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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)
父の遺稿から見えてくる武士道精神 その3 R3-2-12 |
米軍による無差別殺戮 昭和20年2月4日神戸市最初の米機による空襲を受け、和田岬方面三菱造船所付近に空襲火災が起き、全市の消防署から消防自動車が出動し火災防御に努めた。この時の被害は僅少であった。3月17日午前4時第二次の神戸全市に亘る大空襲があり西神戸の被害が甚大であった。この時の空襲は熾烈を極め三宮駅、そごう間の路上一面焼夷弾の焼殻が足の踏場もない程多数散乱し、三宮神社付近の家は全部戦火に焼かれ、焼死体が累々と転がっていたが、人間も焼けると小さくなるもので猿か、子供のように小さく黒焦げとなり男女の区別も不明になって転がっていた。 5月11日午前10時神戸東部爆弾空襲あり、東灘、灘、御影、東明方面の被害甚大で灘区役所(水道筋1丁目)が爆弾のため跡形も無く全滅し多数の死者が出たのもこの時であった。爆弾投下のため路上各所に転がっている多数の死体は慘状目を覆はしめ死体の措置についても死者の葬儀などは不可能で死体を空地に積み重ね露天焼却であった。 この時、吾は京橋消防署において、東方の状況を明海ビルの屋上より眺めていたが黒煙天に沖し。単機の偵察機の爆音は単調であるが、編隊機の場合は爆音が複雑でうなりを生じ重も苦しい、生き詰まるような爆音であり来襲敵機の数も大体爆音にて想像することができた、此の大の男の吾れでさえ、頭上を通過する敵機の爆音に命が縮まる思いをしたのであるから、妻はるえが吾が出勤不在中に乳児の清江と幼児の健介の二人を守り生死を度外視し只独り自宅に頑張り『死ぬときは何處に居ても死ぬ』と諦めて居た胆力には女ながら天晴れ女丈夫と吾れは敬服して居る。 6月1日午前8時半尼崎、大阪空襲、400機 6月5日午前7時神戸全市空襲、350機この時の死者950名で神戸全市殆ど全滅し全市一瞬焼野原と化し僅かに部分的に 山手方面と新開地方面が焼け残った。 6月7日正午尼崎空爆、250機 6月15日午前10時西宮、大阪空襲、 6月26日、明石、阪神、大阪爆弾空襲 7月3日、姫路空襲全滅 7月6日午前1時明石空襲全滅 8月6日広島原子爆弾空襲全滅 8月6日西宮、阪神間爆弾空襲でこれが最後の空襲であった。 8月9日長崎原子爆弾空襲全滅 吾れは覚悟はして居たが吾家六甲山麓篠原南町一丁目も幸い戦火を免れ家も家族も無事にて直接の被害は無かったのは幸運であった。 講和聖断 昭和20年(1945年)8月15日正午講和聖断のラジオ放送あり終戦となった。万事休す、終戦と云っても無条件降服である。当時吾れは兵庫消防中隊の小隊長として兵庫国民学校の道場校に駐屯し陛下のラジオ放送を聞いた。戦争終了の大詔下りボツダム宣言の受諾により日本は無条件降伏となり、瞬時にして大日本帝国は一等国より五等国に凋落し敗戦国の現実は厳粛な事実として吾れら頭上を覆い被された。 天佑利あらず、神風吹かず、八月十五日聖断下り 降伏講和で万事休す井の中の蛙の竹槍戦法、敵は爆弾、焼夷弾馬穴リレーや火叩きで、所詮は蟷蛯の斧なりと 後に至りて、思い知らされる 戦後 この時から神戸市内の騒然たる混乱は名状し難い。息詰まるほど極度に憂慮されたが、米進駐軍により治安は保たれ、米軍の軍紀は予想に反し極めて厳正で此れが昨日まで敵国人であったかと感謝の念を以て迎えられたのである。 併しながら第三国人の朝鮮人が反発的に各所に暴力横行を許し敗戦国の我らは拱手傍観の外なき状態であった。 終戦当時は軍隊が備蓄していた放出物資の配給を受けていたが放出物資も長く続く筈はなく食料その他も益々窮乏し昭和21年より23年頃は食糧その他も生活物資の窮乏その極に達し栄養失調者が続出し、餓死寸前まで追い詰められた。 主食としての配給食料はメリケン粉、南蛮黍、原粟、米糖、南京かぼちゃ、などで床芋の殻まで主食として配給を受けたが、配給量が少ないため、家庭菜園を道路端に作り補助食として毎日明けても暮れても雑炊やメリケン粉、南蛮黍粉の蒸しパンにて露命をつないだ、燃料も無く電熱器にたよるも電気の故障が多く計画停電も実施され悲惨な状態であった。 道路端の菜園は盗まれ、洗濯干物も頻々盗まれ、物騒で生きんが為には人情も道徳も無い修羅の生活であった。 馬鈴薯の種子を小さく切り,畑に植えると未だ梅干し程の小さな実を盗んだり。実に食糧難の深刻なる世相が如実に窺れた。 薩摩芋の茎や葉は食料として粥や団子汁に入れて食べたがそれでも足りないので六甲山麓に蓬を摘みに行き粥に入れてみたが、これは不味くて食べられなかった。藤の芽やアカザなど雑草は食べられた。醤油、鹽も欠乏し、新在家の濱まで海水を汲みに行って鹽の代用として使った。吾れは家族が多く闇食料補充に困難したが、幸い淡路の親元から芋や大根、米などの食料援助を受け辛うじて栄養失調を免れることが出来たことを感謝して居る。 叙勲 叙勲八等瑞宝章授典(昭和21年4月)戦後はじめての生存者叙勲 51歳 国家消防庁功労章授典(昭和27年3月)57歳 叙勲六等単光旭日章授典 昭和43年(1970年)4月75歳 浮き沈み 埋もれ去りし、この身には今日の叙勲の 御沙汰、身に沁む 身は老いて、叙勲の栄に古稀すぎて、今も健在、余生楽しむ 昭和57年(1982年)他界87歳 昭和57年(1982年) 4月 体調不良を感じた父は近所の医者を訪ね診察を受ける、医者から病院での検査と診察を勧められたが、家族の勧めも拒否し、治療の必要なしと語り一切の治療は受けず5日後、4月9日 老衰により自宅で死去、享年87歳。 あとがき 父が大切にしていた大小太刀、槍、薙刀は鑑定書と共に平成28年(2016年)1月16日湊川神社宝物殿へ奉納された。 奉納品 刀「備州長船住祐定」 一振 薙刀「宗次」 一本 槍「栗田口近江守忠綱」一本 模造刀 大小各一振り』 |