは一度としてなかった。それらの渡来人は比較的平和な島国の中での交流により、元から居た既に混血同化が完了している日本民族に混血同化して、ほんの僅か進化した新しい日本民族の仲間となった、ということが繰り返されて来たのである。
 櫻井氏は「日本は世界で最も多様性に満ちた民族である」とも述べた。文意が曖昧であり、多様性に満ちた民族とは「多民族国家」を想起させるが、血も文化も共有している民族を「多様性に満ちた民族」とは言わないほうが誤解を招かず宜しいかと思う。
櫻井氏はまた「大和民族」を否定しておられる。しかし上述のとおり、世界から隔離された日本列島において、日本独自の血と文化が極めて少しずつ進化し築き上げられて現在の「日本民族」が出来上がったことは疑いなく、長い時間を経ての混血同化が完了している現在の日本において、これを以って「進化した単一純粋民族」と捉えることは可能であり、更にはこれを「大和民族」と称することも決して間違いではない。むしろこれ程長期間に混血後のDNAが安定し、言語も文化も共有している民族を「単一民族」と呼ばないなら、世界には単一民族国家など一つもないと言ってよいであろう。筆者はわが国のアイデンテティ確立の為にも、他国が真似の出来ない二千年の連続した歴史を踏まえた「大和民族」の名称を誇りを持って子孫に伝えていくことこそが、現在の「単一民族日本人」の使命ではないかと思う。
以上により、石原氏・櫻井氏が筆者と異なる点が明らかになった。両氏も筆者も、おそらく日本人の殆んども、日本民族のルーツは海外東西南北にあるとの認識までは同じである。しかしその後で両氏が「日本は単一民族ではない、多民族国家である」かのごとく勘違いした原因は、単純に言えば「単一民族」と「多民族国家」の言葉の定義を曖昧にしたまま論じたことに尽きると思っている。中山大臣の方がむしろ言葉の定義を解って言ったのだと筆者は考える。そして一般には以上が解れば一件落着でよい筈であった。
さてしかしながら本文冒頭に述べたとおり、日本民族を「単一民族」と捉えるか「多民族国家」とするかは、既に政治問題になってしまった。石原氏・櫻井氏お二人の意識はどうであれ、日本民族が事実に反する「多民族国家」であると認めることは、次は容易に大量移民受け入れ容認に繋がっていくのである。そしてさらに危険なことに、石原都知事は一方でこれに附合し、「日本=単一民族」を否定した上で、大量移民受け入れを奨励しているのである。これはとんでもないことであるが、取り敢えずは本文は中山国交相への応援歌として、石原氏への批判は別の機会にする。

最後にアイヌのことについて補足する。内外地理研究会代表、茨城県の高校教師小菅清氏は、「今日の日本にアイヌ民族は一人も居ません。」「居るのは自称アイヌ民族(正しくは旧アイヌ系の日本民族)だけです。」と指摘している。アイヌは既に多くが日本人に混血同化していることは調べればわかることであり、これと差別云々は別である。アイヌ問題が国会に取り上げられ、左翼系の運動目的になった現在、筆者も基本的に小菅氏の見解が正しいと考える。

                                    以上