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小石原健介氏の活動報告(基)
(元ドーバー海峡海底トンネルフランス側現地所長(川重)
   

 私のお宝本 国史美談教訓画蒐 R3-6-5

 私のお宝本 国史美談教訓画蒐をご紹介します。欧米には騎士道精神ノーブレス・オブリージュ、日本には武士道精神の倫理道徳観の原点があり、取り分け日露戦争時代は世界の尊敬を集めていました。戦後残念ながら日本人から倫理道徳観が失われ世界の一流国から三流国へ成り下がっています。日本再興のため日本人は改めて国史美談教訓を学ばねばなりません

 昨年令和二年三月十一日、無人となっている実家へ行き片づけをしていて偶然見つけたのが、『国史美談教訓画蒐』です。これは、私が少年時代に読み漁り、私の人格形成に大きな影響を受けた書です。本書は昭和十三年発行の図書で一流の画家伊藤幾久造らが描く当時は珍しくカラーの画集で、発行は省文社、著者は国史名画刊行会、表紙は布張り金糸の装丁の立派な本です。私にとってはまさにお宝本です。
内容は、日本精神の真髄とも云うべき武士道が広く一般にも普及し、日本人の普遍的な倫理道徳観がその原点にあります。そして全部で五十九話の美談が何れも名文と名画で描かれています。構成は現在殆ど死語となっている、忠節、孝養、豪胆、険素、識断、度量、忍耐、信義、友愛、立志、勉学、貞烈、清廉、公益、義侠、博愛、に分類されています。美談の登場人物としては、大楠公、菊池武光、和気清麻呂、頼山陽、中江藤樹、五郎正宗、豊臣秀吉、萬壽姫、俳女秋色、鎌倉権五郎、鳥居勝商、薄田隼人、徳川家康、遠藤直継、松下禅尼、岡野左内、黒田如水、水戸光圀、脇屋義助、源義経、北条時宗、毛利元就、加藤嘉明、日蓮上人、大石良雄、阿閉掃部、武田信玄、曽我五郎時致、荒木村重、木村重成、一休和尚、佐久間象山、紀伊国屋文左衛門、渡邉崋山、杉田玄白、新井白石、源義家、静御前、小谷の方、袈裟御前、正行の母、重成の妻尾花、腰秀方、後藤基次、乞食、角倉了以、二宮金次郎、小楠公、乃木将軍、松平信綱、佐倉宗吾、茶坊主春斎、上杉謙信、侠妓幾松の歴史上の人物五十九名です。
 その中から古今の名言を幾つかご紹介します。『先んずれば人を制するとの例、座して強敵を待ち勝ちたる例、未嘗てなし』脇屋義助、『思う一念岩をも徹す』一休和尚、『直諫は一番の槍に優る』家康の家訓、『古来から父凡なれど子賢なるあり、母凡にして子賢成るはなしと云われる』通り母の教育が最も大切である、松下禅尼、渇して盗泉の水を飲まぬ』乞食など。
この書の精緻な絵画や美談の内容を見ていると大東亜戦争で欧米の列強や中国を相手に戦った当時の日本人の底力を見る思いがします。五十九話中その一部をご紹介します。 
  
 
№  掲載日  作品名  登場者         
 1  R3-3-3  名器を毀ち禍根を断つ   加藤嘉明        
 2  R3-6-9  國威を宣揚擦る  北条時宗        
 3  R3-6-12  田夫となり奢を慎む 倹素   徳川光圀        
 4  R3-6-16  権勢を恐れぬ烈女 貞列  佐久間象山        
 6  R3-6-18  上に諂はず下を愛する 信義  堺 忠世        
 7  R3-6-20  名器を毀ち禍根を断つ 度量  加藤嘉明        
 8  R3-6-21  宿敵の領内に鹽を送る 義侠  上杉謙信        
 9  R3-6-22  七生報國を誓ふ最期の忠節   大楠公        
 10  R3-6-23  敵の贈賄を足蹴にする 清廉  腰秀方        
 11  R3-6-25  自ら節約の範を示す  松下禪尼        
 12  R3-6-27  武兵の面目を識る 識断   脇屋義助        
 13  R3-6-30  義を枉げぬ豪傑 清廉   後藤基次        
 14              
               
             
名器を毀ち禍根を断つ 加藤嘉明 R3-3-3
 
 賤ケ嶽七本槍の一人加藤孫六嘉明は、その日佐久間勝政の麾下の大豪浅井吉兵衛則正が五人張りの強弓に十五束三伏の大矢を射かけるのを早業で切つて落し、終ひには矢よりも早く則政に飛びかかり、落馬するのを起こしも立てず一槍に突き殺した勇猛の士である。
 後に秀吉が朝鮮征伐の際は船手の大将株として出陣し豪傑塙団衛門を率い、群がる敵の軍船の中に漕ぎ入れ身を躍らせて敵船に飛び移り縦横無尽に暴れたので、之が爲朝鮮の水軍総崩れとなり、嘉明一手の武勇を以て敵の番船百二十艘を分捕り、海中へ斬捨てたる敵兵六千餘人に及んだ天晴の功名を樹てた。かほどの豪勇優れた武将であったが、日頃は家臣をはじめ下僕に至るまで慈悲をかけ苛酷には扱わなかった。
 或日客を招待する爲め、日常愛玩の陶一揃を取り出させたが、小姓が誤ってその一つを取り壊し顔色かへて深く粗忽を詫び入った。すると嘉明は殘りの九個を悉く自ら毀し、『人には過はあり勝ちのものじゃ、決して意に介するな』と敢へて咎めなかった。
 家臣はその残りを打ちくだい真意を圖り兼ね惜しがると嘉明微笑で曰く『さればこの残りをこの儘保存せんか、取り出す毎にその誤せる者は肩身を狭くし、我も亦いらざる思ひを重ねん、こは却って珍器名佇に非ずして人を禍する器となる故打壊したのじゃ』と。千軍萬馬の戦場を馳駆せる豪勇とこの優しく深き仁慈とを思ひ併せるなら以て嘉明の大器量を知ることが出来よう。

 
 
 國威を宣揚擦る 北条時宗 R3-6-9
 
 
日本中の話題はコロナワクチン接種と東京オリンピックに独占されている。しかしながら現在日本が抱える最も深刻な問題は中国問題である。中国問題の第一人者ノンフィクション作家河添恵子女史が十年来訴え続けている.、日本国土が中国の一帯一路作戦により北海度を始め全国各地の広大な不動産が意のままに買い占められている。これに対し政府は外国籍の不動産取得に対する法整備すら何らの動きがない。この背景には政府与党の自民党の有力者並びに公明党も中国共産党のマネトラ、ハニトラに嵌り、また国会議員の三分のニが親中派といわれている。これでは中国に厳しいものが言えない。尖閣問題然りである。
河添恵子女史によると『日本が一帯一路に参加すれば日本はおしまい』とまで言われている。
 日本のトップは北条時宗の識断を歴史から学ばねばならない。

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 雄威全世界を壓した蒙古國は亜歐大陸を蹂躙した勢いに乗じ、國王忽必烈列即位するや忽ち朝鮮を從え更に我國を望んで来襲した。國號を元と改めた忽必烈は大軍を提げ日本遠征に先立ち無禮にも書をもって我國に降伏を促し、刃に血塗らずして平定しようとした。
これ彼等の常套的外交手段で、若しこの時我國がその名聲威武に恐れて屈していたならば、金甌無欠の日本帝國の現存は甚だ危かったであろう。六百籔十年前既に我國は開闢以来の大非常時が襲ったのである。此の時兵権を掌握せる鎌倉幕府の執権北条時宗は少壮ながら膽龜の如く識断まさに神に近き俊傑、元の使臣来る事六度に及び、その傲慢無禮を憤った時宗は命じて使者を斬り捨て、國書を破って彼等の要求を一蹴し断乎として帝国の國威を示した。
怒れる忽必烈は弘安四年の夏、聰司令阿刺苧以下精鋭十四萬、大小艦船三千五百餘淙、正に空前の大軍勢を動員い我が壱岐、對馬を荒し北九州に迫った。時宗の大号令一下、六十餘州の我憂国の熱血漢は蹶起しその昂然たる意氣正に天を衝き、激浪逆巻く玄界灘に迎撃したのである。時に我青史に燦たる神風起こり電光飛び、浪荒れ天界鳴動して敵の軍船悉く難破し玄海の海の藻屑と消え、生き残る者僅か三人、わが國の太捷に帰したは固より日本の神國たる所以であるが非常時に際し皇国の前途を誤まざりしは青年時宗が乾坤一滴の大決心を以て使節の首を刎ね、固き大信念を表明せし識断にあったのである。

 
  
