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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)

父の遺稿から見えてくる武士道精神 その1 R3-2-1

父 小石原 喜作の年譜
■明治28年 (1895年) 4月14日 佐賀県伊万里市波多津町生まれ、7人兄弟姉妹の末弟。
■大正4年(1915年)20歳 徴兵検査 海軍機関兵甲種合格 当時は世界的な軍縮の時代で
抽選逃れとなり海軍に行かずに済んだ。
■大正6年(1917年)秋、兵庫県巡査募集に応じ合格、11月17日23歳で一銭五厘の合格通知書
を手に三番型の柳行李を担ぎ23年住み慣れた揺籃の地、故郷を後に全く身寄りのない神戸市に向かった。
兵庫県庁で巡査を拝命、巡査教習所に入所し2か月の教習課程を卒業。教習所では75名卒業したが、
一号室長に選任された。
■大正7年 (1918年) 湊川署詰めとなり独立自活のスタートとなった。
■昭和6年(1931年)神戸市林田署勤務、生け花、剣道、居合道に精励、母によると兵庫県を代表する
 剣士で、県大会で優勝経験がある。

遺稿
遺稿は、父が家族の誰にも知らせず66年前の昭和30年(1955年)1月、60歳還暦を迎えた時、過去の
概要を書き残していたもの。平成27年7月実家で姉が父の残した大小の太刀、槍、薙刀の処分をするため
鑑定書(昭和22年発行)を探していて偶然、大学ノート3冊に書かれたものが見つかった。内容は本人の
生い立ち、先祖の家系図、叙勲、特技、警察官時代、神戸大水害、神戸大空襲、歌による自叙伝くどき、
父親としての家庭指導方針など生前家族には、全く聞かされていなかったものであった。そして序文には
次のように記されている。

序文
 人生五十年、夢幻の如く、吾れ、既に六十路の齢に辿りついたので、茲に過去の概要を記述することにした。
茲には只単に過ぎ去った吾が生涯中、世相の推移する実社会に処して、人生行路の苦闘を重ねつつ時流に
棹さし、堅実に歩みきた一端を記述したに過ぎない。   昭和30年1月誌す 小石原喜作

処世訓
一. 邪なきこと
二. 道を鍛錬すること
三. 諸芸に触れること
四. 諸職の道を知ること
五. 物事の損得を弁じること
六. 諸事、目利きして覚えること
七. 目に見えぬ所を悟ること
八. 僅かなることにも気を付けること
九. 役に立たぬことは為さぬこと
この処世訓は後日、宮本武蔵の「五輪書」から引用されたことが分かった。

家系 
始租は後白河上皇時代の北面武士の渡邉綱、その後、平安時代から戦国時代にかけて肥前松浦地方で
組織された武士団松浦党の大租松浦源太夫判官の流れを汲む遥黒川佐源太夫が紀元1772年(西暦1112年)黒川牧野城へ移り、黒川郷松浦南郷を領す。『それから秀吉の九州平定の天正15年 (1587年)18代目の
黒川大学の時、開城して秀吉の家臣寺沢志摩守の領地となり』、辻村里正として辻村へ移す。6代目の祖父
黒川六太夫が辻村里正の家督を舎弟に譲り唐津城主小笠原公へ出仕家臣となる。父徳左エ門(幼名金弥)は5歳の頃に両親を失い、百姓小石原兵衛門方の貰い子となって成長。
 
系図(原文のまま)
抑本系圍之濫觴ハ今ヲ去ル壹千参百余年ノ久敷ニ渉リ自然文字ノ判明ヲ失フ事アレバ遺憾ニ依リ之レヲ
黒川什物トシ別ニ保存シ置此謄冩シタル系図ヲ小石原分家戸主喜作系図ヲ以テ代々執行スベキモノトス
    昭和十一年九月七日 小石原喜作 誌之

叙勲 
御大典記念章 昭和3年(1928年)11月、選抜され京都の東本願寺前にて御警衛勤務に服し授典(33歳)
 満州国記念章 昭和7(1932年)3月、県下巡査代表に選ばれ式典に参列し、授典 (37歳)
紀元二千六百年祝典記念章 昭和15年(1940)11月、県下巡査部長代表に選ばれ宮城前式典および
祝宴に参列し、授典『(45歳)
叙勲については晩年になっての叙勲以外は生前本人の口から家族にも一切説明は、なく、今回の遺稿で
具体的な内容をはじめて知った。

特技
 英心流居合道5段資格取得(大日本武徳会)昭和17年4月 居合道連盟正会員、
剣道4段((大日本武徳会)昭和19年5月道場で青年団に剣道を教えていた。
華道嵯峨流国会司免許(昭和13年1月) 
未生流総会司免許(昭和15年3月)
和風流生け花講師(昭和25年) その他茶道、尺八や乗馬にも長じていた。

戦時色強まる
昭和15年(1940年)3月神戸から県下神崎郡栗賀村、福本警部補派出所に転勤し、鶴居、寺前、越谷
ほか七つの地区を受け持つ。福本は旧藩一万石の城下町で官舎は元家老屋敷。大歳神社の参道の桜の
種類が多く彼岸桜から遅咲きの桜でつぎつぎと一ヶ月余の花が咲き桜の名所である。春は花見、蕨とり、
秋は茸狩、越谷の鹿狩など遊ぶのには事欠かない。一国一城の主としての気持ち、無事平穏に暮らす
うち、この頃から支那事変の進展に伴い、世界情勢も風雲険悪となり米国との国際情勢も一触即発の
緊迫下にあって日本は全国民を挙げて支那事変の戦争目的遂行に総力を傾注したのである。
国民精神総動員の標語が日常生活にマッチして耐乏生活の己むなきに至り生活物資は次第に抑制
され軍需物資へ切り替えられたのである。食料も配給制度が実施され一日二合六勺となった。この頃から
統制経済取締が漸次強化された。統制経済物産の配給、戦没勇士の慰霊祭が行われた。