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三澤 廣氏の活動報告
(作家)

 三澤 廣氏の一覧


セクハラはリベラルから  (H30-9-19)

セクハラはリベラルから     三澤廣   H30-9-18

 最近のセクハラ騒動は常軌を逸しています。
 政治家がセクハラをしたために、謝罪させられ、甚だしきに至っては、辞職しなければならなくなる。しかも、そんな事件が繰り返し繰り返して報道されるのです。かくすればかくなるものと知りながら、ついつい言動を抑える箍(たが)が緩んでしまうのでしょうか。
 今回は「言葉によるセクハラ」だけを取り上げます。「行動によるセクハラ」はまた後程。
 馬鹿といえば馬鹿なのですが、どうして一線を越えてしまうのか(「一線を越える」って、ここでは「いけないことを言ってしまう」という意味ですが)、自分の経験から推測して、その心理は容易に察せられます。
 モリカケ問題以後、ウラなんか取らずに、臆測でものを言ってもいいという風潮になって来ましたので、私も根拠のないことを想像だけで言わせてもらいます。
 福田淳一前財務次官がテレ朝の女性記者S氏にしてやられた一件が一番分かりやすい例です。前々から二人切りで食事をする仲になっていたのです。信頼関係が成立していると男の方は思ったはずです。その状況で、単純な言葉だけのセクハラを針小棒大に告発して、エリート官僚の首を取ってしまうというのは、背信行為としか言いようがありません。
 それなのに、S氏の不誠実さを非難する声はあまり聞かれません。そんなことを言っただけで、「おまえもセクハラ男なんだ」と連坐させられてしまうからです。いじめられっ子を庇ったら、自分もいじめられてしまうという最近の中学生と同じです。ただ一人感心したのは、S氏の味方をしそうだと思われるアンチ安倍の小林よしのり氏が、意外なことに「テレビ朝日が悪い。この事件を安倍叩きに利用するな」と言っていることです。
 S氏が録音を編輯して、自分の声を消し、福田氏の声だけを週刊誌に持ち込んだというのは、自分から誘いをかけるようなことを言ったからであることは間違いありません。
 MeToo運動に携わっている人たちは、「女が不愉快だと思ったら、もうセクハラなのだ」と言います。じゃあ、何をどこまで言っていいかの基準はないのですね。基準のないことを、恣意的に取り上げて叩くのですから、嫌いな男を陥れるための謀略になっていると言っても過言ではないでしょう。
 でも、逆に言うならば、女が不愉快に思わないレベルなら、性的な話を楽しんでもいいのですよね。それとも、性に関する会話は女性の前では一切いけないことになるのでしょうか。はっきりさせてくれと思うのは私だけでしょうか。

 一体に、女性がセクハラに敏感に反応するのは、性の話をするのが好きだからです。週刊文春の連載「淑女の雑誌から」を読むと、女性がどんなに好色かが分かります。男も好色なのですから、こう言っても女性差別にはならないでしょう。
 女性は「セクハラはいけない」という話題が、性に関することだから好きなのです。小さな男の子が排泄物に関する名詞を口にするのが好きなのと同じことなのです。ただ、「性の話は下品だ」という意識は持っているので、「淑女の雑誌から」に投稿するような積極的な女性を除いては、自分から言い出すのはいやなのです。
 そこで、男がセクハラ発言をしたのを捉えて、それに反駁する場合には、「私はセックスの話題が好きで言っているんじゃありません」という大義名分ができるので、嬉しくてたまらないのです。しかも、正義のために戦っているという気分になれるのですから、一回やったらやめられません。覚醒剤みたいなものです。
 昨今のセクハラ騒動は、女性の「過剰な性意識」から始まったものだと私は承知しています。
 その「嬉しくてたまらない」気持と、政治的な利害関係が結びつくと、完全な中毒症状に陥ります。
 福田次官は、「occupyさわっていい?」と、そりゃあ、さすがに私でもひどいなあと思うことを言っています。しかし、それまでにどんな会話があったのでしょう。
 ビクビクしながら、「もうちょっといいかな。いやな顔をされたらそこでやめよう。あ、今、笑ってくれた。もう少しエスカレートしても許されそうだな。この女、セクハラされるのが好きなのかも」とスリルを味わいながら、性的な会話を楽しんでいたのです。それがふつうの男というものです。
 福田氏が「全部聞いてくれれば分かることだ」と言ったのは、そういう意味だったのです。
 豈図らんや、罠だったとは。S氏は、始めから(少なくとも途中から)福田氏を陥れるつもりで、笑顔で応対していたに違いありません。「やめて下さい」と言えばよかったのに、黙っていたのです。不愉快な顔もしなかったに違いありません。こんなふうに足を掬われるのだったら、男はみんな冗談を言ってはいけないということになってしまいます。