田夫となり奢を慎む 倹素 徳川光圀   R3-6-12

  台湾では戦前に受けた日本の義務教育、就中戦後日本人から失われた倫理道徳教育が日本語族の皆さんの間で生き続けていました。私が台湾国営製鉄所CSCの製鋼プロジェクト建設所長として1985年10月から2年間の在任中大変お世話になった台湾有数の大富豪呉宣静女史はどのような贅沢でも出来る身でありながら住居は高雄市内の極く普通のアパートの最上階でした。、食事は何時も百貨店の従業員食堂で従業員と食事を共にしておられた。日本人の良き原風景を思い出させるお人柄でした。

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 我國君主の大義名分を明らかにせる大著として有名な大日本史の編纂者、義公水戸光圀は、元禄二年天下の副将軍の職を辭してからは水戸の在西山といふ田舎に隠居して餘生を送った。碁将棋か風流三昧に関雲野鶴を友として何不自由なく悠々自適する隠居でなく、全國を行脚し民情を視察して悪を戒め善を讃え、或は自ら百姓の業を試み、田畑を耕し、芋大根の耕作にまで精を出した。水戸家の家老中山備前守は或日この西山に、公の御機嫌を奉伺せんものと家来をつれ、江戸から駕籠に乗って来た。
 何しろ住居も普通の百姓家で粗末なものであったので、中々に見つからず、折から道傍で耕せる一人の老爺を見かけ、『コレコレ爺、この邉に水戸様の御隠居の御住居がある筈じゃが、何處か』と訊ねると、その百姓振向き、『おお備前か、よう参った、わしじゃ』とほう冠りを取った。見ると光圀公なので備前守吃驚し家来と共に大地に『ハハーツ』と両手をついて平伏した。
 古今の名君である光圀公は平素斯の如く質素に暮し、何等身遍を飾るところがなかった。或る時は水戸殿中の奥女中が紙を粗末にするのを見て、態々寒中の雪の日、紙透の冷たい作業場を見せて、一同を実地に諫めた逸話もある。隠然たる勢力を持つ身ながら自ら儉素の範を示して実践し、常に西山の一老農と称て敢へて奢らなかった光圀の行為こそはまた尊い吾人の生活訓でなければならない。
 
  
権勢を恐れぬ烈女 貞列 靜御前   R3-6-14

 
 長年平和ボケの続く日本の女性に関する話題や情報と言えばもっぱら、セクハラ、不倫、エロ、など興味本位で退廃的、反道徳的な内容が氾濫している、これに引き換え国史美談では女性の貞烈がその主たる内容である。
倫理道徳を失った日本人も歴史から日本女性の貞烈について学ばねばならない。

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 権門に阿附し、名利に走るは今も昔も變らぬ人の心の常なるに、これは僅かに十九歳の手弱女が、六十餘州を平定して権勢草木も靡く大将軍頼朝公の前に恐れ氣もなく所懐の程を唄に寄せて言のけたる健気さの物語、靜御前の胸中こそは實に哀切の極みである。
 正面簾をかかげて悠然たるは頼朝公、鎌倉幕府の威望をここに居並ぶ武者綺羅星の如く、中にも舞台左手に横笛を吹く甲斐小四郎、鼓持てるが工藤佑経、銅鑼拍子の役勤めるが畠山重忠。囃子につれて舞扇さっと打開き、綾羅の袖をひるがえすさす手ひく手の鮮やかさ、白絹の袴ふみしだく足の捌きの見事さに満場恍惚たらしめる美人こそは靜御前である。良人と慕ふ源九郎義経が梶原の讒言で兄頼朝の不興を受け身の置所なく隠れ忍ぶ雪の吉野に本意ない別れをなした満腹の哀しみ悲嘆やる方なき彼女が、如何でか頼朝の命に喜んで今日の舞いをば舞はうや、本来ならば八幡宮の奉納舞、関東方の萬歳を祝ふ曲を舞うべきを、義経恋しの一念に離別の悲曲を舞ひ(しづやしづ賤のをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがなーと聲も高らかにうたひ了わった。
 果たして頼朝烈火の如く憤つたが、内室政子の執り成しで靜は事なきを得た。もとより死を覺悟していた貞烈な彼女が、義経に対する烈々たる節操は頼朝公も眼中に無く、幕府の権勢も恐れず憤懣の情を歌に唄ひ、舞ひ納めた意氣は日本女性の典型として恥ずかしくない天晴れなものである。

                   

 
  
父の訓戒に志を立つ 立志 佐久間象山  R3-6-16

 現在の日本の学校教育制度では歴史も倫理道徳も全人教育も教えない。国はデジタル教育や英語教育を推奨、小学生から偏差値教育の塾へ通い進学校への入学を目指しそして東大を頂点とする有名大学卒の肩書を目指す、社会人になれば肩書社会で生きる術を身に付ける、これに落ちこぼれたた若者は犯罪に走る、近年特に若者による凶悪犯罪が激増している。この貧困層の若者との間の二極化が拡大している。そして若者が立志を抱くことが出来ない時代となっている。こうした現状では日本の衰退に歯止めが利かない。残念ながらこれでは日本の将来に期待が持てない。
日本人は歴史から倫理道徳や全人教育に基づく若者の『立志』について学ばねばならない。

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 佐久間象山は信州松代藩主真田幸貫に仕える佐久間一學の子として生まれ幼名を哲之助と云ひ負けず嫌いで腕白者であった。十四歳の頃或る日馬術の稽古の歸途,家老恩田の嫡男頼母と出會ひ子細な事から喧嘩となり逃げる頼母を追って恩田家の門前に到り大聲擧て『卑怯者、家老の子が何じゃ、家老の子には物の道理が解るまい武士の法を知るまい。解らむなら教えてやるから何でも聞きに来い』と罵り叫んで意氣揚々と歸宅した所。
 父は既にその喧嘩の顛を知って居り、哲之助を座禅に呼びつけて『その方は御家老様の子息と喧嘩をし、剰え大言を吐いたそうじゃが人の教へる程そちは學問をして居るか、武芸が進んだと思ふのかどうじゃ』と問ひ詰めた。
流石負け嫌いの哲之助も父の一言には何等辯解の餘地が無かった。『今日から三年間その方に謹慎を申付けるによって其間に一心不亂に學問を勵んで恩田氏の子息に吐いた高言を反古にするな』と慈愛に満ちた 父の訓戒に粛然と容を正した哲之助、其後は父命に背かず文武の道に勵み、後江戸に留学して漢籍、砲術等を修め長じて西洋の學問にも志し刻苦精励して立派な大學者となった。そして鎖國に甘んじて太平の夢に耽る国情を痛奮して攘夷の公論を反發し、開國論者の雄として皇威を宣揚して一世を警醒した。これはその幼時、父の一言に深く感銘して慢心を去り志を立て大いに學を習いひ、業を修めた結果によるのである。


 
  
細川元首相の佳代子夫人著書『花も花なれ人も人なれ』R3-6-17
 
 日本人にとって国際社会に於いて歴史への認識がいかに重要かについて一つの事例をご紹介します。
細川元首相の細川佳代子夫人の著書『花も花なれ 人も人なれ』の中に次のような記述があります。
女性が単身で海外駐在にでることなど前例のない時代にドイツにいたとき、ある仕事のパーティーの席上で、突然、立派な中年の紳士から『ヒロヒト』について尋ねられた。敗戦から甦って高度経済成長している日本の姿は『東洋の軌跡』と一目おかれるようになっていた、。
パーティーなどで『私は日本から来ています』と挨拶すれば、たいていの外国人は『ソニー、トヨタ』を口にし日本人の『勤勉さ』を褒めるのだった。しかし、その人は真っ先に『ヒロヒト』という名前を口にした。『ヒロヒト』って誰これが私の最初の反応。
続けてその人が『ヒロヒトエンペラーの家系は百二十代以上続いて二千年以上の歴史があるのですね』その紳士は『万世一系の天皇家が日本の歴史の初めから今日まで続いている。こんな歴史を持った国は世界に二つとない。これが今も国民から護られている国は世界中何処を探してもない』と言う。
しかし彼が感心するのは、その『家系』はもとより、その『システム』をまもってきたのは日本民族の知恵だと言う。だから私は日本の国が好きだし、日本人を尊敬しているのだ。『日本の歴史は世界の宝だ』と言うのだった。
 冒険心から日本を飛び出してきた二十五歳を迎えたばかりの私にとって、それは逆の意味でカルチャーショックだった、私の時代の歴史教育といったら近代に入ったらすでに三学期の終わりだからさっと過ぎ日露戦争、太平用戦争なども、ちょっと触れるぐらいでほとんど勉強しなかった。ましてやミュションスクールだったから皇室の歴史は、私は全然知らなかった。それで私は大ショックを受けた『私は日本人です』と答えたけれど、そう答えるだけの資格がないことに気づいた。その紳士に『世界の宝だ』とまで言われても外国人に言われる『宝』が何のことか私にはわからない。私はその人に、日本の歴史についてなにかを伝えたくてもつたえることができない。そのときの短い会話が私にとって一つの大きな転機となった。日本の歴史を勉強しなおそう。そして言葉だ。

