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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)

明治以降の近現代史    R3-4-30

           目          次
序文
第1章
 明治維新から大正初期(1867年〜1912年:明治元年〜大正元年)
1. 日清戦争(1894年~1895年:明治27年~明治28年)
2. 義和団事件(1900年〜1901年:明治33年〜明治34年)
3.日露戦争(1904年〜1905年:明治37年〜明治38年)
第2章 大正初期以降太平洋戦争開戦(1912年〜1941年:明治45年〜昭和16年)
1.満州事変 (1931年:昭和6年9月18日)
2.第一次・第二次上海事変 (1932年:昭和7年・1937年:昭和12年)
第3章 太平洋戦争から終戦(1941年〜1945年:昭和16年〜昭和20年)
1.真珠湾攻撃 (1941年:昭和16年12月8日)
2.マレー沖海戦に勝利(1941年:昭和16年12月10日)
3.マニラ占領(1942年:昭和17年1月2日)
4.ジャワ島沖海戦に勝利(1942年:昭和17年2月4日)
5.シンガポール占領 (1942年:昭和17年2月15日)
6.珊瑚海海戦(1942年:昭和17年5月7日)
7.ミッドウェー海戦での敗戦(1942年:昭和17年6月5日)
8.ガダルカナル島へのアメリカ軍の上陸(1942年:昭和17年7月6日)
9.第一次・第二次ソロモン海戦(1942年:昭和17年8月8日・8月23日)
10.南太平洋海戦(1942年:昭和17年10月26日)
11.第三次ソロモン海戦(1942年:昭和17年11月12日)
12.大東亜会議(1943年:昭和18年11月5日、6日)
13.レイテ沖海戦に敗北(1944年:昭和19年10月23日)
14.東京大空襲(1945年:昭和20年3月10日)
15.不忘山慰霊碑 (1945年:昭和20年3月10日)
16.硫黄島守備隊玉砕(1945年:昭和20年3月26日)
17.沖縄戦 (1945年:昭和20年3月26日〜6月23日)
18.米英中、ボツダム宣言により降伏を勧告(1945年:昭和20年7月26日)
19.アメリカ軍、広島・長崎に原爆投下(1945年:昭和20年8月6日・8月9日)
20.ボツダム宣言を受諾 無条件降伏(1945年:昭和20年8月15日)
21.降伏文書調印式(1945年:昭和20年9月2日)
22.戦争の総括
第4章 終戦からバブル崩壊(1945年〜1990年:昭和20年〜平成2年)高度成長時代
1.極東国際軍事裁判(東京裁判)(1946年〜1948年:昭和21年〜昭和23年)
2.GHQによる占領政策
3.高度成長時代(1953年〜1986年:昭和28年〜昭和61年)
4.バブル景気と政財界のスキャンダル
5.アメリカに次ぐ世界第二の経済大国(1980年〜1990年:昭和55年〜平成2年まで)
第5章 失われた25年(1990年〜2015年:平成年2年〜平成27年)
1.阪神大震災 (1995年:平成7年1月17日)
2.東日本大震災と福島第一原子力発電所事故 2011年;平成23年3月11日
第6章 日本の再生をいかに図るか
第7章 武士道


序文
戦後70年、明治維新から150年、いま日本は大変な危機にたたされている。無責任主義が社会に蔓延し、政・官・学・産の癒着構造、社会の木鐸としての役割を失ったマスメディア、尊属殺人、子供のいじめや自殺、少年の犯罪の急増、今日、自分の利益や主張のためには何でもありの混沌とした時代を迎えている。なかでも最も深刻な問題は、わが国古来の人間教育の徳目を失った日本人が日本精神を失いつつあることである。
果してこの日本精神を取り戻すにはどうすればよいのか、戦後GHQにより国家意識や民族意識を育てないことで国家意識はタブー視された。歴史教育は廃止され、大東亜戦争を日本の一方的侵略であると決めつけ、悪いのは軍部や軍国主義者であると洗脳された。
これはアメリカが戦後日本を一方的な悪として、アメリカの戦争を正当化するために唱えた歴史観である。私たちはこれらを払拭し正確な歴史観を持たねばならない。日本の現近代史を振り返ることにより世界に誇りうる日本精神と呼んでよい日本人の規範意識と崇高な精神文化を再認識することができるのではないか、こうした思いから日本の明治以降の近代史を纏めてみました。


第1章 明治維新から大正初期(1867年〜1912年:明治元年〜大正元年)
明治維新により日本は封建社会から解放された。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」人はみな平等であるとの文明開化の時代を迎えた。明治維新前の教育は藩校での人格の完成を目指した武士道教育に加え、幕末期における最も近代化された藩の一つである佐賀藩では、精錬方という科学技術の研究機関を創設し、
反射炉(金属融解炉)、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、ガラスなどの研究・開発・生産が行われていた。薩摩、長州、水戸藩においても同様の動きがあった。また、関孝和による和算や伊能忠敬の測量技術などは世界に誇るものであり、一般庶民も読み書きそろばんの寺子屋教育の普及で国民の教育水準は諸外国に比べ非常に高いものであった。壬申戸籍によれば当時の日本の姿がよくわかる。
族籍別人口(壬申戸籍)明治5年
  身分     人員             人口%
  皇族     29            0.000088
  華族    2,666           0,0081
  士族    1,282,167       3.9
  卒      659,074        2.0
  地士     3,316          0.010
  僧      211,846         0.64
  旧神官    102,477        0. 31
  尼       9,621          0.029
  平民      30,837,271    93.0
  計        33,108、467     100.0

註:卒: 下級兵士、雑兵   地士: 庄屋、名主、里正

[敗戦真相記]を書いた永野護氏によると明治以前における教育目標は武士としての人格
完成であったが、明治以降はいたずらに欧米の物質文明を模倣するに急なあまり、人間としての鍛錬を忘れ立身出世主義に堕するに至った。幸い明治維新から大正初期にかけては、日本の中心指導者に明治維新前の武士道教育を受けた人たちが残存していたのでその後、
台頭した立身出世主義の人物でも充分補助的な働きをなし得た。いわば国家の大黒柱がたくさんあった。大黒柱としては各藩の志士、例えば西郷隆盛、木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、山県有朋などの明治の元勲などこの世代は武士の最後の系譜に属する存在である。封建社会における武士は単なる武人ではなく、政治、経済、
社会、教育,科学のさまざまな面において責任を持つ統治者であり政治家でもあった。そして勝海舟、新渡戸稲造、内村鑑三などこの世代 の日本の指導者たちは、英文で海外で「武士道」の名著を刊行した新渡戸稲造など間違いなくグローバル・スタンダードの人物であった。
軍人も同じく陸軍の児玉源太郎、大山巌、海軍の山本権兵衛、東郷平八郎などの人物も然りである。民間人でいえば福沢諭吉、渋沢栄一、五代友厚、岩崎弥太郎なども然りである。

1.日清戦争(1894年~1895年:明治27年~明治28年)
 日本にとって、開国後の最大の問題は隣国である清国と、その属国である朝鮮との関係であった。東南アジアを次々に植民地化してきた欧米諸国はさらに北上する姿勢を見せており、加えて当時、徐々に勢力を伸ばしてきたロシアが、北海道と朝鮮半島のすぐ北のサハリン、ウラジオストックまで南下してきたため、日本列島、清国、朝鮮半島は南北から挟み打ちされるような状況にあった。
そのような状況を憂慮した日本は、まず、朝鮮半島をロシアから守らなければ国家の存在はあり得ないと考え、朝鮮を日本のような近代国家として自立させ、同盟を結ぶ提案をしたが、朝鮮はこれを拒否、その朝鮮を長年属国としていた清国との間で「日清戦争」が勃発した。日本はこれに勝利し、清国から正式に遼東半島、台湾膨湖諸島を得、朝鮮を清国から独立させ、日本の影響下に置くことに成功した。