 話は違いますが、S氏、これから仕事がやりにくくなるでしょう。政治家も官僚も、S氏と二人切りで会うのはいやがります。オフレコと言ったって、約束を守ってくれないのですから、二人切りでなくても、この人のいる所では、用心して口を閉ざすでしょう。他の記者にも迷惑がられてしまうでしょうね。むしろ、望月衣塑子さんのようにあっけらかんとしている方が好意を持たれるのです。
 菅官房長官、望月さんのことはそんなに嫌いではないのかも知れません。でも、S氏のことは嫌いになるでしょうね。望月さんは自分が目立とうとしているだけで、迷惑な存在ではありますが、少なくとも、人を不幸にしようという暗い情熱は持っていないようです。
 知らない方のために注釈を附けて置きますが、望月衣塑子(いそこ)さんという方は、東京新聞の記者です。菅官房長官の記者会見で、長々と演説口調の質問をして、毎回司会者から「結論を言って下さい」とせかされる人。官房長官も辟易している様子ですが、美人でもあり、私の知人の六十代女性は、「菅さんが衣塑子さんの質問に答える時、鼻の下が長くなってるみたい」と言っています。

 セクハラを告発する人たちは、ほとんどがリベラルです。リベラルとは「自由な・自由主義的な」の意味であるはずなのに、現実には、中国・北朝鮮のような監視社会を作りたいという立憲民主党系の人々が自らリベラルと名乗っているのです。これが笑わずにいられましょうか。しかし、その定義はいずれかの機会に回すことにしましょう。

 戦後になって、昭和のうちは、謹厳実直で面白みのないのは保守反動の男たちであり、セクハラ(そういう用語はありませんでしたが)を自由に楽しむのはリベラル(これも当時はその用語なし)だということになっていました。
 謹厳実直な人を揶揄する言葉が、「道学者」「道学先生」でした。リベラルな人々が、保守派の真面目な人を誹謗するために使ったのです。
 「道学先生」は偽善者だと誹謗した代表者は、石坂洋次郎氏でした。朝日新聞はこの人にご執心で、昭和四十年頃には「光る海」を連載していました。
 この小説は、典型的なセクハラ小説です。男女の間で忌憚なくきわどい性の話をすることのできるのが戦後の新しい社会にふさわしい態度だと説教したのです。なにしろ、初対面の女性の胸を「つんつん」とつつくのがリベラルの挨拶代わりだということになっていたのですから惘(あき)れてものが言えません。
 因みに、石坂氏は日本社会党の支持者であることを公言していました。

 阿部進という人を覚えていますか。(去年亡くなったようですが) 昭和三十年代からの無知性リベラルの代表です。(「無知の性向あるリベラル」ではなく「知性無きリベラル」の意) 小学校の教師だったのですが、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として有名になり、進歩的な言動で世を騒がせました。性的な問題についても、自由な発言をすべきだと主張したのです。
 私は、まだ学生でしたが、氏が小学生の女の子に向かって、公然と「おまえ、いいケツしてるな」と言ったという記事を読みました。マスコミはそれを、フランクな態度だと言って褒めたのです。
 私は、教師志望の友人に向かって、「これ、どう思う?」と訊いてみました。日教組かぶれの彼は、「開放的だから、いいんじゃないの」と言いました。私が「いくらなんでも、これはひどすぎるよ」と憤慨したら、「そう言われればそうだね。ひどすぎるかな」と言うのです。
 日教組かぶれだから、信念などないのです。自分では判断できないから、人の判断に縋(すが)るのです。「そう言われればそうだね」という言葉、最近では、マスコミの奴隷になった情報弱者の合言葉になったようです。今では、「仕事関係の女性を食事に誘ったら、もうセクハラです」と言われると、「そう言われればそうですね」と言わないとリベラルではなくなってしまうのです。
 この阿部進氏は、永井豪氏の一世を風靡した漫画「ハレンチ学園」が世の父母から弾劾されたときに、一生懸命弁護しました。
 そこで、今度は漫画家・永井豪氏ですが、スカートめくりを世にはやらせた元凶です。元暴力団員を夫にしているさる女性代議士は、高校生だったときに、友達に「茶巾寿司」という酷いいじめをして、精神疾患に追い込んだそうです。こんなのも「ハレンチ学園」が広めたのです。
 永井豪氏もリベラルで、先日も週刊誌で安倍政権を批判しているのを読みました。権力に反抗するのが好きだということです。
 リベラルが、どんなに「ハレンチ学園」を称賛したかも、覚えている人は多いでしょう。
 リベラルの方々に、今、「ハレンチ学園」をどう評価しているのか、訊いてみたいものです。
 ついでながら、「大橋巨泉氏が日本を悪くした」と思っている人は少なくありません。セクハラをしてもいいという風潮は巨泉氏が作り出したのではないでしょうか。そして、巨泉氏こそ、芸能人がリベラルとして政治に関与する先駆けだったと言っても過言ではありません。セクハラはリベラルから始まったのです。