註:『花も花なれ、人も人なれ』 著者 細川加代子(旧満州1942年生まれ) 発行:平成二十一年、角川書店
 
  
  
上に諂はず下を愛する 信義 堺 忠世   R3-6-18
 
 安倍長期政権に引き続きこれを継承している現政権、この時代の流行語として権力へ阿る、諂う、忖度があげられる。
嘗て中曽根政権では総理にズケズケと直言したことで知られる名官房長官といわれた後藤田正晴がいた。現在の日本には残念ながら名君も名参謀役もいない。この名君と名参謀役について歴史から学ばねばならない。

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 今しも庭石めがけて梨地金時絵の見事な印籠を發止と叩きつけたるは徳川三代将軍の家中剛直その人ありと聞こえた酒井忠世である。忠世は今日登城して将軍の膝元にある豪華な印籠を一目見るや、『これは何人の差し上げたる品かは知らねど近頃稀に見る華美の品。かかる逸美砲奢なる物品を愛玩し給ふは下々への戒にもならず、東照宮の御遺訓に戴し奉りても憚り多し、急ぎ退け給はるべし』と云ひも終わらず自らもって庭石に叩きつけた。こは何事!と群臣驚き入ったが、将軍家光公がまた稀代の名君、流石に忠世の道理ある。一言を喜び給ひ『お、よくぞ申した祖父様(家康公)のお言葉に、『直諫は一番の槍に優る』と仰せあつたぞ』と却ってご機嫌良く、家臣一同只々感服した。
忠世はかく剛直の士であったが、或る日退出の砌、臺所の下男等が魚鳥など残物を私宅に持ち帰るのを見つけ、他の老中が、『不届奴』と叱った際『彼等は身分が低く知行も少なき身なれば、多少の私恩はなくば妻子も養ひ難からん残肴ぐらいは
大目に見逃して遣はされよ』と敢へて咎めず却って庇ひし人情篤き一面もある、上主君に対して驕奢を直諫し下賎僕に向かっては涙ある憐憫の計らひ、これぞ真の忠臣の處置云ふべきか、お家の爲め天下の爲の信義公正を謬らざりし酒井忠世こそ、徳川三百年の榮えの人柱とも見るべきでありろう。此の君にしてこの臣あり之を見出して用いる所正しかりし家光も又名君である。

 
 器を毀ち禍根を断つ 度量 加藤嘉明   R3-6-20

 トップに立つリーダーとして最も必要な資質は人格と度量であり、これは、時空を超え、洋の東西を問わない。戦国武将は勇猛果敢だけでない、将の将たる器、武将としての人格、度量が如何に備わっていたか、このことを日本の歴史から学ばねばならない。
 賤ケ嶽七本槍の一人加藤孫六嘉明は、その日佐久間勝政の麾下の大豪浅井吉兵衛則正が五人張りの強弓に十五束三伏の大矢を射かけるのを早業で切つて落し、終ひには矢よりも早く則政に飛びかかり、落馬するのを起こしも立てず一槍に突き殺した勇猛の士である。
後に秀吉が朝鮮征伐の際は船手の大将株として出陣し豪傑塙団衛門を率い、群がる敵の軍船の中に漕ぎ入れ身を躍らせて敵船に飛び移り縦横無尽に暴れたので、之が爲朝鮮の水軍総崩れとなり、嘉明一手の武勇を以て敵の番船百二十艘を分捕り、海中へ斬捨てたる敵兵六千餘人に及んだ天晴の功名を樹てた。かほどの豪勇優れた武将であったが、日頃は家臣をはじめ下僕に至るまで慈悲をかけ苛酷には扱わなかった。
 待する爲め、日常愛玩の陶一揃を取り出させたが、小姓が誤ってその一つを取り壊し顔色かへて深く粗忽を詫び入った。すると嘉明は殘りの九個を悉く自ら毀し、『人には過はあり勝ちのものじゃ、決して意に介するな』と敢へて咎めなかった。家臣はその残りを打ちくだい真意を圖り兼ね惜しがると嘉明微笑で曰く『さればこの残りをこの儘保存せんか、取り出す毎にその誤せる者は肩身を狭くし、我も亦いらざる思ひを重ねん、こは却って珍器名佇に非ずして人を禍する器となる故打壊したのじゃ』と。千軍萬馬の戦場を馳駆せる豪勇とこの優しく深き仁慈とを思ひ併せるなら以て嘉明の大器量を知ることが出来よう。

  
 
宿敵の領内に鹽を送る 義侠 上杉謙信   R3-6-21 
 
 日本の歴史を繙けば現在の日本人が知らないだけで日本人の美談は随所にあります。これらを世界に発信すべきです。私がCSCのプラント建設で台湾在任中の昭和四十年十月から二年間、日本の武将が大好きの日本語族の葉鴫雁氏とはよく宿舎の地下の喫茶で戦国武将の話に意気投合、多くの武将の話に花が咲きました。必ず登場するのが上杉謙信の武田の領内に鹽を送る話で日本人は日本語族の皆さんから尊敬の的でした。こんな話を国会議員や若者にも聞かせたいものです。

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 群雄割拠時代の武将の典型は上杉謙信と武田信玄であることは何人も意義ない所であるが永禄十三年、今川、北条等武田信玄を苦しめんと、甲斐、信濃、上野へ我領内からの鹽、魚類の輸出を禁じたことがあった。為に之等武田の民百姓の難行正に瀕死の堺に陥ったのである。
上杉謙信越後にあって此の由を聞き、『武田は我敵ながらそは戦の上の事、罪なき百姓共を苦しめて戦に勝たんとは氏康氏真等が心中武士にも似合しからざる卑怯』と大いに義憤を發し、部下の藤田五右衛門に命じて越後能登越中の三か國より峠を越えて信濃、甲斐の國へ鹽や海産物をドシドシ運ばせ此の事を信玄に申送った。信玄がこの義侠に感佩いかに深かりしかは想像にあまりあり、後に臨終に際して一子勝頼に遺言して『武田領の一大事起こらば謙信に縋れ』と云った事によっても知ることが出来る。
洵に英雄は英雄を知る、謙信また信玄こうぜりと聞くや、折から食事中の箸を置き、静かに瞑目して『あ、よき敵手を失ひたり』と落涙したといふ。真に武士らしきは謙信の義侠である。今も尚信州松本市では鹽市と称して、鹽の入りし日を記念に市が立ち信濃大町より北部の人たちは、北から来る人には道を譲の風習あり、四百年後の今日、尚祖先が受けたる鹽の恩義を忘れず、その日の喜びを形に表す遺風は、謙信の義侠千載に芳しきを語るもので聞くだに胸の透く人情の美しさ、以て後昆に傳へているわけである。
 
  
七生報國を誓ふ最期の 忠節 大楠公 R3-6-22 
 
 戦中、戦後間もない頃、神戸市電が湊川神社前の停留所では車掌の『湊川神社前』の声を合図に乗客は社内から神社の鳥居に向かい黙礼していたのを思い出します。それほど戦中戦前は大楠公は国民の精神的な支柱となっていた。大楠公の忠節も今は昔である。

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 延元元年五月半ば、賊将足利尊氏西國より数十萬騎を率いて攻めのぼるとて楠判官正成に『いそぎ兵庫に討って出て新田義貞と力を併せて合戦せよ』と勅錠あった。もとより名智明敏の正成とて、計めぐらして進言した軍略もあったが堂上人の用いる所とはならなかった。
そこで盡忠の念より外ない正成は勅錠の念より外ない正成は勅錠をかしこみ出陣したが我勢に何百倍する敵軍なればすでに戦死を覚悟して櫻井の驛で、一子正行に旨を含めて故郷に還した。明くれば五月二十五日湊川の空に菊水の旗ひるがへし僅かに七百餘の騎の手勢を以て、足利直義の雲霞の如き大軍に斬って入った。必死の覺悟の人々が縦横無盡に馳せめぐる様は恰も鬼神の荒れ狂ふが如く、正成、正季兄弟は七度別れて七度逢ひ、賊将直義一人をめがけてその間近に迄迫ったが尊氏の援軍来り、三刻に剰る激戦にさしも忠勇の味方も遂に七十三騎となり果ててしまった。
もはやこれまでと正成、正季等はとある民家に馳せ入つて鎧を解き見れば全身すでに十餘箇所の深傷、唐紅の血に染まり真に悲壮の極み、兄弟相顧みて、『人の最期の一念は善悪の生を引くと云ふ、いざこの上は七度人間として生まれ變つて朝敵を滅さん』
と遂に刺違へて相果てた。一族十三人、郎當六十餘人又悉く自盡する。
あ、何たる壮烈の気魄ぞ七生忠誠を誓ふこの気魄こそ我が大和魂の精華ではないか-星移り月變り年を経ること六百年、死して名を萬古に傳ふる菊水の清き流は永久に盡きぬであろう。
 