2.義和団事件(1900年〜1901年:明治33年〜明治34年)
 1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由になって外国人宣教師が奥地に入るようになると、治外法権を利用した横暴なふるまいによって中国民衆との間に紛争が頻発するようになった。山東省では1890年代末から
義和団と呼ばれた武術集団が宣教師や教会を襲撃する仇教運動が活発化した。清朝政府は当初列強の要請を受け、義和団鎮圧にあたったが、1900年6月、運動の盛り上がりをみて、義和団とともに外国勢力を排除することに方向転換し、列国に宣戦布告をした。これに対し、日・露・英・米・仏・独・伊・墺の八ヵ国は共同出兵し2万の兵を送り込んだ。連合軍は7月天津、8月北京を占領し、
清朝は降伏、義和団も鎮圧された。その後、清朝の宣戦布告は、24時間以内の国外退去命令が出され、翌日から攻撃が開始された。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時、各公使館区域へは老若男女3,000名が逃げ込んだ。しかし各国公使館の護衛兵と義勇軍は合わせても481名に過ぎなかった。そこで逃げ込んだ人びとは、
以後8ケ国連合軍が北京を占領するまでのおよそ2ケ月弱、籠城を余儀なくされた。この間の事情は1962年に作成されたアメリカ映画「北京の55日」でよく知られている。そして籠城戦に当って実質総指揮を担ったのは、柴五郎陸軍中佐であり、彼は英語・フランス語・中国語と数カ国語に精通し、籠城作戦の成功に多大の貢献をし、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの讃辞が寄せられた。

3.日露戦争(1904年〜1905年:明治37年〜明治38年)
 日清戦争に勝利した日本は、清国に、数百年ものあいだ属国として扱ってきた朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とすることに成功した。しかしロシアの南下を食い止めるため地理的に重要な地域である遼東半島をロシア、ドイツ、フランスの「三国干渉」により領有権を放棄し、
清国へ返還した。これによりロシアは朝鮮半島のすぐ北に自国の軍を配備するまでに至った。ロシアの勢力拡大をこれ以上許したくないイギリスは、1900年に日本と日英同盟を結ぶ。日本はこの「日英同盟」をバックにアメリカからの支援も受け、1904年、ロシアの圧力をはねのけるべく宣戦を布告する。これは朝鮮半島がロシアの支配下に組み敷かれる寸前に日本が開戦したことを意味する。
国家予算が二億三千万円の日本は十七億八千万円の戦費を外債に依存せざるを得なかった。当時イギリスはロスチャイルド家を中心に、世界金融の中枢を支配しており、この巨額の戦費はロンドンのシティおよびクーン・ロープ商会(後のリーマン・ブラザーズ)のユダヤ人社会から調達した。このユダヤ人社会が日本に資金を援助した背景には彼らがロシアにより厳しい差別待遇を受けていたことへの憎しみがあった。
日本は苦戦をしいられながら、1905年9月、アメリカ大統領ルーズベルトの仲介によりポーツマス条約が結ばれ、戦争は終結、辛くもこの戦争に勝利した。極東の一島国に過ぎない日本が、維新後たった37年で世界一の陸軍国ロシヤを破り世界を驚かせた。この勝利は、はじめて有色人種の国が白人種の国に勝利した記念すべき戦争であった。
日露戦争では、満州、朝鮮半島、日本海などで日露の大軍が戦った結果、多くの捕虜が出た。捕虜に関する当時の国際的な規定に従って、日本では、愛媛県の松山、愛知県の豊橋をはじめ各地にロシア人捕虜のため収容所が設けられた。松山では捕虜収容所で亡くなったロシア兵士98人のお墓を100年以上過ぎた今も「ロシア人墓地保存会」と地元老人会、婦人会、勝山中学校の生徒らによる月一回の墓地供養と清掃活動が行われている。


第2章 大正初期以降太平洋戦争開戦(1912年〜1941年:明治45年〜昭和16年)
日露戦争以降、昭和に入り、維新以前の教育を受けた明治の元勲たちが歴史の舞台から立ち去り、代わって陸軍大学・海軍大学などで専門教育を受けた軍事エリートが台頭し世代交代がなされた。彼らの専門教育は政戦合わせた戦争全般の大戦略を体系的に構築する教育ではなく目先の戦略・戦術に特化していた。その教典は日露戦争など過去の実戦の教訓に基づく用兵技術論の域を出ず、
近代戦争に関する知識や能力の養成は必ずしも十分でなかった。   またこの頃より人間の評価は人間力を中心とする人物本位から学業成績を優先するいわゆるハンモックナンバーへと変わって行った。日本の陸海軍では、陸大や海大を最優秀で卒業した者が作戦参謀となり、
「成績の悪い奴らの言うことを聞けるか」という考えが根底にあった。この流れは学閥を生み現在の官僚機構へと受け継がれている。その結果、近代日本を成した客観的かつ合理的な精神は徐々に失われた。軍事エリートによる日本の軍部は、自己の力を計らず、敵の力を研究せず、ただ自己の精神力を過大評価して満心した。陸軍で言えば、情報軽視、技術・機械力の軽視、白兵銃剣主義への過度のこだわりや過度の精神主義により、敵を知らず己を知らず、
大敗を喫したノモンハン事件の教訓は最後まで生かされなかった。日清・日露戦争の勝利に満心した軍部指導者による誇大妄想、八紘一宇や神国独善思想から大東亜共栄圏を唱え満州事変、支那事変、大東亜戦争へ突入。明治維新前の武士道教育を受けた人たちに代わり政治家で言えば近衛文麿、東條英機、平沼騏一郎、小磯国昭などが登場した。

1.満州事変 (1931年:昭和6年9月18日)
 柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により満州全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国から独立を宣言し、1932年3月1日の満州国建国に至った。満州国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満州人・満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。

2.第一次・第二次上海事変 (1932年:昭和7年・1937年:昭和12年)
 1月28日から3月3日にかけて戦われた中華民国の上海共同祖界周辺で起きた日華両国軍の衝突である。上海郊外に、蔡延?の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力3万人以上で南京、鎮江、蘇州、常州、上海付近に駐留していた。日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦船を派遣した。また「住民の生命や財産を守るため」として、虹口に隣接する中国領を必要に応じ占領する意図を明言していた。
盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月、盧溝橋において中国の蒋介石麾下の第29軍が日本軍に発砲して盧溝橋事件を起こしたが、4日後の11日には下記停戦協定が成立した。
一、第二九軍代表ハ日本軍ニ対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ
将来責任ヲ以テ再ビ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
二、 中国軍ハ 豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ
盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス 保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
三、 本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導ニ胚胎スルコト
多キニ鑑みミ将来之ガ対策ヲナシ 且ツ取締ヲ徹底ス
以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス 
その後も北京市内や郊外で中国軍による邦人虐殺や日本軍守備隊に対する小規模な攻撃は散発したが、大規模な両国軍による戦争行為はなかった。日本軍その他欧米軍が北支に駐留していたのは1900年北清事変後の国際協定によるものである。ソ連は空軍志願隊を送り、北京から1,200キロ離れた上海で、ドイツ軍事顧問団に率いられた蒋介石正規軍が、
外国人租界の日本人居留民と日本人の居留民保護に当っていた日本海軍陸戦隊に攻撃を仕掛けた。やがて日本軍は蒋介石の策略により中支(現中国の華中地方)へ引きずり込まれ、南京その他中国大陸全土へと戦線が拡大し、日本と中華民国の全面戦争の様相を呈していった
。1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。事変の長期化とともにアメリカやイギリスは軍事物資を援蒋ルートを通じて重慶国民党政府(蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争に突入していった。


