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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)

 私の出会ったエクセレントな人物  その1   R3-4-24

 今年の一月で満八十歳になりました。この機会にこれまでの人生行路で出会えた忘れ得ぬエクセレントな人物についてご紹介します。

昭和三十九年六月、関西汽船所属の‘ころんぼ丸’はラワン材の積み取りのため目的の錨地を目指して海図が整備されていないフイリピンミンダナオ島ダバオ湾奥深くを音響測深儀と甲板手が投げ込む測深用ロープで水深を実測しながら微低速で航行していました。
万一座礁に至れば手の施しようがありません。船内には異常な緊張が張り詰め、長時間かけてやっとの思いで目的地に投錨することができました。湾内には既に日本船が数隻投錨しており、ラワン材の荷役が盛ん行われていました。当時私は員外(四等)機関士として初めてのラワン材積み取り航海でした。特にこの地域は武装した山賊やモロ解放戦線のゲリラが出没し著しく治安が悪いとの理由から日本船主協会ならびに海員組合より上陸することは固く禁じられていました。

 投錨するや否や浅岡泉機関長から船内野球大会をするので当直要員を残し、全員上陸の準備をするよう指示がなされました。
当直機関士についても万一デッキウインチその他にトラブルが生じた際は甲板員が汽笛を鳴らして合図をせよとの指示がなされ、揃って上陸することになりました。心配する益山船長に対して機関長は「ここは子供たちの国だよ、心配することはない」との言葉をかけていました。
間もなく上陸用の通船が本船に横付けされタラップが下ろされバックネット、バットその他の野球道具を手にした一団が通船に乗り込み陸へ向け走り出しました。上陸を禁じられている他船では多くの船員がデッキからわれわれの通船を見送っていました。

 この日は船内の厳格な階級や職制から解放され、野球で存分に活躍した者が尊敬と賞賛を受けることになります。一番若いメスルームのボーイも大活躍で一刻の英雄気分を味わっていました。やがて夕暮れが迫り南国の真っ赤な夕日が水平線に沈む時刻となりました。
野球を楽しんだ一団は先に帰船し、機関長は、渡辺潤二等機関士と私に対し『自分はこれから市長の所へ行くので君達はもう少しここで遊んで帰船するように』と声を駈け立ち去って行かれました。日没とともに暗闇が迫り裸電球の下には大勢の現地人が次々と集まってきました。
やがて椰子の地酒が振舞われ歌や踊りの賑やかな酒盛りが始まりました。しばらくして小銃を手にした二名の制服警官が現れ二人に近寄ってきて『その心配はないがグレートボスの命令で護衛にきた。』と語りかけ酒を勧めてきました。事情を知っているのか二等機関士は落ち着き払って私に『皆と一緒に酒を飲んで大いに歌えば良い』とハッパをかけました。酒もかなり入り当時流行していた三橋美智也の古城を大声で歌い、集まった現地人から思わぬ喝采と歓迎を受けました。どれほどの時間が経過したのかやがて指示を受けた迎えの通船で二等機関士と帰船することができました。

 ラワン材の荷役は何処からともなく筏に組まれたラワン材が次々と本船の舷側へ集められます。筏に組まれたラワン材の一本一本は必ずしも一様ではなく中には沈木や船上に吊り上げるのがやっとの巨木も含まれています。船上ではデッキウンチが唸りを生じ、縦横に張り巡らされたワイヤーロープを利用して吊り上げられたラワン材を船倉の所定の場所に取り込む作業が行われます。現地人作業員は連日デッキの隅に寝泊りし昼夜を問わず危険な作業が続けられます。乗組員にとってもこの荷役期間中は荷役機械のトラブルや巨木の扱いを誤って船体や設備に傷をつけるトラブル、現地人作業員とのトラブル、さらに海賊の襲撃などに備え一瞬の油断も許されない緊張が続くことになります。時には乗組員と現地人作業員とのトラブルで大乱闘に至って身の危険を感じ、乗船官吏が拳銃をぶっ放して騒ぎを治めた類の話しは乗組員から良く聞かされていました。幸いにして今回は何らこの種のトラブルもなく、ラワン材は船倉からデッキの上まで高く積み上げられ、荒天時の航海中の荷崩れに備えて甲板部員による積荷の厳重なラッシング(固縛作業)作業が始まります。やがて‘ころんぼ丸’は抜錨し、未だ荷役作業の終了しない数隻の先船を尻目にラワン材を満載して帰航の途につきました。

 昭和三十九年五月大阪港での‘ころんぼ丸’乗船から同年九月に下船するまでのほんの短い乗船期間でしたが、次航海における基隆、高雄、香港、マニラ、シンガポール、ペナン、バンコックなどの各寄港地での出来事や船内業務を通して浅岡泉機関長より、人間の視野の広さと発想の柔軟さやモラルの高さなど、数々の得難い薫陶を受けることになります。そしてこれらは私にとってその後の人生行路のルーツとなりました。ミンダナオ島でのラワン材積み取り航海での船内野球大会は機関長が乗組員へ与えてくれたいっぷくの安らぎでした。碇泊中機関長は殆ど在船されることはありませんが、離れた場所から荷役作業の進捗状況や安全確保などについて全ての状況を一部始終把握されており、出航が近づくと何処からともなく帰船されるのが常でした。二名の警官が語った‘グレートボス’とは他ならぬ機関長です。また多くの先船に優先して荷役を終了させ帰航したのもフィリピン当局と機関長との特別の関係によるものです。

 いかなる既成の枠にもとらわれない自由闊達な発想、大胆にして細心の備え、何人をも包み込む慈愛に満ちた包容力、東南アジアの各地に張り巡らされた要人との人的ネットワークと情報収集力、人間として桁外れのスケールの大きさ等々、かっての明治のエリートたちを彷彿させるグローバルで理想のゼネラリスト像から数々の暗黙知を学ぶことができました。
 
 
 私の出会ったエクセレントな人物  その2   R3-4-28
 
 昭和三十九年八月、‘ころんぼ丸’は台湾基隆を経て高雄港岸壁に接岸しました。当時の台湾は、

その年の二月に行われた蒋介石総統と吉田茂元首相の会談で合意された「吉田書簡」を巡り中国大陸
と台湾海峡の緊張が急速に高まる中にあって、戒厳令が布かれていました。このため本船の接岸
とともに乗船官吏が乗船し乗組員全員と船員手帳との照合による首実検がなされていました。
乗船官吏によるチェックが始まりましたが、浅岡機関長は既に下船をされたのか船内に姿が見えま
せん。しばらくして帰船された機関長に事務長が不在時の騒ぎを報告すると一言「乗船官吏を自分
の部屋に呼んできなさい」と指示し、呼ばれた乗船官吏へ日本と台湾の友好関係について懇々と
説明し、首実検の無用を説かれました。乗船官吏は相手の威光にただ頷かざるを得ませんでした。
そして機関長は事務長に対し今晩彼は十一時に交代をするので帰る際に熱帯地方では貴重品の
リンゴの籠を手渡すよう指示をされていました。