 
 の贈賄を足蹴にする 清廉 腰秀方 R3-6-23
 
 閣僚や中央省庁官僚の金銭に関わる汚職事件は枚挙に暇がな。、安倍政権下の党本部から選挙運動へ一億五千万円のカネのなど前代未聞の『政治とカネ』が話題になっている、さらに安倍長期政権下での森友学園関連の理財局長による国会答弁に合わせた公文書改ざん事件、この責任者麻生副総理・財務大臣のまるで他人事のような答弁。政府首脳の倫理道徳観の欠如や無責任体質はどうなっているのか、、また総務省幹部らへの摂待が常態化していた実態が明らかになった。関係幹部らが軒並みに処分され放送・通信行政は停滞が避けられず、信頼回復への道筋もまた遠いのいたと報じられている。現在国政を担う指導者層は戦国武将の清廉さを歴史から学ばねばならない。、

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 後三年の役と云えば、人も知る八幡太郎義家が、奥州金澤の柵に據る賊軍、清原武衡、秀衡等を討伐した戦である。
この時武衡の勢い侮り難く、義家苦心の策をめぐらして、彼等が糧道を斷つたので賊兵全く餓死に迫り、武衡窮餘の果て、義家の弟新羅三郎義光へ和議の申し入れをした。
講和交渉の任に當つたのが義光の臣に剛直膽勇無双と称された腰秀方であったが、未だ心底より降伏せざる賊軍は、秀方使いして来ると見るや、沿道に屈強な武士を配し槍襖を作り秀方の膽を挫かんと威嚇したが、秀方は神色自若、些かも臆する色なく堂々と奥陣へ進んだ、武衡曰く『我此度の出兵は同族間の紛争によるのみで、朝廷には二心なきに理不尽にも、逆臣の如く大将軍義家公には朝威を翳して大軍を送られしはこれ虎に威を借る狐の謗りを免れぬ、宜敷囲みを解いて和平に還る様、萬一のも御不承とあらば何時なりとも戦ひ申さんと傳えられたし、御使者の役目誠に大義に厶る』と云ひ従者に命じて黄金を贈らしめ秀方を買収せんとした。
 聞くより秀方憤然色をなし『朝廷に弓引きながら我君を野狐に譬へるとは言語道断、ここな財寶は近きうち何れは悉く我軍の手に歸すべきもの今汝より態々賄賂として受くべき要やあらん』と云い終わらず足蹴にして武衡をハッタと睨み、四邉の者共を睥睨して悠々敵陣を引上げた。使いして君命を辱めざる秀方の威風凛凛たる態度と共に清廉さは深く賞揚すべきである。
  
 
 自ら節約の範を示す 松下禪尼 R3-6-25
 
 今朝の朝日の社説には次の記事が出ている。『女性が政治活動をする際に、有権者や他の議員からセクハラ・マタハラ(妊娠・出産をめぐる嫌がらせ)を受ける事態をこれ以上放置できない。
女性が政治に進出する意欲をそがれてしまうし、そもそも重大な人権侵害である。』一見正しいことを言っているが、これを書いた論説委員は一体何を考えているのかと思った。
 戦後は見かけの男女平等とか民主主義を主張する輩が大手を振っている。男女はそれぞれ本来の役割分担があり女性の一番重要な役割は子育てと優しさである。私の母は身を粉にして子供を育て戦後の厳しい食料難、自分たちの食料にもこと欠く時代に困っている子供がおれば分け隔てなく手を差し伸べていた優しさ。台湾では出張員が日曜日一人でバスに乗り市内をまわり、バスを降りる際、小銭がなく札を運転手に出すと何か言われたが言葉が分からず困っていると傍にいた乗客の中年の女性が黙って小銭をそっと手に握らせてくれた。
この女性のやさしさに感激したという。
 現在の女性についての記事といえばセクハラ、不倫、、エロ、など興味本位で退廃的、反道徳的な内容が氾濫している、日本人はなぜ表面的な考えや一見尤もらしい報道に迷わされるのか、フランス人のジラルディさんが良く口にした日本人はなぜDeep Considerationしないのかの言葉を思い出す。戦後の教育は○×式で子供の頃から読書をしなくなったことも影響しているのかも知れない。
 改めて日本女性を知る歴史上の松下禪尼をご紹介します。

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松下禪尼は、北条五代の執権時頼の母である。鎌倉幕府の最高権威者の親であるからどの様な贅澤も許される身分であったが、却々の節礆家であった。或る日時頼を招くとて自ら破れた障子の切張りをしていた。そこへ兄の秋山城介義景が訪た『こは勿體なや御自らその様なことをなされずとも、下々の者に仰せあつて然るべし、それにまた、所々繕ひては、斑になり却って見苦しからん、一層全部張替えたらんには』と注意した。
 禪尼は静かに答へえて、『妾年老いたれど未だ手足を働かすに不自由せず、これほどの事に人々召使ふうこそ勿體なしそれに障子もすっかり張り替えれば美しくはあれど、左様な事は驕りを好むかの沙汰、若い者共に見倣はす爲めもあり、尼の心中察して給もれ』と云ったので、兄義景もその深き、慮るに敬服した。遉に此の賢母に育てられ薫陶感化を受けた。
 時頼は政治に心を注ぎ、質素儉約を以て衆を率いた。殊に下々の人々をいたわり、後に剃髪して最明寺入道と號してからも、三か年の間に六十四餘州を行脚して民情視察を怠らなかった。その途中上野國佐野の荘ではからずも廉潔の武士源左衛門常世の詫住居に宿り、徹宵して語り明かした事跡は歴史上に名高い鉢の木物語である。古来から父凡なれど子賢なるあり、母凡にして子賢なるはなしと云われる通り母の教育が最も大切である。禪尼の如き母にして始めて時頼の如き賢者を育成したのである。

 
 武兵の面目を識る 識断 脇屋義助 R3-6-27
 
 私は海上勤務時代に香港、台湾はじめ東南アジアの寄港地で中国人商人と接触をしてきました。
彼等は平気で嘘をつく、その倫理は騙すのは当たり前で騙される方が悪い、相手が弱い又分かっていないとみると徹底してカモにされる。情け容赦がない。要はこちらが如何に確りしており、炯眼をもっているかで、手強いと見ると手を引く、日本の政治家や官僚、などは彼等にとっては格好のカモで、金を掴ませばどうにでもなる馬鹿な連中である。尖閣問題で日本は海上保安庁の巡視船でなくなぜ自衛隊のイージス艦を集結させ手強い相手であることを威嚇しないのか。日本政府曰く相手を刺激しては不味い。これでは侮られても仕方ない相手である。日本人は識断について歴史から学ばねばならない

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 南朝の忠臣新田義貞の弟脇屋義助は、兄に劣らず誠忠、智謀兼備の名将であった。義貞、義助は元鎌倉幕下であったが、勤王の志篤く時の執権北条高時の専横を憤り、高塒討伐の義兵を挙ぐべき機を窺っていた。偶々楠木正成等高時諜伐の兵を擧げたので、高時は弟泰家に二十萬の大軍を授け京師へ進發せしめんとし關八州の豪族にその兵糧軍費を課し、上野の國新田庄にいた新田氏へも銭六萬貫の軍費を賦課し使者として出雲介護親漣を遣した。義貞大いに憤り使者を斬り村の入口に梟した。
 これを知った高塒激怒し義貞を討たんとしたがこの報を耳にした義貞は、一族を集めて謀議した。
或る者は、鎌倉方の大軍を利根川にて迎え討つに如かずと唱へ、或も者は敵は大軍なれば、一先ず越後に退き、彼の地の一族を糾合して兵を擧とげんと論議街々にと纏まらず。この時脇屋義助進み出で方々餘にも消極的なり、先ずれば人を制するとの例、座して強敵を待ち勝ちたる例未だ嘗て無し。
退いては徒に士気沮喪し結局敗戦の終らんか天下の人はあれ見よ新田は北条の使者を殺した罪で誅伐されしと笑はん。
同じ命を捨てるなら勤王大義の為に我から進んで北条を討ち、最後の一騎なりとも鎌倉へ攻め入るべし、待って死すか、進んで討ち死にするか云はずとも道は明らかなりと凛然として論破したので一族勇躍直ちに義兵を挙げ四満七千騎を以て鎌倉を攻め高時を亡ぼした。
實に義助が識断よく強敵激滅の因をなしたのである。
 
 
 義を枉げぬ豪傑 清廉 後藤基次  R3-6-30
 
 多発する閣僚や国会議員、官僚による収賄事件など清廉や節義と言う言葉は、日本では現在殆ど死語となっている。
日本人の美しい精神的な道徳規範である、これらの言葉を日本人は歴史から学ばねばならない。