第3章 太平洋戦争から終戦(1941年〜1945年:昭和16年〜昭和20年)
 太平洋戦争で戦死した犠牲者は143余万人の陸軍将兵、同じく海軍42万人、軍属65万人合わせて250万余人。この無謀な戦争を発起したのは、僅か1パーセントの軍閥首脳部であり、将兵の99%はお国のために、民族のために、ただ命令を奉じて出陣し、遠い異境の地で尊い生命を犠牲にしたのである。小数の軍閥は憎んで余りあるが、その結果として自己の生命をなげうった250万余人の霊は、国民的に敬弔されねばならない。同時にこれらの犠牲者がいかに勝ち、
いかに敗れたかについて検証することは、犠牲者の霊を弔う道でもある。開戦時に持っていた軍備は、陸海とも世界一流のものであった。4年間中国大陸を暴れ回り、ソ連とにらみ合い、その上英米を敵として戦争に赴いたほどの強大なる軍備は現在の我々には殆ど想像のできない怪物であった。「帝国海軍」では排水量7万トンの大戦艦「大和」、
「武蔵」を中心とする254隻106万トンの大海軍は、英米と並んで世界大海軍の一つに位した。「帝国陸軍」も同じで開戦時には、現役師団51個、留守師団7個、混成旅団58個、将兵200万人、他に動員予備兵力400万人、空軍151中隊約2,500機、戦車1,800輌という大陣容であった。

1.真珠湾攻撃 (1941年:昭和16年12月8日)
アメリカは日中戦争が始まったとき、中立を捨て、蒋介石の軍隊へのあからさまな支援をし、やがて日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、また日本を経済的に孤立させるため
ABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網など、日本への挑発を続けた。最終的に日本に妥協の余地のない「ハル・ノート」をつきつけ、ついに日本の直接的な武力行使へと誘い込んでいったといわれている。昭和16年12月8日午前7時35分、ハワイ沖の空母6隻から、
第一陣として183機、第二陣として167機の航空機からなる攻撃隊が出撃し、ハワイ・オワフ島真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃。太平洋戦争の火ぶたが切られた。攻撃開始30分前に手交されるはずの最後通牒は、大使館職員の暗号の解読と清書が遅れ、
野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特派大使がハル国務長官に面会したのは、真珠湾攻撃の開始50分後だった。国際法上、最初の攻撃の1秒でも前に宣戦布告がなされれば合法となっていたのだが、この攻撃に「騙し打ちの」の汚名がきせられることになった。
真珠湾攻撃の2週間前、空母「赤城」艦内で航空隊総指揮官淵田美津雄中佐は各飛行隊長に対し「これは武士道の戦である。民間人には銃を向けないように。攻撃はあくまで戦艦・空母そして各基地に対してである。」と訓示。同じ頃、空母「蒼竜」
では第2航空戦隊の山口多聞司令官が攻撃隊全員を飛行甲板に集め「私は30年間、剣に打ち込んできた。武士は決して非戦闘員には手を出すな。」と訓示。このように日本海軍は軍事施設だけを攻撃の標的にした。また、この攻撃で山口司令官はオワフ島付近に無傷でいる敵空母2隻、
大型巡洋艦10隻の殲滅、また壊滅しなかった工廠や重油槽を攻撃するため、第二次攻撃を加えるべき意見具申を旗艦赤城の南雲司令長官宛に送った。しかし赤城は何の反応も示さず逃げるように北へ去った。蒼竜上の山口司令官はその赤城を見ながらネルソンや東郷とのあまりの違いに、これでは悔いを千載に残すと肩を落とした。

2.マレー沖海戦に勝利(1941年:昭和16年12月10日)
真珠湾攻撃のあった8日には、同時に日本軍は当時イギリスの植民地だったマレー半島にも攻撃を仕掛け、半島への上陸に成功した。この戦争の日本の大きな目的の一つとして、インド方面へ通じる「シーレーン」と呼ばれる物資の輸送ルートの確保があった。東南アジア攻略はシーレーンの確保が第一であり、第二に、これらの国を欧米諸国の植民地から解放し、
独立させることで、日本との強固な同盟関係を構築してアジアを欧米の植民地政策から守ろうとするものであり、「大東亜繁栄圏」の理想を掲げた。1942年1月、マレー半島南端ジャメラン郊外でオーストラリア兵は死闘して200名全員が戦死した。日本軍の戦死者は1,000名。これに感動した山下奉文将軍は、日本軍戦死者の忠霊塔の他、巨大な木製の十字架の慰霊碑を建てその霊を慰めた。そこには以下の様に記されていた。
“To Brave Enemies, the Australians”
(私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために)
日本の敗戦とともに、イギリス軍によって日本兵士への慰霊碑、湘南神社と共に爆破された。

3.マニラ占領(1942年:昭和17年1月2日)
マレー沖海戦に勝利し、主導権を握った日本軍はつづいてフィリピンのルソン島を攻略。当時フィリピンはアメリカの植民地で、フィリピン人を含む実質的なアメリカ軍の数は15万人。対する日本軍は4万5千人。しかし、
日本側はよく訓練されており、なによりも一人ひとりが勇敢であったことから、アメリカ軍を撃破することに成功。フィリピンの首都マニラを占領した。当時、フィリピン駐留アメリカ軍の総司令官だったダグラス・マッカーサーはこのとき、フィリピンからの撤退を余儀なくされた。

4.ジャワ島沖海戦に勝利(1942年:昭和17年2月4日)
ジャワ沖海戦では、イギリス、オランダ、アメリカ海軍の艦隊を相手に圧勝した

5.シンガポール占領 (1942年:昭和17年2月15日)
 日本軍は、イギリスが東南アジアにおける植民地支配で最大の拠点としていたマレー半島の南端、シンガポールへ攻め込む。この戦闘は、日本陸軍の訓練・戦略・戦術・陸海軍協力・装備・補給・進撃・猛勇・統制等々の要素が結集実現された。陸軍の華々しさの最後を飾るものであった。この戦いは、さすがは連合軍の拠点だっただけにあっさり陥落とまではいかなかった。しかし日本軍は勝利し、東南アジアでの欧米諸国の植民地支配を急速に終結へ向かわせた。

6.珊瑚海海戦(1942年:昭和17年5月7日)
 この海戦により、日本軍とアメリカ軍が海上で空母を主力とした史上はじめての戦をくり広げ、互いに空母を1隻ずつ失い、その他両軍の空母も損傷が激しく、決着がつかないままに終わった。3隻の特殊潜航艇がシドニー湾を攻撃した。
数日後、その中2隻が引き揚げられた。4名の日本帝国の軍人の遺体が引き揚げられた。6月9日、勇気あるこれら日本軍人のためにオーストラリアは海軍葬を以て遇してくれた。ムーアヘッド・グルード海軍少将は、海軍葬に反対する世論に対して「勇気は、特定国民の所有物でも伝統でもない」と演説して国民に感銘を与えた。