 寄港地での恒例行事となっている野球大会がその日は高雄市の市民球場で‘ころんぼ丸’対
‘台湾海軍’との間で親善試合として行われました。‘ころんぼ丸’チームには高雄在住で
河合楽器駐在のアマチュア野球で鳴らした剛球投手の某氏が助っ人に加わり好ゲームを展開しました。
その夜は恒例になっている高雄の‘浅岡会’が開かれました。場所は高雄市塩堤区にある
大新百貨公司横の路地を少し入ったところにある柳さんの英雄体育用品公司です。メンバーは
浅岡機関長の高雄寄港を心待ちにしている地元の実業家、医者、弁護士、役人、校長など様々の
職業の高雄、台南在住の知識人が集まり、‘ころんぼ丸’から運び込まれた日本酒、神戸肉の
‘すき焼き’を囲んで日本統治時代の話や政治、経済、世界の動きなどについて全く時間の経過
を忘れての話しが続きます。メンバーの中に‘月さん’と呼ばれ、一際目立つ見るからに聡明な若い
麗人がテキパキと出席者の世話をされていました。彼女は当時大新百貨公司の経理を任され、
浅岡機関長からは実の娘のように呼ばれ、後に台湾では立志伝中の人物となる呉耀庭氏の婦人
となった呉宣静女史です。

その後二十年の歳月を経て私が台湾国営製鉄所(CSC)向け製鋼工場建設プロジェクトの建設所長
として高雄在任中、呉耀庭一族は大新百貨公司、大統百貨公司、大立百貨公司などの百貨店や
スーパー、華王大飯店などのホテル、十万頭の養豚牧場などを経営するオーナーとして繁栄を
極めていました。高雄在任中には呉宣静女史から幾度か招待を受け華王大飯店で彼女が父親の
ように慕っていた浅岡泉氏の話、経営者としての哲学や苦労話、複合民族が共存する複雑な台湾の
内情などについて多くの教えを受けることができました。

浅岡泉機関長は大阪商船時代から若くして傑物として衆目され、戦前は七つの海を航海し、
戦中は戦時措置として海運各社と全日本海員組合が大同集結して作られた海運報国団の軍用船舶へ
の物資補給を行う基地としてジャワ島に設けられた特務機関の司政官を務めた人物です。
戦火の最前線にあって生き長らえた自分の戦後の人生は余禄のものであるとよく語っておられました。
ちなみにシンガポールに設けられた軍用船舶への物資の補給基地で司政官を務めた人物が友貞甚輔
関西汽船社長でした。私が関西汽船に入社した頃の海運業界は海運市況が急落し、借入金の返済は
おろか、利子の返済も出来ないほど収益が低下し、国家主導による海運業の集約・再編成が実施
された激動の時代でした。

すなわち昭和三十八年七月公布の「海運業の再建整備に関する臨時措置法(海運再建整備二法)」
に基く政府助成措置を受けるため、わが国の主要外航海運企業中の十二社が六グループに合併集約
されました。関西汽船はこれらの集約には参加せず低迷する海運各社とは異なり唯一配当を続け、
最大手の日本郵船と並ぶ四十隻の運航船舶の保有を誇り社運の絶頂期にありました。
当時社内では友貞社長と浅岡天皇とは両雄並び立たずと噂をされていましたが、これ程までの
人物が晩年別格とは言え機関長として乗船されておられた理由をわずかに測り知ることができました。
台湾での戒厳令下で乗船官吏による船員手帳と本人との照合を拒否されたのは大東亜繁栄圏
のジャワ島で司政官として絶大な力を発揮してきたグレートボスとしての誇りによるものかも
知れません。
またマニラ碇泊中には英会話の勉強に連れて行こうと言われて招かれたフィリピン政府高官ア
ライオン氏の邸宅には何時来るか分からない浅岡氏のために立派な専用の部屋が設けられてい
ました。そこに集まってきた大勢の家族に囲まれ日本の伝統文化や皇室などについて実に流暢
な英語で楽しそうに話をされている姿から真の国際親善が何かを教えられました。
ちなみに戦後、外交官に先駆けて日本人として初めてマニラの地を踏だのは、浅岡氏で
この時その折衝に当たったフィリピン政府高官がアライオン氏でした。それ以降浅岡氏に
心酔したアライオン氏は浅岡氏の船がマニラ港へ入港するのを待ちかねて岸壁に出迎えた。

人間として桁外れのスケールの大きさ、接する誰もが畏敬の念を禁じえなかった浅岡泉氏は
私にとって生涯の師と仰ぐ人物でした。その深い暗黙知のマネジメントの真髄や「武士道」精神の根幹
である「実践」することの大切さ、高潔な美学、『ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)』など人間と
しての多くの薫陶を得られたことは私にとって幸運以外のなにものでもありませんでした。

また私の関西汽船から川崎重工への転職の際、胸を押して頂いたのも浅岡氏の一言
『君は未だ若い、もっと、広い世界を見た方が良い』でした。そして私は既に関西汽船を
退職していましたが、東京からわざわざ足を運んで頂き結婚式で贐に色紙に書いて頂いた
言葉は『波風を耐え不断の躍進を心掛けよ』でした。
 
  
私の出会ったエクセレントな人物  その3   R3-5-3 
 
 南アフリカ共和国の国営製鉄所イスコール(ISCOR)社向け製鋼プラントは、国内最大手の新日本製鉄

の協力を得て半世紀前の1971年9月に二か所のプラントを同時に受注(二期工事を含め1975年8月完工)
したもので、当時川崎重工にとっては、社運を賭けた本格的な海外ターンキープロジェクトへ踏み出す
ハイリスク、ハイリターンの画期的なプロジェクトでした。受注総額二百六十憶円、両プラントへ派遣
された日本人は延べ百名に上った。当時の川崎重工社長は四本潔氏、戦中エンジンの図面を持ち歩いて
いるところスパイの嫌疑をかけられ、パリで三か月投獄された武勇伝を持つ、他に並ぶ者なき国際派で、
このプロジェクトには三十代を中心に二十代の多くの若者が投入された。私は異例の抜擢を受け
弱冠三十二歳でニューキャッスルプラントサイトの現場代理人、ならびに機械工事責任者を拝命。

現地での建設工事が進み、プラントの最も中枢設備である転炉設備を組み立てるべく内部を点検し
ていたところ、信じられない欠陥が発見されました。日本で製作されたトラニオンリングの強度上最
も重要な箇所において、一部開先を残したままの溶接忘れが見つかったのです。既に組み上がったこの
箇所の溶接施工には板厚150 mmの天板の切断が必要となります。技術的にも修復の難しい重大な欠陥
を見落としたまま地球の裏側まで運び込むという重大なトラブルで、客先に対して全く弁明の余地の
ないものでした。

日本国内では、一つ対応を誤ると国際間の信用問題にも発展しかねない、製作を担当した新日本製鉄
では、客先への釈明には代表権を持った然るべき役員を派遣すべし、など議論がなされ、結局、客先へ
のあらゆる説明に備えた準備資料を携えて担当役員を団長とし、営業、設計、工作、品証各部門の関係者
が大挙して現地へ派遣されてきました。当時私は工事の責任者として会議に出席しましたが、客先側は
プロジェクトマネジャーと担当者一名だけの出席で、会議はわずか五分程度で終了したと記憶しています。
 プロジェクトマネジャー曰く『今回のトラブルについて自分たちはアンハッピーであるが、修復すべき
ものは修復して下さい。修復工事の支援のために自分たちは本社より非破壊検査の専門家チームを派遣
します。修復方法については施工会社であるバブコック(Babcock)社と良く協議をして下さい。
その他何か協力して欲しいことがあれば申し出て下さいAny other points 』以上がすべてでした。

 重大な欠陥へのクレーム、トラブルが生じた経緯、責任追求などについては一言の言及もなく、
あらゆる想定質問に備え膨大な準備資料を携え会議に臨んだ日本からの派遣団は胸をなでおろすと同時に
この客先の対応に強い衝撃を受けて帰国しました。