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後藤又兵衛基次は人も知る海内無双の豪傑、知略にすぐれた軍師であるがその人為また侠義にして清廉、かつて浪人中福島正則が召抱えんと使者を立てたとき當時としては破天荒の高禄三萬石を要求し、遂に正則を断念せしめた。
これは後藤が禄で高禄を望んだものでなく、當時は侍大将となりて事をなさんとする者は部下を養う知行が必要であったからで、以て後藤の大腹中を推知すべき事柄である。
さて時はいよいよ豊臣徳川两家の確執深刻となり、大阪冬の陣の幕は切って落とされた。又兵衛もまた秀頼の召しに応じて、幾多の勲功を樹たが、家康が、翌年夏の陣始まるや、京都相国寺の住職西堂和尚を後藤の陣中に遣はし、後藤が生國播州一か国を報酬として又兵衛を秀頼方から抜かんと試みた所、『今や落目の大阪方に附くより、日の出の徳川殿につくのが恐らく有利であろうことは兵衛基次、もとより存ぜぬ事でないが、信義にはづれた道を履むは、後藤末代までの恥辱とする所たとえ如何様の御待遇ありとも秀頼殿に味方せん』ときっぱりと断って、遂に河内の國道明寺の合戦に潔き最期を遂げた。必要ある時は剛腹福島正則を嘆息せしめる高禄を望みながら、節義の為には、一命をも惜しまぬこの美しさ凛然白梅の如き氣骨、洵に人として學ぶべく、敬仰すべき道義が又兵衛基次の進退去就によって示されているのではないか。
 
 
果断鴨越の険を下る 識断 源義経  R3-7-2
 
 私たち世代の者は誰でもが知っていた源平の戦い、講談の世界や吉川英治の歴史小説新・平家物語でも良く知られる源義経の鵯越えの逆落とし、今やこの話を知っている若者は果たしているのでしょうか。
少年時代の血湧き肉躍る話を日本の人の若者に聴かせたいものです。識断源義経をご紹介します。

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 壽永三年春二月、源義経は九州より盛返した平家が摂津の福原城に立籠ると聞くや直ちに討伐の軍を起こした。戦術に長け識断明快な義経は先ず兵を三分し、福原の東生田の門を弟の範頼を聰大将とした一軍に、西一の谷の門は土肥實平の一隊に攻めさせた。残る一隊を自ら率いて敵の背後を衝んと険路を福原城の後の山へ廻った。平家の虚に乗づるいは、この背後の崖より下る外道はない。
 鵯越え難路と謳はるこの崖は蛾がたる絶壁幾百十丈とも知れぬ峻嶮、遥か彼方に淡路島、明石の濱を望み集まる兵籔萬、海上には軍船籔百艘、火焔の燃ゆるが如き赤旗を風に翻す福原城は眼下に在る。道案内の猟夫か、時折鹿が通る丈のこの崖を馬では到底下れまいと注意したが義経聞かず鹿も四つ足なら馬も四つ足、断じて行えば鬼神も避けると云ふ、それ者共續けと真先に石巌疾風の如き岨つ断崖を一氣に駈け下る、猛然たる大将義経の意氣に、弁慶はじめ家来の一騎当千の兵『それ!御大将に遅れるなー』とばかりに平家の館めがけて轡を並べてどッと真っ坂落としに駈け下りた。畠山重忠の如きは、怪力無双、馬の足が痛むとて自ら馬を背負って駈け下りた。まさかと思った崖の上から奇襲に平家は一たまりもなく殲滅し去った。義経のこの果断と見識は自他共に許した難攻不落の天険福原城をただひともみにつぶしたのだった。
  
 
身を殺して夫を助ける 貞列 袈裟御前  R3-7-11
 女性と言えばセクハラ、不倫、エロなど退廃的な情報が氾濫する現在、貞烈という言葉は死語になっていますが、戦後間もない昭和二十八年に映画化された大映作品『地獄門』主演・長谷川一夫、京マチ子、原作:菊池覚では、カンヌ国際映画祭グランプリン、アカデミー賞受賞作品など懐かしい日本映画の大作、日本女性の貞烈袈裟御前をご紹介します。

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 袈裟御前は容姿端麗心優しく情け深く評判の娘であったが十六歳で、北面の武士で名門の若武者、渡邉左衛門尉源渡に嫁いだが、同じ北面の武士で猪武者の異名をとる遠藤盛遠が之を見初め、道ならぬ横戀慕を受くたる身となった。

盛遠は袈裟が渡邉の妻と知り乍ら電光に打たれたる如く心奪ばはれ煩悩の火を打ち消されず、袈裟の母衣川を數度訪ねて刀にかけても是非妻として申し受けたいと迫り、不承なら衣川、渡の命迄もと脅迫して来た。之を聞いた袈裟は餘にも理不盡なる難題に卒倒せん計りに驚いたが、母を思ひ夫を愛する貞節な袈裟は我一身を犠牲にする堅い決心をして密かに盛遠に曾ったのである。

『それ程迄に思わるるとは忝いけなや、今の御言葉若し真ならば妾は身の心も捧げんも、渡殿が此の世にありては所詮道無し、渡殿に髪を洗わせ酒に酔わせて寝かす程に、今宵忍んで濡れ髪を探り殺して給へと約束して別れた。
我が望み成ると喜んだ盛遠はその夜渡の館に忍び入り洗髪を探りあて唯一刀の下に首掻き落し、戸外に出て、折からの月光に透かして見ればこは如何に哀れや無念の眦辻閉ちたる袈裟の首で愕然とした。母と夫の身を案じた貞女が進退窮まり花の盛りを我から散った純情にさすが剛毅の盛遠も翻然悔悟し自ら剃髪して佛門に帰依し那智山に入り難行苦行を済み後善智識となり袈裟の、冥福を祷ったのである。
 かの源頼朝を面罵熱諫し蹶起せしめた一大の傑僧文覺上人は盛遠の後身である。
 
 
栄冠涙ある仁慈の 乃木将軍 R3-9-9

 明治四十二年夏七月、野州鹽原に滞在した乃木大将は、或る日旅館長青塿の浴衣に寛いで散歩の途すがら、差縣った村端れの渡し舟に何氣なく乗らんとすると船頭の老爺之を押し止めた『やいやいこの渡し舟は恐れ多くも天皇陛下より賜った舟だ左様な汚らはしき宿屋の浴衣など着た物見遊山の徒輩をのせる船ではないぞ!』と威猛高に斷つた。
将軍は何か深い仔細のあるものとどの由謂を訊ねた處この爺の息子鈴木太一は、過ぐる日露の戦に、二○三高地大激戦の折、乃木大将の部下として從軍し華々しい戦死を遂げたが、その功を賜ってた一時賜金をむざむざ使うは倅れに對して申し訳ない、世の為、人の為にとて渡舟を買ひ自ら船頭となって居る事を物語った。
 将軍目頭に涙をたたえへられた。


 直ちに宿屋に取って返し、陸軍大将の軍服に着替え再びこの船頭の下に参られ、『俺は乃木希典だよ、御前の子息は、日本の爲めに、陛下の爲立派に戦死されたのだ乃木はお主たちの子弟を多く殺し、自分丈命を永らえるは御詫びの言葉がない又風紀のよからぬとか言う長青塿へ宿つたは身の不覚、鈴木さんとやら、まあ腹も立とうが、服装も替えてきた舟の乗せて貰はう、そして貴下の家に案内されたい。
 せめてなき勇士御霊を弔う』というと懇に話された。氣の強い船頭も将軍の仁慈と、三人の令息までも戦没された親心を推測量り、感激に胸ふさがれ、男泣きに泣いて馬頭を詫びた。聖将乃木大将の數多き美談中の一異聞である。
  
 
 
信義 約を履み川中島を退く 武田信玄  R3-9-12

 甲斐の智将武田信玄に秘策三軍鶴翼の構えあり。越後の勇将上杉謙信には得意の車掛かり十七段備への陣立あり、戦を交える事永年、既に籔十回の兵を合わせ、川中島に對峙して最早や籔か月、一勝一負を繰り返すのみであったが、永禄四年夏八月、『最早戦術兵法互角なれば徒らに多くの将士を喪ふるに忍ばず。
この上は双方勇士一名を代表として、一騎討をさせ、負けた方から兵を引き上げる事にせん』と約束が成り立った。

 武田の陣営から安間弘重、七尺豊かの大兵にて見るからの剛力無双、上杉方は小兵五尺に足らぬ長谷部基連、何か秘術ある強者と見えた。両岸に相對した軍勢が互いに旗差物を川風邪に打ち靡かせ流れを揺るがす大聲援を送る中を、两人馬を進めて川を渡り中州の上に上がったが忽ちバツと馬をつけ、あわやと見る間に組討を始めた。

二人は引組んで馬からどつと落ちたが、何分にも大男の力が優ったか忽ち安間は長谷部を組伏せた。武田勢からやんやと喜び聲援―然るに其の中に如何なる隙があったか小男長谷部が慢身の力で一蹴りして今度は上下位置を変えた。