7.ミッドウェー海戦での敗戦(1942年:昭和17年6月5日)
東南アジアから欧米諸国を駆遂するまでの日本軍は破竹の勢いがあり、作戦も的中して快進撃を続けてきた。しかしこのミッドウェー海戦から徐々にアメリカの反撃が強さを増していくことになる。この戦いは、4月18日に行われたアメリカ軍による日本本土への空襲が、
太平洋北部に浮かぶミッドウェー島を拠点にして行われた。この事態に衝撃を受けた連合艦隊司令長官山本五十六は、なとしても本土を守らねばならないと敵空母の絶滅を意図してミッドウェー島に敵空母を誘い出しこれを撃滅せんとした。しかし、この戦で結果的に日本は空母4隻と多くの航空機と優秀な搭乗員を失う大敗を喫した。
アメリカは日本海軍の主要暗号を解読しており、ミッドウェーの攻撃計画を正確に事前に知っていた。過去の戦史において一方の作戦がかくも相手方に筒抜けになっていた事例は、他にない。アメリカ艦隊は、決戦を求めて日本側がその根拠地を偵察しようとした以前に、早くもその根拠地を後に西へ西へと向かっていた。日本軍は、暗号が解読され、待ち伏せに遭うとは全く予想外であった。日本側の作戦は、根底から崩れ去った。この敗北後、日本は急遽空母の増産に乗り出すが、物資や人員、燃料の不足などにより思うように増産できず、この海戦を境に戦力が目に見えて低下しはじめる。
 他方アメリカは、真珠湾攻撃により大打撃を受けて以来、着々と空母・その他艦船・航空機・レーダー・爆弾等の研究と開発増産が進んおり、質量とも日本との戦力差が開きはじめた。また、日本では大本営(太平洋戦争の期間中、陸軍・海軍の統師機関であった)がこの敗戦についての報道を許さず、以後、戦況不利となっても事実を国民に隠蔽するようになる。「大本営発表」は、単なる戦況報告を超えて国家権力そのものだった。
国民は外からの情報が遮断され、軍に不都合な情報はすべて伏せられ意図的な情報のみが一方的に押しつけられた。そして、最終的に日本は存亡の危機寸前にまで追い込まれたのである。「大本営発表」というと現代社会にあっては、権力による虚偽・誇張・隠蔽の比喩として用いられている。都合のわるいことはすべて隠してしまう、この悪弊は今日に至るまで現代日本社会においても継承されている。

8.ガダルカナル島へのアメリカ軍の上陸(1942年:昭和17年7月6日)
 一時日本が領有していた南太平洋の諸島のうち、最南東にあるガダルカナル島に、いよいよ本格的な反抗に転じたアメリカ軍は2万人の海兵隊を上陸させ、日本軍の飛行場を占拠する。それ以降、この飛行場を巡り日米両国の死闘が繰り広げられた。

9.第一次・第二次ソロモン海戦(1942年:昭和17年8月8日・1942年:昭和17年8月23日)
 東南アジアからさらに東の沖合にある、ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺海域で行われたこの戦では、日本軍がアメリカ・オーストラリア艦隊を撃破し、勝利した。
 しかし、アメリカ軍の反抗により空母1隻を失った日本軍は混乱し、戦況は泥沼化の様相を呈した。

10.南太平洋海戦(1942年:昭和17年10月26日)
 この戦いで、日本軍はアメリカ空母3隻を大破撃沈させ、一時的にアメリカ軍は混乱するも、日本軍は度重なる戦闘で熟練の要員が不足し、さらに遠方のため補給に支障が出て、前線への物資の補給が滞り、食料不足が著しく陸軍に多くの餓死者を出し、結果アメリカ側の勝利に終わった。

11.第三次ソロモン海戦(1942年:昭和17年11月12日)
 戦艦2隻を沈められた日本軍は、補給路を断たれたことが、食糧、武器輸送が絶望的となり、結局、翌年2月7日、日本軍はとうとうガダルタナル島を放棄した。この頃よりアメリカ軍は、潜水艦を多く投入し、日本の補給を断つため、東南アジアから日本列島へ向かう補給船を待ち伏せし、改良の進んだ魚雷で次々と撃沈していった。
アメリカ軍の暗号解読で蒙った大きな打撃は、潜水艦による無差別攻撃であろう。アメリカ軍の潜水艦の攻撃戦法は「群狼作戦」といわれ、複数の潜水艦が同時に輸送船団を襲撃するもので、先ず護衛艦を標的にして撃沈し、輸送船団の行動が乱れてバラバラになったところで、潜水艦が無防備の輸送船を次々と撃沈していった。
特に「輸送船の墓場」と呼ばれた台湾とフィリピンとの間に横たわるバシー海峡では、多くの日本船がアメリカの潜水艦によって沈められた。この海戦で日本は、軍人の死亡率を上回る6万余人の戦没船員と、膨大な船舶喪失による日本商船隊の壊滅という大きな犠牲を払った。

12.大東亜会議(1943年:昭和18年11月5日、6日)
 欧米植民地支配からの解放を謳った史上初のアジア頂上会議が東京で開催された。
出席者:日本内閣総理大臣東條英樹、フィリピン大統領ホセ・ラウレル、タイ内閣総理大臣ワンワンイタヤコーン、インド内閣総理大臣スバス・チャンドラ・ボース、ビルマ内閣総理大臣ウー・バー・モウ、満州国内閣総理大臣張景恵、中華民国国民政府代表汪兆銘、ジャワ中央参議院代表スカルノ。
大東亜共同宣言
 抑々世界各国ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ。然ルニ英米ハ自国ノ繁栄ノ為ニハ他国家他民族ヲ抑圧シ特ニ大東亜ニ対シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行イ大東亜隷属化ノ野望ヲ
逞ウシ遂ニハ大東亜ノ安定ヲ根底ヨリ覆サントセリ大東亜戦争ノ原因茲ニ存ス。大東亜各国ハ相提携シテ大東亜戦争ヲ完遂シ大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウシ下ノ網領ニ基キ大東亜ヲ建設シ以テ世界ノ平和ヲ確立ニ寄与センコトヲ期ス。
一、 大東亜各国ハ協同シテ大東亜ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共栄ノ秩序を建設ス
一、 大東亜各国ハ相互ニ自主独立ヲ尊重シ互助敦睦ノ実ヲ挙ゲ大東亜の親和ヲ確立ス
一、 大東亜各国ハ相互ニ其ノ伝統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸張シ大東亜ノ文化ヲ昂?ス
一、 大東亜各国ハ互恵ノ下緊密に提携シ其ノ経済的発展ヲ図リ大東亜ノ繁栄ヲ増進ス
一、 大東亜各国ハ万邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種差別を撤廃シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ解放シ以テ世界ノ進運ニ貢献す
 「アジア解放の戦争目的を宣明する」という重光葵外相講想は、「大東亜を米英の桎梏寄り解放」というくだりに明文化されている。
戦後、バー・モウは、「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」と述べている。この誤解している諸国民のなかに「日本国民」自身も含まれているところに、戦後日本の深刻な悲劇がある、といえそうである。

