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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)

父の遺稿 我が歩み その4   R3-3-1

叙勲と記念章、功労章
御大典記念章
 昭和四年兵庫県巡査部長、網干警察署勤務中、御大典に選抜されて京都の御警衛に
出張、東本願寺前にて御警衛勤務の服し、御大典記念章を受く。
紀元二千六百年記念章
昭和十五年十一月巡査部長福本派出所勤務中、県下郡部の巡査部長代表に選ばれ、
宮城前に於ける紀元二千六百年式典及び祝宴に参列し、紀元二千六百年記念章を受く。

叙勲八等瑞宝章
 昭和二十一年四月警察消防勤務の功績により勲八等瑞宝章、叙勲されたり

功労章
 昭和二十七年三月消防功績により国家消防庁より功労章を授典さる

功労章
 昭和二十九年三月勤続三十五年の功績により全国消防連絡協議会より功労章を授典さる

叙勲六等単光旭日章
 昭和四十三年四月二十九日天皇陛下御誕生日の佳日に不肖永年勤続の功績により
勲六等単光旭日章を拝受し、五月八日上京、東京日本消防会館に於ける勲章伝達式に
妻はるえ同伴参列し続いて皇居に於ける陛下の賜謁を賜リ陛下に拝謁し陛下より
労りのお言葉を賜り恐懼感激し皇居を退出する。(吾れ人生の花道)

永年勤続に思う我が人生行路
 吾れ明治二十八年四月八日、水?百姓の五男末子俗称用心子に生を享け、徴兵検査
は甲種合格の体格に恵まれながら抽選により兵役には服さず、大正六年、二十三歳の
暮れ志を立て単身三番型柳行李を担ぎ来神し兵庫県巡査となりてより照る日雲る日、
順風満帆或いは荒天怒涛の中を無傷に大過無く警察消防の職を一と筋に三十八年勤務
することを得たるが、之れは人生行路のスゴロクにして吾れ牛歩なりしが故ならん。
若し功名心赴くままに進級し短年月に昇進せんか、トコロテン式に押し出され所謂
後進に道を譲る意味に於て永年勤続は不可能なり、されど吾れ職に努力せざりしに
あらず忠実に精励し退職、時には判任官特別俸給を得、最古参の消防司令となる。
浅学の身を以て勲六等単光旭日章を受けたるは身に余る光栄と云うべし、永年勤続
の条件
1. 健康なること
2. 志操堅実なること
3. 着実にして昇進を急がぬこと
4. 幸運なること

消えゆく我が故郷の夢
 故郷の金太郎、円太郎、兄等の若き頃、弁当風呂敷包を蝙蝠傘に突き挿し、肩に担
ぎ虹の松原を鉄道馬車と馳け比べしつつ浜崎の諏訪神社に参詣せしも遠き昔の思い出
となりぬ、移り行く世は松拍砕かれ薪となる。古きものより新しきものえと次第に変遷
しつつある中に、昭和四十三年は明治初年より百年目に当たり、古きものえの憧れか、
明治百年間の懐古記念行事が諸方に行はれつつあるを見る。
 されど我が生れ故郷に思いを馳らすとき、吾れらの幼き頃の思い出となるもの無く、
今も尚は変わらぬものは三岳山の姿のみとなりぬ。祖先の代に徳造爺さんが建てし
文化財の価値ある茅葺の古色豊かなる我が生家も今は無く跡には瓦葺の家に建て替え
られ、仄聞するに郷愁のシンボル祖先の墓地も取り毀す、何処かに合祀されしとか、
祖先の墓地亡き故郷へは吾も帰郷の念起らず、老木は枯れ、人は逝き、生まれ故郷の
波多津には、何一つ思い出となるものも無し、愈々故郷を失いたる感深く、郷愁の夢
は消えんとし、時の流れを如何せん思い。(昭和四十三年五月記 喜作)

消防司令退職の経緯と叙勲
 人生の一生涯とも云うべき勤続三十七年余を一日の如く、順風に恵まれ精励格勤し、
勤続功労章を有する吾れも、その退職に当たりては、当局の極めて冷酷無情なる冷遇
を受け、罷めての後は再び消防局に姿を見せまじと固く決意し退職したり。
 即ち昭和二十八年三月、五十五歳以上の者は此の際、退職すれば希望退職として恩典
ありと、上司より内意ありたるも、吾れその当時、未だ之より学資を要する子女四名
あり、生活の方途、樹て難く、職に留まり勤務中のところ、僅か二年後の三十年三月
に至り五十五歳以上の者を一室に集め、五十五歳以上の者は此の際一率に退職する
よう当局上司より言い渡し有り、夫れ以降は上司より直接部下に仕事を命じ、庶務
掛長の吾れは、その存在を無視され、所謂針の筵に座する心地し、法制上の定年制は
無きも、事実上に於て退職せざるを得なき状態に置かれ、吾れ既に退職を決意したるも、
此の際、休暇を得て、心を整理し、再来を図り生活の方途を樹てんものと、市民病院
にて心臓神経症の診断書を得て休暇願暑を提出せしところ、消防当局に於ては病院を
つつき以後の診断書の作成を邪魔し、止むなく他の懇意なる医師に依頼し診断書を
得たるも、これも又その医師を嫌がらしめて診断書を得ることを不能ならしめて、
吾れを窮地に追い込み、他に再就職の斡旋はおろか、希望退職の恩典も認められず、
弊履の如く一片の温情も無き冷酷無情の取り扱いをうけ退職するに至れり。
 若し夫れ常識を以ってすれば、本県警察当局や大阪市消防局に於て実施されている
如く永年勤続者の退職に於いて三か月乃至六か月の休暇を与え、その間に再建の途を
図らしめ,且つその労をに対する贐化として階級を一階級昇進せしめ円満に花道を飾
り引退せしむるか常識なれど。神戸市消防局の如き温情無き上司に遭遇せしは吾れ、
不運なりとし諦める他なからん。如斯かく吾れ神戸市消防局より弊履の如く捨てられ
埋れ去ること、茲に十三か年、思わざりき、神仏は吾れを見捨て給はず、吾が至誠、
職に忠実なりしを、哀れみ給しか、県当局の温情ある御選衛を得て、在勤中の功労に
より昭和四十三年四月二十九日の陛下より勲六党に叙し単光旭日章を賜り、吾れ
恐懼感銘に堪えず。即ち神戸市当局の冷遇に比較し、県当局の御厚情と皇恩の高遠
なるに感涙す。所感を述ぶ

浮き沈み埋もれ去りにし、この身には
     今日の叙勲の 御沙汰、身に染む
功成れどその罷め際の 惨めさに
     思いは消えじ 今も此の身は

注釈:運命の巡り合せというのか、父が消防へ転職せずに最後まで警察に務めて
おれば、先ずこうした悲哀は無かったと思われた。間違いなく警視として永年
勤続を祝福されて退職後も警察の天下り先として、おそらく武道教習所の師範
として後輩を導いていたと思われる。これも運命のいたずらか。
  父は『自叙伝くどき』として数多くの歌を残しています。その中から消防組織が
神戸市へ移管された頃の歌が次のように残されています。
時は移りて、二十三年の弥生七月に消防組織、自治体に移管され、
消防司令と職名変わり、市内各署の署僚を勉め、
消防本部に勤務となって、三十年にその職を去る。

『父の遺稿 我が歩み』はその4で終了、次回からは『父の遺稿 随想』をご紹介
します。