 其瞬間機敏にも小男長谷部は大男安間の首を素早く掻き取った。どっと沸く上杉勢の歓聲に、愕然とした甲斐の軍兵此の上は全軍突撃と逸を押えた信玄が、『例え賭事にせよ約束は約束』と静かに川中島を引き上げた。
之を見て越後勢また也を静めて見送った。信義を重んじ約束を履行した日本人らしい美しさが見られる。

 
敵を親友とした信義の 阿閉掃部 R3-9-14

 天正十一年四月二十四日、賤ケ嶽の戦終って、折しも山の端に新月漸く光初めたる夕間暮、秀吉の方の勇将阿閉掃部は戦場を引き上げんと餘呉湖の畔を駒急がせた。その後から八幡大菩薩の旗指物討靡かせた武者一騎『やあやあ、それなる敵将お待ち候へ、馬をかえされよ勝負のお相手仕らん』と呼はった。
 
掃部引き返して見れば天晴れ相當な一方の大将、相手にとって不足なしと槍を構えて突き合わんとした時、
旗持物の武者静かに押し止め、『あいや暫く、今朝ほどより雑兵ども多く突き倒し槍が汚れてござるこれではあまり失禮故、水に浄めてお相手致さん。』と湖の水で洗い、それより両者夕暮れの微光に槍きらめかして相討つこと數十合激しく戦つたが何れの力も優り劣りなく、遂に勝負がつかず、互いに相手の腕を賞め 『かくて日も暮れてはもとより勝負はつき難しいざ此の上は後日の戦場にて再び見へん。

 又若し平和ともならば、互いに親友となり申そう』と約して相別れた。

掃部の相手だった武者は青木新兵衛とて柴田勝家の部下の豪傑、後年勝家滅びて浪人した。當時掃部は越前結城秀康の家臣となっていたが、この由を聞き、主君に願って、自分と同じ禄高にて召抱えて貰い、互いに親友として交わったと云う。命を懸けての戦場に美しい信義の花を咲かせた豪傑は豪傑を知る。一片の約束は遂に友情の實を結んだのである。見込まれた青木新兵衛も偉いが見込んだ阿閉掃部はまた見上げた武士である。

 
單騎部下を救い出す 木村重成 R3‐9-23
 
 慶長十九年大阪冬の陣に木村長門守重成は徳川勢の破竹の大軍を散々蹴散らしほっと一息入れて味方を顧みると、
さっきまで武者振勇ましく闘っていた、部下の勇士大井何右衛門の姿が見えない、大井は如何したと訊ねるとさっき向うの原で敵と組み合い馬より落ちたのを見たと言う者あり、
重成は自らの馬に一鞭、当てて大井は居るかー何右衛門は何處かと呼ばわりながら探し回った。
敵と組んでその首級を挙げたものの身に深傷を受け氣絶して居た大井は重成の聲に我に蘇生り『おー我が君』と起き上がった。

 重成は大井を我が鞍の前壺に抱き乗せ、いざ帰らんとした時再び盛りかえして来た敵軍の中から「あれこそは敵将木村長門守だ、討ち取れ」と早くも十数騎が襲いかかった。殿、危うござります、拙者を捨て速くお城へと叫ぶ大井を押へ、些かも動ぜず大身の槍をピツタリと構えた姿は宛ら摩利支天の再来かと思わしめた。
その威風に敵は只ざわめくのみであったが折から重成の部下五六騎殿の身の上を案じ馳せ付け、重成、大井を部下に渡し、自ら殿となり縦横無尽に突き捲り見事な退陣振りを見せた。
 敵もさる者長が追はせず其の日の戦は終わったが、『天晴なる名将、身の危うきも顧みず部下を愛する美しき心よ』と敵も味方も称賛した。部下を愛する名将の心は過る日露の役、旅順港閉鎖に廣瀬中佐が杉野兵曹長を探索したのと同じく今も昔も變り無い。嗚呼智仁勇兼備の重成こそ花も實もある武夫の手本と云うべきである。
  
 
 
慚愧と遺恨遂に刀匠へと志す 虎徹  R3‐10-6

 加賀前田候のお抱え鍛冶に、刀剣では文殊五郎兼次、甲冑では新明虎次郎興里と名うての二人があったが藩主は技術奨励の思召で、二人の作の利鈍を試させる事となり、二人は互いに精進潔斎して作り上げていよいよ晴の御前試合が来た。殿の正面の興里の兜が据えられ満場寂として聲なく兼次は兜の前に屹と身構えその爛々たる眼光を兜に集め、正に紫電一閃大上段に振りかぶってふり打ちおろさんとする一刹那『アイヤ暫く』と興里が聲をかけた、『兜の座りが曲がって居れば』としころの辺りの裾を直し一礼して下がった。
 
 兼次再び立ちを翳し『ヤアツ』と掛聲諸共打ちおろしたが。兜は真っ二つなる所がチャリンと云う響きだけで刃の痕だにつかなかった。『無念―』と彼は叫んでいきなり縁側に駆出し形相すさましく軒下に据えたる唐金の火鉢に斬りつければ物凄や一尺余りも見事に切割った。
満座喝采して二人をほめ、『受けも受けたり、斬りも斬ったり』と大いに面目を施したが、その夜限り兜の興里は何故か行方不明となった。

 籔年の後近江の國に刀鍛冶の巨匠長曾根虎徹が現れ、それが虎次郎興里の後身と知れて前田候に再び召されたが、『御前試合の砌しばらくと聲をかけたが、實は兼次の氣を抜く為で、彼が氣力と名刀に兜は真っ二は必定であった。この不名誉を取りかえさんと憤然出直した』と語った由である。虎徹の業物は世に定評ある即ち斯の如き憤激心の結晶なのである。
  
 
 
骨肉愛の弓勢鎮西 八郎為朝 R3-10-16

 後白河天皇の御代、保元元年七月、崇徳上皇兵を起こして白河殿に拠られた。これに従ふ者源為義、その子鎮西八郎為朝等、天皇も亦兵を召されてこれに備えさせられ、ここに集まる者為義の子源義朝や平清盛等、すなわち父子が敵味方となったのである。天皇方の兄義朝は此日赤地錦の直垂に黒糸縅の鎧つけ、鍬形打たる兜を戴き、黒馬に黒鞍置いて誇り為朝の方へ馳せ向ひ、鐙も踏ん張り大音あげ、『義朝勅命により大将軍として罷り向かいたるぞ、弟の分際で兄に弓引く法あるや』と叫んだ。

 為朝これを聞いてからからと打笑ひ、『近頃奇妙の事を承はるものかな。わが父判官殿は院宣を蒙りて味方の大将軍たり、為朝父の代官承りて一陣を固めるもの、父に刃向ふて罪なきか。』と怒鳴り返した。

 荘厳院の門前に馬上指揮する兄義朝を眺めて為朝思うに、何分敵は大ぜい。味方は僅かに二十八騎、大将たる義朝を討取らん限りは勝算はなし、義朝討つはわが強弓にていと易いけれど、骨肉の情とても忍びず矢風負はせて魂消させ退陣させんと、日頃の手並み、忽ち一矢へウーと切って放てば流石に狙い誤たず義朝が兜の星を削って、門の扉へ、がッとばか突き立った。義朝大いに驚いたが,さあらぬ態にして『汝聞きしに似合ぬ今の拙き射ざま、弓の道には未だ暗いぞ』と嘲つたが、心中少なからず怖気だって退陣し始めた。豪気強弓の為朝が兄思いの一矢、手加減なしたる弓勢こそ、骨肉愛の美しさ正に涙を覚える。
 
 
 
盟友の身を庇う 荒木村重 R3-10-28
 
 織田信長の家臣、羽柴秀吉と荒木村重は胸襟相照す仲、兄弟の如き親友であつた。日頃村重を快く思って居ない者が信長に村重を讒言したのを信長が信じて、村重を殺害せんとした。驚き怖れる村重は戦國の習いとて忽ち謀反の兵を挙げた。秀吉はその実情を知っているので心配することを友ならず信長の許しを得て村重の許に赴き、滾々とその暴挙を諫め謀反を思い止らせんと忠告したが、時既に遅く
『さらば村重周囲の事情がこれを許さないまでに進行してしまっていた。さらば斯くなる上は最早栓なし』と秀吉は退出した。

 この時村重の臣河原越後は秀吉が門外に待たせた馬に乗らんと玄関から退出して行く後姿を見て、『信長側で恐るべきは羽柴秀吉あるのみ、今此の人斬るには絶好の機』とあわや背後から切りつけんとしたが、村重却って逸る越後を押し止め、『例え敵となる身と手、我が為には長年の知己、殊に今回の我危急を救わんと態々危うきを冒して来たりし羽柴の胸中、古人も窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず
と云う、ましてや朋友の信義をを厚うして訪ひし友の油断を突くは禽獣にも劣るであろう。