 溢れる人間味とジェントルマンシップ、ダイナミックな行動力と卓越した決断力を持ち、またゴルフの
名手でもあった彼ケビン・ロバートソン(. K.W.V Robertson) は文字通りプロジェクトマネジャーと
しての理想像と言える人物でした。当時私より三歳年長の三十五歳であった彼は、私が帰国後数年を経て
ISCOR社を訪問した際、期待の経営幹部としてニューキャッスル製鉄所長の要職にあったが、その際
彼から受けた真心のこもった歓待は今も忘れられない。

欧米における組織文化の特徴は例外なくトップの資質の第一要件は即断即決が出来ること並びに現場に
通暁していることであり、そのダイナミックな行動力である。南アでは国営製鉄所のトップは社用の
ヘリで四百キロ離れたプレトリヤの本社から単独で度々飛来して建設現場を若いロバートソンを
ファーストネームで呼びながら二人で肩を並べて現場を視察している姿をよく見かけた。
後日ドーバープロジェクトでも然りでした。客先のマテロン社長は単独で良く現場を視察している
姿を見かけました。

他方典型的な肩書組織文化の日本では残念ながらこうした光景を見ることは皆無である。大組織で
職位が進むにつれトップとなれば床の間の偶像と化し現場へは足を運ばない、自ら即断しない、
また出来ない。問題が起れば関係者を集めて会議を開くトップに耳障りの良い、都合の良い結論
しか出てこない。結果として時間の無駄、お金の無駄、決断の時期を逸するための損失は計り
知れない。私は若い頃から海外でのビッグプラジェクトの実践を通して日本の組織文化の致命的な
欠陥を見てきました。 
 
  
私の出会ったエクセレントな人物  その4   R3-5-7

 現場と言うのは、何時何が起こるか分からない、Anything can happenである。

このプロジェクトの第一期工事では、経験不足や国際商習慣への不慣れが原因で、客先への
プラント引渡し完了後、建設工事の発注先であるバブコック・コンストラクション社
(Babcock Construction)との間で追加工事費の清算をめぐって三ヶ月にわたり連日厳しい折衝を
余儀なくされました。第二期工事においてはこの苦い経験を活かして、契約上の諸問題や
建設工事で得たノウハウを全て初期段階の諸計画へフィードバックした結果、プロジェクトは
理想的な形で順調に進み、所定の工期を一ヶ月短縮してプラントの総合試運転を完了すること
ができました。いよいよ残すは客先施工の転炉本体のレンガ積み作業のみとなり、二週後には
待望の火入れ式を迎えることになりました。

時は1975年7月、たった今火入れ式の日程を日本へ打電した、ある金曜日の午後のことです。
第一期、 二期工事と三年以上にわたる長期出張者にとっては、既に話題は帰国ルートの設定や
帰国への思いで満たされていました。またこの日は週給日で現場の作業員は全て午前中で作業を
終え、給料を手にして帰宅し、現場は無人となっていました。ふと現場事務所から100m程離れた
プラントサイトを眺めると、人気のない製鋼工場の天辺から煙が出ています。一瞬目を疑いました
が確かに煙が出ている様子に、現場事務所に居合わせた全員が現場に駆けつけたところ、地下の配線
ケーブルトンネルから垂直に立ち上がる電線ケーブルダクト内で火災が発生していました。
無我夢中でありったけの消火器を掻き集め、各床の開口部から全員で懸命な消火作業活動に取り掛
かりましたが、火勢は一向に衰えず垂直ダクトがまるで煙突となり益々勢いを増す状況にとうとう
消火器による消火を諦め止む無く電線ケーブルダクト内に注水し、やっとのことで鎮火させること
ができました。全員、何とも言えない虚脱感と現実に起こったことが信じられない思いに見舞われ
ました。

後日、判明した火災の原因は、客先の指摘により電線ケーブルの整線作業を行った際に、ダクト内
に設けられていたサポート材のパイプをカッターを使って切断し位置を移動させていましたが、
週給を手にして帰りを急ぐあまり最後に残った部分を溶接のアークで切断し、作業員はそのまま
現場を離れてしまいました。その際、火のついた鉄片と火の粉が落下しL字型のダクトの底で
暫く時間をおいて発火したものです。運悪く現場が無人となっていたため、発見が遅れ大事に至った
もので、作業員のチョットした初歩的な作業ミスから発生したものでした。

その後、詳細が判明するにつれて被害は、全電気工事量の四十%におよぶケーブルを焼失して
しまう大きなものでした。まさに‘好事魔多し’で、あれほど順調に進んできた建設工事が一瞬に
して頓挫してしまいました。しかしながら落胆をしている暇もなく直ちに復旧に取りかからねばなり
ません。先ず当面の難問題は焼失した膨大な電線ケーブル材料をいかに集めるかということです。

事故の報告を受けたケビン・ロバートソン氏はは開口一番『現場と言うのは、何時何が起こるか分か
らない、Anything can happenである。直ちに復旧工事にかかって欲しい。』と述べ即断即決で、
客先側の対応として以下の支援を行って頂くこととなりました。
@ ISCOR社内のケーブル材料の在庫を速やかに調査し、利用できる電線ケーブル材料を集めて提供する。
A 契約仕様書では許可されていない電線ケーブルの中継ボックスを設けることを特別に許可し、
設置箇所を検討する。
この事故においても客先からは、責任追及やクレームの話しは一切なく、むしろ事故を起こした我々
メンバーを励ましてくれ、復旧工事に最大限の支援を受けることができました。

復旧工事は三シフ二十四時間体制で、日本からも十数名の結線工を呼び寄せ、また電線ケーブル材の
調達には客先の全面的支援と協力を得て現場サイドは文字通り、火事場の底力を発揮しました。昼夜
を通しての驚異的な頑張りの結果、本工事では数ヶ月を要した電気工事を全て復旧し、再試運転を含め
僅か一ヶ月の期間で見事完了させることができました。幸いにして所定の工期に対して工程が一ヶ月
先行していたため、この間に火災事故による被害を修復し、結果として契約納期内にプラントを無事客先
へ引き渡すことができ、有終の美を飾ることが出来ました。

この火災事故を通して得た経験は『何事も最後迄何が起こるか分からないと言うことです
(Anything can happen)。この不測の事態に備えては日頃から工程の先行を蓄積しておくことが肝要です。
そして不幸にして予測できない問題が生じた際には決して最後まで諦めないことです(Never give up)。
この事故では、一見不可能かと考えられた短期間での復旧工事を完了させ、成せばなるとの自信を深めました。

この火災事故の発生は、全てが理想通り順調に運び、ゴールを目前にした最後に来て安堵感と帰国への思い
が高まり、メンバーの緊張感が綻びかけた僅かの隙をつかれたものかもしれません。結果として復旧工事に
関連する発生費用は全て事故発生責任者である電気工事発注先のドレイク・ゴウハム(Dreak Gouhamu)社
へ求償され、元請会社としては幸い殆ど実損を受けずに済みました。

しかしながら電気工事会社から工事保険会社への発生費用求償の顛末については、後日、他社から受領した
一部の請求書に手を加えた虚偽の申告が発覚し、電気工事会社は全ての求償権を失うと言う後味の悪いもの
でした。工事会社の担当重役に直接聞いた話では『魔がさしたと話しておられました』人間窮地の陥ると正常
な判断が出来なくなることもこの事故から学ぶことが出来ました。また、いかなるケースにおいても現実を
肯定し、プラス思考に徹すること。またトラブル発生時には、これを即座に修復する学習機能を持つことが
肝要で、『禍を転じて福となす」』逆転の発想も忘れてはなりません。
(続く)
 