13.レイテ沖海戦に敗北(1944年:昭和19年10月23日)
 アメリカ軍は勢いに乗じてフィリピンのレイテ島へ侵攻。この上陸を阻止するため日本海軍は、戦力のすべてを投入した。しかし作戦は失敗し戦艦・空母など海上戦力のほとんどを失い壊滅的な状態となる。レイテ島への上陸を許したあとは、陸上でも幾多の激戦が繰り広げられた。制海権と制空権を失った日本軍に勝ち目はなかった。この戦いでも多くの餓死者を出し、日本軍戦死者8万人、これに対し米軍戦死者3,500人、
わずか2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北した。レイテ島に引き続き、アメリカ軍はルソン島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島と進攻し、それぞれ日本軍と戦闘を繰り広げたのちフィリピンを占領した。フィリピン陥落により完全にシーレーンが絶たれた日本は、本土でも物資が欠乏し、
ほぼ戦争継続が不可能な状態になりつつあった。加えて、制空権を奪ったアメリカ軍により本土への空襲も激しさを増していった。奇跡だけが日本帝国を救い得るのだということは、誰の目にも明らかであった。
このころより航空機の体当りの作戦が考案され、フィリピン死守の戦いからやむなく特攻(特別攻撃)が行われるようになった。ルソン島中部のマハラカットにあった日本の第二百一海軍航空隊基地では10月19日、第一航空艦隊司令長官大西瀧次郎海軍中将は指揮所に航空隊幹部を参集し会議を開いた。事態はいままでのような常套戦法をもってしては、もはや勝利を望みえない状況にある。
「わたくしは零戦に二百五十キロ爆弾を抱いて、敵空母の飛行甲板に体当りをやらせるほかこの敵を阻止しうる道はないと思うが・・・・どんなものであろうか」昭和20年1月5日、連合軍がルソン島西部のリンガエン湾に上陸を開始したとき、フィリピンの日本軍基地からの最後の大規模な特別攻撃が行われた。アメリカ軍を恐怖に陥れた特攻攻撃は、日本が敗戦する日までに、日本海軍だけで総計2,590人の将兵が、神風特攻で身を犠牲にした。

14.東京大空襲(1945年:昭和20年3月10日)
 昭和20年3月10日、東京上空へ飛来したアメリカ軍B29爆撃機325機による無差別爆撃により、一夜にして10万人以上もの民間人が虐殺された。死者10万人を超える大量虐殺は、1日の虐殺としては、その1ヶ月前のドレスデン爆撃の3万5,000をはるかに上回る史上最大のものである。住民集中地区を狙って焼夷弾攻撃によって焼き尽くすことは、
意図的な住民殺害であり、無辜の民に対する史上まれな戦慄すべき大量虐殺で第一級戦争犯罪というべきである。これは明らかな国際法違反である。しかしアメリカ軍は戦後何も責任を追及されていない。東京大空襲に対し引き合いに出されるのが重慶爆撃(昭和14年5月25日、日本海軍による爆撃)である。
重慶は、東京のような無防備都市ではなく、多くの国民党軍兵士が存在しており、なおかつ軍事施設がある都市であった。12,000人以上の犠牲者が出たことは事実であるが、東京大空襲とは同一視はできない。アメリカ軍は、東京に続いて大阪、名古屋、神戸、静岡など全国の主要都市の民家に対し平然と無差別爆撃を行うようになり、民間人を大量に虐殺することが当然のようになっていった。そしてこのような無差別爆撃が後の広島、長崎への原爆投下に繋がっていった。

15.不忘山慰霊碑 (1945年:昭和20年3月10日)
 搭乗員34名を乗せた米軍爆撃機B29が3機、宮城県白石市の標高1,700mの不忘山の山頂近くの山麓に衝突、大音響で爆発・炎上遭難した。翌朝、数人の村民と一人の警察官が山へ登り34名の搭乗員の遺体を発見。彼らは遺体を一か所に集め、火葬。この3機の米軍爆撃機B29は、サイパンを立ち昨晩、
焼夷弾による「無差別攻撃」で10万人以上の東京都民を殺戮した。その事実を知りながら地元民たちは武士道精神を以て彼らの遺体を手厚く埋葬した。そして終戦の年の8月15日、アメリカ軍は不忘山へ来てすべての遺体を集めて横浜のどこかへ持ち帰った。その後16年を経て1961年、
村民たちは、遭難場所に新しい墓標を建てた。そして戦後70周年を記念して不忘山のより麓で道路の側に新しく造られた「国際平和公園」の中心としてもう一つの「戦没者記念碑」を建てた。日本人自体がこの事実について全く知らないのは、一体どういうことであるのか。戦後の日本教育がいかなるものであったのか如実に示しているのではなかろうか。

16.硫黄島守備隊玉砕(1945年:昭和20年3月26日)
 小笠原諸島に属する硫黄島を賭けたこの激戦では、両軍合わせて5万人の戦傷者を出す激戦となった。日本軍は2万人近い兵士がほぼ全滅した。硫黄島総指揮官栗林忠道中将は、事前に島民を他の島に避難させたため、島民の犠牲者は一人もでなかった。栗林は最後の総攻撃を前に大本営に宛てて決別電報を発した、最後に
「国ノ為重キツトメヲ果シ得テ、矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」。3月26日、軍司令官自らが突撃した例は日本軍の戦史・戦例にない。この総反撃は極めて異例のものであるが、絶命のときまで部下とともに戦った指揮官の最後を見届けた者は、一人も生還していない。

17.沖縄戦 (1945年:昭和20年3月26日〜6月23日)
 沖縄上陸を試みるアメリカ軍に対し、日本軍は民間人を動員し必死の地上戦を展開した。両軍と民間人をあわせて数十万人の死傷者を出した末に占領を許している。太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。陸海空において日米の大兵力が投入された。
アメリカ側の最高指揮官であつたシモン・バツクナー中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦や硫黄島の戦と並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地の一つとなった。6月23日午前4時30分第32軍司令官牛島満陸軍中将は長参謀長と摩文仁洞窟におかれた司令部壕で割腹自決した。

18.米英中、ボツダム宣言により降伏を勧告(1945年:昭和20年7月26日)
ポツダム宣言:鈴木首相が「黙殺」と言ったのを外務省かNHKか同盟通信社が「ignore」(無視)と英訳してラジオ放送をした。国家の命運を考慮せずに機械的に英訳したものと思われる。戦後、No commentと発表した方がよかったのではないか、との話もあった。
 黙殺:disregard、ignore、neglect、brush aside、push aside、discount、disregar

19.アメリカ軍、広島・長崎に原爆を投下(1945年:昭和20年8月6日・9日)
 そうして迎えたこの日、とうとう1発目の原爆が広島に投下され、東京大空襲に匹敵する住民の大量虐殺が行われた。
 広島の3日後には2発目が長崎へ。 この2発の原爆投下は、日本の分割占領を主張したソ連への牽制の意味も含めアメリカ当時の大統領トルーマンにより決定されたといわれている。

20.ボツダム宣言を受諾 無条件降伏(1945年:昭和20年8月15日)
 陸軍を中心とする猛反対を押し切って昭和天皇の聖断でボツダム宣言を受諾。この受諾決定から、天皇による玉音放送、そして16日には大本営により全部隊へ戦闘行為の停止命令が発せられ、戦争は終わりを迎えた。ただし、最後の最後に参戦したソ連はスターリンの命令により8月9日未明、
ソ連軍は突然、兵員174万、戦車5千台、航空機5千機という膨大な兵力で日ソ不可侵条約を一方的に破り満州(中国東北部}へ襲いかかった。これに対しボツダム宣言を受諾し、国際法に基づき武装解除した日本軍はなす術がなかった。
この攻撃は8月15日以降も攻撃の手を緩めなかった。ソ連攻撃をしなかった国民に虐殺・略奪を重ね、樺太、千島列島、満州国を占領し満州にあった工場や機械設備を片っ端からシベリヤへ運んだうえ、
数十万の日本人をシベリヤ開拓の労働力として強制連行し、長期にわたり抑留酷使した。これは明らかなボツダム宣言違反である。ソ連の侵攻が絶対に許せないのは、もっとも卑劣な火事場泥棒だからである。その影響は今日の日本においても、なお修正されることなく今に至っている。
 これまで身命を賭し国家のため戦ってきた軍部指導者の中にはそれぞれその責任をとり自決した。 ボツダム宣言の最終的な受諾返令の直前に陸相官邸で自決した阿南惟幾陸軍大臣は、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」の遺書をしたため、割腹自決した。 同日、その夜、
特攻隊生みの親といわれた大西瀧次郎海軍中将は、「特攻隊ノ英霊ニ曰ス善ク戦イタリ、深謝ス・・ワレ死ヲ以テ旧部下ノ英霊トソノ遺族ニ謝サントス」の遺書をしたため、割腹自決した。最後の反乱となった川口放送所占拠を鎮圧した8月24日、夜、東京を管轄する東部軍管区司令官、田中静壱陸軍大将は司令官自室で拳銃自決した。