 身は例え羽柴に敗戦するとも悔いず。』と秀吉をかばいて丁重に門外まで送り、相互に別れを惜しんだ。
秀吉の友情感ずべく之を尊重せる村重の信愛また人の善なる特性の輝きである。諺にも己に出たる事は己に帰ると云うが後人のよく味わい學ぶべき名将の友愛の一端を示す所以である。

仁愛賊兵の危急を救う 小楠公 R3-11-5
 
 湊川に戦没した父正成の遺訓を守って、遂に正行は河内諸郷に散在する一族残党二千餘名を集めて兵挙げた。正平二年十一月 、吉野の行在所のおはしませる後村上天皇の勅許を得て軍は摂津の天王寺に逆賊討伐の陣を張った。この様子を知った足利尊氏は山名時氏、細川顕氏等を将として大軍一萬三千餘騎をさしむけ、一挙に正行軍を殲滅せんとした。由来河内勢は正成の昔から、奇襲に秀で精悍無比の義軍神速なる精鋭であった。山名時氏はこれを知って、作戰をめぐらし、軍を四分して進めて来たが、馬の土煙が四か所に昇るので、正行の明智は早くも策を看破し、爪生野に差かかる正行の軍勢急に現はれ突撃した。不意を襲われた山名軍は大敗し、時氏は傷つき危うく逃れ退いた。大将を失った敵兵は、算を亂て、渡邉橋に差しかかるや橋桁が折れ、五百餘人は鎧のまま河中に轉落した。

 文字通り阿鼻叫喚の有様となったが之を見た正行は、『敵兵ながらも餘に無惨、賊軍とは云へ主命によって軍に從ふ彼等なり水に溺死を見捨てるに忍びず、急ぎ救え』と下知し、救いあげて水を吐かせ、医薬を與へて手當をなすなど、大いに仁愛を施した。父正成の名を辱しめぬ小楠公の行為は花も實もある美しさ、知勇兼備の名将正行は、又温情溢れる仁将でもあったのだ。其後高師直の大軍と戦ひ二十三歳の花の盛りを一期として四条畷の嵐に、散ったには返す返す惜しまれる。

 
命を懸けて成功した 紀伊國屋文左衛門 R3-11-15
 
 紀伊國屋文左衛門は紀州加田浦の人、十八歳の若冠で早くも邑長となったが家運は衰微し廻船問屋とは名ばかり、洗うが如き赤貧の中飛躍すべく密かに時の到るのを待った。頭脳明敏加ふるに度胸ある文左衛門が二十六歳の冬、紀州一帯は天候に恵まれ、例年より蜜柑が殊の外豊作だった。

 所が、海が荒れて江戸への荷積みが出来ず徒らに腐るに任せたが一方江戸では紀州の蜜柑が来ぬので名物の鞴祭りに撒く蜜柑がなく、大困りであった。この情報を耳にした文左衛門時至れと、俄かに明神丸といふ千石積の巨船を修理し、衆人の罵詈嘲笑を尻目に、蜜柑の買占めやって積み込んだ。海は暴風雨で乗り込む船頭がないのを説き伏せて命知らずの荒くれ男七人を雇ひ、狂天怒涛雷鳴の大暴風を冒して船出した。
 
 此の時母から授かった先祖伝来の寶刀を持って先ず船が命と頼む錨綱をぶッと断ち切り、決死の覚悟を示して船頭共の度肝を抜いた。名にし負う紀州灘の大揺れに帆綱は切れ帆も破れ舵も砕ける難航を続けたが、海神此の意氣に感じ給ふたが、鞴祭りの前日に品川の港に着いた、果たして江戸の商人狂高値に一時躊躇したが、流石は江戸っ児命がけの意氣を買ふて我も我もと申し込み瞬時に荷捌きを了へ帰航には鹽引きの鮭を満載して関西に運び、往復一挙にして五萬両の巨利を得た。この果敢、この勇断、又、學ぶべきではないか。

 
 
開墾に薀畜を傾ける 二宮金次郎 R-3-12-1
 
 尊徳先生と後世に崇められる二宮金次郎は相州小田原藩主大久保忠實の領内足利郡に生れた。幼くして父を失い家が貧しかったので朝は夙の起き出で薪を採り、夜は草鞋を作って遅く寝て母の手助けをしたが、赤貧洗う逆境に在っても常に學問を怠らず、と輕書を懐にして寸暇を惜しんで勉學した。

 十六歳の時母を失い叔父萬衛門の家に寄寓し日夜農事に励む傍ら自ら川邊の荒廃の地に菜種を。
作って油代を稼ぎ夜半家人の寝静まるのを待って読書算数を獨學し、或は人の捨てた早苗を拾って荒地を耕し植付けて収穫を得るなどして、遂には自分の廃家を再興したのである。其頃から尊徳は勤倹理財家とすて領内に知れ渡り家老服部十郎兵衛の如きは家政紊亂の末、尊徳を招聘して回復して貰った。

 文政四年藩主の切なる依嘱を受けその分家野州宇都家櫻町の荒廃地再興を図り確固たる信念の下に、日夜苦闘営々倦ざる事、數年にして見事完成し其功を讃賛され其後屡々大久保候の命令を受けて領民を救済し、領内を開墾する等、名聲愈々學り時の幕府は其非凡なる令名を傳へ聞き特に普請役に取立て聰州印旛沼の開墾、野州日光神領の開拓などの土木事業を命じ晩年には酒匂川の改修をして水害を免がれしむる等功績頗る顕著なるものが有った。

 
 
渇して盗泉の水を飲まぬ 乞食 R3-12-12

元禄の昔、江戸日本橋横山町の豪商呉服屋清兵衛の番頭に新七といふ者がいた。ある歳暮も押詰まった大晦日、江戸中を彼處此處と得意先の売掛代金を集め、重くなった財布を懐中に、両國橋を渡つたがフト氣がついて見ると、今迄あつた筈の財布が影も形もなくなっていた。集めた金は凡そ七十两、十两からば首が飛ぶと言はれた黨時此の大金を紛失した新七は顔色蒼白氣も動転せんばかりに驚き、折しも昇った淡き月影を便りに橋の上を、あちらこちらと見廻しながら戻って来ると橋の袂に蹲っていた乞食が『もしもし貴殿は何を御探しなさるや』と訊ねた。

 新七は赫々の次第にて財布を探していると答へればこの乞食は、財布の縞柄や金高等を聞き、ではこれを改めて御受取下され差し出した。新七は夢かとばかり打喜び『御見受申せば御貧しき御様子誠に失禮ではあるが、これはほんの禮心御納めて下され』といくらか紙に包んで渡そうとすれば乞食は『いやいや拾った物は御返しするは黨然の事』と固辞して受けず番頭新七はこの正直さに更に感激して一と先ず店に歸り事の仔細を主人に告げた。
 
 主人は驚き且つ喜び『黨世に得難き正直な仁じゃ是非黨家に迎へて引立へん』と新七を連れて急ぎ両國橋の袂に赴いたが、時既に遅く寒氣と飢の爲か息絶えて冷き骸になっていたので之を懇ろに葬った。

 渇しても盗泉の水を飲まずとは眞にこの事で喩令身に襤褸を纏っていても心は常に清く正しくありたいものだ。

 
 
母を背負ひ孝養篤き 頼山陽 R4-1-5
  
 頼山陽は名を襄と云い大阪で生れた。古語に『栴檀は二葉より芳し』と云うが、山陽は幼くして才智六歳で父春水に従って廣島の赴き藩黄に入っ 勉強し、十二歳で既に立志論を著し世人を驚倒せしめた。早くから父母の膝下を離れ江戸、廣島、京都等師を求めて遊し、父母に孝養を盡す暇がなかったので、日頃之を非常に遺憾として居た。

 十八歳で江戸より京都に移り住り或いは荘子の講義中偶々父危篤の報に會い門生を歸して百里の道を急ぎ廣島に歸ったが、時已に遅く父の臨終には間に會わず、山陽の痛嘆悲愁、遂に終生又荘子を講ずる事が無かったと云う事實を見ても如何に彼が親思いであったかが窺われる。

 學大成し年五十歳にして漸く母は既に古希を越へたる齢の事とて歩行さへも不自由勝ちであった。しかし山陽の喜びは喩えようも無いく朝夕母へ孝養を怠らず母の欲する儘に洛中、洛外の名所旧跡を訪ね手をとり或いは自ら背負い、心行く慰め自らも満足して詩に賦し歌に作って歓喜した。彼はまた皇室の衰微を嘆き勤王の士気を鼓舞すべく畢生の大著作たる日本外史を完成し、日本世政記の稿を起こして半ばにして遂に五十三歳で没したのであるが、義公徳川光圀が著した大日本史はその培養素とも云うべく、國語明勤王の本義を吾々に示し忠孝両道を踏んだ山陽の遺訓たるや又實に偉人と云うべきだ。 
  
 
 