  
私の出会ったエクセレントな人物  その5   R3-5-12

 
 半世紀前の南アが如何に近代国家であったか、マイナンバーカードに手こずっている日本に比べ南アで
は既に当時国民背番号制度が機能していた。国中何処へ行っても電柱は一本も存在しない電線は全て
埋設管が使用されたいた。高速道路は無料で料金所はない。駐車場の出入りには既に磁気カードが
使用されていた。こんな国をご紹介します。

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 南アフリカ共和国ナタール州ニューキャッスル市の国営製鉄所ISCOR社のプラントサイトで広大無辺の
大地を掘り起こす1972年10月の土木工事の開始から現場に赴任し、プラント建設工事の第一期、二期工事を
引き続き担当し、そして最後の一年間をプラント引渡し後の保証技師として過ごした、足掛け四年間に及ぶ
南アフリカプロジェクトの任務を無事終えることが出来ました。帰国の挨拶のためお世話になった

ケビン・ロバートソン氏を訪れた際、彼の口から『この国のTrue situationを理解するためには、ミニマム
三年間この国に滞在して、さらにアフリカーン(祖先がボーア戦争や黒人との確執を乗り越えて、今日の国家
を築いてきたオランダ系白人、イギリス系南ア人その一握りのエリート層を指す)の人々と家族同志の付き合い
ができることが必要である。この国のTrue situationは外国のジャーナリストや旅行者には到底理解することは
難しく、また説明を加えたとしても理解できるとは思えない。したがって自分たちは敢えて実情を訴え、
自らの立場を説明しようとしないのである。』との話を聞かされました。長女がこの国で誕生し、家族共々の
付き合いで第二の母国とも言うべきこの南アフリカをこよなく愛す私には、この言葉に込められた相互理解への
格別の思いを深く読み取ることが出来ました。

当時、南アフリカは人種隔離政策で世界中から非難の的になっていました。幾つもの部族に分かれ独自の言語
や文化を持ち、絶えず部族間の抗争を繰り広げる黒人が大多数を占めるこの国にあって、国を治める一握りの
エリート白人の心的な労苦の実態はおそらく外部の者には図り知れないものがあると思われます。当時の南アフリカ
は、高速道路網、石炭から石油を精製する先端技術、世界初の心臓外科手術、超高層建築、充実した社会施設、
白人家庭の生活・文化水準、国際的ビジネス社会としてのレベル、コンピュターを駆使した社会システムや
マネジメントレベル等において日本を遥かに凌ぐ水準にありました。

南アの富を象徴するダイヤモンド、金、石炭、天然ガスに加え、マンガン、クロム、プラチナなど豊富な鉱物資源
の埋蔵量は何れも世界有数でこれらは先端産業に不可欠な重要な戦略物資であった。その上、土着の黒人に加え
近隣諸国から流入してくる白人の三分の一の安価で豊富な労働力を有し、当時一部の白人は人類が到達した最高の
生活水準を享受していました、これらの高度に発達した社会システム、例えば南アの国籍を有する者は勿論、外国籍
を持つ居留者も含め個人情報の入ったIdentification Numberが与えられコンピュターによる一元管理がなされていました。
南ア最大の都市ヨハネスブブグの高層ビルが立ち並ぶ中心地区には三千台を収容する地下駐車場があり、車の出入りに
は既に磁気カードが使用され、ヨハネスブルグ近郊の豪邸が立ち並ぶホートン地区では鬱蒼と茂る樹木と手入れの行き
届いた広い敷地には必ずプールとテニスコートがあり、車庫には数台の車が入る、まるで夢の世界を見る思いでした。

そしてこの南アは一握りのアフリカーンのエリート層の手に委ねられており、彼らの国家や子孫の行く末に及ぶ責任感
やローヤリティの高さには目を見張るものがありました。また今日の文明社会が失いつつある質実剛健で質素な生活態度、
逞しい開拓者精神、そして人間の持つ純粋性など古き良き時代を代表する気質が純正培養され今日に受け継がれていること
には驚かされました。ややもすれば他責と甘えの文化の中にドップリと浸りがちな日本人には、いかなることに対しても
決して言い訳をしない、日々の生活を背水の陣で過ごしている彼らの真摯な生活態度から、日本人として多くを学びとる
ことができました。

ロバートソン氏の言葉からは物事の実態を正しく捉えて、本質を見抜くことが必要です。このためには一定の期間と必要
な要件を充たすことが前提となるケースがあり、特に異文化コミュニケーションにおけるコンテキストの重要な役割として
これは見逃すことは出来ません。これまで、国内外のターンキープロジェクトの建設所長として幾つかの現場を経験して
きましたが、この職責にはやはり同じ経験を共有して初めて相互理解が可能な暗黙的な実践領域が存在していることを実感
しており、ロバートソン氏 が語った『True situationを理解するために、云々』は、その後も多くの示唆を含んだ言葉として
私の中に生き続けています。(続く)
                  

  
私の出会ったエクセレントな人物  その6   R3-5-15

 舞台は南アから台湾へと移ります。

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 1985年10月から二年間、建設所長として常駐した台湾の国営製鉄所CSC向け製鋼プラントでは、
私が赴任して、間もなく客先の建設部長が呉国柱氏から気鋭の王樹風氏へ交代になりました。
王樹風氏は当時四十一歳台湾では台北大学とならぶ台南の名門、成功大学を卒業された米国留学組み
のエリートで台湾中のエリートを集めたと言われる国営製鉄所の中でも一際目立つ存在でした。
身長は尺貫法で云えば六尺を超え体重は二十数貫、堂々たる体躯の持ち主で、整った顔立ちには常に
満面の笑みを絶やさず、通称ビッグ・ワンさん、その風貌や所作はあたかも中国の三国志に登場する
英傑を彷彿させる人物でした

彼はCSCが高雄に建設を進めた一貫製鉄所の建設において第一期建設工事では原料・コークス炉
の建設を担当し、第二期建設工事では高炉の建設を担当、さらに今回の第三期建設工事では製鋼・
連続鋳造設備担当の建設部長として、一貫製鉄所のプロセスの流れを上流部門から順次担当しており、
製鉄所の全てを知る将来の経営幹部としてエリート階段を登っていました。

その彼が建設部長に就任するや否や先ず建設事務所のレイアウトを一新しました。これまで製鋼部門
の建築、機械、電気と連続鋳造部門の建築、機械、電気はそれぞれグループごとに間仕切りや高い
キャビネットで囲まれていましたが、その事務所の壁を全て撤去し、結果としてこれまでセクショナリズム
の強かった各部門やグループを他責の体質から解放しました。また現場事務所内の配置については、
建設工事の開始に伴い客先のプロジェクトマネジャーである管新湾氏と私が机を並べ客先の担当者と
日本人技術指導担当者とがそれぞれ向い合せになるよう机を配置した結果、両者の綿密なコミュニケーション
が促進され、信頼関係の構築に大きく寄与しました。このようにコロケーションを通して王樹風氏が
提唱する『共識』が見事に実践されました。当時プロジェクトに参加したメンバーで長きにわたり
客先担当者との間で賀状や情報交換を続けている者も少なくありませんでした。

建設現場で目前に立柱式を控えたある朝、現場事務所へ出勤するとしばらくして現場から、建て方中の
柱を倒し、幸い人身事故には至らなかったが、柱が大きく曲がると共に柱基礎を破壊したとの報告が
入りました。事故は、柱の立て直し作業においてアンカーボルトのナットを締めずに楔を打ち込んだため
衝撃で柱を倒した初歩的な作業ミスによるものでした。

