育再生・地方議員百人と市民の会
TOP ごあいさつ 設立主旨
活動内容・会則
関西行事案内 活動等の記録
(会員HP,会計)
参加者、リンク集 入会申し込み
会費の御案内
教育
NEWS
議会質問の
お手本

推薦図書 百人のニュース 一般リンク 問い合わせ
ご意見
動 画
動等の記録TOP 総 会 録 理 事 会 録 一般活動、集会録 会計報告
声明・請願・要請等 新聞・マスコミ報道 百人のニュース
百人の行事案内(記事)
仲間からの報告
My Home Page
仲間からの報告
-My Home Page-

小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)

父の遺稿 我が歩み その3  R3-2-24

人生行路の起伏
 人の一生は盛運と衰運の起伏浮沈あり、吾れ最低の衰運となり人生の試練に遭遇せしは、
昭和三十年より四十年に至る即ち六十歳より七十歳になるまでの約十星霜であった。

尺八祭文(昭和三十八年元旦)
 時惟れ去る昭和三十年春弥生、満枝の花を他所に、我れ参拾有余年。勤務せし、職を去る、
枝を離れし枯れ葉の身は帰るべき梢も無し、我れこの時家族七名ありと謂えども、職にある
のは長女壽美のみ、克孤軍奮闘すれど如何せん、長男勝佑は不運失業し、未だ学窓に在りて
学資を要する者、都子、健介、清江、尉郎の四児あり、生活の前途暗澹として、日月暗く、
不運の者を照さず。
荒天激浪の孤舟一家の寄るべき渚もなし、弱者の藁をも掴む心境や斯くなからん。
此の時に当たり我が心の支柱となり常に我が左右にあり暗夜の光明となり吾を悟らしめたるは、
此の尺八竹なり、我れこの尺八の妙音に心を澄ませ得て心の動揺を防ぎ平静なる信念を以て,
一家の円満を図り克く親子協力相助け合い苦難の浬にも時は移りて茲に八星霜となりぬ。
今や長男勝佑、二女都子共に職に在り斯くて今年は健介は大学を、清江は高校を夫々卒業を
目前にし、就職もほぼ内定し、生活にも若干の余裕を生じ、文化生活の希望に満ちたる
昭和三十八年の新春を迎えるに当り常に心の支柱となり、暗夜の光明を與えそめた此の尺八を
神器とし法器とし且つ又趣味の友として敬慕し茲に祭壇を設け豊御供,豊土産を供え敬虔なる
賛辞を以て祭文となす、願はくば亨けよ。
昭和三十八年元旦 小石原紫芳山

注釈:この時期の経済的苦境を救ったのは次の通りでした。
1. 父は生け花の師匠仲間のご主人が兵庫日産プリンス販売の社長をされていた関係でこんな
仕事で申し訳ないと云われながら会社の夜警員として就職、家族は若干心配したが本人は
意に介せず務めた。
2,六甲高羽の自宅の隣には元宝塚日本舞踊の師匠尾上さくらさんが住んでおられた。
母は若い頃和服の仕立て屋の腕利きの縫子さんでした。お隣から和服の仕立ての注文を
戴き家事の後、夜遅くまで内職に頑張っていた。こうした両親の仕事で子供たちを育ててくれた。

昭和四十三年元旦 所感
 家系図を繙くに、遠き祖先は摂津の国渡邉の住、京都北面武士渡邉綱より出でて中興の
祖松浦黨松浦判官の流れを汲む肥前牧野城主、黒川佐源太夫の後裔にして祖父は唐津藩士
黒川六太夫なり、父は金松と云い六太夫の三男なるが幼少にして両親を失い波多津町辻村の
在百姓小石原兵左衛門方に貰い子になり、成長して金弥後に徳左衛門と名を改め百姓に一生
を送れり、吾れ百姓徳左衛門の五男として、明治二十八年四月波多津村辻にここの声を揚げ
両親兄姉に育まれ二十三歳まで故郷に在りて農業の手伝いをなす、されど水飲み百姓の末弟
小倅にて自活の覚束なく大正六年十一月兵庫県巡査となり上神、湊川警察詰となり、
途中省略
 吾れは巡査奉職以来退職に至るまで只だ警察消防の職のみを一筋道の波乱も無く迅風に帆を
掲げたる如く、平坦なる道を歩み来れるが故に不幸他職の道を知らず、職を離れし吾れは落猿
か羽抜鳥の哀れさよ、時に家族多勢あり、いずれも若年少者のみなれば生活の前途暗惨たり、
備蓄も無く人生の危機断崖に立ち飄然として将来を思ふ、然れ共、芸は身を助くとかや、吾れ
在職中に趣味の習い覚えし居合、剣道,活花、尺八、盆栽等の諸芸により人生の修養を積み得
たるが故に危機は鑑み人生行路の浮沈を悟り、確固たる信念を以て苦難に堪え、牡丹にあらねど
菰を冠り鳴かず飛ばず花咲く盛運の巡り来る春を待つこと十余星霜その間に子供たちは互いに
助け合い、夫々成長し現在に至ては、生活も安定し、何不自由なき現状となりぬ。身は老境に
あり一家睦まじく好環遇に恵まれ昭和四十三年の新春を迎ふ、祝盃を手に心温まるを覚ゆ、
年改まる元旦の所感とす。

我が子に対する親の言葉
 人は我に対し子供に甘すぎると云う者有れど、吾れは微力にして思うに委せず親として子供
たち対し親として為すべきことも出来ず、只曲がりなりに育てたに過ぎず、されば我が身の価値
を知らずして子供に対し厳しくしても所詮は実のない空威張りに過ぎない。子供たちは決して
就いてくるものでないことを胆に銘じて居るためである。然し乍らこれは、子供たちを放任して
いるのではない。只、出来得る限り家の家庭環境を良くして子供たちが辣外に出ないように温情
を以て深く見守て居るのである。それ故に子供たちに対しては各自の自由意志を尊重し、親が子に
不当の要求や干渉がましいことは決してしない。子供たちは結婚するもよし、せざるもよし、
只々子供たちの将来幸せになることのみを祈るものである。子供たちは顔の異る如く、夫々性格も
異なり各々長所あり又短所もある。いずれも未だ未完成の者であるから、各自が自分の性格を克く
探求自覚し一生を通じ、その長所短所を充分有効に活用することに心掛けることを望む。
 我が家の六人兄弟姉妹はいずれも優劣なき頭脳を有し居るが故に仮令、早成、晩成の差はあっても、
必ず一定の基準に到達し得ることは疑いない所なれば、各自が修養研鑽を積むことを要し、
自己慢心は厳に戒むべきである。他家の家庭では恒産有り或いは敏腕なる親の下の何等の苦労も知らず
気儘気楽にすくすくと成長したる人々あるが我が家庭は、さにあらず、親の微力なるが故に、
上に生まれた兄姉ほど不自由な家庭環境に成長したるものにて、長は克く幼を助け夫々成長した
ものである、故たとえ、弟妹は学業な成りたりと雖も自己独りの力にて達成したるものにあらず
兄姉たちの陰の力によるものであることを思い。一生の間、幼は長を尊敬し共に仲睦まじくせなば
ならない。若し万一にも兄弟姉妹の内に、一時的にもせよ、不幸せな者があるときは、お互いに
相助け協力しお互いの幸福を圖ること、寛容である、(四十三年元旦)