21.降伏文書調印式(1945年:昭和20年9月2日)
 東京湾内に停泊した戦艦ミズリー艦上で行われた降伏文書への調印式で第二次世界大戦は終結した。日本は、ボツダム宣言第5条「我々ノ条件ハ左ノ如シ」の条文の中の一つである
「九 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且ツ生産ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」を受けたのであって、ドイツの如く国家の無条件降伏を受け入れたのではなかった。つまり日本は、ドイツと異なり、国家ではなく日本軍が無条件降伏を受け入れたのである。

22.戦争の総括
開戦初頭、東西5千キロ、南北も6千キロの超大円周の中に、日本軍は展開してしまった。地政的に見てこの版図は早晩収縮しなければならなかった。アメリカ軍はその外周に攻撃を加えてきた。日本軍はある時点で引き上げる手もあったが、冷静な戦局の判断を欠き、また緒戦の勝利は撤退を欲しなかった。日米両軍は互いに意図せずガダルカナル島を「決戦場」とし、6ヶ月にわたる苦闘の末に日本軍は敗退した。海軍の敗北はミッドウェー海戦にあった。
そしてそれに相対する陸軍敗北の第一歩がガダルカナル島に刻まれた。よく戦ったことは確かである。しかし戦闘は常に補給困窮のもとに戦われ、最終的に日本軍の完敗に終わった。インパール、ガダルカナル、ニューギニアなどの戦線で兵士は、ロジステックや現地事情を無視した、いたずらな戦線拡大の作戦指令により、戦闘以前に飢餓と疫病により多くの生命を亡くした。
陸軍より視野が広いと言われた海軍でも、真珠湾の奇襲によって、世界の海戦が航空機の時代に突入していることを自ら証明しておきながら、大艦巨砲主義にこだわり、米軍の航空機、レーダーの電子技術や暗号解読の情報技術を含む総合戦で対抗できなかった。また海軍の空軍化を唱えた最後の大将・航空本部長井上成美の先見も主流の艦隊派の大艦巨砲主義の前にその戦略を有効に生かすことができなかった。
日本軍は、緒戦では個々の技術において世界最先端の技術を持っていた。しかし大局観やその後の学習機能を欠き、米軍に逆転を許した。支那事変から太平洋戦争初期にかけて、
米英の戦闘機を遥かに凌ぐ性能を誇った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)然り、太平洋戦争でその命運を決したレーダー技術の原型は1926年に開発された八木アンテナであり、開発当時の学界や軍部では、「敵を前にして電波を出すなど闇夜に提灯を灯して位置を知らせるのも同然だ」と考えられ、軍事上重要な発明とはみなされなかった。
このように軍部首脳は過度の精神力や火器兵器に頼り、情報技術を軽視した。戦艦大和の造艦技術然り、最後まで前線に出ることは殆どなくその巨砲を敵艦に向けることなく、いたずらに米軍の航空機の餌食になった。日本軍は科学技術の劣弱性に匹敵する致命的な敗因の一つとして陸海軍の不一致や互いの相剋をあげることが出来る。さらに戦局に大きな影響をおよぼしたのは、個々の局地戦にこだわり、全体を見渡すことができない統合マネジメント機能の欠如である。
情報軽視の結果、暗号は解読され、ミッドウェー海戦での敗北以降、待ち伏せした米潜水艦による無差別攻撃により物資輸送船は片端から沈められ、歯止めが利かない一方的な敗北を重ねた。その結果、終戦時の戦没艦船はおよそ843万トン、明治以来75年をかけて築き上げてきた
帝国海軍と日本商船隊はわずか2〜3年で壊滅した。敗戦の結果、日本は三つの大きなものを失った。領土と、大軍備、日本精神とである。日本精神は、やがて甦るであろうし、甦らなければ亡国の道を歩むことになる。領土と大軍備は二度と日本に還る日はなかろう。
しかし決して忘れてならないのは戦場という極限の世界で日本人が示してきた世界に誇る規範意識と日本精神である。外交官でいえば、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ナチス・ドイツのは迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情、1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救った。ことで知られている。


第4章 終戦からバブル崩壊(1945年〜1990年:昭和20年〜平成2年)高度成長時代
1.極東国際軍事裁判(東京裁判)(1946年〜1948年:昭和21年〜昭和23年)
 日本が降伏して終結した第二次世界大戦を、連合国側が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。一方、ドイツ、イタリア等に対して戦争犯罪人を裁いたのが「ニュルンベルク裁判」である。現在この裁判が批判の対象となっているのは、ひとえに「戦勝国の報復裁判」だからである。もし戦争裁判が公平なものであるならば戦勝国の犯した戦争犯罪も等しく裁かれなければならないにもかかわらず、一切が不問とされているからである。
1946年(昭和21年)1月19日    極東国際軍事裁判所条例が定められる
1946年(昭和21年)4月29日           起訴
1946年(昭和21年)5月3日            審理開始
1948年(昭和23年)11月4日           判決の言い渡し
1948年(昭和23年)11月12日          刑の宣告
1948年(昭和23年)12月23日 (平成天皇誕生日)絞首刑執行
死刑(絞首刑) 7名
板垣征四郎・東條英樹・松井石根・土肥原賢二・木村兵太郎・廣田弘穀・武藤章
処刑された7人の遺体は火葬された。遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。
判事は全て次の連合国つまり戦勝国から選ばれている。
アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージランド、カナダ、インド、フィリピン
A級戦犯(平和に対する罪)戦争を起こした日本の指導層。逮捕拘束された者200名。内、起訴された者28名。A級戦犯指定者の中には、後に内閣総理大臣となる岸信介も含まれている
B級戦犯(戦時国際法による交戦法規違反行為)その数、実に11,000人に及ぶ。問題はその裁判を行った場所・方法・起訴方法であった。マニラで絞首刑となった山下奏文陸軍大将も含まれている。辞世の句「待テバ勲ノコシユキシ友アトナシタイテ我モユキナンム」
また、フィリピン攻略戦時の軍司令官で銃殺刑となった本間雅晴陸軍中将の辞世の句 「戦友眠ルバタノ山ヲ眺メツツマニラノ土トナルモマタヨシ」。連合国最高司令官総司令部が逮捕状を出したのが、2,636名であったのに対し、英国軍が主体の連合軍東南アジア司令部では8,900名以上。
そしてそれ以外にソ連軍やアジア各国で逮捕された者たちがいた。裁判方法は所謂軍事法廷であり、弁護士をつけられはしたものの、不当な扱いを受けたり、無実の罪で判決を受けた者も多数いたという。ソ連・中国・オランダによる法廷は特に杜撰な法廷であり、
まさに勝者による不当な報復裁判であり、無実の罪を背負わされる事例が多数存在した。ろくに調査することなく伝聞による調査や、虚偽の証言、通訳不備などもあった。この裁判においては、「民主主義対ファシズム」という対立図式を硬直的、教条主義的に適用し、
戦時における日本の行動をすべてファシズムによる悪と断罪した。この裁判には、「戦争は国益の衝突である」というクラウゼブィッツ以来の戦争についての基本的認識さえ欠如していた。この裁判に基づく歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であったといわざるを得ない。
東條英樹の自殺未遂
 昭和20年9月11日、米軍に自宅を取り囲まれたなかで、拳銃による自殺をはかった。遺言書には次のように記されていた。
「但だ、大東亜戦争は彼より挑発せられたるものにして、我は国家存在、国民自衛の為、己むを得ず起ちたるのみ、この経絳は昭和16年12月8日宣戦の大詔に特筆大書せられ炳乎として天日の如し。故に若之世界の公論が、戦争責任を追求せんと欲せば、其の責任者は我にあらずして彼に在り乃ち彼国人中にも亦た斯く明言するものあり」
口惜しさが漂うかのごときである。拳銃は心臓を外れ自殺に失敗した。