こうした事故では通例、正しい作業マニュアルはどうなっていたか、適切な作業指示、技術指導がなされ
ていたのか等、監督としての責めを受けることになります。間もなく報告を受けた王樹風氏が現場事務所へ
現れ、事故の原因について説明を求められたので、原因を説明したところ、彼の口から最初に出た言葉は
『最初にこうした事故が発生したことは非常に良いことである。これから先の工事について関係者の全員
が注意をすることになる。』でした。そして傍らにある黒板に大きな漢字で『共識』と書かれました。
『破壊した基礎はCSCで直ちに造り直す、川崎重工は曲がった柱の修復を行って下さい。』と指示し、
一言の責任追求もクレームの言葉もなく現場事務所を立ち去って行かれました。彼の見事な対応は今も
鮮やかに脳裏に刻まれています。その後、彼とは肝胆相照らす仲となり、互いに協力して幾多の障害を克服し、
プラントは成功裡に完成、関係者より高い評価を受けました。若くして大人の風格を持つ当時四十一歳であった
彼、王樹風氏はプロジェクト終了後、間もなく副社長に昇進されたが、惜しくも病により早世されました。
   
  
私の出会ったエクセレントな人物  その7   R3-5-17 
 
 1987年10月14日、CSC第二製鋼工場の火入れ式の日です。その日だけは普段と違って全て
の設備や人々の顔が晴れがましく輝いて見えていました。国営製鉄所の火入れ式にふさわしく、
台湾政府の高官、製鉄所董事長(会長)、総経理(社長)をはじめ関係各社の経営幹部他多くの
来賓を迎え待望の火入れ式が挙行されました。式典の後、いよいよ関係者が固唾を飲んで見守る中、
高炉から運ばれてきた溶銑二百三十トンが転炉に注入され、酸素上吹きの初吹錬が無事完了しました。
後は転炉を傾動させ炉内の溶鋼を炉下に移動してきた受鋼台車上の溶鋼鍋に注ぎ込めばこの日はめでたし
めでたしということになります。

 運転員が出鋼のため転炉を傾動すべく出鋼側の現場操作盤のハンドルを操作しましたが、これはどうし
たことか転炉は微動もしません。驚いた関係者が一斉に操作盤に駆けつけハンドル操作を行いましたが、
やはり転炉は微動もしません。かりにこのまま転炉の傾動が出来ず炉内の溶鋼の温度が下がってしまえば
重大な事態になります。周りが騒ぎ始めました、郭炎土副総経理(副社長)が私に近寄り『一体これは
どうしたことか』と尋ねられました。これに対して私は『実は装入側と出鋼側にある傾動装置の現場操作盤
のうち、出鋼側については炉体のレンガ積み作業と平行して調整作業を行ったため、調整完了後の最終的な
実機での傾動確認がなされていなかったためです。』と答えました。そしてこれは所定の日に初吹錬を
迎えるための苦汁の決断であったことを説明しました。

郭炎土副総経理(副社長)からは『それは極めて危険なことです』との言葉が返ってきました。
私は、最悪の場合、装入側の現場操作盤を使い合図を送りながら転炉を傾動し出鋼させるという最後の
手段を思い描いていました。長い時間に感じられましたが十数分後、東芝より派遣されていた直流
サイリスター制御のスペシャリストの手により出鋼側の現場操作盤が使用可能となり、これを使って転炉を
傾動し無事出鋼を終えることが出来ました。幸い最悪のケースには至らず事なきを得ました。

 このケースは私にとっては極めて大きなリスクを伴う苦汁の決断でした。ひとたび炉体のレンガを積み始める
ともはや炉体を傾動することはできません。一方ではスペッシャリストがその調整に数日を要する直流サイリスター
制御の調整作業のうち出鋼側については初吹錬の工程を厳守するため、敢えて炉体のレンガ積み作業と並行して
実施を決断しました。この場合は出鋼側の現場操作盤による実機での傾動テストは未確認のままとなります。
あわせて本来であれば炉体の傾動テスト前に完了しておくべき炉体上部に設置されたスカート昇降装置のテスト
が油圧系統のトラブルで一週間前後の遅延を生じており、これも炉体のレンガ積み作業と並行して実施を
決断しました。本来であれば全ての試運転作業を完了後、はじめて炉体のレンガ積み作業を行うことになります。
しかしながら、それでは所定の初吹錬はおそらく一週間から十日の遅延が予測されたため、敢えて所定の初吹錬
から逆算し、最後に残された二週間の炉体のレンガ積み期間中に残りの試運転を実施する決断をしました。
これは技術的に可能なリスクと工程とのぎりぎりのトレードオフによる大きな賭けでした。

 この決断に至る背景には次のような事情が隠されていました。すなわち邦貨に換算して約二十二億円におよぶ
鉄骨製品16,000トン、機械製作品5,000トンの大規模な現地調達品について、契約では客先が直接それぞれ現地の
ベンダーへ発注し川崎重工とは関係なく金銭上のやりとりがなされます。一方、関連する全てのエンジニアリング、
発注品の納期管理、品質管理ならびに全体発注総額の上限については全て川崎重工が責任を負うという極めて
異例の契約条件が採用されていました。当時の台湾国内ではこれほど大規模でかつ高度な製作技術が要求される
現地調達品を短納期で処理するだけのものづくりの基盤が未だ整備されていなかったため、発注先各ベンダー
の能力・経験不足等から調達品の納期遅れ、品質不良に関するさまざまなトラブルを余儀なくされた結果、
プロジェクトの全体工程を大きく圧迫し、最後のプラント立ち上げ試運転期間に大きな皺寄せがきました。
加えてプロジェクトの契約納期は契約締結後二十六か月と半月で初吹錬という、この種のプロジェクトとしては
極めて異例の短納期が設定されていました。幸い、私たちはプラント立ち上げ試運転全体の業務プロセスに通暁
していたため、試運転手順の異例の変更、ファーストトラッキングによる工程短縮とそれに伴うリスクとの
トレードオフについてあらゆる可能性を追求し、通常ではまず不可能に思える短期間でのプラント立ち上げ
試運転を実現させ、所定の期日に初吹錬を迎えることが出来たのでした。

 この一件については、トラブルを生じたにもかかわらず、むしろ重大事態発生に騒ぐことなく冷静に対応し問題
を解決したことが、かえって客先や火入れ式に参列した事業本部長から高い評価を得る結果となりました。
数日後の客先とのプラント完成を祝う祝賀の席上、隣席の建設部長王樹風氏は私に次のような言葉をかけてくれました。
『立場上今まで言えなかったが、内心はこのプロジェクトがまさか所定の日に火入れが出来るとは考えられなかった。
自分達の側で招いたトラブルについても常に快く応え、いかなる事態においてもNever give upの精神でプロジェクト
を完遂に導いてくれたことに感謝したい。』

 プロジェクト遂行を通して苦楽を共にしてきた敬愛する王樹風氏とは互いに肝胆相照らす仲となりました。
その後、私がドーバー海峡トンネルプロジェクトでフランス滞在中に、すでに副総経理(副社長)に昇進されていた
彼からスイスでの国際経営者セミナーに参加するので時間があればフランスを訪問したいとの手紙を受け取りました。
残念ながら私の帰国時期と彼のスケジュールが調整できず、その後、彼の早世により再会を果たせないままその際交
わした手紙が彼との最後の別れとなりました。