 従容婦道を盡す 勝家の妻小谷の方 R4-2-20
  
 柴田勝家は越前北ノ荘の城にあって秀吉の大軍に対して防戦大いにつとめたが城下には火をかけて敵が迫り、今や最期を覚悟せねばならなかった。

 小田信長こうじた後、世継ぎの問題から武士の意気地で秀吉と相反目して来たが勝敗は兵家の常、覚悟を決めれば心にかかる雲もなく、折から二十三夜の月澄める天守閣に、主従決別の宴を催した。 
 勝家の妻小谷の方は、信長公の妹、初め浅井長政に嫁いだが長政亡き後、信長の勧説で三人の子女を連れて、勝家の再嫁し夫によく仕へ、下々を憐れみ、少しも鷹ぶらず貞淑賢夫人として家臣、城下の者から慕われていた。 

 今は城の運命も迫ったので、勝家は小谷の方に向ひ、『そちは三人の子女を連れ早く城を遁れ出よ、例え敵に捕らえられるとも信長公の妹として必ず助命されるであろう』と口を極めて諭したが奥方は、此の期に臨んで妾は何の命を惜しみませうぞ、然し不憫な子供の助命ができるものならとの言葉に勝家は其の旨を認め三人を秀吉に送った。

 夫婦主従名残を惜しむ決別宴に、月光淡く照りかかる折柄、無心の時鳥一鳴き渡った。小谷の方は料紙を引き寄せ『さらぬだに打寝る程も夏の夜の別れを誘う時鳥かな。と詠めば勝家も又これに応じ、『夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山ほととぎす』一首を詠んだ。
討つも討たる々も時の運、その運命に自若として取乱さなかった賢夫人小谷の方こそ日本婦道の鑑と云ふべきであろう。

 
 
 誠忠承しべしに甦る 忠臣菊池武光 R-4-5-14

 天恩をないがしろに惧れ多くも帝に弓を引き奉る賊となった。小貮頼尚の軍八萬、先祖代々勤王家の菊池武光の軍八千これを討澹として起つた。時は正平十四年七月十八日の夜、澄み晴れた空には早秋の月が明るく打物の影きらめいて、両軍の中に挟んだ筑後川は名にし負ふ筑紫次郎の急流、飛沫を上げて滔々と迅い。相對峙すること既に二旬、翌月六日の夜半、遂に戦機を掴んだ武光が精兵三百の猛襲に戦いは開かれ、夜もあくれば、鬨の聲は筑紫の野に満ち血屍は河水を埋めて鎧兜相摩す乱戦となり賊は流石大群味方の旗色漸く悪く見え初めた。

 此の時鞍壺に立ち上がった武光大音聲に『かねての覚悟は今ぞ、我に從ひ一人残らず突撃せよ』と叫んで面をふらず群がる敵陣に躍り込んだ。それ大将ぞ討ち取れ 斬って斬って斬りまくり、遂に剛将小貮頼尚も討ち取り、猛威阿修羅の如き有様に味方は勢づき、賊は八方に散り崩れ、その日の昏方さしもの大賊軍もくわい走したのであった。 

 思い見て七萬の大軍が筑紫の野にあげた血むりの壮絶さ、頼山陽の詩の一節に『西隅僅かに菊池武光、独り苦節を有ちてほう芬を傳ふ。』とある。篠崎小竹、この詩を讀んでせざるは不忠不幸の人』と云うたが洵に筑後川の戦いほどd壮烈なるはなく菊池累代の事績ほど純忠なるはない。

 時は流れて悠々六百年、今は菊池神社の祭神として武光の忠誠は、今もなほ吾人の胸に熱き感激の血潮を沸かすのである。
 
 
 
 孝養を忘れぬ 豊臣秀吉 R4-5-17
 
  不出世の英雄と謳はる、太閤秀吉、戦上手で智謀機略の名将である一面人情頗る厚く殊に孝養心の深き人であった。
秀吉が未だ二十八歳の若年で早くも信長の信任深く洲股の城主に取り立てられた。

 出世せねば再び故郷の土は踏むまいと固い決心で家出以来、日夜忘る、暇とてなかったには母のこと、今や瀁く、一手の大将とはなったが戦国の事とて何時如何なる戦争が起こるとも限らず明日をも知れぬ身を思えば、矢も楯もたまらず兎も角も今の内に城内に引取って出来るだけの孝養を盡したいと洲股城から故郷中村へ籠を出して迎えた。

 籠が城に近づくや大手より出て、城主である身が籔多家来の人目も憚らず大地にぴったりと両手をついて座り、『母上様おなつかしゅう存じます。藤吉郎でございます。』と心から母を迎えた。母は絶えて久しく見ぬ吾が子の出世した姿を見て老いの眼には早くも喜びの涙が宿っていた。

 如何ばかりわが子の孝行を喜んだことであろうか。後関白となり位人臣を極めても母に對する態度に變りはなかった。

 孝經に曰ふ、『身を立て道を行ひ名を後世に揚げ以て父母を顕すは孝の終わりなり』と。
實に秀吉の如きが、この孝の終わるを全うした者と云うべきであろう。秀吉があれだけの大出世をなした原因はも數々あろうが、この孝行の徳が著しく興て力のあることは否めない。『孝行したい時分に親はなし、』何人も折角心して孝養の美徳を積むやう常々心掛ける事こそ最も肝要である。 
 
 
 
 奇謀を以て河川を浚渫する 角倉了以 R4-5-20
 
 わが國史に残る二大英雄豊臣秀吉、徳川家康等と時代を同じうして、しかも槍を握らず刀も抜かずそのなせる功績や四百年後の今日、否恐らく千萬年の後にまで傳わるのは角倉了以、であろう。彼は醫者の子に生まれ、長じて海外貿易を以て富を成した戦國時代の變り種であるが、年五十歳にして後代に傳える會心の事を成し殘さんと考えたが、偶々中國へ旅して美作國和氣川の運船の便を見て悟るとろあり直ちに故郷嵯峨に引返し大堤川開槊の大事業に着手した。

 巨岩怪石起立し、激流奔馬の如き大堤川の開槊は蓋し狂者の沙汰と嘲笑されたが彼が神案奇謀は湧泉の如く、水勢を利用して岩の根を掘りこれを轆轤で撒き上げ又は焚火をして巨岩に皹を入れて打崩或いは櫓を組みて大鉄柱を打ち込み、六か月の長日月を費して船舟去来に便ならしめた。人も知る之れ今日の京都保津川である。


 當時徳川家康之を聞きて『泰平の世には了以の如きこそ必要の人物、槍薙刀ばかりが功名の道具には非ず、家中にも普く傳へよ』と讃えられ、深く面目を施した。翌年家康の懇望にて富士川の改修を行ひ、之は以前にも増し檄湍多かったが遂に征服し、此外東山方廣寺大仏殿の建築に使用せる巨材の運搬に、或は鴨川伏見間の川工事に、駿州阿倍川等に了以の功績は數限もない。

嵐山大悲閣に今尚ほ存する木像はこの公益精神の権化たる了以が自ら彫刻せる姿と傳へられ訪ふ人に深き感銘を與へている。
 
 
 重傷に亂れぬ豪胆の鎌倉権五郎
 
 鎌倉権五郎景政は十六歳の初陣に源義家の軍に從い、後三年の役に出陣した。ある日の激戦に敵将鳥海彌三郎の射た箭が、権五郎の右の眼を深く突き刺した。若冠ながら豪氣の権五郎も一度はどつと其場に転倒したが、エイ無念といひざますつくと立ち上がり、敵の方をハッタと睨んで射られた眼の箭を抜きもせず鮮血に塗れた形相物凄く敵陣に躍り込み、今しも次の箭を射んとする彌三郎めがけて斬付け遂に其の首級をあげた。


 敵も味方もその勇猛果敢に驚かざる者は無かった。権五郎は一先陣に引き揚げ、眼に刺さった箭が抜けぬため、仰臥になって誰かに頼んで抜こうか休憩していた。此処を通り、つた従兄弟の三浦為次がこの態を見て、御苦しかろう拙者抜いて進ぜようと深く入込んでいる鏃を金物に挟み足で権五郎の額を踏みつけ力をこめて抜かんとした。

この時権五郎矢にて一名を落とすは戦場の習ひ口惜しき事更になし、生ある武士の顔を草履かけるとは言語道断無禮も甚だしいと烈火の如く為次の鎧の草摺を掴み短刀で刺さんとした。為次大いに驚いたが、重傷のも拘らず武士の對面を重んずる気魄に深く感じ、自分の軽率を詫び改めて膝を曲げその額を抑え漸くにして鏃を抜き取った。
その間権五郎は些かも苦痛を訴えず平然たる態度に為次始め陣中の者皆若冠ながらそに豪胆無双の意氣に只々驚嘆するのみであった。實に豪胆もここに至って極まれり云うべきで日本男子の面目躍如たるものがある。