 昭和五十年前後には、「日活ロマンポルノ」が流行しました。朝日新聞はこれを褒め讃えました。性について臆病な日本人を覚醒させて、開放的な社会を作るために有益だと主張したのです。
 これには後日談があって(インタネットでヒットしないので、記憶に頼って書きますが)、防衛庁の職員が勤務終了後に一室に集まって日活ロマンポルノを楽しんでいたのを、朝日新聞の記者が見つけて、紙面で大々的に糾弾しました。
 日活ロマンポルノには、朝日新聞が「いかがわしいものではない」というお墨付きを与えたのです。そうであれば、勤務時間終了後に通常の映画鑑賞をしただけのことですから、何も非難されるべきいわれはありません。ところが、この記者は、防衛庁の庁舎内で「いやらしいことが行われている」というニュアンスで報道しました。おかげで処分を受けた人までいたと私は記憶しています。
 流石は朝日新聞。当時からダブルスタンダードのチャンピオンだったのです。

 昭和五十二年、石川達三氏をめぐる「言論の自由論争」が起こりました。
 これは説明代りにWikipediaからの引用ですませましょう。
 (石川達三氏は)日本ペンクラブ会長時代に、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議を醸し、五木寛之や野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれた。
 よくよく前後関係を掌握して下さいね。リベラル派が、「猥褻表現の自由を奪ってはいけない」と言っていたのですよ。
 現在では、セクハラ発言に対してこれだけ厳しい規制と弾劾を、リベラルが率先して世に広めているのです。何かおかしいと思わなかったら、おかしいではありませんか。
 「時代が違うんだから仕方がない」という人もいます。へええ。「言論の自由」や「女性の権利」という、人類にとって普遍的な問題に関する基準が、そんないい加減なものだったのですか。時代を超克する論理があると思っていましたのに。

 もう一つ言いたいのが、ほとんどの都道府県で制定されている「淫行条例」です。これによると、大抵の場合、「成人と未成年者がセックスをした」場合は、成人は罰せられるということになっています。
 それはそれで妥当な規定だとは思いますが、一方で、リベラル派は、未成年者のセックスを奨励しているのです。どこぞやのテレビ局で、何年か前に「十四歳の母」という特集がありました。未成年者が愛し合う(セックスをする)のは美しいことだというイメージを作り出すために役立ちました。
 「愛があればセックスしてもいい」というのが進歩派の信条だと思っていました。ところが、もうずいぶん前(二十一世紀に入ってから)ですが、日教組関係の団体が教師向けに作った性教育のパンフレットには、「愛がなければセックスしてはいけない、などというようなことを言ってはいけない」という項目があったそうです。さらに進化したのです。セックスは挨拶がわりになってしまったのです。
 未成年者同士のセックスをこれだけ奨励しておいて、「成人と未成年者はセックスしてはいけない」とは、どんな論理が背景にあるのか、私には理解できないのです。
 いや。理解できないことはありません。ウラのウラは読めます。石原洋次郎以来の「性の解放(開放?)」の原則は維持したい。その一方で、最近流行の「子どもの権利」を守るという姿勢を示したい。両立できない二つのテーゼを無理矢理両立させるために、理窟に合わない理窟を構成することになったのです。
 こんな条例も、リベラル派が推進したのです。

 日本人は、こんなにも性の議論をするのが好きな国民になってしまいました。かつて、日本人は「エロチックアニマル」と呼ばれたことがありました。観光客が東南アジアで女性を買うことを目したものでした。今こそそれが宛て嵌るのではないでしょうか。
 もっとも、性の議論が好きだと言っても、自分たちで考え出したのではなく、セクハラ騒動もMeToo運動も、アメリカで流行したものを模倣しただけなのです。アメリカの真似をすればかっこいいと思っているから、性の議論がいよいよ好きになるのです。

 そんなに性の議論が好きなら、中国や北朝鮮のハニトラに引っかかった政治家やジャーナリストのことにはなぜ関心を持たないのですか。
 橋本龍太郎氏は朝日新聞のお気に入りでしたが、もちろん媚中派だったからです。「橋本龍太郎 ホテルニューオータニ 中国 ハニートラップ」で検索すると、知らない人はあっと驚く記事が山ほど出てきます。こんな大問題が、新聞でもテレビでも全く報道されませんでした。
 橋本龍太郎氏に比べたら、福田淳一氏は無邪気だなあ、と慨嘆されるのです。