註;添付の手紙は最後のなった彼の手紙です。
  
  
 私の出会ったエクセレントな人物  その8   R3-5-19
 
 1987年11月に台湾CSC製鋼プロジェクトでの二年間の任務を終え帰国したのも、つかの間、年明けには
引き続き二十世紀最後のビッグプロジェクトと言われた英仏海峡トンネルプロジェクトの現地所長を命ぜら
れました。工程は既に契約締結から六ヶ月を経過しており、契約に基づく掘削機の仮引渡し迄、余す所僅か
七ヶ月半と言う厳しいものでした。
 
 このプロジェクトは大規模で複雑な国際プロジェクトであるばかりでなく、先進国フランスでのターンキー
プロジェクトというきわめて稀なケースであり、契約図書の正式言語は全てフランス語、しかも異常とも思える
短納期でかつ膨大な欧州調達が計画されていました。これまでの海外プロジェクトの経験から、このプロジェクト
遂行の前途が容易でないことは明白であり、ハイレベルで強力なフランス人の助っ人の存在なくしては迅速かつ
円滑な遂行は難しいと密かに判断していました。この時期、プロジェクトはある深刻な問題に直面をしていました。
契約により、定められた時期に所定の図書の提出が義務付けられ、しかもその内容について客先の承認を得ることが、
出来高支払い全体の要件となっていました。提出図書のうち『安全衛生管理計画書』についてはどうしても承認が
得られず、数億円の出来高入金が滞る事態となっていました。

なぜ承認が得られないのか理由が明確に掴めないまま、社内では第三者検査機関であるAISを使って問題の解決を
はかろうとする検討がなされていました。私は経験から、この種の計画書は当治国の関連する国内法に準拠しており、
フランスの労働安全衛生法などに精通している者でなければ対応が困難であると考えていました。
 一方、日本国内の大型機械組立専用工場では掘削機の一号機が製作中で、客先より派遣された二名の監督官が
製作のエキスペダイトに当たっていました。その内の一人である、フランス人マイケル・ジラルディ
(Michel GIRARDI)氏は数カ国語に精通し、中近東でのパワープラントのプロジェクトマネジャーをはじめ
世界各地のプロジェクトで活躍してきたオールラウンドの国際人でした。彼は客先によってこのプロジェクト
のために所属のBV(BUREAU VERITAS)から招聘されており、先行するサービストンネル掘削機の
サプライヤーである米国ロビンス(ROBBINS)社での製作立会い任務を終え、日本で製作中の本坑掘削機
製作の立会い担当者S氏のサポート役として、日本に派遣されていました。その彼がちょうどこの時期、日本
での任務を終えてフランスへの帰国を目前にしていました。私はこの好機をとらえるべく躊躇することなく、
彼に我々のプロジェクトチームに参加して私に力を貸して欲しいとお願いをしました。勿論社内では客先を
ヘッドハンティングするなどとんでも無いことである、社内の機密が客先へ筒抜けになるなどと頑なな反対も
一部にはありましたが、結局彼の快諾を得て早速BV神戸支店で雇用の手続きを済ませ、翌日から私と机を
並べて様々な難問に取り組むことになりました。先ずは滞っている「安全衛生管理計画書」への対応です。
彼はすぐさま客先の担当者から承認されない問題点について直接その事由を聴取し、自らの手で極めて短期間
のうちに計画書を作成し直して承認を取り付けました。

客先が要求する内容は、フランス安全規格に基づいた設計思想の反映並びに坑内安全衛生規則に基づき例えば
工事施工中に坑内で突然停電や火災が生じた際にとるべき具体的な対応などであり、その内容の幅と深さは、
日本ベースの我々の想像を遥かに超えるものでした。これを手始めとしてその後、彼には、一括請負部分、
単価契約部分、実費償還部分を複合させた工事発注先との複雑な工事契約書の一般条件書や特別条件書の原案
作りから、フランスでのターンキープロジェクト遂行の実践ノウハウを必要とする諸計画業務にまで、大きな力を
発揮してもらいました。

プロジェクト成功へためには、例え周囲の反対に遭遇しても、自らの判断に確信をもってそれを表明することに
より、反対者の同意を得ることが重要です。この自己確信は、タスクを達成する自分自身の能力や経験への個人
の信念や確信を指し、卓越した業績をあげるコンピテンシーの中核と言われています。

先発して日本からフランスへ帰国した彼は、私が赴任するまでに、現地秘書をはじめとするローカルスタッフの人選
・雇用など現場事務所の立ち上げに必要なモビライゼーションに手際のよい手腕を発揮してくれました。その後、
プロジェクトの遂行過程においてもクリテイカルな局面に直面する度に彼の的確な助言は大きな支えとなり、また
彼のダイナミックな行動力はプロジェクトチームにとって強力な推進力となり所期の目的達成に大きく貢献しました。
とりわけ海外調達においては、地元フランス国内をはじめイギリス、ドイツ、スイス、オランダ、当時の東ドイツ
など三十五品目、発注先二十数社に及ぶ欧州ベンダーとの折衝やその二次、三次発注先を含めたエキスペダイトに
果たした彼の貢献は忘れることができません。

愛車のポルシェに毛布を積み仮眠をとりながら千五百キロ離れた東ドイツのベンダーをエキスペダイトするなど
その猛烈な行動力には、グローバルで活躍できるプロフェッショナルとしての凄味を実感しました。また彼は、
いかなるケースや複雑な問題に対しても柔軟かつ果敢に対応し、ハードネゴの際にはファイトするか否かについて
いつも目配せの合図で同席の私の意向を確かめるなど、攻めて良、守って良のオールラウンドプレイヤーぶりを発揮し、
私は彼との協働を通して多くを学ぶことが出来ました。長年縦割機能組織の中で育ち、部分最適や他責の文化に馴れ
親しんできた日本人に対し、彼がよく口にした言葉は、『日本人は、なぜもっと‘ Wide open mind ’を持たないのか、
なぜ周囲を気にして判断を躊躇するのか、なぜ自分の頭でDeep considrationしないのか、上から何か言われると
直ぐ行動に移す』でした。私たちも彼のような国際人との間で以心伝心と濃密な人間関係を構築することができる
マインド、共通の価値観や行動様式を備えることが肝要です。
 
 
 私の出会ったエクセレントな人物  その9   R3-5-22

 ターンキープロジェクトにおいては、建設工事のスケジュールに合わせて所定の品質の品物をタイムリーに現場に
納入することが、プロジェクト成功への大きな要件です。しかし、これは口で言うほど生易しいものではありません。
ドーバープロジェクトにおいては、欧州各地のベンダーへ発注した広範囲にわたる製品のエキスペダイトが、
プロジェクトの成否の大きな鍵を握っていました。

 毎週木曜日は、客先のプロジェクトマネジャーであるゴットレ(Bernard GAUTRAIS氏、私のアシスタント
ジラルディ氏と私の三人がゴットレ氏の運転する車に同乗し、主としてフランス北部に点在しているベンダーの
末端発注先のエキスペダイトに出かける日と決めていました。数百キロの走行と十二時間に及ぶ激務の中で、二次,三次,
製品によっては四次下請けに及ぶ膨大な数の末端発注先での進捗の実態を自らの目で確認する作業が展開されました。
これは、いかなる理由があろうといささかの工程遅延や品質不良について一切の言い訳が許されない熾烈な時間との
競争の中にあって、プロジェクトを成功へ導くために、責任者としてどう行動すべきかについての一致した考え方から
必然的に生じた行動であったと言えます。問題が生じると一番困る立場にある責任者が自ら行動を起し、背水の陣で
行う職務遂行のスタイルは、問題が生じると往々にして隠蔽や幹部への報告書作りに腐心する日本のビジネススタイル
とは格段の相違があり、プロジェクト遂行には欠かせない予見先行管理の原点と言えます。