2.GHQによる占領政策
敗戦国となった日本に対する連合国軍総司令部(GHQ)による一大目標は日本を「二度と立ち上がってアメリカに歯向かうことのない国」にすることだった。そのためには国家意識や民族意識を育てないことであり、国家意識はタブー視された。歴史教育は廃止され、大東亜戦争を日本の一方的侵略であると決めつけ、悪いのは軍部や軍国主義者であると洗脳された。
これはアメリカが戦後日本を一方的な悪として、自分の戦争を正当化するために都合よく唱えた歴史観であり、客観的にみれば決してそのようなものでなかった。日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にあった。日米戦争終結から6年後の1951年5月3日、アメリカ上院の委員会でアメリカ軍を率いて日本と戦った連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は「日本は戦いたくて戦ったわけではない。それは侵略戦争でなく、むしろ自衛のためだった」と証言している。
また原爆投下や主要都市の爆撃により数十万の市民を殺戮した戦慄すべき戦時国際法を平然と無視した未曾有の戦争犯罪もアメリカでなく日本の軍部や軍国主義者のせいであり、戦争を終結させるためであるとした。さらに「国家意識は戦争につながる」とか「国を愛する心は危険思想」などという、
世界のどこにも見られない妄想が支配的となった。こうした環境のなかで日本は自国の安全保障を全面的にアメリカに頼り、ひたすら経済に専念することにより国の安全と繁栄を勝ち得ることができた。しかしこの状態では、万事アメリカにすがり、その顔色をうかがう以外に選択肢はなく、
自立できない、しようとしないこのような国家は国際社会で発言力を持つことはできない。この時代の日本の中心指導者には戦争を経験し戦前の教育を受けた明治生まれの人たちが残っていた。政治家では吉田茂・鳩山一郎・
石橋湛山・岸信介・池田隼人・佐藤栄作・田中角栄など。終戦後財閥解体(1945年〜1952年)、公職追放(1946年〜1952年)農地改革(1947年)などを経て、民間人では、白州次郎・松永安左ェ門・松下幸之助・出光佐三・土光敏夫などの士魂商才の人物を輩出。

3.高度成長時代(1953年〜1986年:昭和28年〜昭和61年)
 日本経済は朝鮮戦争(1950年・昭和25年〜53年・昭和28年)による朝鮮特需により景気が回復し、1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)にかけて経済は高度経済成長を遂げる。

4.バブル景気と政財界のスキャンダル
先進5カ国(G5)によるプラザ合意の影響で1ドル240円前後から120円台となり国内の輸出産業が大打撃となる。政府は円高による不況を回避する為に低金利政策を実施するが、それが裏目となり株・不動産が高騰する土地神話の誕生。こうして1986年から1991年まで実体の無い好景気、
バブル景気が到来する。バブル景気は東京23区の土地価格でアメリカ本土が購入できるほどであり、日経平均株価は史上最高値:38,975円となる。その一方で、安保闘争・全共闘運動などの全学連や全共闘の学生運動が盛んになる。また、左翼団体赤軍派・連合赤軍・マル派・中核派などによるハイジャックや襲撃事件、内ゲバが相次いだ。

 政財界はローキード事件、リクルート事件が明るみに出る。また自由民主党は1955年(昭和30年)から1993年(平成5年)まで38年間も連続して与党となる。主な政策としては国民所得倍増計画、消費税の導入や三公社の民営化、環境庁の設置、東南アジア諸国との戦後賠償、平和条約の締結などである。戦後賠償は北朝鮮を除き1977年4月に全ての支払いが終了する。

5.アメリカに次ぐ世界第二の経済大国(1980年〜1990年:昭和55年〜平成2年まで)
日本は世界経済フォーラムダボス会議(1971年設立)が発表する産業競争力で1980年代後半から1990年まで世界ランキング1位を占めアメリカに次ぐ世界第二の経済大国となり歴史上でも最も豊かな社会を実現した。


第5章 失われた25年(1990年〜2015年:平成年2年〜平成27年)
1990年を頂点として日本の国際的地位は後退の一途を辿っている。2015年の産業競争力のランキングで日本は27位、先進国ではアメリカ1位、スイス4位、カナダ5位、ドイツ10位、イギリス19位、アジアでは香港2位、シンガポール3位など遥かに日本の上位にいる。日本人は果してこの現実を謙虚に受け止めているのか、まだ、世界第二の経済大国の満心は残っていないか、

1.神大震災 1995年:平成7年1月17日
 観測史上初の震度7の激震が兵庫県南部を襲った。直撃を受けた150万都市、ミナト神戸は瞬時にして壊滅状態に陥った。淡路島、近隣の西宮、芦屋、宝塚市などにも大きな被害がおよび死者は6,400人を超え、家屋などの倒壊、焼失数は14万戸以上に達し、関東大震災以来最悪の震災となった。家を失い避難生活を強いられた住民は約30万人。
海外からの称賛 素晴らしい日本精神の発揮
世界各国の報道機関の記者たちは本国へ次のように率直に打電した。
「驚くべきは、地震によって破壊された街で、ほとんど掠奪がないこと」、「この規律正しい国の標準的な行動規範である礼節を瓦礫の中で発見した」、「日本人は和の精神を学んでいるからだ」など素晴らしい日本精神を世界に報道した。なぜ、そうなのか、まだ自分たちにも分からない。振り返る余裕もない。日本人の身体のどこかに伝統的な日本精神が残っている証しといえる。