ジラルディ 氏とは縁あって神戸で机を並べ、さらにフランス、リールのFCB(FIVES-CAIL BABCOCK社の工場でも
個室を並べ、ダンケルクのECMP社での工場組立て試運転の立ち上げを共に行い、いよいよ最後の舞台となる立坑の
あるプラントサイト、サンガッテへ移動してきました。客先の現場事務所の中に設けられた私の事務所へ通じる階段
を上りながら、隣接する墓地を指差した彼の放ったジョークは、『やっと Last House』へ辿りついた。ここまで来ればお互い
に何のProblemも、心配することもない。でした。)この言葉は、異文化の日本人チームへ身を投じ、様々の難問を共有
しながら共に歩を進めてきた二人にとって、実感を分かち合える感慨深い一言でした。同時にいかなる環境にあって
も常にユーモアを忘れず、苦境になればなるほど、むしろその中での使命達成を楽しんでいるかのように見える
彼、ジルディ氏は、私にとってかけがえのない頼もしいパートナーでした。
  
 
私の出会ったエクセレントな人物  その10   R3-5-26 
 
 二十世紀最後のビッグプロジェクトと言われた英仏海峡トンネルプロジェクトは、1988年当時、
本坑の海底掘削機の発進へ向け鋭意工事が進められており、私はフランス側海底掘削機プロジェクト
の現地所長として工事の指揮にあたっていました。十月のある日のことです。立坑内では、組立が
完了した掘削機(重量千五百 トン)をジャッキを使って坑道内へ移動させる作業が行われていました。
その時突然、客先ファバ(Fava)所長の指示を受けた一団が現場事務所へ飛び込んで来ました。
『今ちょうど掘削機が坑道の入口に移動してきている。今なら坑口に設けてあるホイストを利用して
掘削機上に設置されているドレンタンクを吊り上げ、その位置を替えることができる。直ちにそちら
の作業にかかって欲しい。このタイミングを逃すとホイストが使えなくなり、後で作業をするには
大変な労力が要ることになる。』これはファバ所長の指示である。

これに対して私は、『ダメだ。今現場では作業員が全神経を集中して超重量物の移動作業中である、
急遽作業の段取り替えを指示することは、集中して作業を行っている現場の士気に大きな影響を与える。
いかにファバ所長の要求といえ作業の中断はできない。掘削機を坑道内の所定の位置まで移動した後
であれば、いかなる手数をかけようとも必要ならその時にドレンタンクを移動したい。
その旨をファバ所長に伝えて下さい。』と彼らの要求を拒否。意気込んで飛び込んできた一団は
現場事務所を後にしました。

結果的には後日ドレンタンクの移動を行うことになりますが、この一件が、どうしたことかファバ所長
と私の間が険悪な関係になっているとの誤った噂となって伝わってしまいました。たまたま私の上司で
ある事業部長が日本から現場を訪れた際、客先マテロン(Matheron)社長はフェルマン(Fermin)重役、
ファバ所長を従え事業部長共々私を食事に招待してくれました。その席で社長がファバ所長と私が握手
をするように求め、『互いに協力してこの困難な仕事を進めて欲しい』と述べられました。
これはファバ所長と私の間が険悪な関係になっているとの噂を耳にして、その関係修復のための配慮
によるものでした。ところが事実はファバ所長と私の間は険悪な関係どころか、何ら感情的なしこりも
なく、むしろあの一件以来、以前にも増してより強い信頼関係で結ばれておりました。このマテロン社長
の心暖まる配慮には感謝の念とともに非常に面はゆい思いを禁じ得ませんでした。

フランス大手ゼネコンのSGEでファバ一家としてカリスマ的な指導力を持ち、その決断力には他を
寄せ付けない凄みを持つ彼、ファバ所長はかつてアルジェリア紛争の際、戦車隊長として有名を馳せたと
言われ、この工事の直前までアルプスを貫くトンネル建設工事の現場所長の任にあり、そこでの任務を
終えるのを待ち、現場に赴任されてきました。この時期、現場では先行するサービストンネル掘削機が
水没するなど、様々な予期せぬトラブルに遭遇し、工程は既に半年以上の遅れを生じ、悪戦苦闘の難渋を
極めていました。そして川崎重工製の本坑掘削機の組立がほぼ完了し、その発進が近々に迫っていました。
この先行するサービストンネルの掘削で生じる断層地帯での湧水、マシンの技術的な数々の諸問題を含む
未知のトラブルは、プロジェクトの先行きに深刻な懸念を投げかけていました。このような時期に前任者
と交代したファバ所長は、豊富な経験と卓越した実践力を持つトンネル建設工事のエキスパートとして、
客先側の期待を一身に担っていました。彼はまた、かつて川崎重工がリール市の地下鉄掘削機を納入した
際の現場所長でもあり、川崎重工とは旧知の関係にありました。

例え立場が異なり、また意見の相違が生じても、仕事を成功させるという共通認識に立って、互いに
自己の信念を鋭くぶつけ合うことは、相互により深い信頼と濃密な人間関係を築くための重要なプロセス
である。信頼関係を構築することが成功に近づくための必須要件である。しかしながら意見の食い違いや
論争を通して相手側を称え、そこから互いに教訓を学びとる欧米人と異なり、日本人の間では意見の違い、
徹底した論争は往々にして後々まで感情的なしこりを残しがちである。最悪の場合は修復できない人間関係
に至るマイナス効果もあることを念頭に置いておくことが肝要である。

ファバ所長は、現場に赴任するやいなや次々と掘削機の改造に手を加え始めました。彼曰く『この掘削機は
ある部分はロールスロイス、ある部分はフォルクスワーゲンで全体としてのバランスが悪い。また長期にわた
って使用するマシンのメンテナンスやオペレーションへの配慮が足りない。このマシンを自分がもっと使い易
くバランスの良いものに改造してやる。』そしてその改造の一つとして、掘削機本体の中枢機能の一つである
セグメント組立用のダブルエレクターのうち、一台を撤去せよという、破天荒とも言うべきとんでもない要求
が出てきました。既に設置されているエレクターの撤去は設備の基本仕様の変更に係わる重大事であり、
また追加費用も発生することになります。理由については次ぎの説明があり、必要な費用はすべて客先で負担
するとのことでした。
@ マシン内の空間の確保が難しいため、現実にダブルエレクターを同時に使用することは、オペレーターの
安全面から、容認できない。
A 自分はこのマシンを受け取り、今後約二年をかけてトンネルを貫通させる責務を負っている。例えマシン
の基本仕様を変更してでも、マシンの使い易さ、保守点検の容易さを優先すべきである。特に海面下
百メートルでの作業においては作業員が少しでも恐怖感を抱くようなことがあってはならない。
保守点検作業に僅かでもミスが発生すると取り返しのつかないトラブルに結びつく惧がある。
より多くの空間をマシン内に確保する必要がある。
このダブルエレクターの1台を撤去することは、客先がサプライヤーに課した性能保証(単位時間当たりの
セグメント組立て能力)を自ら撤回することであり、また撤去に伴う追加費用の負担も免れることから、
サプライヤーとしてこの要求を受け入れました。この他にも、設置場所が通行の妨げになるとして、撤去を
求められた真円保持器などこの種の具体例については省略しますが、彼の要求はいずれも技術と経験の両面に
裏付けられた深い洞察力によるものでした。その決断には他を寄せつけない凄味と説得力がありました。
掘削機の発進直前に投げかけられた彼の一見破天荒とも言うべきこれらの要求は、結果として後日、予想を遥か
に上回る高速施工を生む大きな要因の一つとなりました。

例え既成の事実がいかに出来あがっていても、それを上回る改善案があれば、技術に裏付けされた洞察力と
経験された事実に基く自己の信念によって、それを覆すべきであり、それを実行する大きな決断と実践力こそが
『成功スへの道』に導く。また設備機能を優先させるサプライヤーと設備の運転保守を優先させる客先との立場
の相違や利害を超えて技術的な全体最適化を追及する広い視野を持つことも合わせて重要である。

 その後プロジェクトは幾多の障害やトラブルに遭遇しながら関係者一人一人の技術力、体力、知力の限界への
チャレンジにより、掘削機を契約に基づき無事客先へ引渡し、私は帰国しました。その後二年の歳月をかけ、
所定の工期を八ヶ月短縮してトンネルは見事貫通を果たしました。とくに終盤では驚異的な高速施工を達成し、
掘削スピードは最高月進1,256m(設計スピードは500m)にも達し海底トンネル掘削スピードの世界記録を
達成するなど、初期には到底予測出来なかった輝かしい成果を収めました。

この長大なトンネル工事では、特にロジスティック(人・資機材の補給と運搬)が最大の課題で、掘削土を搬出し、
セグメントを入れる、作業員、材料、部品などの運搬と保守、がそれぞれ最高のパフォーマンスを発揮して、
はじめて所定の掘進スピードを確保できる。そしてこのロジステイックにおける学習効果をいかに上げ得るかが
トンネル工事成功の大きなキーを握っていると言われており、この成功はファバ所長のトンネル建設工事にかける
無類の実践力と強力なリーダシップによる貢献が極めて大きかったと考えています。(1991年6月に、この世紀の
プロジェクトである海底トンネルの貫通式が行われました。既に二年前に帰国し、その貫通式に列席できなかった
私へ彼から貫通を記念するメダルが届けられ、その裏側には、K.Koishiharaの名が刻まれていました。
このメダルには、掘削機の発進初期において難渋を極め、最悪期のクリティカルな経験を共有したパートナーへの、
彼の温かい思いやりと互いの信頼への無言のメッセージが込められていました。(完)
 
  
私の出会ったエクセレントな人物  その11   R3-5-29 
 
あとがき

私の出会ったエクセレントな人物シリーズは浅岡泉氏にはじまりロバートソン氏他五名の方を
ご紹介してきました。いずれの皆さんも抜群の能力者としてまたその決断力、視野の広さ、高潔な
武士道精神、ノーブレス。オブリュージェを具備された人物です。取り分けエクセレントな人物で
その具備すべき要件としての第一は高潔な人格とその温かい人間性にあると思います。

高潔で温かい人間性
 浅岡泉氏は、戦中日本から南方へ出稼ぎに行き流れ、流れて各地に流れ着き、戦後事情があり日本へ
の帰国が果たせず現地に残留している不幸な日本人女性『からゆき』さんたちを、マニラの日本料理屋、
熱海に呼んでご馳走を振る舞い、彼女たちの話を聴いてやる。この人間としての思いやり温かさ、最後
は彼女たちの涙、涙、出港の際は岸壁で手を振る涙、涙の別れです。

 南アのロバートソン氏の溢れる人間味。私が帰国後数年を経てニューキャッスルを訪れた際、既に製鉄所長
の要職にあった氏が広大な製鉄所の敷地の入口のゲイトで出迎えてくれた温かさに大感激でした。
また、建設当時の製鉄所長で副社長になっていたプリンス氏からはプレトリアの本社から私の訪問に対し
よろしく伝えて欲しいとのメッセージを頂きました。肩書社会の日本では客先の要職にある人物のこうした
事例は想像することはできない。
註:この訪問は私が最後に南アを引き揚げる際、会社に残った預金を商社の日商岩井に預けて帰國しました。
数年を経てその必要はなくなり、その金を使ってISCOR社へのメンテナンスサービスとして私が団長と
なり電気技術者一名と主要設備OGの設計技術者と三名で南アを訪ねたものです。

台湾の王樹風氏は試運転で最も緊張する酸素の通算テスト時、氏は日本人の好きな刺身料理を日本料理店
から取り寄せて差し入れをしてくれる。何という気配り温かさか私たち日本人は感謝感激でした。
遠来の客をもてなす古来の美徳が実践されていました。

武士道精神とノーブレス・オブリージュ
 民族や国籍は違っていても国際人としての商習慣や仕事を通しての共通の価値観を身に付けておりその高い
精神性、即ち日本で云う武士道精神また欧米でのノーブレス・オブリージュではないでしょうか。
これは五名の方に共通している資質です。

リーダーとしての優れたコンピテンシーである自己確信(決断力、独立心、優れた自己イメージ、
責任を執ることを厭わない)

 これらは全員の共通点である。ドーバープロジェクトで私の招聘について即断で快く応じてくれた
ジラルディ氏の決断力、またファバ氏の一見破天荒と思われる自己確信に裏付けられた決断力、日本人の
ように責任や周囲を気にして決断を躊躇しない。ジラルディ氏の言葉『日本人は、なぜもっと‘
Wide open mind ’を持たないのか、なぜ周囲を気にして判断を躊躇するのか、』を思い出します。

大火災事故の際、ロバートソン氏の客先として焼損したケーブルの提供や契約仕様の変更を即断これは、
責任を厭わないリーダ―の決断力。氏には日本の組織のように大勢の関係者を集め会議を開く必要はない。
この違いは日本社会のように責任者といっても責任は執らすが権限はないのと異なり、海外では責任者は
全ての権限をトップから移譲されていることです。

日本人は戦後の復興期に仕事中毒(Workaholic)と言われた時代があった。愛車のポルシェに毛布を積み
仮眠をとりながら千五百キロ離れた東ドイツのベンダーをエキスペダイトするジラルディ氏のその猛烈な
行動力には、日本人も遥かに及ばないWorkaholicぶりである

即時断行
 父の遺稿の随想の中に即時断行という言葉が出て来る、慎重形の者は、即時断行は、後に取り返しのつかぬ
失敗をする虞ありと危懼するが、これは頭脳の問題である、と説明してある。エクセレントな人物にいついて
いずれも即時断行できる頭脳の明晰さを具備している。

日本人社会でエクセエレントな人材が育ち難い背景
1. 日本のような典型的な肩書社会では、権力に阿る・諂う、忖度する、また権力に都合の悪いことを隠蔽する、
この傾向が強くなると社会は衰退し、エクセレントな人物は育ち難い。これは戦後二十年で世界に冠たる
工業立国となった当時の日本人の活力と現在を比較すればよく分かる。
2. 細切れのタテ割り社会と小集団所属のタテ社会の力学によるセクショナルズムやエクセレントな人物への
妬みや排斥感情、これらは日本人の弱点である『井の中の蛙大海を知らず』や『木を見て森を見ず』で
エクセレントな人物は育ち難い。これには特に若い時期に海外へ出て国際感覚を身に付けることが肝要である。
註:タテ社会の力学については社会人類学者中野千枝氏の著書『タテ社会の力学』を参照

幸運にもエクセレントな人物との出会いで取り上げたプロジェクトは、何れも国家プロジェクトや歴史的な
ビッグプロジェクトでそれぞれのトップはその国を代表する人材が登場しており、エクセレントな人物との出会
いは当然の結果と云うべきであった。(完)