2.東日本大震災と福島第一原子力発電所事故 2011年;平成23年3月11日
 岩手県沖から茨城県沖まで南北約500km、東西約200kmのおよそ10万km2という広範囲のすべてが震源域とされる。最大深度7、死者行方不明者は18,455人、建築物の全壊・半壊は合わせて400,326戸避難者40万人以上。
福島第一原子力発電所事故
 福島第一原子力発電所は全電源を喪失、原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生し、大量放射性物質の漏えいを伴う重大な原子力事故に陥った。この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、
チェルノブイリ原子力発電所事故と同等の世界最悪の事故が発生した。米政府は2001年の米同時テロの後、全電源喪失への対応を原子力事業者に求めた。非常用発電機が同時に破壊される事態を想定したものだ。米国の動きをみて他国も対応した。しかし日本は規制当局が米国の動向を知りながら何ら対策をこうじなかった。
こうした背景には、安全神話の日本では事故は起こらないという奢りから世界の警鐘を無視した。この責任は一体どこにあるのか。4つの事故調査委員会は、電源喪失による事故原因の糾明もせず、事故は想定外の地震と津波による天災であると結論づけている。検察は、
被災者1万3千人や市民団体による告訴・告発に対し二度にわたり「東日本大震災と同規模の地震や津波は専門家の間で全く想定されなかった、東電の津波対策は不十分とはいえない」と結論づけ関係者42人全員を不起訴処分とした。この検察のとった態度は、事故の原因を直視せず、まさに無責任の典型といえる。
 この時代の政治家では小渕恵三・森喜朗・小泉純一郎・安倍普三・福田康夫・麻生太郎・鳩山由紀夫・管直人・野田佳彦などいずれも二世、三世の政治家で戦争体験者はいなくなった。安倍普三・鳩山由紀夫・管直人・野田佳彦などは戦後生まれの世代である。21世紀に入るとグローバル競争時代と言われ、自由こそ繁栄の道を標榜するアメリカが主導する市場原理主義が世界を席捲し、弱肉強食の時代を迎えた。
さらに中国を筆頭とするアジア諸国が台頭し、日本の経済的な影響力は低下。財務省の発表によると2015年度末のわが国の借金は1,167兆円、対GDP比246.42%は世界第2の借金国ギリシャ177.19%に比べ断トツの世界一の借金大国である。また厚労省によると日本人の6人に1人が「貧困層」と言われ、子供の貧困率は16.3%で過去最悪を更新した。日本の地位の後退は単に経済的な指標に留まらず、それ以上に深刻な問題は日本人としての精神的支柱を失いつつあることである。
こうした実状は、GHQの洗脳作戦により、戦後の自由がわが国古来の道徳を徹底的に破壊したことに起因する。公の精神・礼節・誠実・正義・勇気・惻隠・名誉と恥・孝心・卑法を憎む心、わが国の至宝といえる人間教育の徳目を失った日本人の人間力の劣化が確実に進んでいる証左である。
日本では、2001年以後アメリカの主導する金融資本主義中心のグローバリゼーションが進む中で、新自由主義的な経済政策が導入されるとともに、戦後民主主義が急速に崩壊し新たな国家主義・軍国主義が台頭することになった。政官財学報の既得権益層とアメリカの圧力は2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故によって加速された。
さらに2013年の秘密保護法の制定と国家安全保障会議の設置、2014年7月の集団的自衛権行使を容認する閣議決定、2015年9月の安保関連法案の制定など民意を無視する形で日本社会を大きく変貌させようとしている。さらに「メディア・ファシズム」といわれる権力のメディア化が進むなか、正邪と真偽が逆転して伝えられる傾向が顕著になりつつある。権力とメディアが一体化して情報操作を行い、
民衆がそれに踊らされるという状況、あるいは民衆もそれに、一体化して、権力・メディアと三位一体になって、辺見庸氏の言葉によると「鵺のような全体主義」という状況が生まれている。また「国境なき記者団」が発表する「世界報道自由度ランキング」で、2015年に日本が順位を61位まで下げたことが大きく報じられた。
これは世界各国の報道機関と政府の関係についての監視と調査をまとめたものである。原発事故に関する報道を見ていると言論・報道などの自由が保障されている「はず」の日本のランキング61位は頷ける。この国でタブー視される安保・基地問題・消費税・TPP問題・
原発問題の核心は、新聞・テレビでは決して報道されない。都合の悪いことは隠蔽するのが日本の伝統的なお家芸であり、かつての「大本営発表」が国家権力による虚偽・誇張・隠蔽の代名詞であったのと同じである。そして今の日本は(新しい戦前)と言っても過言でない戦後最大の危機に直面している。


第6章 日本の再生をいかに図るか
終戦から現在に至る日本は、近代以降もっとも甚だしい危機意識の低下にみまわれている。
自国の安全を日米安保条約、米軍の抑止力や平和憲法で確保できると安易に考えている国民も少なくない。これは妄想というほかない。自国の安全は、国民一人ひとりがいざというときに国家に命を捧げる気概がなければ確保できない。これは世界の歴史を見れば容易に理解できることである。
日本の現近代史から分かるように世界で最も集団主義的国家といわれる日本では、特定の主義・主張・行動に流れるプロパガンダは極めて危険といえる。かっての「一億玉砕」「八紘―宇」「進め一億火の玉だ」「挙国一致」「堅忍持久」「尽忠報国」などのスローガンが国民の間で浸透し、
破滅へ一直線に突き進み国を危うくした悲劇を生んだ。この反省に立ってやるべきことは、「日本精神を甦らなければ亡国の道を歩むことになる。」を肝に銘じて、まず日本人一人ひとりが正確な日本の現近代史を学ぶことである。このことにより自ずからなにを学ぶべきか、為すべきか、、日本人が守るべき価値や行動のあるべき姿を学ぶことができると考えている。そして一時の時代の流れや空気に翻弄されない定見を国民一人ひとりがしっかりと養うこともできる。


第7章 武士道
 武士道は平安末期から鎌倉時代にかけて「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば戦闘におけるフェア・プレイの精神だった。江戸時代になると実際の戦闘は無くなり、それとともに武士というエリート階級の行動指針となり、さらに日本人全体の道徳的基準となった。
武士道は「書かざる掟」として親から子へ、口から口へと伝えられ、そして知識より実践こそが本質とみなされたのである。新渡戸稲造著の「武士道」初版は1899年(明治32年)にアメリカで出版され、大変な賞賛を受けた。自らその著書を読んだルーズベルト大統領は数人の友人たちに配ったといわれている。初版が刊行され6年後の1905年には英語・ドイツ語・ポーランド語・ノルウェー語・フランス語・中国語・ボヘミヤ語などに
翻訳され全世界へ紹介された。近年では元台湾総統李登輝著の「武士道解題」が2003年に刊行されている。このように日本人の精神的支柱である「武士道」は「ブシドウ」として世界語になっている。武士道は特権階級の武士が守るべき道徳律として生まれたが、その崇高な精神は、時代の変遷とともに研鑽され、武士のみならず広く一般にも普及し、日本人の普遍的な倫理道徳観となったのも事実である。1989年ドーバー海峽海底
トンネル建設プロジェクトでフランスに滞在した際、北フランスのリールには武士道・日本精神を信奉し日本の伝統文化を勉強しているフランス人グループの日本人会があり、畳を敷いた日本間の床の間には鎧兜が飾られている。メンバーは医者・弁護士・学者などの知識人である。日本人から失われようとしている武士道、日本精神が海外では大変な尊敬と信奉を得ている事実を日本人はもっとよく知り、自ら学び日本人としての誇りを持たねばならない。

筆者略歴  小石原 健介(こいしはら けんすけ)
1963年、神戸商船大学機関学科卒業後、関西汽船での4年間の海上勤務を経て川崎重工業に入社。一貫してプラント建設に携わる。関わった主なプロジェクトは南アISCOR製鋼プロジェクト工事責任者、
台湾CSC製鋼プロジェクト建設所長、ドーバー海峽トンネルプロジェクトフランス側掘削機プロジェクト現地所長。関空JAL輸出貨物ターミナル建設所長、新しい日本型プロジェクトマネジメント知識能カ体系と資格認定制度の創設に関わる。日本プロジェクトマネジメント協会専任講師歴任。